第6話

二人で翼の家へと向かう間、会話はなかった。いつもは翼が話し始めてくれるのだが、今日はとても静かだった。いつも元気で明るく、時にはうるさいとすら感じる翼が、こんなに静かだ。僕はそんな翼を見て、気を引き締めようと思った。

 そのまま無言の状態が続いているうちに、翼の家に着いた。翼の家は住宅街の中にある一軒家で、小さな庭と、太陽の日差しが窓から入ってくるとても心地のいい家だ。何度かお邪魔したことがあるが、家族もみんな明るくて、一緒にいるとこっちまで元気になるようなエネルギーを持ったご両親だ。翼もそんな両親の子供だけあって、いつもはとてもエネルギッシュだ。

「入ってくれ」

 翼が力のない声で言う。その声は今まで聞いたことないくらい暗く、重い。僕が家の中に入り「お邪魔します」という。家の中はとても静かだ。僕が前に来た時のエネルギッシュな雰囲気は、家の中のどこになかった。靴を脱いで、僕は翼について行った。翼は階段へと一直線に向かい、2階のある部屋へと向かっている。向かった先の部屋は、翼のではなかった。きっと、ご両親の部屋だろう。僕の中の悪い考えが、じわじわと浸透してきた。自分が朝から消そうとしても離れなかった予想が、だんだんと僕の頭の中を侵食していくようだ。

 翼がドアを開けて部屋の中へ入ると一人の女性が、ベッドの上で音を立てずに眠っていた。それは僕が最も見たくない光景だった。僕が朝から何度も否定しようとしていた光景が目の前にある。金縛りにあったかのように身動きをとらず、仰向けで天井をまっすぐ見つめるような姿勢で。彼女の眉間にしわを寄せて苦しんでいるような顔が、僕の思考を完全に止めた。

「母ちゃんが、起きないんだよ」

 溢れ出る感情を必死に抑え、搾り出すように翼は言った。

「朝からずっと。何度も起こしたんだ。親父と一緒に何度も揺すって起こしたんだ。それなのに全然起きないんだよ。」

 僕には何を言えばいいか分からなかった。簡単に同情することもできない。僕の両親はまだ病気に罹っていない。僕には肉親が死と隣り合わせの状態の人などいない。だから、彼に同情してはいけない。そんなものは、ただの冷やかしになってしまうから。

 じゃあ、何を言えばいい?励ませばいいのか。「きっと治るよ」なんて、薄い言葉は吐けない。励ましたところで、現実は変わってくれない。そんなことは、翼だって分かってるから。

「何か異変はあった?」

 僕にできたのは確認することだけだった。翼のお母さんが病気に罹る前、どんな状況だったのか、それを確認することしか思いつかなかった。もちろん、これが良い選択だったとは思えない。こんなにも、人の感情を無視した言葉はないのだから。

「何もねえよ。昨日はずっと元気だった。いつも通り元気だったんだよ!ほんとに、いつもみたいに………」

 翼は、感情を抑えきれなくなっていた。溢れ出た感情で、今にも崩れ落ちそうになっているのを必死に堪えていた。

「なあ、こんな急なのかよ!なんで俺なんだよ!なんで、なんで!昨日まで元気だったんだ!みんなでご飯を食べてたんだよ!くだらない話をしてたんだよ!なのに…なんでっ」

「病院にだって連絡したんだ!でももう、ベッドはいっぱいだって。今の病院の状態では対応できないって……」

 翼はついにベッドの前で崩れ落ちた。今日ずっと我慢していたのだろう。本当は学校なんて行きたくなかっただろう。ずっと母親の前にいたかっただろう。それでも学校に来た。家にいても何もできないことを分かっていたから。

 やっぱり、翼は強いんだ。

 これが原因不明の病気なんだ。今までは、自分に関係のないところで起きていた、恐ろしい病気だと思っていた。でも、今は目の前にある。これはフィクションなんかじゃないことをまざまざと見せつけてくる。なんの前触れもなく、僕たちを襲い続け、人の未来を無条件で奪う暴力。僕たち人間に一縷の望みも与えない悪魔の姿が、僕の目の前にいる。次は僕の番なのだろうか。それとも僕の知らない誰か?いずれにしても、この暴力が終わることはない。僕たちはただ、順番を待っているだけなのかもしれない。

 この状況を目の前にして、僕は友達にどんな言葉を言えばいいんだ。何も思いつかない。何も言っても、薄くて汚く、突き放したような言葉になってしまうような気がする。ただ、僕にできたのは目の前で崩れ落ちた翼と、戦い続ける翼の母親の姿を見つめることだけだった。

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おちて、きえる @fujimegumi

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