優しい天狗の神隠し

夏希纏

前編

 行き場をなくした人間は、自然と死を選ぶらしい。


 過労でクタクタになった身体に鞭を打って、有名な自殺スポットである海岸へ歩き出す。もう波の音はうるさいほど聞こえていて、潮風が俺の自殺を後押しするように吹いていた。


『どうか、来世は幸せなものでありますように』


 祈って、海岸の向こうへ飛び出した。だんだん海面が近づいてくる。一瞬が数分にも感じられた。


 すっと目を閉じると──ふわり、と身体が浮いたような感覚を覚える。飛び降りはこんな感じがするのか、不思議だな。


 しかしいくら待てど、風はそのまま吹いていたし、身体はまったく痛くならなかった。水に濡れた感じもしない。


 妙だなと思い目を開けると、俺は空を飛んでいた。飛び込むつもりだった海は遠く下のほうにあり、身体は冷たい風に包まれている。


 なぜか腹を誰かに掴まれているようだった。天国はこうやって行くものなのだろうか。いやそれにしても、服が濡れていないのはおかしい。


 一体俺は何に掴まれているんだと見上げれば、幼いころ絵本で見たような天狗がいた。


 月明かりに照らされた般若のような顔、赤い顔、空を飛ぶ翼、何よりも長い鼻。


 いよいよストレスで幻覚でも見ているのかと目をこすってみても、その天狗は消えてくれなかった。俺がいまこうやって空を飛んでいるのが、実際に天狗がいることの証明になるか。


 動揺していると、天狗が「もうちょっとで儂の神社に着く。そうしたら降ろしてやるから、じたばたせずに待っとれ」と渋い声でささやいてきた。ギリギリ聞き取れるくらいの低い声だったが、なぜか優しさを感じる声色でもあった。怒鳴ってばかりの上司とは大違いで、涙が込み上げてくる。


 天狗が言っていた通り、程なくして孤島にある寂れた神社に到着した。


「そのときになったらまた本土まで送ってやるから、それまでは大人しく神隠しされててくれ」


 神社は寂れていたものの、なかなか立派な造りだった。祭壇へ続く階段に腰掛けると、天狗が奥から果物を持ってきながらそう言ってくる。


「……神隠し、されてるんですか。俺」

「そうだ。もうここに参拝する人なんていないから、そこの海岸で身投げする人間を助けてるんだよ。その人間を現世で生きられるような状態にしたら戻す。それが儂に残った存在意義だ」


 天狗は俺の問いに答え、あの海岸の方角を見やる。憂いを帯びた目だったが、俺に天狗を慮るような気力は残されていなかった。


「……俺、もうあそこに戻りたくないんです。頑張っても叱責される毎日なんです。元気になったら、戻らなくちゃいけないんですか」


 たとえ地獄に堕ちても後悔しないという決意を持って、俺は海岸に身投げした。『助けてる』だなんておこがましいと、思ってしまう。


 不安で声が震える。そんな俺に、天狗は相変わらず優しい声色で「そう言っているうちは戻らなくていいさ」と呟いた。


「さ、もう今日は寝るといい」


 天狗がそう言った瞬間に、俺の意識は途切れた。


   ◆


 目が覚めると、和風建築の天井が見えた。


 どうしてだ。疑問を持つと同時に、前日夜の記憶が蘇ってきた。そうだ、ここは孤島だ。到底出勤なんてできっこない。


 職場に電話しなくてはとスマホを探すが、そういえば休憩を装って定期以外の所持品を会社に置いてきたまま抜け出し、そのまま海岸に直行したか。諦めて外に出ると、日本にこんな光景があったのかと驚いてしまうほど美しい、エメラルドグリーンの海が広がっていた。


 昨日の夜は特に周りを見ることもしていなかったから、気づかなかったのか。しばらく絶景に見惚れていると、天狗が「起きたか!」と言ってこちらに駆け寄ってきた。


 昨日の夜も見たのだが、やはり太陽が昇ってから見ると鮮烈だ。まさに『真っ赤』と表現すべき肌色。見慣れるものではないだろう。


「神隠し中は、人間でも神と同じような存在になるからな。別に食事を摂る必要はないが、何も口に入れないのは寂しいだろう。桃を採ってきたから、食べるといい」


 天狗は手によく熟れた桃をふたつ持っていて、ひとつを俺に差し出した。素直に受け取るが、このまま食べるわけにはいかないだろう。


 どうするのだろうと桃を持て余す俺とは対照的に、天狗は皮がついたままかじり出す。


「えっ、皮は剥かないんですか」

「皮と実の間がいちばん美味いんだ。試しに食べてみるといい」


 驚きながら聞いた俺を、天狗は鷹揚に受け止めた。そういえば天狗はあの海岸から身投げした人を助けているんだった。当然このような場面には何度も出くわしたのだろう。


 天狗も食べてるし、とひとくち齧ってみる。すると自然な甘さと瑞々しさが口の中を満たした。そこでようやく、俺は最近謝罪巡りとミスの後始末でカップ麺しか食べていなかったことを思い出す。


 もうひとくち、もっと。貪欲に食べ進めていると、すぐに桃はなくなった。桃とはいえ、食べ物を完食するのも久しぶりのことだった。


 食べなくても健康は維持されるはずなのに、なぜだが元気が湧いてきた。口に残る甘さの残滓を味わっていると、天狗が表情を綻ばせて「美味かったか」と聞いてきた。相変わらず顔は般若のようにいかついのに、どこか柔らかく見えるのが不思議である。


「はい、とても美味しかったです。この島で採れるんですか?」

「ああ。かつて豊作にしてほしいと願った農家がここにいたんだ。……今は願いの結果しか残っていないがな」


 この島は無人島なのだろう、人はいなさそうだった。今日は会社に行かなくて済むからか、桃を食べたからか、喋る気力が湧いてくる。


「天狗さんはここに人がいてほしいと思うんですか?」


 どこか寂しそうな声色が気になって、聞いてみる。以前問われたことがあったのだろうか、天狗はすぐに「いや」と答えた。


「本土のほうが何倍も豊かに幸せに暮らせる。わざわざここに住む必要はないだろう」

「……俺でよかったら、いつまでもここに住みますけど。海は綺麗だし、桃は美味いし、天狗さんはいい妖怪ですし」

「いつまでも神隠しされてると、本当に神になっちまうよ」


 俺の言葉に、天狗はおかしそうに笑う。


「まあ、しばらくはゆっくりするといいさ。本土ではもう自然の風景なんて見られないんだろう。ここは自然しかない、存分に楽しめ」

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