5.これよりはじまる物語

 兵士たちの槍がいっせいに男のほうを向いた。

 男は兵士たちのことはまったく気にかけず、ミアの横に膝をつくと手にしたビンを差し出した。


「黄金の蜂蜜酒だ、傷にも効く」


 男はミアに刺さっている槍を抜いてアランのほうへ放った。

 足もとにカランと槍が落ちると、国王は「ヒッ」と声をあげて後ずさった。

 男は腹部を押さえているミアの手をそっとどかして、封をしているコルクを歯で抜くと、ビンを逆さにして中の液体を患部に注いだ。


「呪文を唱えろ」


 黄金色の液体をかけたあと、ミアの手をもどして傷口を押さえさせた。

 ミアは震える唇で治癒魔法を唱えはじめた。


「その呪文じゃない。これだ」


 男はビンのラベルをミアに向けた。


「なに……これ」


 ラベルには見たこともない奇妙な呪文が書いてあった。


「いいから、生きたかったら唱えろ」


「いあ……いあ……」


 ミアは目で文字を追いながらゆっくり唱えた。


「いあ いあ はすたあ はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい あい はすたあ」


「目を閉じて下段の部分をくり返せ。俺がいいと言うまで絶対に目を開けるな」


「いあ、いあ、はすたあ、ふたぐん……いあ、いあ、はすたあ、ふたぐん……いあ、いあ……」


 ミアの横で男の気配が大きく膨らんでいくのを感じた。

 男の存在感が小屋よりもずっと大きくなって、さらに巨大化している。

 神というのもまんざら嘘ではなかったのかと思えるほど湧き上がる畏怖の念が強くなって、身体が勝手に震えた。

 おそらく兵士たちはそれを直視している。


「アアア……」


 彼らの口から絶望的な声が漏れているのが聞こえた。

 あらがえぬ死か、それ以上のものと対峙していることを兵士たちを通して感じる。

 彼らのなかで恐怖が膨張している。

 それは限界まで膨れあがると、あっけなく破裂した。


「目を開けていいぞ」


 とてつもなく巨大化したと思われたが、男の声はさっきと変わらずすぐとなりで聞こえた。

 兵士たちはみな倒れていた。恐怖に顔をゆがませて息絶えていた。


「アラン……」


 国王も同様だった。


「いったいなにがあったの?」


 国王の死に対して、とくに心に去来するものはなかった。あるとすれば、昔から知っていたのに性格を直してやることができなかったという悔恨のようなものである。しかし、それはミアが責任を負うようなことではない。

 はからずも現状はどちらが死ぬかといった状況だった。彼女は国王に殺されてやる気はなかった。


「お前が俺を讃える呪文を唱えたので、俺は一時的に本来のすがたにもどったのだ」


「それだけ……?」


「ああ、俺のすがたを見ただけだ。だいたいこうなる」


 男は平然と言った。


「人間の理解を超えた恐ろしいすがたらしい。脳は生きてそれを見つづけるより狂って死ぬほうを選ぶ」


「そんな、見ただけで……いったいどんなすがたなの?」


「さてな。なにかにたとえるのはむずかしい。なにしろ、俺の別名は『名状しがたきもの』だからな」


「名状……しがたき……?」


「ああ、あと『黄衣の王』とか」


 それを聞いて、ミアは口角をわずかに上げた。


「なにがおかしい」


「だって……自分で『王』って」


「俺が言ってるんじゃない。そう呼ばれているんだ……まあいい、笑えるくらいには回復したようだな」


 男はまわりを見渡した。


「ここは引き払ったほうがいい。王がもどらないとなれば大規模な捜索隊がくるだろう」


「この森に住むものたちに害がおよばないといいのだけど」


「山狩りもあるかもしれんが、こいつらのありさまを見たら恐れをなして逃げ帰る可能性もある。人望がなさそうな王だから、だれも危険を冒してまで仇討ちをしようなどとは考えないかもな」


