第2話

 すっかり秋の涼しさが辺りを包み、鈴虫や蟋蟀がわびしく鳴く夜のこと。

「せっかく今日は中秋の名月だというのに、曇って見えないとは残念だな」

「ええ。一筋くらい光が見えたら、まだ風情があるのですが。こうも何も見えないと興ざめですわ」

 御簾のすぐ近くで杯を傾けながら言えば、御簾の向こう、少し離れたところで菊の君が同調した。

「それを、君が言うのかい?」

「え?」

 苦笑して言えば、戸惑ったような声が聞こえる。

「御簾の向こうに顔を隠して見せてくれない菊の君のようではないか」

 苦笑しながら言ったら、急に返事が途絶える。

「菊の君?」

「……いやだわ、康秀様ったら。一筋の光の代わりにこうして声をお聞かせしているでしょう? これはこれで風情があるのではなくて?」

 不思議に思って声をかければ、慌てたように明るい声で返事があった。

「雲間の光からでは、それが満月だか半月だかも分からないじゃないか。満月は、やはりその姿を目にしたいものだろう」

 顔を見たいと幾分か率直に申し出てみたが、さて、どう出るか。

「もしも……だったら……」

「え?」

 震える声で返事があって、よく聞きとれず聞き返す。

「満月だと思っていたものが、もしも半月だったり三日月だったりしたら、どうしますの?」

 さっきの震える声が嘘のように、はっきりした声で彼女は尋ねてきた。

「つまり、どういうことだい?」

 その意味を測りかね、俺は彼女に聞き返す。

「だって、康秀様がお好きなのは小町お姉様でしょう? 私に会いに来てくださるのは、この声がお姉様そっくりだからだわ。違います?」

 笑みを含んだ酷く優しい声で、彼女は俺の心を、抉った。

「そんな、ことは……」

 否定の言葉を吐くも、冷や汗が出る。

 見透かされていた。一体、いつから?

「嘘。私、本当は最初から気づいていたんです。康秀様からお姉様への歌や文も見せてもらっていましたから。冗談めかして『今度の私の任国をご視察においでになりませんか』とお誘いになっていた小町お姉様へのお手紙ですが、本当は『一緒にならないか』というお申し出のつもりだったのでしょう?」

 くすくすと笑う彼女の声がいつもと違う色をしている。

 その申し出に対して『わびぬれば 身を浮草の 根を絶えて 誘う水あらば いなむとぞ思ふ』と、小町は返歌したのに。

「でも小町お姉様は、貴方と共に三河に行くことはなかった」

 彼女の突き付ける事実に胸の奥の古傷が痛む。

 そう、つまり、俺は小町にはバッサリ振られているわけだ。

 小さく息を吹く音がして、彼女は御簾の内の火を消した。

 部屋が一気に暗くなる。

「康秀様、別に私、そのことで貴方を責めるつもりはないんですよ」

 何も言えず混乱する俺に対して、彼女は御簾越しに俺の背へ寄り掛かって言う。

 御簾越しに伝わる暖かな体温と確かな感触。焚きしめた香の匂い。

 すぐ耳元で、小町と同じ声がする。

 聞いたこともない程、甘ったるい声が。

「菊の、君……?」

 俺は動けない。

 彼女を愛称で呼ぶのは、小町と錯覚しないため、理性を保つための最後の抵抗だ。

「ねえ、康秀様? 小野小町を抱いてみたいとは、思いませんか?」

 誘惑の声に、心臓が跳ねた。

「何を、言って」

「雲間の光だけなら、それが例え三日月でも、満月だと信じることが叶いましてよ」

 小町と同じ声が、耳元で囁く。御簾の下から這い出た手が、俺の手を艶めかしく撫でる。


「康秀様、今日は冷えるわ。どうか、温めてくださらない?」


 小町そのものの声で、話し方で、言い回しで、息遣いで、囁かれ――箍が、外れた。

 後ろ手に御簾を跳ね上げ、振り向きざまに彼女を抱きすくめ、押し倒す。

 手探りで顔に触れ、唇を貪った。

「ん、ぅ……はっ、やす、ひで、さまぁ……」

 唇を離せば、ねだるような甘い声が鼓膜を震わせ、頭の中がどろどろに溶かされていく。

 もう一度口吸いしながら、帯をほどき、衿を開いた。

 そのまま柔らかな裸身に触れれば、甘い声が上がる。

 その一声ごとに理性が溶けていく。

「っ、小町……っ!」

 頭の中で、あの絶世の美女が俺の手で身体を跳ねさせる様子が浮かぶ。

 あるのは、陶酔と背徳と快楽だけ。

 それさえも、劣情と熱情に混じり合って一つになる。

 気づけば、その夜、俺は彼女に三度欲を吐き出し、意識を飛ばすように眠っていた。



「……さま、康秀様、起きて下さい」

「ん、うぅ……ん?」

 柔らかな声と肩を優しく揺すぶられる感覚に目を覚ませば、しっかり身支度をし、扇で顔を隠した菊の君の姿があった。

 ぼんやりとした頭で辺りを見渡せば、まだ部屋は薄暗く、夜は明けていない。

「ああ、今、起き……っ!?」

 身体を起こし、意識がはっきりして戦慄した。

 俺は昨夜、なんということを。

「おはようございます、康秀さ」

「すまない、菊の君!」

 菊の君が言いきる前に土下座して謝った。

「や、康秀様?」

 戸惑ったように菊の君が声をかける。

「すまない、小町の身代わりにするなど、俺は君に、なんと酷いことを……!」

 それが女性にとってどれほど残酷なことか分からない程、落ちぶれてもいない。

「そんな、謝らないでください! そうさせたのは、私なんですから」

 俺以上に戸惑ったような声で、菊の君が言った。

「だが……っ」

「ほら、私の顔が見えないうちに帰られませんと、せっかく小町お姉様を抱いた気持ちが水の泡ですよ」

 何でもないことのように冗談めかした口調で言うものだから、拍子抜けしてしまった。

「さあ、支度なさって。すぐに侍女を呼びますわ」

 ひどく穏やかに言って立ち上がり、部屋を出るものだから、俺はぽかんとして付いていけない。

 どうして、彼女はあれ程、冷静なのだろうか。

 確かに申し出てきたのは彼女だが、それにしたって、さめざめと泣かれて恨み言の一つを言われたとしても仕方ないことをしてしまったのに。

 ぼんやりと考えているうちに、菊の君と入れ替わるように侍女がやって来て着替えさせられ、あっけなく部屋を追い出される。

 そして帰り際、やはり御簾越しの菊の君が、いつものように『またいらしてくださいね』と声をかけてきた。

 結局、最後まで彼女の顔は見られないままだった。


 その後俺は一度、家に帰ってから仕事に出た。

 帰る途中、抱いた事情が事情だけに後朝の文を出すべきかどうか迷い、一応、どうとでも取れるような文を出しておいた。

 こういう場合、どうすればいいのやら。

 しかし、仕事をしていても、昨夜と今朝の菊の君の行動が気になっていまいち集中できない。

 彼女は何故あのような誘い方をしたのだろう。

 何故あれ程までに冷静だったのだろう。

 若い子に弄ばれてしまったのでは、という気持ちさえしてくる。

 いくら考えても答えが出ない。

「はあ……」

「おや、溜め息なんてついて、どうしたんだ康秀? ただでさえシケた面が余計に惨めなことになってるじゃないか」

 無駄に華やかな声と人の神経を故意に逆なでする言い回しに振り向けば、案の定そこには宮中一の色好みと呼ばれる、歌仲間の在原業平ありわらのなりひら殿の姿があった。

「業平殿ですか。人が悩んでいる様をからかうのはさぞや楽しいことでしょうなあ」

「なんだ、えらく投げやりだな」

「今は貴殿の相手をする余裕はないんですよ、ほっといてください。というか仕事は?」

 面倒だと思いつつも、つい返事をしてしまう。

「非番だ、非番。君が縁談を進めているという話を聞いたから、面白そうだと思って様子を見に来たんだ」

 にやにや笑いながら言う様に、更に溜め息が出そうになる。

「相変わらずいい性格をしていらっしゃいますなあ」

 恨みがましく言えば、彼はその端正な目を細め、見定めるような顔をする。

「その様子じゃあ上手くいっていないか、あるいは……小町が忘れられないか、かな」

「……っ」

 言い当てられて思わず言葉に詰まる。

「なんだ、図星か! 分かりやすいな、君は。あれだけ手酷く振られておきながら、まだ小町が忘れられないとは! 本当に未練がましい奴だ」

 くつくつと笑いながら言う彼に軽く殺意を覚えた。

「忘れられないというか、忘れさせてくれないんですよ! 声がそっくりで、顔を見せてくれないから、頭の中で小町で再現されてしまうんです! 仕方ないでしょう!」

 思わず叫んで言い返せば、業平殿はぴたりと笑うのを止め、俺の方を見た。

「なんだ、縁談相手って声小町なのか」

「声小町? なんですか、それ」

 意外そうに言われた聞き慣れない言葉に首を傾げる。

「君が三河に行ってる間に、小野小町に声がそっくりの遠縁の娘がいると、宮中で少し話題になったらしい」

「どうしてそんな話をご存じなんですか? あなたからしたら、かなり下級の貴族の娘でしょう」

 業平殿の口ぶりに驚いて尋ねた。

「都で話題の女性のことで、私に知らないことがあると思うか?」

「聞いた俺が馬鹿でしたよ……」

 無駄にきらきらした笑顔で返され、げんなりして答える。

 きっと、彼の元にはそういう情報が入りやすいのだろう。

「それだけ声が似ているのなら、きっとさぞや小町のように美しいに違いないと思って訪ねるが、顔を見るとそうでもないと幻滅される――可哀想な姫君だよ」

 業平殿の言葉に、はっと昨日の菊の君の言葉が思い出される。


『満月だと思っていたものが、もしも半月だったり三日月だったりしたら、どうしますの?』


 彼女の言葉は、それを意味していたのか。

「実際そこまで顔は悪くないんだがね。なにせ皆、絶世の美女を期待しているものだから、期待はずれだと感じるんだろう。それで、声小町は醜女しこめだと噂が広まって、結婚相手が見つからなくなってしまったとか。彼女の家は家柄もそう良くないしね。馬鹿な奴らの噂に流されて、可哀想なことだよ、ほんとに」

 憂いを帯びた目で業平殿は語る……というか。

「なんだか、見てきたような言い回しですね?」

 驚いて聞けば、目の前の色男はニヤリと笑った。

「ああ、噂が気になってちょっと垣間見にね。小町には及ばないが、普通に可愛いお嬢さんだったよ」

 ついでに、はっはっは、と笑って励ますように俺の背中を叩いてきた。

「俺もまだ顔を見てないのに、貴方って人は……!」

 その仕草と、彼は彼女の顔を見たという事実に苛立って返事すれば、彼は生温かい笑みを浮かべて今度は俺の肩に手を置いた。

「ふむ、嫉妬するということは、少なからず彼女を好いているんだな。もし何か悩んでいるなら、相談に乗ってやろう。私ほど女心を知り尽くしている人間もいまい。そうだろう?」

 完全に上から目線で腹が立つが、確かにこの男程、女心に詳しい知り合いもいない。

 矜持と昨日のもやもやを天秤に掛け、悩んだ結果。

 俺は昨日と今朝の出来事を、洗いざらいこの色男に話すことにしたのである。

「――ふむ、最低だな、君は」

「開口一番それですか」

 全てを話した後、自分でも思っていたことをばっさり指摘され、涙目になりつつ答えた。

「それで乗せられるって馬鹿か。しかも、最中に『小町』と呼んでいるし。あーあ、彼女の心がどれほど傷ついたか」

 本当にこの男は傷口に塩を塗り込むようなことを平然と、いや、寧ろ大仰に言ってくる。

「そもそも何故、菊の君がそんな誘い方をしてきたか、俺にはさっぱり分からないんですよ。若い子に遊ばれたんですかね?」

「君は本当に馬鹿だ。女心というものが全く分かっていない」

 正直なところを聞けば、またしてもばっさりいかれた。

「では、業平殿は彼女の気持ちが分かるとでも言うんですか?」

「ああ、分かるとも。少なくとも彼女の覚悟を遊びと勘違いする程、勘の鈍い男じゃない」

 やけくそになって尋ねれば、些か怒ったような真剣さをもった声ではっきりと言われ、言葉に詰まる。

「覚悟……?」

 訳が分からなくて聞き返せば、彼は眉間にしわを寄せて盛大なため息をついた。

「いいか? まず、どうして彼女が今朝そこまで冷静だったかを、彼女の発言から考えろ」

「どうして冷静だったか、から?」

「そうだ。菊の君は『私がそうさせたんですから』と言ったんだろ? つまり、冷静だったのは、そうなることが初めから狙いだったからだ」

 業平殿の言葉に余計訳が分からなくなる。

「そうなることって、小町の身代わりに抱かれることが、ですか?」

「それ以外、何がある」

「いや、でも、なんでそんな……身代わりなんて、辛いだけでしょう」

 俺の問いかけに、やれやれと言いたげに業平殿は肩をすくめた。

「だから、彼女に覚悟があったと言っているんだ。そうまでしてでも、お前のものになりたかった。その気持ちの強さの表れだ」

「だから、なんでそんな風に! 普通に顔を見せて、菊の君としてではダメなんですか?」

 話の流れが見えず、苛々して聞けば、業平殿はまだ分からないのかというような顔をする。

「君、彼女が声小町と呼ばれ嫌な噂を流されているのを忘れたか。彼女、君に幻滅されたくなかったんだろうよ」

 そこまで聞いて、ようやくピンとくる。

「何せ君は、小町の顔を見たことがある上、小町に惚れている。幻滅の度合いが普通の貴公子の比ではないと、菊の君が考えてもおかしくない」

「確かに……」

 頭の中では常に、彼女の姿を小町で想像していた。

 もし何も知らず普通に顔を見ていたら、あからさまにがっかりしていたかもしれない。

「彼女は内心、顔を見たいと言われて焦っただろうよ。それで君の心が離れて行ってはどうしようもないからな。だから、彼女は顔を見せず小町の振りで君を煽った。小町の代わりでもいい、それでも君の心を繋ぎとめたいという彼女の覚悟が何故分からない」

 呆れと苛立ちを足して二で割った表情で業平殿は続けた。

「そう、だったのか……」

 確かにそれなら辻褄が合う。思いもよらない彼女の考えに愕然とした。

 そこまでの思いを、遊ばれたのかと思っただなんて、自分の考えの浅さに頭が痛くなる。

 業平殿の言う通り、本当に最低だ。

「まあ、女性経験の少ない君には難しい女心の機微だったな。問題は、それを知って君がどうするかだ」

 蒼い顔で茫然としている俺を慰めるように、業平殿が声を掛けてくる。

「今の話を聞いても、菊の君を利用した小町との疑似恋愛を断ち切れないなら、もう彼女と会わない方がいい。彼女の想いの一途さと強さに打たれたなら、考えを改めて彼女に向き合うのがいい。彼女の思いに気づいてもなお、小町の身代わりにするのだけは、絶対にやめろ。一番、酷な選択だ」

 業平殿の淡々とした忠告が胸に沁みた。

 どうしたいかなど、とうに決まっている。

「……きちんと、菊の君に向き合いたいと、思います」

 振り絞るようにして、宣言した。

 一番辛いだろう選択をしてもなお、俺を繋ぎとめたいと思う強さと一途さが。

 嫌な噂に傷つきながら、俺を幻滅させたくないと願う弱さと必死さが。

 そこまで俺を愛してくれている菊の君が、こんなにも、愛しい。

「そうか、よかった。これで小町への未練をとるようだったら、二、三発、君の顔を殴らなければならないところだった」

「顔ですか!?」

 爽やかな笑顔を浮かべながら物騒なことを言う友人に聞き返した。

「もちろん顔だ。大体、菊の君の想いを考えると、それくらいしないと釣り合いが取れないだろう。それに君の顔は元がアレだからさして変わらんさ」

「元の顔のことはともかく、菊の君の想いのことはまあ……確かに」

 真顔で言うものだから、俺も神妙な顔をして頷いた。

「まあ、君も覚悟が出来たようならそれでいいさ。仕事が終わったらすぐ彼女の元に寄るといい」

「はい、そうさせてもらいます」

 助言へ素直に首を縦に振ると、彼は存外満足そうな顔をした。

「まあ、せいぜい頑張れ。私がこれだけ懇切丁寧に助言してやったんだから、ヘマするじゃないぞ」

 俺の肩をぽんとたたくと、業平殿はひらひらと手を振ってその場を離れていった。

 あの男に借りを作ってしまったことは少し腹立たしいが、大いに助かったのも事実だ。

 上手くいったら何かお礼をしようと、心の片隅に留めておくことにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る