第3話
その後、俺は急いで仕事を終わらせると、彼女の屋敷へ向かった。
急いだとはいえ、夜になってしまったので馬を急がせる。
夜道は昨日の雲が嘘のように、十六夜の月が明るい。
彼女の屋敷につけば、連絡をしていなかったため慌てたように支度がされ、いつもの部屋に通された。
「お待たせして申し訳ありません、康秀様。急なお越しでびっくりいたしましたわ。いらっしゃるなら、今朝の文にでも書いてくださればもっと色々と準備ができましたのに」
月明かりの届かない位置から、御簾越しに彼女が言った。
「申し訳ない、文を出した後に思い立ったものだから。どうしても、昨夜のことを君に謝りたくて」
「謝る? 何を、ですか?」
心の底から不思議そうに、菊の君が言った。
「君を、小町の代わりにしてしまったことを」
御簾の奥の彼女をまっすぐに見据えて、告げる。
「別に、構いませんのに。私は『出来損ない』なんです。だから、これくらいしか、康秀様を引きとめる方法を思いつかなくって……なので、康秀様が謝ることは何一つないんですよ」
明るい声に自嘲が含まれている。
「『出来損ない』って」
ひどく自虐的な言い方に聞き返せば、ふっと笑みが漏れる息遣いが聞こえる。
「昔から、小町お姉さまの血縁で声も良く似てるから、きっと美しくなるだろうと色々手をかけて育てられたんです、私。でも、全然ダメで。見た目だって十人並み。和歌だって、模範的だけどただそれだけのもので、機知にとんだ技巧や人の心を揺さぶるような情感もない。大きくなるにつれ周りから影で『出来損ない』『なり損ない』って言われてるのを聞いてきたんです。実際、今まで言い寄ってきた殿方も、私の顔を見てがっかりして、一度顔を見たら二度とは来て下さらなかったんです。だから、自分でも身の程は分かっているんですよ」
『声小町』は、最近の出来事だけじゃないのか。
ずっと前から、彼女は小町の影に苦しんできたのか。
それなのに、それを当たり前のように、何でもないことのように言ってしまう彼女が、悲しい。
「いや、例え君がそう思っていたとしても、俺は、謝りたいんだ。身代わりなど、君にとっては一番辛い選択だろう? 君に、そんな思いをしてほしくない。本当に、すまなかった」
正直な気持ちを述べて頭を下げれば、御簾の裏で菊の君が身じろぐ。
かすかな衣擦れの音に、意を決して顔をあげた。
「菊の君。俺は、そこまでして俺の心を繋ぎとめようとしてくれた君の想いが……その、ええと……愛しいん、だ」
意を決したはずなのに、言葉に詰まる。
言葉が段々小さくなる。だめだ、こっぱずかしい。
「康秀様……うれしい」
ぽつりと零したような、感極まった震える声が聞えてきた。
「ずっと、ずっと、お慕いしておりました……うれしいです、ほんとに、ほんとうに……」
すすり泣くその声の、本当に嬉しそうな響きに、すぐにでもこの腕で抱きしめて慰めたいと思う。
「菊の君、御簾を上げても?」
「そ、それは駄目です!」
許可を取ろうと声をかければ、慌てて御簾の端を押さえられた。
「どうして」
「だって、こんなに月が明るいんですもの、顔が見えてしまいます……きっと、がっかりされますわ」
弱々しい声に、どうしたものかと頭を掻く。
こんなにも根深い問題なのか。
「菊の君、俺はあなたの心映えに恋したんだ。今更、顔がどうこうで幻滅したりはしないよ」
「でも……やはり、自信がなくて……」
できるだけ優しく言うが、菊の君は御簾から手を離す気配はない。
こうなったら、仕方ないか。
「……在原業平殿が」
「え?」
俺が、かの有名人の名前を出せば、菊の君は戸惑ったように聞き返した。
「宮中一の色好みである在原業平殿が、先日、君を垣間見したそうだ」
「ええっ!?」
心底驚いて声を上げる。どうやら彼女の方も気づいていなかったらしい。
「彼は、『普通に可愛いお嬢さんだったよ』と、それはそれはいい笑顔で俺に言ってきたんだ、忌々しいことに」
本音が漏れれば、混乱していたらしい彼女もくすりと笑う。
「仲がよろしいんですのね」
「いいんだか、悪いんだか、って感じだがね……。さて、女を五万と見てきたあの業平殿が、君を可愛いと称したんだ。もっと自信を持ってもいいんじゃ、ないかな」
本当は、こんな言い方はしたくない。したくもないのだが。
顔を見たこともない俺が彼女に自信を持たせる方法は、このくらいしか思いつかなかった。
「そうですか、業平様が……」
ほうっと溜め息をついて彼女が言う。
まずい、これは業平殿に惚れてしまうやつではなかろうか。
「分かりました、それなら、お見せしますが……あの、あまり、期待なさらないでくださいね? 業平様が気を使ってくださったとも考えられますから……」
業平殿に惚れた訳ではないらしいということに一安心したが、そこまで自信がないのか。
「分かりました。じゃあ、開けますよ」
御簾を端からそっと丸めて上げていく。
最上部まで上げて、金具につったところで、彼女が月明かりの下に顔を出した。
小町ほどではないにしろ、確かに可愛らしい人だ。
優しげな少し下がった眦、ぷっくりとした桃の花のように愛らしい唇、柔らかそうな頬。
黒々とした髪はどこまでもまっすぐで、彼女の白い肌を引き立てる。
そんな彼女が、恥ずかしげな俯き加減の上目遣いで、俺を見上げていた。