「それならいいけど」


「いちおう、魔物たちにはしばらく森の奥へ引っ込んでおくよう言っておこう」


 ミアの肩がビクッと上がった。

 突然、男の両脇に異形の魔物があらわれたのだ。

 その身体は大柄な男よりもさらに大きかった。


「人間には恐ろしく見えるらしいが怖がらなくていい。バイアクヘー、俺のしもべだ」


「ばいあくへえ?」


 聞いたことのない言語と発音だった。ミアが口にすると大体そのような名前になった。

 見た目も、コウモリのような翼を持つが鳥のようではなく、爬虫類のようでもあるが、アリのようでもあるといった、この世には存在しないようなすがただった。


(『名状しがたきもの』の僕もまた名状しがたきもの……)


 男が無言で命ずると、翼のついた魔物たちはなにかうるさい音を立てながら森の奥へ散っていった。


「ひとりで魔物のいる森に住んでいるだけあって、バイアクヘーの異形を見ても取り乱さないとは、なかなか肝が座っているな」


「十分に驚いてるわ。怪我してなかったら飛び上がっているところよ」


「そういうところさ。邪神と呼ばれる俺を前にしても減らず口が叩ける」


「自分で邪神って……もう、笑わさないで……ただでさえお腹痛いのに」


「……」


 自称邪神はミアを相手にするとどうも調子が狂うようで頭をかいた。


「傷の具合はどうだ?」


「血も止まってるし、だいぶいいみたい。すごいわねこの……蜂蜜酒? わたしの下手な治癒魔法よりぜんぜん効果がある。これがあれば……」


「簡単に手に入るものではない」


「そうなの? 貴重なものなのね。いつかレシピを教えて」


「わかった。だが、いまはここを去るのが先だ」


 そうこう言っているうちに、翼ある魔物たちがもどってきた。

 男は肩を貸してミアを立ち上がらせた。


「さて、どこか行きたいところはあるか?」


「家族に会いたい。北の果てにいるらしいけど」


「北か……いいだろう。乗れ」


 男は、虫か獣のように手足を着いている翼ある魔物にミアの身体を寄りかからせた。


「え?」


「こいつに乗って飛んでいく」


「ええ! そんな飛ぶなんて怖いわ。わたし高いところは……」


「これがいちばんの移動手段だ。文句を言わずに乗れ。延々と歩くつもりか? 森を抜ける前に行き倒れるぞ」


「そんな、飛んでいくくらいなら、わたしは歩いて……きゃっ」


 男はミアの身体をひょいと持ち上げて翼ある魔物の背に乗せた。


「こっ、こんな得体の知れないものに命をあずけるのは……」


「だいじょうぶだ。バイアクヘーには俺の妻だと言い聞かせた。絶対に背かない」


「でも……え、妻?」


「便宜上だ。そう言っておいたほうが、言うことを聞くのだ」


「そ、そうですか……わかりました」


「……便宜上だからな」


「……だから、わかりました」


「了解したならいくぞ」


「ひゃあああっ!」


 二体の翼ある魔物はミアと男それぞれを乗せて飛び立った。




 西の果てのいくつかの村で空を飛ぶ二匹の魔物が確認された。それぞれ背に少女と男を乗せていたという。

 邪神の妻とされ、のちに自らも邪神と呼ばれるようになるミア・ブラックウッドの新たな人生はここからはじまる。






 混沌の森 - 邪神と呼ばれる少女 -


 END






 あとがき

 邪神と呼ばれた少女ではなく、これから呼ばれる少女のお話です。さらに物語を進めれば面白いコンビになるかもしれませんがこの先は考えていません。邪神というのもチートすぎてあつかいに困りそうですし、このお話はここまでということで。


 初の「婚約破棄もの」挑戦でしたがあまりうまくはやれてないかな? そもそも恋愛小説にもなっていないし、難しいですね。

 クトゥルフ要素についてはほんの隠し味程度に入れてみました。


 最後まで読んでいただいてありがとうございました。お楽しみいただけたなら幸いです。




 2022.8.6


 月森冬夜

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