後編
あれから1週間ほど経っただろうか。
天狗はまるで出ていく様子を見せない俺を手厚くもてなしてくれ、食べられる草や山菜、植物の名前などを教えてくれたりした。
今日の夜も天狗と星を眺めていると、天狗がぽつりとつぶやいた。
「そろそろ、お前さんも元の世界に還らなきゃいけないな」
サッと、顔から血の気が引く。その言葉は、俺にとっては死刑宣告に等しいものだった。
「い、いやです!」
ここでは納期も面倒な上下関係もない。必死に働いても叱責される毎日に、また戻らなくてはならないのか?
考えただけで涙が出てくる。こんな天国のようなところで過ごしてしまったら、もうあの日々に耐えられる気はしない。もともと耐えられなくなって飛び込んだのに、いっとき助けてその後は捨ててしまうのか。
「お前さんは、どうして海に飛び込もうとしたんだ?」
天狗は俺の声に何か答えるでもなく、ただ静かに問うた。
どうして飛び込もうとしたか。死にたいばかりであまり理由は考えてこなかったから、何がいちばんの理由か聞かれると答えづらい。……けれど、引き金になった出来事なら言える。
「上司に、死ねと言われたんです」
「……それは、苦しいな。何があろうと、生きる者としてそんなことを言ってはいけない」
天狗の言葉に、少しだけ暗い感情が薄まった。天狗は俺の話を聞いてくれる。そう思うとふと安心して、言葉を続けた。
「俺、広告代理店で働いているんです。いいところの美術大学を出て、やっとのことで就職できたところで。……入社3年目で夢に描いたような大きなプロジェクトに携わらせてもらったんですけど」
そこで、言葉に詰まった。過去の惨状がフラッシュバックする。先輩の冷たい視線、怒り狂う先方の責任者、同僚の憐憫の視線。
「すごいポカをやらかしてしまったんです。納期を間違えてしまって、何もできてない状態の制作物を上げなきゃいけなくなって……。きっと俺はもう、デザイナーとして生きていくことができません。ずっとなりたくて、憧れて、努力して手に入れた職だったのに……っ!」
途切れ途切れに掠れた声で喋る俺の背を、天狗はぽんぽんと軽く、温かい手のひらでさすってくれる。人間なんかよりよっぽど温もりのある手じゃないか、余計涙が溢れた。
「現代は比較的容易に職業を変えることができると聞いたが、お前さんは違うのか?」
「丸2年は勤めていますし、きっとどこかは拾ってくれると思います」
なら、と天狗が言い出したところで、俺は「でも」と続けた。
「デザイナーとしては無理そうです。怒らせた相手が大物なので、口コミが広がっているかもしれません。それに、上司が言った言葉ももっともだと思うんです。……『会社員の自覚がないなら、とっとと辞めちまえ』って声が、ずっと俺のなかに残ってて」
デザイナーはクリエイティブな職業ではあるが、芸術家ではなくサラリーマンだ。大方は広告や商品パッケージなど、一般社会に溶け込むようなものを作っている。特に俺がやっていることなんかマーケティングの一種なのだ。
顧客の広報方針やブランド像をじっくり聞き出した上で読解し、営業部やその他部署と条件をすり合わせ、ようやくデザインに本腰を入れることができる。
しかしそれを嫌って独立しようとしても、大した実績もない若造にデザインの依頼をする人なんてほとんどいないし、いても詐欺師だ。自由気ままな働きかたなんか、大物じゃないとできやしない。大物だとしても頻繁に納期に遅れていれば、すぐに仕事は絶たれる。
いいデザインをする人なんて、掃いて捨てるほどいるのだから。
だからデザイナーのほとんどは会社に入る。そうなれば当然、一般的な会社員に要求されるようなことは大抵要求される。納期に間に合わせ、先方の要件やクオリティを満たしてこそ、俺たちはようやく給料をもらえるラインに到達するのだ。
それなのに、いちばん大事な『納期』を俺は破ってしまった。
「俺はデザイナーとして生きる価値なんてないんです。でも俺にはデザインすることしかできなくて、だから俺に生きている価値もないんです……っ!」
言わなくてもいい事情もつらつらと並べ、絞り出した言葉が『生きている価値もない』。笑ってしまうくらい自己中心的な俺の独白を、しかし天狗はじっくりと受け止めてくれた。
「会社員のことは、儂にはよくわからない。……けれど、美しいものを作る人ならわかる」
一瞬の静寂ののち、天狗は言葉を丁寧に紡ぎ出す。
月明かりに天狗の赤い肌が照らされる。ふと、この天狗をテーマにポスターを作ってみたらどのようにするだろう、と考えた。
「この海を、綺麗だと思える人だ」
天狗の言葉に、もう一度海を見てみる。
街頭も何もない、星と月だけが水面を照らす海。気まぐれに揺らめく海は、この世のものとは思えないくらい美しかった。
「お前さん、ここに来た次の日の朝言っただろう。『海が綺麗だから戻りたくない』というようなことを」
「……ああ、たしかに言いましたね」
言動の記憶自体はあやふやだったものの、海の綺麗さに感動したことは覚えている。ならば、きっと言ったのだろう。
「その心があるなら、お前さんはきっといいものを作れるはずだよ。……ここに留まっておくべきじゃない」
天狗は俺に向き合って、芯のある優しい声で言った。
──やれる、かもしれない。
ふつふつと、熱い感情が湧いてくる。眼前に広がる海と天狗は、目も眩むような美しさを誇っていた。
「戻ります、俺。会社は辞めるかもしれませんが、デザイナーとして生きていけるよう頑張ります」
俺の宣言に、天狗は安心したように表情を綻ばせた。いかつい般若のような顔が、親しみのある顔へ変化する。
「応援してるよ。……行き詰まったら、あの海岸で座っとれ。そのときはまた神隠ししてやるよ」
天狗の柔らかい声色に、俺は「そのときはよろしくお願いします」と笑って会釈した。
満月が、天狗の高く赤い鼻に光を与えていた。
優しい天狗の神隠し 夏希纏 @Dreams_punish_me
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