最終話 美咲の想いが綴られた手紙が明日香のもとに!
クリスマスイブの深夜。
車が海に飛びこむのを目撃したという通報が、警察に寄せられていた。
夜が明けるのを待って、現場を所轄する湾岸警察署が捜索を行った。捜索の開始から30分後、アクアラングをつけた警察官が、水深5メートルの海底に沈んだ車の中に残された男女ふたりの遺体を発見した。
クレーン車が手配され、車が海中から引き揚げられた。車の中には、運転席に有村美咲、助手席に陣内雅彦の遺体が、シートベルトをしたまま座っていた。
飛びこんだと思われる路上にブレーキ
ふたつの遺体は、すぐに司法解剖に付された。その結果、ふたりとも、睡眠薬を服用していたことが判明し、心中事件と断定された。ふたり仲よく手をつないでいたことも、そのように判断される要因のひとつであった。
陣内と美咲の遺体が発見された日の午後、明日香の自宅に美咲の手紙が届いた。おそらく美咲が死ぬ直前に投函したのだろう。封筒には、台場局の消印が押されていた。
美咲の手紙は、可愛らしい便箋に直筆で書かれたもので、8枚にも及ぶ。明日香は、ひとりで読むのが少し怖い気がしたが、美咲の遺言でもあるこの手紙を直ちに読まずにはいられなかった。自分の部屋に籠り、貪るように読んだ。
手紙は、美咲が真里菜と井坂を殺した経緯を包み隠さず告白していた。
明日香さん、ごめんなさい。あなたにすべてを話すといっておきながら、こんなことになって。あなたがこの手紙を読む頃は、私は、この世に生きていないでしょう。おそらく陣内先生も。
あなたが想像したとおり、真里菜さんを殺したのは、私です。あの日、真里菜さんの携帯に電話をして、11号館の屋上に呼び出しました。
なぜ、あの場所にしたのかって、不思議に思うかもしれませんが、あそこは、私と陣内先生の思い出の場所だったの。今はもう、閉鎖されてしまっていますが、かつて私が学部の学生だった頃は、喫煙場所を兼ねた憩いの場所でした。陣内先生も、その当時は煙草を吸っていて、研究にいき詰ると、よく屋上にきて息抜きをしていました。私もそこでときどき陣内先生に会って、ふたりでお喋りをしたものです。
その場所に真里菜さんを呼び出したのは、昔話をするためではありません。誰にも見つからずこっそり会って彼女を説得するのに、大学の中では、あの場所しか頭に浮かばなかったからです。
陣内先生が、井坂君を使って大麻の密売をしていたことは、ある人から聞いて知りました。最初聞いたとき、心臓が飛び出るほど驚いたものです。自分で確かめないと、どうしても信じられず、陣内先生のメールを盗み読みするようになったのも、それが原因です。
事実でした。井坂君の行動を追跡したら、すぐわかりました。陣内先生が、大麻に手を染めていることが。今度は、憤りで胸が一杯になりました。大学の教員ともあろう者が、なぜそんな馬鹿なことをするのかと。
でも、一方で、将来を嘱望された若手研究者である陣内先生を、こんなことで、抹殺されていいものか、とも思うようになりました。もちろん私が陣内先生を愛しているからこそ出たわが
2通目の真里菜さんのメールを見つけたとき、自分がなんとかしなければと思い、すぐに消去し、陣内先生の目に触れないようにして、自分が真里菜さんと会って話をしようと思いました。
真里菜さんに会って、井坂君を大麻の密売に巻きこむことをやめさせる代わりに、大学や警察に告発するのをやめるように説得しました。しかし、あの日の真里菜さんは、井坂君のことで頭が一杯で、冷静に物事を判断できる状態ではありませんでした。
陣内先生の悪事を
殺すつもりなど、まったくありませんでした。これだけは、信じてください。真里菜さんがあまりにも興奮していたので、落ちつかせようと肩に触れようとしたら、急につかみかかられ、それを振り
私の腕をつかんでいた真里菜さんが柵を越えてしまったのです。すぐ下をのぞきましたが、暗くてなにも見えませんでした。急いで下に降りて真里菜さんの様子を見にいったのですが、頭から血が流れ出ているのを見ると、怖くなって逃げ出していました。
真里菜さんが亡くなったと知ったのは、翌日の朝刊を読んだときです。もう少し冷静に対処していれば、こんなことにはならなかったと、悔やんでも悔やみきれません。真里菜さんには、本当に申し訳ないことをしてしまいました。
事件の翌日、真里菜さんが亡くなったことを知った井坂君は、陣内先生が犯人だと疑い、先生のマンションで待ち伏せしていたようです。陣内先生は、大阪の出張から帰ったばかりで、アリバイがあるといって、どうにか井坂君を説得したようですが……。
ただ大麻のことがあるので、井坂君に動きまわられると、警察に知られる恐れがあります。陣内先生は、井坂君の代わりに真里菜さんの事件の真相を調べてやるといって、それまでマンションに隠れているよう井坂君を説得しました。
夕方、私が陣内先生のマンションにいくと、井坂君の我慢が限界に達していたようで、今すぐにでも警察にいくといって、聞きませんでした。もうすぐ陣内先生がくるからといって、どうにか翌日まで待つように頼みました。
やむを得なかったといっても、結果的に真里菜さんを殺してしまった私は、もう
いったん家に戻り、睡眠薬と絞殺用のビニール紐を用意して、再び井坂君を椎名町駅近くの椎名神社に呼び出しました。陣内先生が調べた結果を報告したいといって。
電車やタクシーを使うと、誰かに見られる恐れがありますので、私も大山のマンションから歩いていきました。井坂君にも歩いてくるようにいいました。
椎名神社の境内で、睡眠薬を入れた缶コーヒーを井坂君に飲ませて絞殺しようとしたとき、酔っぱらった人たちが、突然神社に入ってきたので、慌ててその場を立ち去りました。
それからどうしたらいいのか、わからなくなり、しばらく辺りを
困り果てたとき、西武線の高架橋を歩いているのに気づき、
そのあと、しばらく橋の上で呆然としていましたが、気をとり直し、大山の自宅に帰ろうと、再び歩き始めました。途中で井坂君が持っていたディバッグのことが気になりました。一緒に
そのディバッグは、捨てるに忍び難く、私のマンションに置いてあります。明日香さんからご家族の方に返してあげてください。陣内先生が栽培した大麻だけは、捨ててしまいましたが……。
井坂君については、いいわけができません。本当に申しわけないことをしてしまいました。
このふたつの事件と陣内先生は無関係です。私が単独で行った犯行です。陣内先生から頼まれたわけでもありません。これだけは、陣内先生の名誉のためにも断言します。
私が陣内先生を愛し、陣内先生も私を愛してくれていると、先日会ったときに話したわね。教師と学生という立場があるので、周りの人たちには、つきあっていることを内緒にして、よく新宿や渋谷でデートをしました。とっても幸せでした。純粋に彼のことを愛し、彼も私の愛に応えてくれ、私が司法試験に合格したら、結婚する約束をしてくれました。
陣内先生は、法学者としてとても魅力的な人です。私は、陣内先生の容姿や性格でなく、頭脳明晰で法律センスのよさに
でも、研究者以外の面では、子どもぽくて気が弱く、すぐに人を頼ろうとします。つきあっているうちに、私が陣内先生を支えてあげないと、この人は、生きていけないのではないかとまで、思うようになりました。
陣内先生は、酔うと見境なく女性を
実は、その陣内先生が吉野先生のお嬢さんと婚約したことを、数日前聞かされました。直接、吉野先生ご自身から。もちろん吉野先生は、私と陣内先生がつきあっていることなど、ご存じありませんから、嬉しくて無関係な私にまで、話してしまったのでしょう。
ショックでした。一瞬気が遠くなり、目の前が真っ暗になりました。愛する人を護るために罪を犯し、挙句の果てにその人に裏ぎられてしまうなんて。なんて馬鹿な女なんだと。
もう死ぬしか道が残されていないと思いました。ふたりの尊い命を奪ってしまったのだから、命をもって償うしかないと。
ひとりで死んでしまうのか、それとも陣内先生と一緒に死ぬのかは、まだわかりません。陣内先生がどのようにしたいのかに任せようと思います。もし私の隣に陣内先生がいたなら、陣内先生は、私と離れたくないと思ったからでしょう。決して無理に一緒に死ぬつもりはありません。今でも、彼を愛していますから。例え裏ぎられたとしても。
今思えば、真里菜さんが転落したとき、警察に自首しておけば、井坂君まで巻きこまずに済んだのではないかと、悔やんでも、悔やみきれない想いで一杯です。どうかこんな馬鹿な私を許してください。
明日香さん、立派な弁護士になって、困っている人たちを援けてあげてください。あなたならできるはずです。私が叶えられなかった夢を代わりに叶えてください。
さよなら。
有村美咲
村木明日香 様
読み終わっても、明日香の涙はとまらなかった。もう一度読み返そうとしても、涙で文字が
美咲の切なくて儚い想いが、明日香の胸を熱くした。愛する人のため殺人まで犯してしまった美咲の心情が、なぜそんな馬鹿なことをしたのかと思いつつも、ほんの少しだけれど、わかる気がした。恋愛経験の乏しい明日香でも。
でも、例えふたりの尊い命を奪ってしまったとしても、命をもってまで償わなくても……。愛を全うするために、命までも捧げてしまうことが、果たして本物の愛だろうか。哀しい、本当に哀しすぎる愛の結末だった。
最後まで陣内のことを想い、ひとりで罪を背負いこんだ美咲が
陣内と美咲の心中事件から1週間後の
明日香は、ある人を池袋西口公園に呼び出していた。
この日は、大晦日だとは思えない陽気。とても暖かく、公園内を散歩する人やベンチで日向ぼっこする人たちが集まり、冬場になるとめっきり
明日香には、美咲の手紙でひとつだけ気にかかることがあった。
それは、美咲がどのようにして陣内と井坂の大麻の密売を知ったのか、だった。手紙の中では、ある人から聞いたとだけ書かれていた。そのある人が誰なのか、明日香なりに考えた末、ひとりの人物が浮かび、それを確認することにしたのだ。
明日香が噴水の前のベンチに座って待っていると、ダッフルコートを着た杉浦功一が現れた。
明日香は立ちあがり、お詫びをいった。
「すみません。急に先輩を呼び出したりして」
「気にしなくて、いいよ。特に予定もなかったから……」
「今日は、とても暖かいので、ここに座って話しても、いいですか?」
「いいよ、僕もけっこう着こんでるから、大丈夫だよ」杉浦は明日香の隣に座った。
「先輩、
先輩は、亡くなった真里菜さんから、井坂君が大麻にかかわってることで、相談を受けたんじゃないですか? そして、そのことを美咲さんに話しませんでした?」
一瞬杉浦の表情が
「どうなんです? 正直におっしゃってください」明日香は、問い詰めるように杉浦を
「なぜそんなことを、僕に聴くの?」杉浦は、質問を質問で返した。
「美咲さんの手紙に、ある人から陣内先生と井坂君の大麻密売の件を聞いたと、書いてあったから……」
「美咲の手紙?」
「そうなの。美咲さんが亡くなる直前、あたしに手紙をくれていたの。今回の事件の真相を告白した手紙。美咲さんがどのようにしてふたりを殺害したのかが、克明に綴ってあったわ」
「そこに、僕の名前が出てきたの?」
「いいえ、先輩の名前は、ひと言も出てきてません。ただある人から聞いたとしか」
「じゃあ、なぜ僕と断言できるんだね」
「あたし、真里菜さんが井坂君から大麻にかかわってることを告白されたあと、いったいどうしたんだろうかと、考えたんです。
犯罪にかかわってるわけですから、弁護士に相談するのが一番いいことは、法学部の学生なら、誰でも見当がつくと思うんです。
でも、弁護士に頼むとお金がかかるのと、信頼できる弁護士が近くにいるとは限りません。そしたら、ふと杉浦先輩のことが思い浮かんだんです。まだ司法試験に合格してないけど、法律知識は豊富だし、信頼できる人だと。
先輩は、法律研究部の部室にも、ときどき顔を出してたので、真里菜さんも面識があったはずだと。違いますか?」
「……」
杉浦の表情から血の気が引いた。少し口を開け、否定しようとしたのか、なにか言葉を発したが、明日香には聞きとれなかった。
しばらくして、「僕は……」といいかけた杉浦が、すぐに口を
「やっぱり真里菜さんは、杉浦先輩に相談したんですね。井坂君のことを」
「……。そっ、そうだよ」もういい逃れができないと思ったのか、ようやく杉浦が認めた。
「でも、なぜそれを美咲さんに話したりしたんですか? 陣内先生じゃなくて」
「そっ、それは……、美咲と……陣内先生を……別れさせたかったんだよ」
「えっ、先輩は、美咲さんが陣内先生とつきあってたのを、知ってたんですか?」
「ああ、直接聞いたことないけど、薄々気づいてた。長く美咲のそばにいるとね」
「それじゃあ、美咲さんに陣内先生が大麻に手を染めてるっていったら、美咲さんは、陣内先生と別れるって、思ったわけですか?」
「そんなに単純に考えたわけじゃないけど……。大麻のことを話すことで、僕の想いが、美咲に伝わるんじゃないかと……」
「なっ、なんでっ!」明日香は、思わず声を荒げて怒鳴った。
「せっ、先輩は、美咲さんが大麻のことを知ったら、陣内先生に代わって、問題を解決しようとすると、思わなかったんですか?」
「今考えると、軽はずみなことをしてしまったと、反省してるけど……」
「軽はずみじゃ、済まされないでしょう。先輩のひと言で、美咲さんは、陣内先生に代わって、ふたりも殺してしまったんですよ!」明日香は、目に涙を溜めて杉浦を
「……」
「なぜ、直接陣内先生に話さなかったんですか? 陣内先生に大麻をやめるようにいわなかったんですか?
直接陣内先生にいいづらかったら、警察に相談してさえすれば、真里菜さんも井坂君も死ななくて済んだはずです。それに、美咲さんも陣内先生も……。それを美咲さんに話したばかりに、こんなことになって……」明日香の憤りが頂点に達し、言葉が続かなくなった。
「すまない。本当にすまない。君に謝っても仕方ないけど……」
「ほんとにそうです。今さら謝ってもらっても、4人が生き返るわけじゃないですから」気をとり直した明日香は、杉浦を突き放すようにいった。
「でも、これだけは信じてほしい。僕は、美咲のことが好きだったんだ。あんな女たらしの陣内先生よりも、僕の方が美咲に相応しいと、それをいいたかっただけなんだ……」
もうこれ以上、明日香は、杉浦と話したくなかった。
理想の先輩、
姉の紀香がいった「恋愛と学校の成績とは、関係ないの」という言葉がふと頭に浮かんだ。本当なんだ。いくら成績が優秀でも、恋愛の本質を理解できない身勝手な人がいるんだと。怒りをとおりこし、恋愛の虚しさを感じていた。
気がつくと、杉浦は去り、その代わりに片瀬が目の前に立っていた。
昨日片瀬には、電話で杉浦に会うことを話していたが、まさかきてくれているとは、思ってもみなかった。
片瀬が、心配してこっそり陰で見護ってくれていたのだろう。
「やあ」片瀬が先に声をかけた。
「どうしたのよ、大きなバッグ持って。どこかに出かけるの?」涙を片瀬に見せたくない明日香は、掌で拭いながらとり
「これから実家に帰るんや。明日は元旦やから、せめて正月ぐらい、親に顔を見せようと思てなぁ」
「片瀬君の実家って、大阪だったわね」
「
「だんじりって、なんなの? お団子?」
「アホかぁ、お前は。だんじりも知らんのか。『だんじり祭り』や。別名『喧嘩祭り』っていうてなぁ、ごっつい迫力やで。いっぺん、見せてやりたいなぁ――」
片瀬は、だんじり祭りの素晴らしさを得意気に話し始めた。明日香は、適当に相槌を打ちながら聞いていたが、突然声をあげた。
「ねえ、片瀬君!」
「なんや急に。びっくりするやないか」
「ねぇ、片瀬君。あたしに惚れてる?」
「えっ……。おまえ、なに、いうてんねん?」
「あたしに惚れてるかどうか、聴いてるのよ」
「急に惚れてるって、聴かれてもな。嫌いやないけど……」
「それじゃダメなの。あたしに惚れてくれないと……」
「なんでや? 惚れた
「それをいうなら、『六法が恋人』でしょう」
「村木、お前、なんか変なもん
「なんでもないの。それより、どっち? 惚れてくれるの、くれないの?」
「惚れたいのは山々やけど、惚れたら、嫁はんになってくれるんか?」
「司法試験に合格したらね」
「そっちの方が難しいやないか」
真面目な顔で答えた片瀬を見て、明日香が吹き出して笑った。それを見ていた片瀬も声をあげて笑った。
「じゃあな。また来年、会おうや!」といって微笑んだ片瀬は、駅に向かって歩き出した。
(完)
六法が恋人 ますだかずき @kazukimasuda
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