風変わりな籠城
待居 折
某月、某日
『はい、こちら現場の上空です。
たった今、犯人が自ら投降したとの情報が入ってきました、繰り返します、犯人が自ら投降した模様です。
誰もが知るあの大財閥の、しかも病床の会長を人質に取り、大邸宅を舞台に続いていた卑劣な犯行は、立てこもりから無事半日で終わりを迎えた様子です。
あ、ご覧ください!多くの警官に囲まれて、犯人と思われる男の姿が見えました、お分かりになりますでしょうか!今、逮捕された犯人が連行されようとしています!』
その報道の数日前。
商店街から少し歩いた角の立ち飲み屋で、俺は朝飯のおでんを頬張っていた。
飲み過ぎた翌日には迎え酒に限る。初冬の朝の空気に背中を丸め、グラスのビールを飲み干し、卵を箸で割っていた時。
「失礼」
俺の傍らにいつの間にか立っていたのは、今にも倒れてしまいそうな老人だった。限りなく痩せ細っていて、かけている眼鏡が大きく見える。
けれども、その土色の肌が着こなしているスーツ、コートの設えは、ひと目で誰でも分かるほど高級だった。
宝石がいくつも文字盤に刻まれた腕時計が、細い腕で重そうに輝く。革靴なんかに至ってはあまりに立派過ぎて、鉄板で焼いたら食えそうにさえ見えた。
つまり、どう見ても老人は商店街に不釣り合いだ。そして勿論、俺にそんな高貴な身分の知り合いはいない。
「…すいません。どちら様でしょう」
「牛すじ、大根、はんぺん、しらたき。この中で最初に卵を割ったのはなぜかな」
出会うなりおかしな事を訊いてきた。もっとも、俺の答えは決まっている。
「つゆが旨くなるからです。浸かってる他の具も」
「あまり見ない順序のような気がするが」
「そうでしょうね。俺も、自分以外でこの食べ方をするヤツに殆ど会った事がありません」
答えながら、半分になった卵を口に運んだ。その間、老人は何をするでもなく、ずっと俺を眺めている。
「…まだ何か?」
「仕事の依頼だよ。探偵なのだろう?三崎さんから聞いたよ」
「三崎さん…」
俺は思わず箸を止めてぽかんとした。
チラシを貼って貰ってる団子の三崎屋は、古くて小さくて…こう言っちゃ何だけれども、そこそこ小汚い。あんな店の不愛想な婆さんと、こんな見るからに金持ちの老人に何の接点があるんだろう。
「あぁ、失礼。私はこういう者だ」
差し出された名刺を見て、更に驚いた。この国を代表する大財閥グループの会長、とある。ますます訳が分からない。想像上の三崎の婆さんが、俺に向けて不敵に笑っている。
でも、そんな事なんかはどうでもいいぐらい、俺は浮足立っていた。ガス代、電気代、水道代に家賃。依頼内容にもよるが、今月もなんとか生き延びられる目途が立ちそうだ。
「…じゃあ、お話を伺います。とりあえず、これ食うまで待って下さい」
数日後。俺は会長の秘書から連絡を貰うと、指定された通り、会長の自宅へと足を運んだ。
ドラマや映画でしか見た事のない両開きの荘厳な門をくぐって、俺を拾ったリムジンは、森と見間違うほど広大な庭を、奥へ奥へと進んでいく。
普通に生きていたら絶対に関わる事のない世界に、俺は少し緊張していた。
「どうぞ、肩の力を抜いて下さい」
初老の秘書がバックミラー越しに目を細める。
立ち飲み屋で声をかけられた時にも、彼は背後に停めたリムジンの傍らで微動だにせず待っていた。物腰は柔らかく、表情はそれに輪をかけて優しい。
「…そうは言いますけども…なんて言いますか、」
ほらな、と俺は見えてきた豪邸に息を飲んだ。
「華麗なる」とか「御曹司」とか…貧弱な知識と語彙じゃたいしたイメージが出て来ないが、住む世界が違うというのは、きっとこういう事を言うのだろう。
それは、向こう側の人間にも同じ事だった。
喫茶やカフェ以外で初めて目にする正真正銘のメイドに、赤い絨毯の廊下を先導して貰いながら、踊り場の上、廊下の向こう、立派な柱の陰…そこかしこから、刺すような視線をひしひしと全身に感じていた。
彼らにとっては、俺のような一般人など、物珍しくてしょうがないのだろう。ましてや、それが会長の知り合いともなれば、尚更。
「お気になさらず。この屋敷には会長の一族殆どが暮らしております。住む人間が多ければ、視線も自ずと増えるというものです」
少し先を歩く秘書が小声で囁く。どうやら、フォローのつもりのようだ。うやうやしく頭を下げておく事にした。
