終ノ弦 祈り

 そして、これは、誰も知らぬことじゃが。




「なむかんぜおんぼさつ。ありがてぇ」

 おゆきは、少し背の伸びた与一よいちと川の向こうを見ていた。


 剃髪ていはつした若い僧が、下男と共に川縁かわべりにいた。

 その時、下男が、ざんぶりと川に入って来た。

 よい勢いで、こちらに渡ってくる。



 日焼けした、その顔はまちがいない。

 水を滴らせながら、簗瀬やなせは河原に上がって来た。



「お変わりないか、おゆきさま」

「あい。簗瀬やなせさまは、お坊さまにならなかったのか?」

「思うこと、ありまして」

与一よいち、(さま)」

 簗瀬やなせは、『さま』を声に出さず言った。


伝甫でんぽさまと話し合うたのです」

 伝甫でんぽというのが、あの若い僧の名らしい。


われ与一よいち、の父で」

 不自然な簗瀬やなせはとった。

「おゆきさまが与一よいち、の母になってみぬかと」


「……」


「おゆきぃ」

 あんまりな沈黙に、与一よいちが、おゆきのたもとを持って揺らした。


「……われは、あまり頭がよくないようで、おっしゃることが、よく?」

 眉間にしわを寄せたおゆきに、与一よいちが叫んだ。

「いっしょに暮らそうと言うとる!」

 

 簗瀬やなせの顔が、みるみる赤く染まっていった。

 ぽんと、おゆきは手を打った。

「そうかっ。追っ手の目をあざむくために、家族の振りをして村に隠れ住むわけじゃっ」


「……」

 簗瀬やなせと与一のが長かったのは、仕方ない。


「それでは、帰ろうよぅ」

 おゆきと簗瀬やなせの真ん中で、与一よいちはそれぞれの手を取った。


 たぶん、鈍いおゆきにも、そのうちわかるだろう。

 あちらの岸では、ゆうるりと若い僧が手を振っていた。




 昔、昔のお話しじゃ。








 了

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月と逃げる ミコト楚良 @mm_sora_mm

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