第46話 明日への旅立ち

わたしたちの結婚が決まり、春人のバチュラーパーティーが開かれた夜のことだった。一次会の居酒屋を出て、二次会のカラオケボックスに行った時、隣の部屋に偶然紗耶香がいた。紗耶香は女友達数人で飲んでいたらしく、春人の友人に促され、彼らは合流した。

どういう具合で、そういうことになったのか、詳しいことは聞いていないが、結果として彼らは一夜を共にする。その事実は春人の心の中にある純粋な部分を蝕んだ。彼が変わって行った軌跡を丁寧に思い起こすと、なるほどそういうことかと、いちいち思い当たる。ふしぎと夫を責める気持ちはなく、彼の犯した過ちに気づいてあげられなかった自分を後悔した。

「紗耶香のこと、好きだったの」

そう聞くと、春人はすぐに首を振ったが、

「そんなことない」といった言葉は曖昧に感じた。「良かった」とわたしが微笑むと、春人はまた情けない顔をした。

春人を自殺に追い込んだのは紗耶香だった。

亡くなる数か月前から、執拗に連絡をしてきて、彼が応じないと、彼女は脅迫めいたことを言い出したらしい。追い詰められた春人だったが、わたしに全てを打ち明ける勇気はなかった。というよりも、わたしを傷つけることを躊躇った。彼は現実に起きたであろう、あやまちを闇に葬るために自死を選んだのだという。

「そんな安易に」

全身から力が抜けて行く、点滴をしている方の手で顔を覆うと、針がズレ、痛みが走った。

「安易に死のうなんてしていないよ」

春人を見ると、彼は涙を浮かべていた。

「死にたくなんてなかったんでしょう」

春人は頷かなかった。ただ一筋の涙を零し、唇の端を上げて微笑んだ。

それから数秒ののち、春人は消えた。

春人に言われた通り、わたしは退院の日に晋之介を迎えに行った。占い師のお婆さんのお仏壇に手を合わせ、無事に退院したことと、春人に会えたこと、晋之介を迎えに来たことを伝えた。晋之介の荷物をまとめた物と、お気に入りのおやつを、そこの病院の看護師さんが渡してくれた。娘さんへお礼を言いたかったが、あいにく外出していると聞いた。

晋之介を犬用カートに乗せ、軽い傾斜のある坂道を登っていたら、ふと後ろを振り返った。人の視線を感じたからだ。

「白衣?」

道の過に、白衣を着た長身の女性が立っていた。

「娘さん?」

占いお婆さんの娘さんが、左手を胸の位置に上げ、ゆっくりとした動きで手を振っていた。「あの」

お礼をいおうと、わたしは娘さんのいる方へと歩き出した。すると娘さんは、頬にかかりがちの髪の毛を束ねて後ろで結んだ。

わたしは立ち止まった。

「どうして」

声には出さずにそうつぶやいた。

「さようなら」

娘は、大きな声を上げて両手を高く上げた。

「さようなら……紗耶香」

離島に向かうフェリーの中で、わたしは窓枠に肘を置き、爪を噛んでいた。席の前には晋之介がいる。カートの中で座り、窓外を見ていた。先程まで晴れ渡っていた空はみるみる曇り、雨が窓を伝う。窓に移るわたしは泣いていた。一体、どこからどこまでが真実なのだろう。占いお婆さんのこと。その娘と偽り医者の成りをしていた紗耶香のこと。春人の死の真相さえ、結局わからないまま。わたしは新たな生活を送る為に、晋之介と共に、ずっと遠くにある、南の島へと向かっていた。過去を捨て、未来を生きるために。

                「了」

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憑依の夫 -Patiently to see you in Heven- 藤原あみ @fujiwarami1999

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