ちょっとした散歩ぐらい歩かされた後、メイドはひと際豪勢な扉の前で止まった。ライオンを模したノッカーを鳴らすと、乾いた音が高い天井に響く。
「入ってもらいなさい」
扉と同様―いや、それ以上に、部屋は豪華な設えだった。
明らかに質の良い絨毯が敷き詰められ、部屋の隅には年代物のグランドピアノ。扉の両脇には西洋の鎧が立っている。
何枚もあるアーチ形の窓は大きく、上品に拵えられた庭が一望出来る。広さに至っては、少なく見積もっても俺の事務所の四倍はあった。
そんな贅の限りを尽くした部屋の奥で、いくつもの医療機器に全身を繋がれた会長は、ベッドの角度に任せ、上半身を起こしていた。俺を見ると、弱弱しく微笑む。
「約束どおり、来てくれたのだな」
「依頼ですからね」
返答しながら、俺は会長をまじまじと見た。
かさかさに渇いた肌、ひび割れた唇、今にも折れそうな腕。ほんの数日前に会った時よりも、更に不調そうに見える。
いや…不調というより、今にも命が尽きてしまいそうな。
「来ないかと思っていたよ、あの様子では」
会長なりの皮肉を黙って流した俺は、秘書の方を向く。
「…もうしばらく誰も来ないんですよね?」
「えぇ。医師団は隣の部屋に常駐していますが、手はず通り、会長には『少し外してくれ』と仰っていただいております」
「…分かりました」
俺は扉へと歩み寄り、内側から鍵をかけた。ガコン、と重い金属音がした。
念には念を入れて、永らく使われていなかっただろう錆びた閂も、力づくで無理矢理降ろした。
その間、窓の鎧戸が秘書の手で次々閉じられる。
「わしを、死ぬ時、独りにして欲しい」
立ち飲み屋での会長の依頼は、字面にするとシンプルで分かり易いものだった。
だが、俺は思わず腕を組んだ。なにしろ問題点が山積み…というか、考える限り、問題点しかない。
「…治療中なんですよね、病気の」
「うむ」
「医者はどうするんです。常に傍にいますよね、きっと」
「適当に言って部屋から出てもらう。どのみち、あれらがいてもいなくても、もう治る事などない」
「その後、俺に立てこもれ…って事ですか」
「そうだ。だが安心して欲しい、その後の君の生活に支障は出さん。約束する、悪いようにはせん。何なら一筆書いても構わんが」
「…面倒です、要りません。それより…騒ぎになれば、お住まいのご家族がほっとかないはずです」
「だろうな」
「どうするんです?」
「どうもせん。
会長は返答に一切詰まらない。もう何度も綿密に、自分の中でその日を繰り返している様に思えた。
「…なぜ、ですか」
単純に、理由が知りたかった。
「なぜ、か…」
初めて少しだけ口をつぐんだ会長は、やがて話し始めた。
「戦後間もなくの頃から、わしはただひたすら、がむしゃらに生きてきた。
およそ人には言えない所業で命を繋いだ事もあれば、酷い仕打ちに遭って泥水をすすった事もあった。蹴落とし、嵌められ、のたうち回りながら生きた。
そうして一代で財閥を築き上げ、そこからも止まらず、脇目も振らず、今日まで真摯にやり抜いてきた。頑として心を、生き方を、張り続けた」
会長はそこまで話すと、ふうと大きく息を付いた。
「…先日、病が見つかってな。進行が早く、もう永くはないと聞かされて、急にふっつりと糸が切れた気がした。それだけの事だ」
「それだけって…」
「君にはまだ分からんかもしれんな」
そう言った会長は、その日一番の笑顔を見せた。
「だが、今に分かる。死を目前にした、その時に」
ひと通りを聞かされた俺は、まだ迷っていた。
立てこもりの
いくら依頼されたとはいえ、金をもらって他人の生死に首を突っ込むなんて事が、まかり通っていいはずがない。
「…どうした、金が足りんならもう少し出すが」
会長の申し出はありがたいが、今、大事なのはそこじゃなかった。俺は口を開く。
「…ひとつだけ質問させて下さい。その答えで受けるか断るか、決めさせてもらいます」
「お父様!無事なのですか?!私の声が聞こえていらっしゃいます?!」
「親父!何かされてないか?!大丈夫か?!」
「もう少しの辛抱ですわお義父様、警察がこちらに向かっていますわよ!」
扉の向こうで、詰め寄った一族が声を荒らげて騒ぎ立てている。
「…ご家族、皆心配してますよ。いいんですか、本当に」
「騒がせておけ。あれらが心配しているのは、わしの金と権力だ」
会長に繋がれていたいくつもの医療機器は、秘書の手によって全て外されている。
