雲間の月と知りぬれば

佐倉島こみかん

第1話

 彼女と初めて言葉を交わしたのは、まだ紅葉が青々とした夏の終わりだった。

 彼女の家は下流貴族と聞いていたが、かつて参議の小野篁おののたかむらを出した名門・小野家の遠縁というだけのことはあって、やしきは小さいながら、調度も庭も品よく整えられ、落ち着いた風情がある。

 三河掾みかわのじょうの任を終え都に戻ってきたところとはいえ、今は刑部省ぎょうぶしょうの中判事とパッとしない身分の役人である自分に降って湧いた縁談としては、良すぎる程だ。

 そんなことを考えながら、通された部屋で出された梨を齧りながら庭を眺めていた。

 聞いた話ではどうにも訳ありの姫君のため結婚相手が見つからず、ほとほと困った父親の方から、我が家に話を持ってきたらしい。

 歌の才だけでどうにかここまで出世しただけで、本来なら地方官すら任されることもなかったであろう家柄の貧乏な我が家は、訳ありの『訳』について詳しい話を聞きもせず、二つ返事でこの縁談を引き受けた。

『訳あり? 別にいいじゃないか、醜女だろうと、性悪だろうと、冬場の炭にも困るよりはマシだろう。大体、お前だって相手を選べる顔でもないじゃないか。いいかい、くれぐれもお相手の機嫌を損ねないようにするんだよ』

 というのは、容赦ない母の言葉である。

 俺もそろそろいい歳かつ、父が亡くなって母と多くの兄弟の面倒を見なければならない立場にあるので、良家との縁談を断る理由もない。

 そういうわけで、こうして姫君に会いに来ているのである。

 しばらくして御簾の向こうで衣擦れの音がし、俺は梨を平らげてから懐紙で口元を拭った。

 どうやら、縁談相手の姫君がやって来たようだ。

「お待たせいたしました」

 その声を聞き、ハッとして勢いよく振り返る。

 柔らかく澄んでいながら芯のある美しい声は、かつて恋焦がれた忘れ得ぬ女性と全く同じと言っていいほどよく似ていた。

 ああ、なるほど、小野家の遠縁だから――と、腑に落ちる。

「はじめまして、文屋康秀ふんやのやすひで様。菊子と申します。小町お姉様から、お噂はかねがね伺っております」

 彼女の口から、まさにその恋焦がれた人の名前が出て来て、皮肉な事態に自嘲がこぼれた。

 歌才に優れた絶世の美女――小野小町おののこまち

 それが、分不相応にも俺がかつて恋した女性の名である。

「ああ、はじめまして。一体、どのようなことをお聞きになっていたのか……気恥ずかしいな。小野家の遠縁だと伺っておりましたが、小町様とも親交がおありですか」

 驚きを隠すように苦笑しながら尋ねれば、ふっと柔らかい笑みがこぼれる息遣いが聞こえた。

「ええ。小町お姉様からは、康秀様は素晴らしい技巧の歌を書かれる、機転に富んだとても楽しい方だと伺っております。私は、小町お姉様に昔から歌を習っていましたの。その時に、康秀様の和歌も見せて頂いたことがありましてよ」

 確か俺より一回り下だと聞いた御簾の向こうの姫君――菊子様は楽しそうに弾んだ声で答えた。

 声は同じだが、話し方は小町よりも幾分か無邪気で、ようやく別人だと認識できる。

 そういえば仄かに漂ってくる香の匂いも、小町のものより控えめだ。

 小町はもっと華やかな香りを好んで纏っていた。

「ああ、そうだったのですね。いやあ、あの和歌の名手、小野小町様に歌を教えてもらえたとは羨ましい。私の和歌など霞んで見えたでしょう」

 俺は笑いながら言った。

 歌の才で出世したとはいえ、俺の歌は駄洒落のようなものや、上官の顔色を伺いつつ自虐的な笑いを取って飲みの席で場を盛り上げるようなものの傾向が強いので、情感豊かな恋の歌を得意とする小町と比べると、見劣りすることは想像に難くない。

 歌仲間である宮中一の色男、在原業平ありわらのなりひら殿から『溢れる情感をそのまま詠めばいいのに』と冷やかされたこともあるが、こっぱずかしくて柄ではない。

 私の言葉を聞いた彼女は可笑しそうに笑う。

「とんでもない! お姉様のものとは作風が全然違って、とても勉強になりました。でも、ふふ、康秀様、小町お姉様から聞いていた通りの方だわ」

 嬉しくてたまらない、とでもいうような喜びに満ちた声で、彼女は言った。

「聞いていた通り、と言うと」

「ちょっと自虐的なくらい控えめな方だと。でも、それを冗談で濁す明るさのある方だとも伺っております」

 小町がそんな風に俺を評していたとはと、苦笑が漏れる。

「私、小町お姉様からお話を聞いていて、ずっと、康秀様にお会いしてみたかったんです」

 恥じらいと憧れを含んだ声で、御簾の向こうの彼女は言った。

 小町と同じ声で、小町からは向けられることのなかった感情を含んだ言葉を掛けられて、勝手に胸が高鳴った。

 彼女は小町とは別人だと分かっているが、御簾越しだと錯覚してしまいそうだ。

「いやはや……若いお嬢さんからそう言われると、お世辞でも嬉しいですね」

 俺はそんな錯覚を振り払うように、頭を掻きながら答えた。

「お世辞ではありませんわ! 飾らない性格の明るくて楽しい方で、歌の才で出世されたにも関わらず、お仕事でも誠実な働きぶりだと伺っています。とっても、素敵な方だと思いましたの」

 必死な様子で説明する駆け引きなどまるで知らない率直な言葉に、面食らってしまう。

「いやあ、さすがに若い方は真っ直ぐですねえ。苦労ですれっからした身からすると、眩しくて目がくらんでしまいそうだ」

 そんな動揺を悟られまいと、冗談めかして笑いながら言えば、彼女は御簾の向こうで身じろぎした。

「あっ、やだ、申し訳ございません! 私ったら、なんてこと言って……」

 自分の発言の内容に気づいたらしく、恥ずかしさで消え入りそうな声で謝ってきた。

「いや、とんでもない。何せ私は、この地位ですし、見目だってそう良い方ではないですから、女性の方からそのように熱烈なお言葉をかけて頂いたのは初めてです。光栄ですよ」

 その初々しく愛らしい様子に思わず口元が緩む。

 小町だとこうはいかないだろうと分かっていつつも、小町と同じ声で言われれば、小町の恥じらう様子を頭に思い浮かべてしまった。

「うぅ……申し訳ございません。ありがとうございます」

 こちらの言葉に幾分か安心したように答えた彼女は、ほっと息を吐いた。

「どの殿方からも結婚を断られ続けている娘との縁談を持って来られて、さぞ不本意でしょうに、こうして会ってくださるだけでなく、そんな素振りもなくお話ししてくださって……康秀様は、とても、お優しいですね」

 自虐を含んだ安堵の言葉に、ハッと胸を突かれる思いがする。

「菊子様。私は、ご事情のことは詳しく知りませんが、この縁談を不本意とは思っておりませんよ」

 俺は、なるべく優しく声を掛けた。

「本当、ですか?」

 御簾の向こうから、信じられないと言いたげな声で聞き返される。

「はい、本当です。少しお話しただけでも、とても素直で可愛らしい性格のお嬢さんだと分かりましたし、私には出来すぎた縁談ですよ。むしろ、こんな歳の離れた卑官との縁談など、貴女の方が嫌がっておいでかと思っておりましたので、私も安心しました」

 冗談めかして言えば、彼女は小さく笑った。

「嫌がるなんて、とんでもないです」

「それは何よりです。なんだか、仲良くなれそうですね」

「はい!」

 俺が言えば明るい声が返って来たので、目を細めた。

「しかし、貴女の方も急な縁談で戸惑っておいででしょう。縁談を進めるにしても、もう少しお互いのことを知ってからにしましょう」

 俺が言えば、息を飲む音が聞こえた。

「そう、ですね……そういえば、三河に行かれて、道中、歌枕の地も沢山見ていらっしゃったのでしょう? 是非お話を聞かせていただきたいわ」

 些か落胆した声で同意した彼女は、それを掻き消すように明るい調子で尋ねてきた。

「ええ、そんなことでよければ、いくらでも」

 俺は笑って答え、その日は三河の話や歌の話をして、夕方には帰宅した。



 そうして、俺は彼女の元へ通うようになった。

 彼女は、俺と感性が似ていた。

 彼女は俺のシャレにもよく笑い、楽しそうに俺の話を聞いてくれる。

 歌の話もよくしたが、聡明な彼女と話しているのは楽しかった。

 そうするうちに大分打ち解け、『菊子様と呼ばれるのは気が引けます』と言うので、『菊の君』と愛称で呼ぶようになり、砕けた口調で話すようにもなった。

 そして何より、彼女の声が小町に似ているのが、通う理由としては大きい。

 小町とそっくりな声が俺のことを呼び、俺を褒め、俺を慕ってくる。

 それがたまらなく幸せだった。

 相手は小町ではないと分かっていても、小町が自分を慕ってくれたらこうなっていたのだろうかという甘い想像が胸をよぎり、それだけで胸が弾む。

 それが彼女に対してひどく不誠実なことだとは分かっていても、その考えを止めることはできなかった。

 しかしながら、二月ふたつき経っても、まだ一度も彼女と一夜を共にしたことはなかった。

 昼に訪れたら日暮れには、夜に訪れれば夜が更ける前には、必ず『今日はもう遅いですから、この辺りで』と、彼女が話を切りあげ、帰り支度をすすめる。

 だから、まだ一度も彼女の顔を見たことはない。

 それとなくその事をほのめかしてみても、するりと躱されるか、はぐらかされるかで、理由を教えてくれなかった。

 俺のことを慕ってくれているのは伝わってくるのだが、何か心の内に一線を引いているような気もする。

 無邪気なようで、よく分からない娘だった。

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