第5章 珊瑚の簪
第1話
用事の在る者は全て奥宮から下りて、残るのは、拝殿の内に修之輔と弘紀、外でまた何か言い合っている師範と神主の四人だけになった。
乱闘に荒れたとはいっても元から物の少ない拝殿の中、片づけは直ぐに終わって、後は氏子たちに任せるだけとなってもまだ空は夕日の橙色に染まり始めた頃合いだった。
思い出して、修之輔は弘紀に聞いてみた。
「弘紀、そういえば今日はまだあの簪はあったのか」
礼次郎によると弘紀は毎日かかさず何度も見に行っているということだったが。
「昼のうちはまだあって」
やはり今日も、本宮に札を置きに行ったあの時、見てくるだけは見て来たらしい。
弘紀は言葉を途中で切って修之輔を見てから目線を下にそらし、また直ぐに何か思いついたのか、ぱっと顔を上げて修之輔を見上げてくる。
「修之輔様、一緒に行ってくれませんか。見るだけ、なのですが」
礼次郎も従者もいないこの状況、一人歩きを固く禁じられている弘紀を連れて行けるのは修之輔だけのようだ。
「構わないが、弘紀、その前にその姿をなんとかしないと」
「そうですね」
弘紀の片袖は破れた肩口から落ちて下がっていて、これは流石にごまかしきれない。本多の屋敷に着替えに戻るには時間が少々足りなくて、かといってこの姿のままで出歩くのも憚られる。どうしたらいいものかと思案して、ふと、修之輔にいたずらにも近い思い付きが浮かんだのは、この山の上にまで漂うどこか浮かれた祭りの雰囲気のせいかもしれない。
祭壇の裏に回り、祭礼の初日に見つけた桐の箱を持ち出した。中には修之輔が以前身に着けた頭稚児の衣装がある。
「弘紀、これを着てみるか。もしかしたらご褒美も貰えるかもしれない」
祭壇の裏から桐箱を持ち出してきた修之輔にそう聞かれて、弘紀が、ご褒美とは何ですか、と修之輔に尋ねて返す。
「稚児行列に参加した者には街の者から菓子が振舞われる。だから今日は日が暮れるまで、行列に参加した子どもたちは皆、衣装を着たまま街のあちこちを歩き回っている。弘紀がこの衣装で街に下りても目立たない筈だ」
特にこの頃の稚児たちは、親や親戚の意向を受けて各々様々な色彩や飾りのついた衣装を身に着けている。多少今とは趣の違った衣装でも気づかれないだろう、そう修之輔がいうと弘紀はなるほどと納得して、さっそくその場で袴小袖を着替えた。
緋の小袖は袖丈が少々足りなかったが、狩衣を上から着ればごまかせる範囲だった。その狩衣の着付けは弘紀一人ではさすがに無理で、修之輔が手伝って、襟を整え、紐を結わえてやった。
そうしてようやく整った弘紀の稚児姿は、思い付きの付け焼刃とは思えぬほど良く似合っていた。修之輔が着たときは狩衣の下の小袖の赤が不吉に流れる血の色を思わせたが、弘紀が着ると夜明けの曙光を思わせて暖かみを感じさせる。着る者によって印象が変わるのだろう。
ただ、弘紀の艶やかな髪に何も飾りがないのを物足りなく感じた。
着替えの終わった弘紀がもう少し明るいところで様子を見てみたいと言って外に出ると、まだ何か言い合っていたらしい神主と師範が、これはこれは良く似合っている、と異口同音に褒める声が聞こえた。
「いやほんとうに、まるで
「父上、何ですかまた突然に」
「ああ、
「言い伝えなど外道だと、おっしゃっていたではないですか」
「ふと思い出しただけだ、なにもそう突っかかることはないだろう。しかも
もしかしたら言い合いに聞こえるだけで、神主と師範のあれは彼らにとっては普通の会話なのかもしれない。
飽きもせずまたなにか声高に話し始めた親子の様子に早々見切りをつけたのか、まだ拝殿の中で探し物を続ける修之輔の側に弘紀が戻ってきた。確か修之輔がこの衣装を着けた時には頭に金の飾りを乗せられていた記憶があって、それを探しているのだが見当たらない。弘紀にも手伝わせて一緒に探したが、見つからなかった。
真白な狩衣姿の弘紀と、白い神職の小袖袴の修之輔があちらこちらの箱を持ち上げて探し物をする光景は、天上の神とその使いがうっかり雲の合間から零した落とし物を地上に探すような、どこか古の神話を思わせた。
探し尽くして見つからず、今度は修之輔が拝殿の表に出て神主に聞くと、金細工の髪飾りは値が張るので作り直しはせず、今も使いまわして今年の頭稚児が付けているからここにはない、という話だった。
仕方なく手元の箱の蓋を止めていた銀糸を織り込んだ綾紐を弘紀の元結の上から結んでみる。ないよりは華やかさが増したとはいえ、弘紀には金色の方が似合う気がして物足りない気がした。
狩衣装束に着替えの済んだ弘紀を少し待たせて、修之輔は白装束から普段の木綿の小袖袴に着替えた。借りていた着物はここに置いておけば明日、氏子が持ちに来てくれると聞いていて、祭壇の片づけは収蔵品の確認をしながら神主がやってくれるとのことだった。
もっとも、神主に適当に言いくるめられた大膳ら役人の手で、祭壇はおおかた片づけられ、鏡は番所に送られていて、鈴は既に箱に納めてある。やることといえば、神主がその鈴の箱の封印するぐらいのことしかないはずだ。
神主に後のことを頼み、今日はこれでと挨拶すると、目の前に包みを差し出された。今日この事件があったせいで祭礼の後もしばらく落ち着かなそうだから今のうち、奥宮に詰めていた給金と札書きの手間賃だという。
武家が他所から金銭を貰うのは公には認められていないが、修之輔に札を書かせている辺りが元々おかしく、また思うところもあったので修之輔は素直に礼を言って受け取った。
夕日は山の端に掛かって、東の空には藍色の夜空が広がり始めている。
暗くならないうちにとは思っても稚児衣装の弘紀にあの裏の近道を通らせるわけにはいかず、表参道の古びた石畳を共に下って街へ向かった。途中、弘紀はあんなことがあった後だというのにまだ元気が充分余っているようだった。
「修之輔様、これ、似合っていますか」
弘紀は稚児衣装の袖や裾のいつもとは違う着心地を面白がりながら、何度もふり返って修之輔に尋ねてくる。その都度、修之輔は同じ返事を返す。
「良く似合っている」
何度聞いても決まった答えなのに、弘紀はその修之輔の返事を聞く度、機嫌が良くなっていく。
弘紀を急かして足早に坂を下り、橋を渡れば街の出店の屋台はそろそろ仕舞い始めているところもそこかしこ、けれど人の姿は通りにまだ多い。
今日の稚児行列に参加していた子どもたちは衣装をそのまま、あちらこちらから菓子を貰い歩いているようで、よく見ると衣装を着ない子供たちもそのお相伴に与っている。
修之輔は、足を止めて戸惑う弘紀の肩を軽く押し、行ってみろ、と促した。
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