「もうすぐ警察が来るそうです」
「…うむ、それまでには間に合う…恐らく」
消え入りそうな声で答えた会長は、震える細い手を伸ばすと、俺を手招きした。
「話し相手に…なってくれ」
言われるがまま、ベッドの傍に歩み寄った俺は、会長を見下ろす。正直、まだ息があるのが奇蹟に見えた。
「…どうぞ」
「あの時もしも、と考えた事はあるか?もしこうしていたら…もしこう言っていたら、と」
「そりゃ…あります」
「わしには、その『もしも』がずっとなかった。…というより、思いを馳せる暇がなかった。…いや、これも言い訳か…もしもなどとは、思いたくなかった」
乾いた唇から、漏れるように言葉が紡がれる。
「…昔、将来を誓った相手がいた。わしよりひと回りも若かった。若く、賢く、美しく、そして繊細だった。驚くほどに」
部屋の外は変わらず騒がしいはずだったが、会長のか細い声は不思議と耳に入ってくる。
「ある日、些細な事から言い争いになった。わしは…昂った感情を何も考えず、彼女にぶつけた。
その事がきっかけで二人の交際は終わり、それから…数日経たないうちに彼女は死んだ」
もう死を待つだけの老人の眼に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「わしは後悔した。
その後悔を心の奥底にしまって…見えないふりをして、仕事に転嫁して自分を騙して、…遮二無二働いた。
今のわしが世間的に成功しているのは、他でもない…彼女のお陰でもある」
会長の呼吸が不規則になる。
今わの際を迎えようとしているからなのか、それとも、慟哭するという事を思い出したからなのか。俺には、分からなかった。
「死ぬ事が分かって気持ちが切れた時、真っ先に思ったのは…彼女の事だった。
心の傷は、時間と共にいつか癒える。
だが…後悔は違った。隅にいつも巣食っていて、隙あらば浸食してくる。
もしもあの時、あんな事を言わなければ…いや、それよりもっと前、もしも将来を誓わなければ、彼女は苦しまずに済んだ…考え出せばきりがない。
それでも、目を向けずにはいられなかった。長いわしの人生の…あの頃こそが、一番輝いていた時なのだから」
今の家族を愛していない…とか、これまでの人生に疑問を感じている…とか、きっと、そういう類の話じゃない。
ただ、死を前に、会長という肩書を降ろし、人間としてたった独りになった時、
ずっと手懐けながら避けてきた後悔という感情と、
終りこそ辛かったが幸せだった恋人との思い出に、
やっと向き合う事が出来たんだと思えた。
「…少し、語り過ぎたな」
会長は静かに目を閉じた。皺だらけの皮膚に、ひと筋の涙が線を引いた。
そのままゆっくりと長く息を吐いて、吸う事はもうなかった。
「わがままにお付き合いいただき、ありがとうございました…喜んでいたと思います」
深々と頭を垂れる秘書にどう言えば良いか分からなかった俺は、扉に向かうと、返事の代わりに閂を上げ、鍵を開けた。
数日後。
いつもと同じように、俺は立ち飲み屋で、朝からビールとおでんを
あの後すぐ自首の形で捕まった俺は、二日間留置場でぼーっとさせられた後、不起訴ですぐに釈放された。後日知ったが、逮捕された犯人―つまり俺に関する報道も、全くなかった。
財閥が裏から手を回して報道規制でも敷いたのだろうか。家族がそんな事をするとは思えないし、ここまでが会長の計画だとするなら、見事な去り際というほかない。
いそいそと卵を箸で割り、黄身をつゆに溶いている時、ふと思い出した。
「…ひとつだけ質問させて下さい。その答えで受けるか断るか、決めさせてもらいます」
「なんだね」
「探偵なんて、どこの誰でも良いはずです。なぜ俺なんですか」
「探し出して初めに見つけたのが君だったからだ。…それと」
会長は、真面目な顔をしておでんの器を指さす。
「おでんのその食べ方の旨さを知っているなら、わしのやりたい事もいずれ理解してくれるに違いないと思ってな」
「何言ってんだか」
狭い丸テーブルの上に置いた、ビールがなみなみと注がれたコップ。
そのコップに、俺は手にしていた飲みかけのコップをカチンと合わせた。
「お疲れ様でした」
風変わりな籠城 待居 折 @mazzan
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