第45話 再会の夜
「聞こえる?」
春人の顔が目の前にあった。かなり近い位置にあったので、わたしは驚いて声を上げてしまった。
「声が高いよ桜花」
春人はまるで自分の姿が他人の目に映るかのように病室内に目を配った。小さな個室を借りているので他に患者はいない。すぐに看護師がやって来て、わたしの安否確認を済ませると部屋を出て行った。
「もうびっくりした」
わたしは心臓を抑えて、ベット脇の椅子に腰掛ける春人を睨んだ。
「ごめんね」
春人は悪びれる様子もなく握った拳を鼻に当て、クスクス笑っている。
「もう1年以上も経つよ、春人がいなくなって」
「心配した?」
ベットから起き上がったわたしは壁に背中を凭せ掛けた。
「心配したよ。死んじゃったんじゃないかって。あの、もう死んじゃってるんだけど、もっと死んじゃったんじゃないかと」何を話しているのかわからなくなり、わたしは深く溜息を吐いた。
「言ってる意味はわかるよ。黄泉の国の旅だったと思ったんでしょう」
「そうそう、そういう意味よ」
なんだか可笑しくなり笑っていると、春人はわたしの足元に腰掛け、わたしの手を取った。
「どうしたの、おかしい?」
「おかしくなんかないけど、なんだか慣れなくて」
「随分と長くひとりにしちゃってたから」
「本当に、何処に行っていたの?」
「どこでもないよ。ずっと傍にいた。ただ、姿を表す力が薄れていて」
「いまは大丈夫になったのね」
「そう祈るよ」
そういって春人は微笑んだ。このような異常な関係が長続きする訳もなく、わたしも春人を失う覚悟は出来ていたのだが、それでも姿を表して欲しいという希望は消えない。
「手術は上手く行ったのに、桜花はなんでそんなに悲しいの」
春人はわたしの心の中を見透かしている。透視能力もあるのかと疑ってしまう程だ。昔からそうだった。
「晋之介を迎えに行かないつもりでしょう」
「……」
「退院したら、何処に行こうと思ってるの」
わたしは小さく首をふり、瞳を閉じた。
「桜花、話してよ」
うん、といって、わたしは布団を退けて、伸ばしていた足を折りたたんで横座りをした。すると春人は椅子をわたしの横までずらして、隣に座った。わたしはゆっくり話をはじめた。
「難しいといわれていた手術が思わず成功して、最初は前のように晋之介と暮らせる日々を楽しみにしていたのだけれど、術後、数日してから、記憶障害がまたではじめて」
「記憶障害?前のような?」
「ううん、前のは、無意識の中で消したい記憶の全てが消えてたけど、今回はね、徐々に記憶が薄れてきていて、それが日が追うごとに、昔の記憶の全て、そうね、簡単にいうと、古い記憶から徐々に薄れてきている」
「それは普通のことではないの?」
「違うのよ。わかるのよ、いつか全てを失うって」
「確かなことではないんでしょう。先生には相談したの」
わたしは首をふった。
「やはりね、桜花は昔から、悩みを自分一人で解決しようとする癖がある。それは良くないよ。特に病気に関することは、専門家に相談して解決していかないと」
「わかってるのよ、でも」
「晋之介はどうなる?。身勝手すぎないか」
春人の言葉は穏やかだったが、わたしは言葉を失い、小さく溜息をついた。自分の中に起きている異変を感じたまま、犬を育て、生きて行く自信がなかった。また手放すことになれば、晋之介の気持ちを混乱させるだけだ。
「晋之介は、どうしてるの?いまの生活に馴染んでる」
「つい最近のことだけど、晋之介を見に行ったら、悲しそうだった」
「話したの?」
わたしは身を乗り出して春人を見た。春人は首を振った。
「そこまで以前の能力を回復してなくて、彼の中に入り込んだり、会話をしたりとかは出来なかったんだ」
「だとしたら見た目?大切にされていないの」
「大切にされてるよ。充分すぎるほど」
ただね、と春人はいうと眉間に皺を寄せて首を捻った。
「お婆さんが亡くなったんだ」
「お婆さんって占いの?」
「そうだよ。病気でね。もう何十年を病気患っていたらしいんだ。だけど」
春人は手をふり、幾度か頷いていた。
「大丈夫。娘さんがちゃんと面倒をみてくれている。だけど、桜花と離れた後の晋之介は心を閉ざしてまって。食事も殆ど食べない。あんなに大好きだったおやつも見向きしないし」
「だけど、手紙やメールには、晋之介は元気だって」
「それは桜花を心配させたくないからだよ」
「そんな……」肩を落とし、泣き出したわたしの背中を、春人はやさしく摩ってくれた。以前の様な手の温もりは消え、凍るような冷たさは、さっき手を握られた時に感じていたが、たぶん春人は気付いていないのだろう。
「だから、退院したら、晋之介を迎えに行こうよ。ねっ桜花」
「わかった。ただ、ひとつ、もうひとつだけ、確認しておきたいことがある」
手の甲で荒く涙を拭いたわたしは正座をして春人に向いた。春人は質問の中身を予想しているのだろう。軽く微笑んだが、目線は壁を向いていた。
「聞くよ。いい?」
「ああ、いいよ」
春人はこちらを向いた。白い肌と唇が同化している。目を瞑れば、死んでいる人のように。
「春人は、春人はさ、本当に自殺したの」
「そうだよ」
彼は同じ顔で微笑んでいる。
「でも、この世に未練があるような気がするの。もし自分で死にたいと思ったのなら、未練はないんじゃないかと」
「そうとは限らないよ。これは死ぬ前に読んだ本に書いてあったのだけど、自殺未遂者の9割は、自死を後悔していると。なので確実に死んだ人たちの、その殆どは後悔しているのだとね」
「春人は、どうなの?」
「僕は、そうだね」
春人は上を向いて、暫く天井を見ていた。その様子から、春人は自分の死を後悔していることが伺えた。
「僕はさ」
彼はわたしを見ると、再び微笑んだ。今度はとても悲しい笑顔だった。
「桜花ともっと一緒にいたいなって、死んですぐにそう思ったんだ。それまでは、なんだか考えることが多すぎて、桜花と向き合うことを避けていたじゃない。離婚届まで渡して、勝手な言い草だよな」
離婚のことを忘れていた。
「離婚、は、本気だった」
「本気というか、それしか選択肢がなかったんだ。桜花をあれ以上、傷つけたくなくて」
「わたし、傷ついてたのかな」
「傷ついてなかった?」
「わからないの。気付かないふりをしていたし」
暫くの間があった。互いに俯き、過去の傷口を広げないように、適当な言葉を探していた。
「好きな人ができたのでしょう」
聞くつもりはなかったのに、口を開けたら、この言葉が出て来て、自分でも驚いていた。
「好きな人なんて、他にいないよ」
「そっか」
「ただ、由香里や、智美と話していたし、紗耶香のこと疑ってるよね」
「最初は疑わなかったけど、よくよく考えると、離婚のことと符合していたから。そうなのかなって」
「どうしたら良いのだろう」
自分に問いかける様に、春人はつぶやき、つらそうな顔つきで遠くを見ていた。
「もう全部話しちゃっていいよ。その方が、きっと楽になる。わたしは大丈夫だから」
「実は…」そういってから次の言葉を発するまで、暫く春人は悩んでいたが、漸く口を開くと、堰を切ったように話し出した。
春人から聞いた内容はこうだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます