その女性器は泣いていたか?
亜済公
その女性器は泣いていたか?
傾いた陽は眼球に似ている。僕をじっと見つめていた、熱っぽく、粘っこい、エリの眼球。もう、どこにもいない、僕の親友……。
橙赤色をした空に、宇宙ステーションの明かりがちらほら見える。まだ星々の輝き切らないこの時間なら、素人目にも区別できた。あれは火星、あれはステーション……。水彩画じみたちぎれ雲は、途方に暮れた迷い子のよう。ずっと視線を下ろしていくと、影絵のような高層ビルが、小さく、遠く、ひしめいている。ポツポツと、表面に窓の明かりが貼り付いていた。
そして……。
夕暮れの風景を、地上から天頂まで垂直に切り裂く、細く、白い、線がある。
遙か上空、高度四百キロまでまっすぐに伸びた一本の塔。
ガラス張りで、髪の毛よりも儚く見える、この町唯一の観光スポット。
一見して、宇宙エレベーターだと誰もが思う。けれど、違うのだ。残念なことに。あるいはこの街の住人にとっては、喜ばしいことかもしれないけれど。
――宇宙階段はこの先徒歩六十分。
夕暮れの町を歩いていると、こんな広告が時折不意に現れた。埃っぽい酒屋の軒先だとか、小便の染みをつけた電信柱の太股だとか……そういうところに、何気ない様子でたたずんでいる。
見かけるたび、僕は笑い出したくなるような、けれど同時に情けなくって泣き出したくなるような、妙な思いにとらわれた。だって、そうだろう? この街の観光名所だと、誰もが何かと口にする――確かに、「宇宙階段」なんて他ではそうそう聞かない――けれど、実際のところ、単に予算が足りなかったというだけの話だ。エレベーターを設置して、電気代を賄うだけのお金がなかった。だから、階段。宇宙階段。
あの塔は、つまるところ、この街最大の恥部なのだ。それをわかっていないのは、住人と、いくらかの純粋さをまだ失っていない子供ばかり。きっと観光客の誰もかれもが、心の底では嘲笑している。
この貧しい街を。
都会の進歩に取り残された、この田舎を。
僕の、故郷を。
立ち並ぶ家の大半は、住む者のないただの空箱。あちこちはげた瓦屋根、蔦とシミばかりのあせた外壁。風景の表面には錆と埃が貼り付いて、のっぺりとした印象を与えた。
人口は減る一方で、しおれた老人がへなへなと行きかうばかりである。彼らの姿は、どこかアスファルトを這いまわる小さなミミズによく似ていた。炎天下、ただ干からびるのを待っている……。
水分をすっかり失って、カラカラになったミミズのミイラを、いつか収集したことがあったっけ。机の上にどっさり積むと、微かに泥の臭いがした。
そう。
つまり。
「街は緩やかに死んでいく」
週に数度、ここへ帰ってくるたびに、僕は誰へともなくそう呟くのだ。
エリの――親友の、口癖を。
今でも、よく覚えている。彼女は、小さな女の子だった。もしも制服を着ていなかったら、自分と同じ学生だなんて、とても信じられなかったろう。銀色の髪も、華奢な手足も、両手で包みたくなる細い首も、何もかもが他の子より一回り小さくできていた。だからシャツの袖口を、いつも二、三度まくっていたっけ。そうしないと、すっぽり隠れてしまうのだ。あの小さな、陶器みたいな白い指が。
「街は緩やかに死んでいく」
エリはことあるごとにそういった。
「昨日よりも今日、今日よりも明日、この街はより死へ近づいているの。活気はなくなり、顔見知りはいなくなり、いつしか大都市の老廃物が、流れ着きたまるだけの場所になる。そうなれば、ここはもう、故郷ですらない! ――街が完全に死ぬ前に、辛うじて生きている『今この時』を、直に触っておかなくちゃ」
だから袖をまくるのよ――と、冗談めかして笑っていたっけ。
エリの言葉は、いつだって詩的だ。
僕はそんな彼女が好きだったし、多分彼女も、僕のことが好きだった。この絆は決して恋なんていうものでなく、むしろ恋などよりよほど深い友情なのだ、と僕は信じて疑わなかった。
だから、だろう。
最後に彼女は、鍵をくれた。赤い番号札をぶら下げた、金属製の小さな鍵を。
僕に。
僕、だけに。
空が、少し明度を落とす。
目的地を前にして、僕はほっと息をついた。
先週とも、先々週とも変わらない様子で、いつものコインロッカーが、そこにぽつねんと佇んでいる。ずらりと並んだ青い扉。表面の塗料は劣化して、ところどころに銀色の地肌を覗かせている。
ポケットから、鍵を出した。赤い番号札をぶら下げた、金属製の小さな鍵を。
カチン、と小気味よい音がして、ロッカーの扉が外へと開く。
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。
ふと。
僕の耳に、存在しない赤ん坊の泣き声が響いた。
※
エリから鍵をもらって以来、しばしば、幻聴を耳にした。甲高く、痛々しい、赤ん坊の泣き声だった。頭の中に、しつこく、粘っこく、響き続ける。何かを訴えることもなく、ただ、やむことなく泣き続けている。あるいは泣くことそれ自体が、何かの訴えなのかも知れないけれど。
僕はしばしば、そのことをなんとなしに打ち明けてみる。親だとか、友達だとか、あるいは会社の後輩だとかに。
「だからここに就職したって……先輩はそういうんですか?」
例えばアミは、呆れたように僕を見つめた。後ろで纏められた赤髪が、物いいたげにゆらりと揺れる。
「そんなの絶対、ダメですよ!」
「ダメ?」
「ダメです。だって、悪化する一方でしょう? ただでさえ、心を壊しやすい職場なんです」
昼にしては珍しく、社員食堂はすいている。ずらりと並ぶプラスティック製のテーブルは、半分以上が空だった。よく磨かれた天板が、鏡のように電灯の明かりを反射している。窓にひょいと視線を向ければ、剣山に似たビル群と、そして宇宙エレベーターの白い直線。
エレベーターだ。
階段じゃない。
つまるところ、ここは都会というわけである。
「でも、この仕事なら、あんまり気にならないんだよ。幻聴なのか、本当の赤ん坊の泣き声なのか、区別がつかなくなるからね……」
僕は味噌汁をすすりながら、アミに向かって笑いかける。目の前の座席に陣取った彼女は、どこか気に食わない様子でこちらをじっと睨んでいた。
「あのですね。私は先輩を心配してこそ……」
「わかったよ。わかったってば。でも、雇われちゃったものは仕方がないだろう。今更、やめるわけにもいかないんだし」
どうしたってこんなことを、わざわざ他人に話すのだろう。何の解決にもなりはしないし、精神病院へ閉じ込められる危険だって、全くないとはいい切れない。自分でも、心底不思議だ。案外僕は、臆病なのかも知れなかった。
「そんなことより、仕事だろ。また部長にどやされる」
味噌汁の椀を空にして、僕はさっさと立ち上がった。
「ね、アミ。今日の中絶は何件だっけ?」
高いお金をふんだくって、人間を作るのが、仕事だった。遺伝データから任意の要素を抽出し、知能を、見た目を、免疫機能を、「水準以上」に仕立て上げる。そうして設計された細胞は、分裂し、増殖し、水槽の中で赤ん坊へと変わるのである。出産のリスクなく、確実に「優秀な」子孫を残せる――それが会社の売り文句だった。
「三十七番は、真ん中のだけ残すみたいです」
僕の後ろで、アミはいう。
床も壁も天井も、ここでは何もかもが白かった。ドーム状の屋根の下で、僕らはぽつぽつ、足を進める。一メートルの間隔をあけ、ずらりと並んだ数百の水槽。小学生くらいの背丈をした、ガラス製の立方体。羊水がなみなみと注がれている。見下ろせば、鱗のような細かい光が、水面にチロチロ踊っていた。
白い。
何もかもが、白い。
室内の途方もない白さに囲まれ、僕の心は少しずつ無感動になっていく。あるいは無機質になっていく。漂白されていく。生命の神秘なんていうものが、まるでばかげたものに思われてくる。
三十七番の水槽を見た。出来損ないの赤ん坊が三つ、ふわふわと羊水の中を漂っている。大まかな手や、顔の形が、もうはっきりと見て取れた。
「真ん中だけ、か」
僕は水槽に両手を突っ込む。しつこいくらいに真っ青な、業務用のゴム手袋。それが羊水をざぶりとかき分け、赤ん坊を――肉塊を握った。ぬめりを伴う感触が、ゴムの向こうからしみ込んでくる。魚に似た生臭い空気が、鼻いっぱいに充満した。指先のひんやりとした柔らかさに、生きているモノの鼓動を感じる。無感動に、無機質に、「ああ、生きているんだ」と、そう思った。
ここで人間を作るとき。僕らは大抵、同じ遺伝子から三つの肉塊を育て上げる。同じ水槽で、同じ環境で、同じように。それでも人間というのは不思議なもので、十週間も経過すると、どこかしらにちょっとした個性が現れるのだ。指の長さ、足の太さ、瞳の色合い、唇の柔らかさ……。微妙な差異を計測し、最も「優れた」肉塊を残す。「優れていない」肉塊は、ある時期、中絶してしまう。殺してしまう。潰してしまう。
ぐぢゃり。
僕は握った肉塊を、両手で二つにねじ切った。命っていうのは、煮込んだ茄子みたいに柔らかい。あるいはひょっとすると、僕自身の生命だって。
「ね、アミ」
ふと、問いかける。
「この子は僕に、一体何を思うのかな」
アミは考えるような素振りを見せて、それから満足げに頷いた。
「先輩、そりゃ『感謝』ですよ」
「どうして?」
「だって、本人に聞きましたから。私って、霊感あるんで」
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ……。
遠く、赤ん坊の泣き声が聞こえる。それはいつもの幻聴なのか、あるいはどこかの水槽で、実際に赤ん坊をあげているのか。はたまた僕の手の中にある、ちぎれた肉が泣いているのかも分からない。
「赤ちゃんって、みんな夢を見てるんですよ」
アミは、いつものように話し始める。幾度となく聞かされた、本当か、嘘なのかもわからない話。重要なのは真偽ではなく、そう「思う」ことなんだろう――と、僕はなんとなしに直感していた。
「色んなものを殺す夢です。蟻を殺します。一匹一匹、親指でぐりぐり潰すんです。赤とんぼを殺します。捕まえて頭をちぎるんです。蛙だって殺します。溺れるまで池の中に沈めるんです……。そういう夢をずっと見てれば、誰だって嫌になるでしょう? 赤ちゃんだって同じことです。もう嫌だ、殺したくない、助けて、終わらせて、ボクをワタシを――『殺して』って。赤ちゃんの霊はいうんです」
手のひらに乗った肉塊を、足元のバケツに放り込む。べちゃり、と湿っぽい音がした。僕は再び水槽に向き合い、また両手を羊水へ――。
ふと。
ちょっとしたコトを考えた。
そして僕には、そういう思いつきを都度軽率に口にする、褒められない癖があったのだ。
「ね、アミ」
僕はいう。
「今度の休み、空いてたりする?」
※
「私が死んだら、君も一緒に死んでくれる?」
エリはいつかに、問いかけた。
「うん。死ぬよ」
僕は答える。軽率に、軽薄に、特に深い考えもなく。
彼女は救われたように、「よかったぁ」と微笑んだっけ。銀色の髪は、風になびいてさらりと揺れる。
あの日の僕らは今みたいに、故郷の街をぶらついていた。夕暮れの風景をあてもなく、ふらり、ふらりと歩き続けた。すれ違うのは老人ばかりで、杖を突いたり自転車を引いたり、車いすに乗ったりしている。失敗した折り紙みたいにしわだらけな顔をして、骨と皮ばかりの手足をふりふり、僕らの顔をじろりと睨んだ。この街において若者は、ただ若いというだけで、いうなれば異物なのだろう。
年老いた街で、孤独死は決して珍しくない。学校からの帰り道、漂ってくる夕飯の気配に、微かな死臭が交じっている――僕らにとっては、それがありきたりな日常だった。発生源の家を覗けば、腐敗した遺体が転がっている。またか、と一つため息をついて、いつものように警察を呼ぶのだ。
街を歩く。
ぽつり、ぽつりと足を進めた。
やがて、件の塔がその全貌をあらわにする。真っ白い、ガラス張りの、高度四百キロまで届く塔。
「これが?」
アミは目を輝かせて、僕を見た。
「うん。これが、宇宙階段」
階段は、だらだらとしつこく、いつまでも続いた。横幅はおよそ五メートルで、延々と、ただ螺旋に上り続ける。一段一段は緑色に塗装され、それがガラスの向こうから差す、夕日の朱と交わっていた。
「高校に、エリって名前の親友がいてさ」
背後から、アミの呼吸音がはっきり聞こえる。
ぜぇぜぇ、はぁはぁ。
ぜぇはぁ、ぜぇはぁ。
はぁぜぇ、はぁぜぇ。
はぁはぁ、ぜぇぜぇ。
「昼休みなんか、二人っきりでよく話してた。この街がやたら古臭いコトとか、老人ばっかりでうんざりだとか」
「そう……ですかね。良いところだと、思いますけど」
静かで、落ち着いていて……と、アミはありきたりな言葉を並べた。
「お世辞はいいよ。わかってるんだ。ここに住んでた僕自身、呆れてしまうくらいだもの」
大学生になってからも、彼女とは仲良くやっていた。直接会う機会は減ったけれど、メールのやり取りはそれなりにあった。曰く、彼氏ができたこと。曰く、数週間で別れたこと。僕と彼女は恋仲ではなかったし、恋愛感情よりよっぽど深い友情にあると、決して信じて疑わなかった。けれどもやっぱり、不思議な嫉妬心は芽生えるものだ。何となく、彼女との会話を苦痛に思う瞬間があった。
あるいは……。
あるいはもしかすると、順番は逆だったのかも分からない。僕は最初から恋をしていて、そしてその恋が実らないと直感し、「これは恋じゃない、友情なんだ」と自分に言い聞かせながら生きてきた――と。そんな馬鹿な。
「ねぇ先輩」
唐突にアミは語り始める。
「霊感があると、楽しいですよ」
「楽しい?」
「首吊り、溺死、出血死、圧死、衰弱死、はたまた脳死。死に方は色々なんです。ぶくぶくにむくんだ死にざまだったり、アジの開きみたいな死体だったり。そういうたくさんの霊を見るたび、自分は彼らと違うんだ――自分は今『生きているんだ』と実感できる。何気ないため息一つさえ……こうして階段を上る中で、荒くなっていく呼吸さえ、生の実感につながっていく。――先輩、知ってますか? 『息』は『生き』に通じるんです」
「そうかな」
「そうですよ」
「僕はだったら、むしろ自分はいつ死ぬんだろう……って、そんな風に思うけれど」
無数の亡霊が漂っている。色々な死が現実と二重写しになっている。道路脇には事故死した霊。プールの中には溺死した霊。自分がいつ彼らの仲間入りを果たしたところで、きっと不思議はないのだから。
「そうですか」
「そうだよ」
「先輩って、変わってますね」
階段は延々と螺旋を描き、この道程が無限に続いていくかのような、そんな錯覚をもたらしている。ガラス張りの外壁。差し込む夕日。日没へと近づいていく風景は、明度をほんのわずかに落としつつある。じりじりと、太陽は少しずつ動き続けた。
入社以来、「霊感あります」とアミは一貫して主張を続け、もう一年が経とうとしている。事実なのか、あるいは単なる妄想なのか。それはきっと本人にしか分からないし……場合によっては、本人にすら。たとえ妄想だったとして、別段、悪いコトじゃない。嘘と本当の区別なんて、まともな世の中でもなけりゃ機能しない。そして「まともな世の中」なんて、今まで一度だってあっただろうか? 第一、こんな職場である。霊感くらい持っていなきゃ、とうの昔に心を壊しているだろう。
「それで、いつ亡くなったんです?」
驚いた。
「驚くことはないでしょう。霊感美少女をプライベートで連れまわすのに、他に何があるんです?」
「それもそう……かな。うん。三年前だよ。三年前、彼女はここから飛び降りた」
「ここ?」
階段をぽくぽく上り続ける。昔と比べて、だいぶ体力が落ちたらしい。アミと一緒に上ったときは、この辺りまで一息だった気がするけれど。
「宇宙階段っていってもさ。ただひたすら宇宙まで、階段が一本あるわけじゃない。途中には――」
ほら、と前方を指し示す。
「一応、観光施設なんだ。展望台くらいはあるんだよ」
展望台。展望する台。あるいは展望される台。見渡し、そして広大な景色に見つめられるための台。思えば風景というやつは、どこか不思議な性質を持つ。山を眺める人間は、登山客全員を見つめる権利を持つ代わりに、登山客全員から見つめられる義務を負うのだ。世界には無数の眼球がある。人込みには人間の眼が、草原には昆虫の眼が、そして夕暮れには……。
傾いて、真っ赤に肥大したあの太陽は、エリの眼球によく似ている。
「世界にはね、二種類の人間しかいないんだ」
彼女は得意げにそういった。
「私が知ってる人間と、私が知らない人間の、二種類」
「それはまた……」
ずいぶんと自分勝手な話だね、と苦笑いする。
「本当にそうかな。『知ってる』って、すごく特別なことなんだよ。ただ名前を覚えてるだけじゃ、本当に『知った』ことにはならない。例えば――その人の『好きでも嫌いでもない』ものが、分かるってコトなんだ。ねぇ、」
私は君を知っているよ。
君は私を知っているの?
どうだろうね、と僕はごまかす。
その時の、眼。
あの、熱っぽくて、とろけそうで、ぎょろりとした、大きな眼。
銀色の髪を焼き尽くすような、太陽みたいに見開かれた、眼。
「宇宙階段の途中には、だいたい六〇〇メートルごとにこういう場所があるんだよ。塔の外側を、ぐるりと一周するような……そんな、ちょっとした展望台」
屋根も、望遠鏡も、装飾もない。申し訳程度に落下防止柵を取り付けただけ、無骨にせり出した「台」なのだけれど。
ガラス張りになった外壁の一部に、真っ白く四角い扉があった。切り抜きの隅には、小さい、銀色の取っ手がついて、こちらをじっと見つめている。両手でえい、と押し開いた。隙間から、ぷひゅう、と間の抜けた音がして、鋭い風が流れ込む。
「ね、アミ。エリは処女じゃなかったんだ」
「……はぁ。どうしたんですか、急に」
「エリは処女じゃなかったんだよ! びっくりだ。考えてみれば当たり前なのに、現実を突きつけられるまでちっとも思い至らなかった。僕はまるで彼女のことを、マリアか何かだと思っていたんだ。ちっとも、分かっちゃいなかった。何も『知って』はいなかった」
「……先輩。それはだいぶ気持ち悪いです」
外気が頬を撫でまわす。今日の風は湿っぽい。明日は雨になるのだろうか。
「結局のところ、エリはどこかの男に抱かれて、その精液を受け入れた。そして、子供を宿していたんだ。突然ここに呼び出されて、『この子のことをよろしく』って。さんざん身体を弄ばれて、挙句の果てに逃げられて……あんなにボロボロになるなんて、まるで想像できなかった。あのエリが! あのエリが! あんなに小さな赤ん坊をさ……」
展望台に飛び出すと、街はすでに暗かった。しっとりとした影に包まれ、色彩を失いつつある街並みと――対照的に、昼間の香りをまだ多く残した空と。赤、紫、青、紺……と、グラデーションを描く天は、どこか死を連想させた。何もかもが暗くなって、何もかもが静かになって、何もかもが死んでしまう。太陽は、ほとんど地平に引っ込んでいた。
「あの……先輩?」
「意味がわからないんだ」
僕の何を『知って』いたのか。なぜ、赤ん坊を遺したのか。エトセトラ、エトセトラ。
だから。
「だから、教えて欲しいんだ。あの日、僕を呼びだして……赤ん坊を無責任に押し付けて……嗤いながら飛び降りた……あいつの『本心』っていうやつを。もし、霊感があるんなら、さ」
――君には分かるんだろうか、って。
日が沈む。陽光は、やがて小さな光点となり、それすらプツリ、と途切れてしまう。空気はしっとりとした闇を帯びて、あらゆる物陰に黴を生やす。僕とアミとはただぽつねんと、それを上空から見下ろしていた。
エリに呼び出されたのは、今から三年前の夕暮れのこと。この展望台は、二人の思い出の場所だった。入道雲を眺めながら、一緒に弁当をぱくついたり。ぼんやり街を見下ろしながら、しりとりなんかに熱中したり……。別々の大学に入って以来、お互い疎遠になっていたから、僕はずいぶん楽しみにしたっけ。「久しぶり」と彼女はいった。「赤ちゃんできたの」と次いでいった。混乱する僕の両手に、小さな何かを握らせて……。
曰く、「この子のことをよろしくね」。
ひゅー。
ぐしゃり。
彼女はあっけなく柵を越えた。落下した。ぶつかった。頭を粉々に砕いて、死んだ。
僕は展望台から身を乗り出して、ミニチュアじみた家々の合間に、その姿を探そうとする。けれど、ないのだ。世界はあまりに広大で、一人の女の子の死体くらい、いくらだって隠してしまえる。飛散したエリの脳漿は、シミの一つにもなりはしない。
最後に見た彼女の顔は、どうしようもなく、嗤っていたっけ。
「感謝してますよ」
と、アミはいった。
「感謝?」
「そうです。エリさん、感謝してます。先輩、その人の遺した赤ちゃん、ちゃんと育ててあげたんでしょう? だから――」
「死んでたよ」
そう。
死んでいた。
彼女の宿した生命は、とうの昔に死んでいた。
「僕がもらったのは、鍵だったんだ。コインロッカーの、安っぽい鍵。中には遺体が入ってたよ。彼女の子供、多分死産だったんだな。……その日から、幻聴が聞こえるようになったってわけ」
沈黙が、周囲にじっとりと充満していた。星の瞬きと、宇宙ステーションの鋭い明かりが、一つ、また一つと増えていく。この時間なら、まだ素人目にも区別できた。アレは火星、アレはステーション……。
「嘘です」
アミは呟くように、口にした。
「本当は、私、霊感なんてないんですよ。信じてたんですか? ばっかみたい」
「……そうかな」
「そうですよ。ばかですよ」
僕は柵にもたれっかって、ひょい、と下へ目を向ける。ミニチュアじみた家並みと、葉脈に似た道路網。どっぷりと夜に沈んだ風景は、生気のない、ミミズのミイラを連想させた。……あのどこかの一点に、きっとエリは落ちたのだろう。
思えば、「飛び降り」というやつは、他の自殺のやり方に比べて、どこか特別な印象を与える。華麗で、儚く、幻想的だ。死ぬために行動を起こした地点と、実際に死んでしまう地点とが、あまりに乖離しているからか。首吊りも、服毒も、「実行」と「致死」とは、ほとんど同じ場所で起こる。けれど「飛び降り」となれば話は別だ。飛び降りることと、死ぬことは、繋がっているようで、その実まるでかけ離れている。
「私に霊感はありませんけど……でもエリさんが『感謝してる』と思った方が、先輩はきっと幸せですよ」
「幸せ?」
「そう、『幸せ』。――嫌なものは、見なければ良いんです。嫌なことは、考えなければ良いんです。何もかもとまともに向き合おうとしていたら、とても正気じゃいられませんよ。毎日のように赤ちゃんモドキを潰すのだって……死人のことを想うのだって……『感謝されてるんだ』なんて都合よく解釈しなければ、一体どうしてやってられます?」