俺はそのいじらしい仕草に心を鷲掴みにされ、思わずじっと見入ってしまう。
「あ、あの、康秀様? やっぱり、がっかりなさいました?」
俺が固まっているものだから、涙目で彼女が聞いてきた。
「あ、いや、違う! 全然違う! あまりにも可愛らしくて見入っていたんだ!」
慌てて言えば、彼女は目を丸くしてから顔を真っ赤にする。
「う、嘘です……だって、小町お姉様を見たことがあるのに、私なんかに見入るなんて……正直に言ってください。無理、なさらなくていいんですよ……」
恥ずかしそうに俯いて、菊の君は続けた。
後半になるにつれ、泣きそうな声になる。
いてもたってもいられず、俺は彼女を抱きしめた。
「や、康秀、様?」
「俺は、冗談は言うけれど、そう簡単に嘘をつける男じゃない。特に、好きな人には嘘がつけないの、知っているでしょう」
急な抱擁に戸惑う彼女に、自虐まじりで語りかける。
「それは……私のことを、『好きな人』だと思っていらっしゃると解釈して、よろしくて?」
口ごもりながら菊の君が問いかけた。
恥ずかしいのか耳が赤い。
そっとすがるように俺の直衣へ手を添えてくる。
「好意を伝えるのに、つい冗談まじりで遠回しにしてしまうのも、知っているはずだ」
あまりに可愛いので少し意地悪く言えば、菊の君はぐりぐりと額を俺の胸に押しつけてきた。
「逃げ道を用意して、はっきりとは言ってくださいませんの? やっぱり、私では駄目ですか?」
しょんぼりとした声に、これは意地悪しすぎたかと内心少し慌てる。
「そんなことはない! あまりにいじらしいから、つい意地悪をしたくなってしまって」
「じゃあ、はっきり言ってくださいます?」
うるんだ瞳に見つめられ、どきりと心臓が跳ねる。
昔『技巧で固めず溢れる情感をそのままに詠めばいいのに』と冷やかしてきたのは、業平殿だったか。
「菊の君――いや、菊子」
彼女の名前を呼んで、その目をまっすぐに見つめる。
顔色をうかがう上官もいない。ウケを狙う必要もない。
技巧を凝らす必要は、どこにも、ない。
それなら。
「俺は、君の想いを受け止めたい。小町の代わりではなく、君自身を、愛したい。例え君が君自身を『出来損ない』だと思っていたとしても、俺は君を君として愛するから。だから、そんな悲しいことを自分で言わないでくれ。君の健気さが、愛しくて、たまらないんだ」
溢れる思いをそのまま言葉にするが、言いながら、恥ずかしくなってきた。
やはり慣れないことをするものではない。
きっと今、俺の顔は真っ赤になっていることだろう。
それでも構いやしなかった。
彼女に気持ちが伝われば、それでいい。
「康秀様……ありがとう、ございます……! こんなに、こんなにうれしいことって、ないです……大好き」
菊子は大粒の涙をこぼしながらも微笑んで言った。
「俺も、大好きだ」
そう言って、親指で涙を優しく拭ってやる。
そのまま頬に手を添え、こちらを向かせると、そっと口づけた。
柔らかな感触に我を忘れそうになるのをぐっとこらえ、触れるだけに留めてゆっくりと顔を離せば、うっとりとした表情の菊子の顔が間近にあって。
努力の甲斐虚しく、理性の糸がぷつんと千切れる。
「菊子、すまない」
「え、きゃっ」
そのまま抱き上げて、奥に見えていた御帳台へと運んだ。
「や、康秀様!?」
驚きながらも身体の均衡を保つため俺の肩にしがみつくのを、また可愛らしく感じる。
「君が一々可愛いから、我慢が出来なくなってしまってね。昨日のこともあるし、嫌だったら言っておくれよ」
彼女をそっと横たえて、覆いかぶさる。
「嫌だなんて……! そんなこと、ありません」
はっきりと言われたその言葉に、安心する。
「そう。じゃあ、遠慮なく」
茶化したように言ってしまうのは、照れ隠しだ。
聡い彼女には、きっとそれが分かっているのだろう。仕方なさそうに苦笑している。
反論が来る前に、俺は彼女の唇を塞いでしまうことにした。
――目が覚めると、夜が明けつつある頃だった。
辺りがほんのりと明るい。
隣には、無防備な寝顔の菊子がこちらを向いて眠っている。
薄明かりの中で見ても、その容姿に落胆することはなかった。
寧ろ、いっそう愛しさが増す。
そっとその頬を撫でたところで、菊子が目を開けた。
「やすひで、さま……?」
「すまない、起こしてしまったか?」
寝ぼけ眼と少し舌足らずな喋り方を微笑ましく思いながら、謝る。
「構いません。こうして、康秀様の優しい表情が見られたから」
柔らかく微笑む彼女につられて、こちらもつい笑顔になった。
「俺も君の寝顔が見られて良かった。昨日は身支度済ませた後だったから」
「だって、がっかりされたくなくって。こんなふうに康秀様から愛されるなんて、思ってもみませんでしたわ」
嬉しそうに言ってすり寄ってくる彼女を抱き寄せる。
「菊子」
「なあに、康秀様?」
俺のことを信頼しきった眼差しを向ける澄んだ目を真っ直ぐ見つめて、息を吸い込んだ。
「縁談を、進めさせてくれないか」
「っ、はい!」
丸く目を見開いた彼女は、すぐに嬉しそうに目を細めて頷く。
今日はきちんと後朝の文を送ろうと、心に決めた。
雲間の月と知りぬれば 佐倉島こみかん @sanagi_iganas
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