第4話 三度目の呟きは

 幼少期、菊池はさして目立つ子どもではなかった。

 内気な気質で、誰かが脚光を浴びているとき、彼女はひとり隅に佇んで壁の花になることが常の人生だった。声優という職業を選んだのも、これといって強い憧れがあったわけではない。むしろ何にたいしても欲しがらない灰色の心根だったために、なんときなしに当時ハマっていたアニメから、そのまま声優という職業をしって、その専門学校を選んだに過ぎない。

 それも失敗し、一時は地方の建築会社の事務職に勤めた。

 これといって何が欲しい訳ではなかったが、ふとある日、自分が取りこぼしてきたものを数える日々が縷々とつづくことにきづいて、ようやく将来に待ち受ける末路の悲惨さにおののいた。

 そんな自分が配信者を選んだのは、しかし恐怖が真に自分を捕らえておらず、また自分自身、現実を直視せず、怯えるフリをしていたに過ぎない。

 選んだ動機は不純だった。

 だけれど漠然と掴んだものの輝きは、たしかに本物だった。


 チャイムが鳴って、菊池は振り返った。

 夕方に差し掛かり、彼女はクリスタで、今夜の配信用のサムネイルを作っている最中だった。配信以外では、ノートパソコンをリビングに持ち込んで、座椅子に座りながらキーボードを叩いている。右をむけば、簾を挟んで向こうに青銅色の玄関扉が見通せた。

 ピンポン――。

 そう響く音色は玄関ホールからではない。扉をへだてた廊下から、直接押されたチャイムだった。彼女はゆっくりと立ち上がり、茫然と玄関を見据えていた。

 頭によぎったのは、あの日、大淀がやってきた晩のことだ。彼女は幽霊に対して現実的で良識ある見地に立っているが、このときばかりは、こめかみを削り、後頭部を砕かれたために、赤ん坊のように首がすわらない大淀の面長な顔が、のぞき孔の凸面に、いびつに浮かんでいる気がしてならなかった。

 そんな凄惨な虚妄が晴れたのは、扉の奥から呼びかける中年男性の声だった。

「菊池さん、いらっしゃいませんか」

 間延びした声は、しかし彼女を別の意味で動揺していた。

 あの刑事だ。名前はたしか長沼方次郎といったか。

 マンションの前で出くわして、三日ばかり経っていた。引き絞られた弓弦のような緊張感は、次第にたるみをおびてきていたというのに、今になって何故現れたのか――。

「おられましたか」

 扉をあけると、手癖のように鯰髭の一方を捻っている長沼がいた。

 今日はつかみどころのない鰻のような面貌に汗をうかべ、息もあらい。みれば後ろに控えている男も顔色は変わらないが、両腕をまくりあげて、袖口に煤のようなものが見えた。

「今日も少々お伺いしたいことがありましてね、ふう」

 絶えかねるように息をはき、懐から黒いセンスを取り出した。開かれた黒い地に白抜きのトンボが何匹も飛んでいる。それをパタパタと仰ぐと、かすかに沈香の匂いを放つ。

「あの、どうかされました」

「少々実験をしてみまして」

「実験?」

「私、むかし三課に所属してまして。こういうオートロックマンションの防犯の啓蒙なども良くしてましてなあ。ちょっと昔の血が騒いだもんで。管理人を呼び立てて、不審者の侵入口の経路というものが、どこにあるのか、教鞭を執ってまして」

「はあ」

 扉の前で菊池は、怪しい中華の漢方屋が鯰髭を扇子で仰ぎながら、オートロックの防犯対策について一説をぶつ様を眺めさせられている。

「というのも、オートロックとはいえ、住民と一緒に入りこむ輩はおりますし、内側が人感センサーで開閉しますから、表側から紙でも差し入れて、左右に動かせば簡単にあくものなどあります。だからこそ、入口にカメラや管理人の眼などをつかって、不審者を弾く施策をとっているところもありますが、私に言わせれば片手おちだ。大概の犯人はわざわざ人目がつく玄関など使わず、非常階段を使いますな。

 あれは入口が鍵で施錠され、一階部分は侵入者用の柵で覆われていますが、それも二階、三階とあがるにつれて柵は取り払われている。そして非常階段故に、マンションの隅にあって、突起のようにマンションから飛び抜けて作られる故に、マンションと非常階段にできた角に、これまた画一的なまでに雨樋を下ろすのです。こいつが空き巣犯の足がかりとなって、マンション内部に忍び込ませる。――管理人の方に啓蒙してやったんですが、それは机上の空論で、クライミング選手ぐらいしか出来ないと嘯くもんで、我々でちょいとやってみせました。このうしろの柳田はともなく、この私ですら出来るんですから、もう少し危機感をもったほうが宜しいですな」

