最終話

 暗くなっても祭りの余韻の熱が冷め切らない街角を、色鮮やかな祭灯籠が照らし出す。

 

 純白の衣装の袖を揺らせて通りを歩く弘紀の華やかな顔立ちは、祭礼の衣装にも灯籠の灯りにもよく映えて、その姿に気づいた人々が、おや綺麗なお稚児さんだ、と思わず笑みを浮かべて振り返り、あるいはわざわざ近くに走り寄って菓子を手渡す者もいる。

 一人、誰かが弘紀に菓子を渡せば、他の者もつられて次々に弘紀の手に菓子が渡されていく。挙句手を合わせて拝む年寄りもちらほら見え始めたあたりでやり過ぎな感も覚え始めて、もうそろそろ、と弘紀に声を掛けた。

「あと少し、もう少しだけ、待ってください」

 返ってきたのは、喜色に弾む弘紀の声で、軽い足取りが気にせず踏み入れる水たまり、その飛沫が街の光を映して煌めいた。


 一つ、また一つと残っていた祭灯籠の灯りが消えていく街角、振り向けば屋台のほとんどがたたみ終えている。


 ぽつんと残ってようやく片づけ始めた一つの屋台があの飾り物屋で、どうやらぎりぎりまで客足が途絶えなかったようだ。納得のいく売り上げを得たのだろう、店主の顔はそこそこ明るい。 

 けれどまだ片付いていないその屋台の一角に、あの珊瑚の簪が挿されたまま。さすがに高価なその装身具をこの祭りの間に買う町人はいなかったようだ。屋台に近づく修之輔に気づいて店主が片付けの手を止めた。

「これは初日にいらしたお武家様。憶えておりますよ、そのお綺麗なお顔。あのときはいきなり無礼致しまして、祭りの無礼講とこちらが申しますのもまた失礼ではございましょうが、さてなにかご用でしょうか」

 こちらを覚えていたのも意外だが、文句を言いに来たと思われるのも心外なので、早々に用件を告げた。

「あれはいくらか」

 修之輔が珊瑚の簪を指して店主に問うと、ちょっと驚いたようにこちらの顔を見返して、そうして寄越したその値段は先ほど神主から貰ったこの祭りの手伝いの給金よりもやや少なめだった。

「ならばこれであれを買いたい。釣りはいらないから取っておけば良い」

「おや、これはこれはありがとうございます。宜しいんでございますか、いえ、こちらは本当に良い品でございますから、ええ、お武家様の御めがねに適いまして大変光栄でございます」

 店主は欣喜雀躍、簪を取って押し頂くようにして代金と引き換え、修之輔に手渡した。軽くなった懐に簪を入れて、さて弘紀はと振り返ると、修之輔の姿を見失ってきょろきょろと辺りを見まわしていた弘紀が先に気付いて駆け寄ってきた。貰った菓子を両手に持ちきれず袂まで膨らませている。

「こんなに貰えました」

 嬉しそうに笑いながら修之輔の側に寄る弘紀の肩を引き寄せて、今買い求めたばかり、珊瑚の簪をその髪に挿してみると、金色に零れる光が思った以上に純白の狩衣装束の弘紀に良く似合って輝いた。


 珊瑚の細工は衣装に使われているあかより赤いが、弘紀の唇の方がより紅い。


 夏の終わりの宵闇に真白な狩衣、緋色は宵の群青色に沈んで、代わりに灯りを映す金細工がその艶やかな黒髪に煌めく。まるで古の都の貴人のような佇まい。金彩の大和絵、絵巻物の中の凛々しい武官の姿には少々年が足りない初々しさは、かえって弘紀の清廉さを際立たせる。

 

 何が自分の頭上に起きたのか、手を伸ばして確かめようとする弘紀を抑えて、まずはこの場を離れてからと肩を抱いて促した。

 弘紀は辺りを見回し、飾り物屋を含めほとんどの屋台が既に閉まっている様子を確かめて、おとなしく修之輔の言うことを聞いた。田崎に強く叱られた余韻が残っているだけでなく、両手から零れるほど貰った菓子にも満足しているのだろう。

 街から離れ、武家屋敷へ向かう坂の途中、道場の手前で二人は立ち止まった。修之輔に止められないことを確かめて自らの髪から抜いた簪を見て弘紀が固まった。

「それが欲しかったのだろう。俺の長覆輪を守ってくれた礼だ」

「はい、欲しかったのです。欲しかったのですが」

「あまり喜んでもらえないのは残念だが」

「いえ、すごく嬉しいです。嬉しいのですが。修之輔様から何か頂けるのもとても嬉しいのです。嬉しいのですが」 

 嬉しいのは確かなようだが、なぜか混乱し慌てている弘紀の様子は可愛らしい。

 道場の門前を過ぎて本多の屋敷に向かう道すがら、簪を見たり修之輔を見上げたりといつも以上に落ち着きがない。 

 この角を曲がれば本多の屋敷という一角に来て、一度深呼吸した弘紀が修之輔を正面から見上げた。

「本日は思わぬご迷惑をお掛けしましたことをお詫び申し上げます。私を助けて頂き有り難うございました。のみならず、こちらの簪まで頂き、お礼の申しようがございません。本日の御礼、修之輔様に必ず後日お返しいたします」 

 凛とした声で寄越される礼の口上は思う以上に丁寧で、こちらの背筋も自然と伸びる。けれどその後、それでもほんとうに欲しいのは、という言葉は少し掠れて語尾まで続かず、次の言葉にしばし惑う間があった。

「送っていただき有り難うございました」 

 迷った言葉を探しあぐねて結局何かを振り切るように、姿勢正しい一礼とともに寄越されたその言葉ははっきりと。

 

 本多の屋敷の門の向こうに見えなくなる純白の狩衣姿の弘紀を見送って修之輔が道場に帰ると、その門前に大膳の姿があった。

「どうした大膳、もう今日の御役目はいいのか」

 その修之輔の言葉に大膳が呆れたように返した。

「どうした、はお前の方だ、修之輔。あの簪を買ったのか」

「ああ。ついさっきのことなのに、なんだ、ずいぶん耳が早いな」

「店主がこれで今年は完売御礼と大喜びで吹聴していたのだ。お前、あの簪はこの祭りの間ずっと話題だったのだぞ、どこのお大尽が買うのか、あるいはどこのお嬢様が誰から貰うのかと」

「ずっと奥宮に詰めていたのだ、そんな話を俺が知るはずないだろう」

「買ってどうするんだ、あの簪。お前が付けるわけでもあるまいし。まさか誰か渡す相手でもいるのか」 

 やけに問い詰めてくる大膳の勢いに戸惑いながら、何故か弘紀にあの簪を渡したことは言いだせず、かといってわざわざ適当な嘘を吐く気もない。

 黙る修之輔に大膳は、お前はいつも一人で黙って決めるよな、と嘆息しながら言う。それは先日、自分が弘紀に対して抱いた感想と似ていて、修之輔の口元に思わず浮かんだ微笑を大膳はどうとったのか。

「あの店の店主によると、店で試した者は何人もいたが、いちばん似合っていたのは修之輔、お前だったようだ」

 どんな噂が飛び交っていたものか、だったら俺が買って良かっただろう、と言い返して、どうやら修之輔の様子を見に来ただけ、後で話を聞かせろと言い残して、持ち場に戻る大膳を見送った。


 座敷の隅、机の脇の灯りをつけて奥宮から持ち帰った荷物を解く。

 文箱の中には札が一枚。佐宮司神社の佐の字の右上が一本跳ねたその札は、弘紀とともに筆を執ったもので、簪に気を取られた弘紀はこの札のことなどきれいさっぱり忘れている。 

 思い出して請われれば、その時渡せばよいだろう。書を書くことは多くはないが、文箱を開けるたびにその札を見ることができると、そんな己の思惑はそっと見ぬふり、あの簪と引き換えにと思えば。

 修之輔は文箱に蓋をした。どこかにいってしまわぬよう、自分の手元に。

「何かを、好ましいと思う気持ちと、手元に置きたい、自分だけのものにしたいと思う気持ちは」

 弘紀はあの簪をどこに仕舞っておくのだろう。


 祭りが終わって静かな夜に響く虫の音は、すぐそこに迫る秋の気配を告げていた。 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夏の祭礼 葛西 秋 @gonnozui0123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