第44話 紗耶香の現実
「どうして美南は泣いていたのだろう」
ベッドの上で読んでいた本を閉じて、それをテーブルに置くと、わたしは夜の窓を見た。真っ暗で何も見えない。ただただ黒い闇だけの額縁の中を見ている様だった。朝が恋しい、と思うようになった。この世への未練なのだろうか。生きることを諦めた筈なのに、未だ煩悩を捨てきれずにいる。
警察は、わたしが智美を殺したと疑っていた。わたし自身も智美を殺したのは自分だと疑わなかった。なので晋之介を手放したのだ。身寄りのない飼い主が突然いなくなる事態を避けたかったから。
しかし状況証拠だけで、決定的な証拠がなく、警察はわたしを立件できなかった。とはいえ連日の取り調べはつらく、遂にわたしは貧血で倒れてしまった。その時に受けた検査で、別の病気が発覚し、この病院に入院する事態となったのだが、ここで過ごすのも悪い事ばかりではない。世間がわたしを悲劇の殺人犯としてセンセーショナルに報道すると、SNSで名前、前職、住所、顔写真までが拡散された。無罪だと確定しても、わたしの出自はそれほど面白いものなのだろう。世間の注目は消える素振りがない。
「そういえば、紗耶香は何しているのかな」
闇の窓枠の中に、あの日の光景が広がる。わたしはあの日、紗耶香とどうしても話がしたくて、彼女に連絡を入れた。忙しそうな口ぶりで、直ぐに行くと彼女はいった。しかし旅館ではなく、高台寺の裏木戸に来てくれという。その日、たまたま紗耶香の仕事先が高台寺境内だったのが理由らしい。真夜中の高台寺だったが、庭のライトが煌々とついていたので怖くはなかった。紗耶香は中庭で仕事をしてるみたいだ。裏木戸からも数人の人影と話声が聞こえた。
「ごめんね、こんなところに」
「ううん、わたしこそ仕事中にごめん」
紗耶香は白いブラウスにデニムの短パンを履いていた。長い足に高いヒール。紗耶香の定番だ。わたしはというと、スエットの上下を身に纏っていた。なんとなく気恥ずかしい。
「話しって」
彼女は前髪をかき上げた。
「あの、その」
「どうした」
紗耶香は腕組みをし、貧乏ゆすりをしている。相当、苛ついていた。
「夕ご飯の席で、紗耶香のお母さんから聞いたのだけど」
「ん」
「あの、春人と会った」
「いつ」
「春人の亡くなる直前」
「えーっと」
紗耶香はわたしに背中を向け、再び、前髪をかき上げた。嘘が顔に出るタイプだ。紗耶香はわたしの視線を避けた。
「あーっ、たぶんそうね。春人くん来てたわ」
「そうなの。わたし、何も聞いてなくて」
「話す必要ある?」
「えっ」
こちらを向いた紗耶香は人が変わったように冷ややかに見えた。
「結婚してるっていっても、プライベートな時間はある訳だし、個人的にわたしが、一個人の春人くんと会ってたっておかしな話じゃないでしょう。桜花に遠慮したり、相談したり、報告したりする義務なんてないんじゃないの」
「どういう」
その時、頭痛がしてきたのを覚えている。紗耶香のいっていることの意味を整理できず、わたしはただ頭を横に振っていた。
「何か言い分ある」
「いや、ん。そうね、結婚していても別人格だものね、わたしが詮索することではなかった」
ごめんといって帰ろうとした時、紗耶香が小さな声でこういった。
「離婚の話し、春人から聞いてない?」
「そっか」
声にならない声でわたしはそうつぶやいた。
「生前、春人から離婚届け、受け取らなかった?」
「……」
「その様子だと、離婚の話しされてたんだね。でも春人が死んじゃっても、妻のままでいられるんだ」
「……」
「良かったじゃない。桜花の性格からさ、この先、新しい人とお付き合いしたり、まさか再婚したりする訳ないんだし、死ぬまで春人の妻だよ」
「どういう意味」
頭痛が絶頂期に達した後は、驚くほど快適だった。
「ところで紗耶香さ、春人ってなに?いつから春人を呼び捨てにしてたの」
「ん、なに?なんか桜花、感じが違う。なんか怖い」
紗耶香は半笑いだった。開いた指を口に当て、眉をひそめてわたしを見ている。
「ねえ、答えて。春人とはどういう関係だったの」
そういうと、紗耶香は真面目な顔つきになり、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんね、わたしと春人は、桜花の想像通りだよ。そういう関係なの」
「曖昧だね。どうにでも受け取れる。ずるいよ紗耶香」
「本当のこといったら、桜花、気絶しちゃうよ」
「平気よ、わたし」
「なら言うね」
そういった時だった、遠くから大きな遠吠えが聞こえて来た。その悲しい音色を聞き、わたしは我に返った。
「晋之介、晋之介が呼んでるから帰るね」
石段を駆け下りるわたしを、紗耶香は追いかけて来た。
「待ってよ桜花、話し、終わってないし」
振り返ると、紗耶香は片手を伸ばしてわたしに掴みかかろうとしていた。わたしは怖くなり、全速力で階段を下りたが、同時に紗耶香は足を踏み外して、石段を5段程、転げた。一瞬、足を止め、紗耶香に振り返ると、紗耶香は顔を打って血だらけになっていた。
「ごめん」
紗耶香には悪いが、いまは晋之介の方が大事だ。全速力で旅館に戻り、玄関を入ると、遠吠えをしていたのが、晋之介だけではなく、この家のハスキーも一緒だったと気づく。
これが、あの夜に起きたことの全容だった。
全ての記憶を取り戻した時、どうしようもなく気持ちが減退した。当たり前だと、占いお婆さんはいう。
「智美、由香里、紗耶香、3人の女に罵られたのだから、誰もが落ち込む」
お婆さんはケラケラ笑いだすと、裏口のドア横にあるベルを押した。すると奥から先程の女医が現れた。女医はうつむき、髪の毛で顔を隠していた。
「娘の診察を受けるが良い」
「わたしがですか」
「他に誰がおる」
「わたし、どこも悪くないのですが」
「それを決めるのはお前ではない。医者じゃ」
そうやって、わたしはお婆さんの娘の診察を受けることとなった。診断内容は脳腫瘍。大きな病院での検査を進められたが、その前に片づけて置かないとならないことが多すぎて、勧めを聞かなかった。最初の診断から1年がすぎた。3か月前にこの病院の脳神経外科の手術を受け、もうすぐ退院の予定である。
「そのことを南美に伝えなかったのはどうしてだろう」
ベッドに横になっても暗い窓を見つめていた。
わたしはきっと以前にも増して人間不信になってしまったのかも知れない。
「あーっもういやだ」
布団で頭を覆いかぶした。
「どうしたの、落ち込んでるの?」
「へっ?」
布団の中で目を開けた。たったいま、春人が話し掛けてくれたような気がする。わたしは、そろそろと布団を下げ、目だけを出した。
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