「あの」

「うん? なんですかな」

 かいた汗がひいたとみえて、長沼はぱたりと扇子を閉じた。

「刑事さんたちは防犯の啓蒙で来られたんですか」

「ああ、それは勿論違いますよ」

 扇子を懐に戻して、長沼は髭を抓みつつ云う。

「貴女が殺した大淀氏の侵入経路を確認したのです。菊池雅美さん」

 

「わたしが大淀を殺したと?」

 菊池はリビングでふたりの刑事と向き合っていた。開口一番、自分が殺人犯だと言ってのける男を、往来のあるマンションの廊下に立たせる訳にもいかず、家の中に招き入れるしかなかった。

 長沼は菊池を糾弾したにも拘わらず、平静な面持ちで髭をひねっている。

「そうなるね」

「そうなるねって」呆れた顔を浮かべるも、その内面は嵐のように猛っている。「わたしにはアリバイがあります」

「配信をしていた、だよね」

「そうです。午後十時から零時までのあいだ、わたしはリアルタイムの配信をしていました。投稿した動画じゃないことは、当時のアーカイブをみて戴ければ分かる」

「ほう、どのように」

 長沼は配信者に対して一定の知識があった。こう聞くのは、あえて空惚けているのだ。なにを目的にしてこのような猿芝居を行うのか判然としないが、それでも菊池は、自分の不在証明を確固たるものにすべく、声を荒げながら説明する。

「リスナーのコメントです。ゲームの進行にあわせて、流れてくるコメントに、わたしは適宜反応を返しています」

「自作自演の可能性は?」

「ありえません。コメントしたリスナーのアカウントは、そちらで確認できる筈です。そのアカウントが殺人のために用意された架空のアカウントではなく、ちゃんとした一般利用者のコメントだと把握出来るはずです。――つまり、彼の死亡推定時刻に、わたしは遠く離れたこのアパートで配信をしていた」

「彼を殺すことなど不可能である、と?」

 言葉の穂をついだ長沼の口吻に、ちいさな余裕が垣間見えた。

「なるほど、たしかに貴女はウーバーイーツの配達員が死体をみたとき配信中であった」

「そうです」

 菊池は頷き、さらに望むべき結末のため、仮説を推し進める。

「刑事さんは、大淀の誤注文の件や支払い方にひどく気を揉んでいますが、わたしに言わせれば、それは小さな事故です。うっかり赤信号を渡ってしまったり、便座があがったトイレにお尻を突っ込んでしまうような、普通なら有り得ないけれど、決して小さなアクシデントのひとつ。

 それを必要以上に考えこんでしまったがために、刑事さんは推理に自縛されて、きづけばわたしが犯人だというねじれた結論にたどり着いてしまった。だけれどわたしに言わせてもらえれば、これはあまりにもありがちな事件です。犯人は、だれともしらぬ空き巣犯。奇しくも大淀が配達員のために扉を開けていた午後十時四十五分から午後十一時のあいだに部屋にあがりこみ、ねている彼の隙を突いて金品を漁ろうとした。けれど、大淀が起きたため、慌てて近くにあったトンカチで彼を殴り殺した」

「たしかに、私は小難しく考えるきらいがあります」

 鯰髭の刑事も素直な聴衆の如く、彼女の弁説に頷いてみせる。

「であれば、もうひとつ、私の疑問に付き合って欲しいんですがね」

「なんでしょう」

「呪術青年のことです」

 長沼はぴんと髭を伸ばす。

「彼は院試を間近に控えて、アパートで勉強をする勤勉な学生です。その生真面目さ故に丑の刻参りなどしでかした彼ですが、以前お伝えしたとおり、配達員が天津飯と唐揚げの袋をたずさえて玄関で被害者を呼ばわったとき、彼はしっかり隣の部屋でその声を聞いています。なにせ跫音すら聞こえる唐紙を貼ったような薄い壁だ。彼曰く、過去の問題集を半ばまで解いていたときに、その声がして、ひどく癪に障ったと述べています」

「それが、なにか?」

「いえね。そんな欠陥住宅の隣で、青年が難問に呻吟していたのなら、かれはもちろん、強盗と被害者がやり合う声を聞いていた筈なのですよ。ですが、かれは午後八時に大学の自習室から帰宅して一度たりとも隣人の声はおろか跫音さえ聞かなかった」