そうかも知れない、と素直に感じる。
見ない、ということ。
考えない、ということ。
都合よく解釈する、ということ。
そしてそれを素直に肯定する、ということ。
「そんなものかな」
「そんなものです」
「そっか」
「そうです――って、」
アミは不意に空を見上げて、「先輩!」と声を上げた。
「……ああ、インドの」
空に、輝く光点がある。一つ、二つ、三つ、四つ……と、等間隔に並んだソレ。地平から次々姿を現し、天球いっぱいに広がっていく。流星群とは少し違った。インドの打ち上げた、ステーション群。街灯の多い都会では、ここまではっきりとは見られない。
「ほら、やっぱり良いところじゃないですか! お世辞じゃないです。ちゃんと、素敵な街でしょう。こんなに綺麗な、空なんですから!」
老人ばかりの干からびた街。
風に死臭の混じる街。
緩やかに死んでいく、僕の故郷――。
「この階段、もっと上まで行けるんですよね?」
アミは頬を上気させ、そんなことをいい始める。
「そりゃ、行けるけど」
「じゃ、行きましょう。宇宙まで! もっと近くで、見られるはずです!」
走り出したアミを追って、僕は階段を駆け上がる。
宇宙まで伸びる、宇宙階段。
高度四〇〇キロまでたどり着くことができたのかは――僕たちだけが、知っている。
アミの乗ったタクシーを見送り、僕は一人歩いていく。疲労した足を引きずりながら、年老いた街を進んでいった。
やがて、コインロッカーが視界に入る。ところどころ塗装が剥げて、銀色の下地が見えている。
エリに鍵を渡されて以来、数日おきにここを訪れ、そして料金を支払ってきた。彼女が僕に遺したモノに、ずっと固執し続けてきた。……あるいは、縛られてきた、ともいえるだろうけど。
ロッカーの扉が外へと開く。ふわり、と腐臭が鼻をつく。僕はエリの赤ん坊を……ビニール袋で包まれた、腐敗したその肉塊を、両手にそっと抱きしめる。
赤ん坊を外へ出すのは、実のところ初めてだった。こうしてみると、案外軽い。袋越しに、とろけた腐肉の感触が伝わる。体を少し動かすたびに、ビニール袋がぐしゃぐしゃ騒がしく音を立てた。赤ん坊の、泣き声みたいに。
僕は袋に鼻を近づけ、ふと、臭いをかいでみる。
「……くっさ」
臭かった。
当たり前だ。
抱きかかえたまま、しばらく街を散歩した。それから道端にあったゴミ箱へ、袋をひょい、と放り込む。トマトを潰すような音がして、腐臭が長く尾を引いた。
さようなら、エリ。
幻聴は、それっきり僕を悩まさなかった。赤ん坊は、死んだのだ。
※
真っ白い空間に、無数の水槽が整列していた。なみなみと羊水が注がれて、二、三の肉塊が漂っている。
「五十六番は右端だけ残すみたいです」
アミの声を聞きながら、僕は両手を羊水につける。赤ん坊のなり損ないを、握り、二つにねじ切った。
「この子、感謝してるかな」
僕が問うと、アミは笑う。
「してますよ! 私って、霊感あるんで」
案外、仕事は楽しかった。何しろ人間を作るのだ。この子供たちが成長し、「生きててよかった」と思えたのなら、これ以上なく報われるだろう。僕らは、そうなると妄信している。
「よし、どんどんちぎっていこう」
「良いですね、先輩。その意気です!」
もっともただ一つだけ、気がかりなことがあるとすれば。
すっきりしないわだかまりが、最後に一つだけ残るとすれば。
どこかの誰かに抱かれたエリ――彼女の女性器が、泣いていたかどうか、だろう。
その女性器は泣いていたか? 亜済公 @hiro1205
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