「それは――」菊池は直ぐさま頭をフル回転させた。「強盗はひどく音に警戒していた筈です。なにせ家主は寝ていたんですから。そしておそらく、寝ている内に、彼を殴り殺したのでは?」

「たしかに死体の状況から抵抗した痕は伺えませんでした」

「それなら」

「ありえませんね」

 長沼は直ぐさま断言する。

「彼の傷は大まかにわけて二箇所です。ひとつは後頭部の陥没。そして右のこめかみを縦に削るような一撃。前者のこめかみの傷は生体反応があった。つまり死因となった後頭部の挫滅箇所より先にこめかみに傷をこさえています。ですが、これではあまりにもおかしい」

「どうしてです」

「かれはうつ伏せで寝ていたんです」

 長沼はぴんと髭を弾いてみせる。

「睡眠中にうつ伏せ状態で殺されたのであれば、かれは外耳の内側にあるこめかみに傷を負うことはありえません。にも拘わらず、こめかみに傷を負っているというのなら、かれは当時、仰向けで寝ていなければならない。だが、そうなると今度は後頭部の致命傷に矛盾ができる。したがって被害者は少なくとも体位を反転させる必要がある。たとえば、悲鳴をあげ、這うように逃げようとして、そのあと後頭部に強烈な一撃を受ける、とかね。

 だがそんな攻防を、呪術青年は聞いていない。彼があれほど呪いを信じてしまったのは、この一点なのですよ」

 長沼はからからと笑い、当時の呪術青年が動揺していた心理を紐とく。

「彼は死体をみて戦慄し、また警察から死亡推定時刻を仄めかされて青ざめたでしょう。被害者が居た午後十時半から午後十時四十五分のあいだ、隣室は微塵も人が居る気配もなかったのにも拘わらず、自分が呪っていた人物が無残な死体となって現れたために、彼はその呪術が成功してしまったのだと勘違いをしてしまった。彼に呪殺を信じ込ませた原因は、ひとえに、必ず音が聞こえたであろう残忍な殺人にも拘わらず、その気配が一切感じられなかったことだったのです。

 ――一応、わたしもうしろの柳田と共に、どれほど隣室から音を拾うのか、実地で検証してみましたが、あれでは声がなくとも、二人の人物が必死の暗闘を繰り広げるには、あまりにも丸聞こえでしょう。

 そうなるとあの部屋で、ひとりの男が鈍器で殺害されたとは考えづらい」

 菊池は緊張で枯れた喉に唾を落とし込んだ。

 その音を、つぶさに聞き取るように、長沼は怜悧な眼光を彼女に向ける。

「私は考えました。そもそも配達員が目撃した被害者の死体は、ほんとうに死んでいたのか? あの部屋で、死亡推定時刻に殺害することは不可能で、なおかつ、配達員は被害者とおもわれる人物に約五メートル以上離れた位置から、何度か呼びかけたに過ぎない。――つまり彼は大淀伸也の生死どころか、その伏せられた顔すら覗いていない訳です。

 わたしはこの時点で、この配達がブラフで、犯人のアリバイを固めるための偽装だと気づきました。おそらくは事前に、大淀伸也の自宅に侵入した犯人が、マネキンとカツラを用意して、うつぶせの被害者にみせるように寝かせて、事前に決めていたメニューの代金を書き置きと一緒に残して去っていったのでしょう。そして犯人は別の場所で被害者を殺害したのち、死体とマネキンを入れ替えた。そしてその時刻も、実はあまりにも明白な形で判明しています。――いつだと思いますか、菊池さん」

 ひとつひとつ退路を断たれていく中で、わずかに残る道すらも、自分で諦めさせようとするかのように、長沼は尋ねた。

「・・・・・・丑の刻参り、ですね」

 長沼は首肯する。

「隣室の青年は例に漏れず、きっちりと丑三つ時に入った午前一時、憂さ晴らしに出掛けた。場所はアパートから歩いて十分ほどの里山。その天辺ちかくのならの大樹に、藁人形を打ちつけて満足してかえってくるまで、およそ四十分ほど。犯人はその間に、殺していた被害者を運び込んだのでしょう。殺害場所である、この一室から」

 菊池はもはや何を問うことも止めた。

 ただ長沼が語り終えるのを待つように、膝に手を置いて、その推理に耳を傾けた。

「貴女の配信を見ました。するとちょうど午後十時半頃、チャイムがなって離席した。時間にして十分ほど。だが、それにしてはおかしい。オートロックマンションなら、一度目のチャイムはかならずマンションのパネルから鳴らされる筈。だが、部屋にきてもう一度鳴らされるはずのチャイムは鳴らず、あなたは十分の空白を作っている。

 となれば、あのチャイムは玄関ホールのものではなく、何者かが不正なルートをつかってマンションに侵入したあと、部屋のチャイムを鳴らしたということになる。姿を隠してやってきた来訪者と、その空白の時間は、ぴったり死亡推定時刻と合致している」

「・・・・・・それだけでわたしを犯人呼ばわりですか? わたしが殺した証拠があるんですか」

「それは今、みつけました」

 満身創痍の心から放たれた最後の一矢は、しかし、難なく破れた。

 かれがゆっくり指をさしたのは、テラビ台の右脇に置かれた茶斑アリスのアクリルブロックだった。凶器として使われたグッズを配信部屋に置くこともできず、かといって棄てるには余りにも思い入れのあるアイテムだっただけに、そこに置いていたのだ。

 うしろにいた若い刑事が、どこからともなく取り出したビニール製の手袋をはめると、丁重にもちあげて、矯めつ眇めつ眺めながら、とある一点を凝視すると、長沼にむかってこくりと頷いてみせた。

「これを見て下さい」

 そういって懐から透明で小さなビニール袋を取り出した。口はパウチで閉められており、そのなかに小さな透明な結晶片がついていた。

「アクリル製の結晶片です。これが被害者の後頭部から発見されました。そしてこの欠けた部分は、あのアクリルブロックと合致するでしょう。これが貴女が大淀伸也を殺害した証拠です」

 菊池はもう反論する余地がなかった。

 ただ純粋にひとつ、疑問があった。

「なぜ、わたしに眼をつけたんですか?」

 それが最後の疑問だった。かれは当初から自分の犯行を疑っていたきらいがある。

 長沼は始めて、云いにくそうな顔色で、悩ましげに髭をさわる。

「となりの呪術青年、どうやら君のファンらしくてね」

 そこまでいって、あとの言葉を呑んだ。

 ――ああ、そういうことか。

 自分が大淀の家に連れ込まれ、恥辱の仕打ちをうけていたとき、自分のファンが隣にいたのだ。そしてわたしが誰であるかを知り、また、大淀の仕打ちに悩んでいた。

 彼が呪詛に走ったのは、或いは騒音問題ではなく、ひとりの心優しく、そして臆病な青年の必死の犯行だったのかもしれない。本当に、大淀を呪い殺そうと――。

 乾いた笑いが溢れた。あまりにも滑稽すぎる顛末だ。哄笑する彼女に反して、鯰髭の悪魔は、哀しげな、そして恥を忍ぶように顔の線をひきしめた。

「大淀伸也による性被害の訴えは、きみをふくめて四件あった。われわれ警察はそれを軽んじ、また疎んじてしまった。この失態を認め、裁判では情状酌量の余地を認めさせることを約束する。無論、このことについて、我々は一切の箝口令をひかない。ひかせはしない」

「・・・・・・そうですか」

 彼女はうつむけた顔をあげて、頭を下げる長沼の肩越しに灰色の防音壁をみた。

 一畳にも満たないあの狭い空間が、急に遠ざかっていくのを感じた。

 やっとみつけた安息の地が、掌の砂のように、音をたてて溢れ去っていく。

「留まれ、お前はいかにも美しい」

 気づけば、口から洩れていた。

 彼女の切なる願い。それはただ、あそこにいた時間、その刹那を、ただ永遠なまでに引き延ばしたかっただけだった。

「お嬢さん、その台詞は二度は云ってはならない」

 長沼は顔をあげた。

 その顔には力なく、どこか悲嘆にくれている。

「一度は悪魔との契約のため。しかし二度目は悪魔が魂を奪うため」

「でしたらどうぞ。はやく連れ去って下さい」

 そういって彼女は両手を差し出した。

 長沼はその手に、銀色の手錠を填める。

 彼女は彼らに連れられて、アパートの一室から出ていこうとしたが、不意にふりかえると、名残惜しい眼差しで防音室の壁をみる。

「留まれ、お前はいかにも美しい」

 彼女はもう一度、ふたりの刑事に聞こえないほどか細い声で、その一句を唱えた。

 一度目は契約のため。二度目は収奪のため。

 では、果たして三度目は何の為に。

 なんの効用を以て自分に報いるのか。

 答える者はなく、問いは静寂に消えていく。

 そして楽園に乾いた失笑をのこして、彼女はふたたび連れさられて行った。

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配信詐業 織部泰助 @oribe-taisuke

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