悪戯なアポトーシス

枕露亜

短編:悪戯なアポトーシス

「私を君の運命にさせてもらったよ」




―――――


 目を覚ます。そして、ここが夢であることを悟った。

 嘘みたいに、感覚はリアリティに溢れ、情報量は五感を刺激するけれど。


「あ」


 僕の声はこんなものだったっけ。そんな記憶の曖昧さが、夢の中の出来事である今を感じさせてくれる。

 ベッドから立ち上がって、自分の部屋を出る――その前に、スマホのバイブレーション音が耳に入った。

 机の上。そういえば、スマホをもたずに部屋を出るなんて。手に取り、電源を点ける。


『私、わかる? きっと、わかるけれど』


 ラインのメッセージ。

 あれ、と何かが脳裡を掠める。

 誰か、わからない。ゆるい獏のキャラクターが雲を食べているアイコンの横に、表示される名前はない。システム的にはあるはずだけれど。

 でも、たしかに彼女だ、と。

 特定の、「あの人だ」という意識だけがあった。


「誰だっけ」


 声に出しても、頭の中の空白は埋められず、回路は繋がらなかった。

 メッセージをタップしても、表示されるトーク画面はその履歴一つで、彼女からの問いかけの意味はわからなかった。




 いつの間にか、食卓についていた。目の前では制服姿の妹が朝食を摂っている。

 パープルのマニキュアがちらちらと妙に目についた。


「どうしたの?」


 妹は目を合わせず、食パンをほおばる。僕はいや、と曖昧な言葉で返事を濁す。擦れた声は妹に届かなかったのか、それ以降、会話はなかった。

 まあ、そもそも現実そんな距離感だったけど。

 僕も目の前のベーコンエッグを前に、フォークを握る。

 半熟の黄身が薄皮いちまいの抵抗の末に、パッと黄色が河をつくる。


『夢って、脳の情報整理の産物でもあるの』


 手元に置いたスマホに、彼女からのメッセージ。

 またも意味は解らず、目を離して、黄身の河にフォークを刺した。




「――元気?」

「え?」


 顔をあげる。そこには、幼馴染の心配そうな顔があった。

 どうやら、僕は教室にいる。夢だからか、シーンが切り替わる様に、場所と時間が過ぎていく。

 スマホを見ると、彼女のメッセージがあった。


『夢は主にね、アウェアネスを伴わないけれど蓄積され続ける、記憶の俎上にすら乗らない外部感覚で構成される』

『儚い、けれど、生き物には必然の代謝』


 やっぱり解らなくて、時計を確認して、1時間目と2時間目の間の休み時間にいることだけを認識した。

 鼓膜を震わせる教室内の騒がしさは夢の中の僕にとって、さわさわとさざ波のように聞こえる。


「もー、今日ずーっとぼーっとしてる! 夜更かし?」

「……いや、ただちょっと調子悪いだけ」

「大丈夫? 保健室行く?」

「だいじょうぶ、大丈夫」


 そう、と少し眉根を寄せた幼馴染は、顔の前にかかった長い黒髪のひと房を耳の上に掬った。

 そういえば、いつ幼馴染は髪型を変えたんだろう。


「髪型っていつ変えた?」

「え? ……前からこの髪型じゃん」


 幼馴染は不満げな声音とは裏腹に、あまり似合わない薄い微笑みを浮かべていた。




「よーっす!」


 どん、と背中に衝撃が走った。かなりの勢いに、僕は前に1,2歩つんのめり、スマホを落としてしまった。

 落下の衝撃のせいか、明るくなった画面には通知が来ていた。


『特に視覚が中心なんだけれど』

『私は君にすべてを贈ったつもり……ちゃんと受け取ってくれるかな』


「あ、ごめんなさいっす……そんな強くするつもりはなくて」


 後ろの申し訳なさそうな声音。スマホをとりあえず拾って、大きくため息をつきながら、振り返る。

 そこには、お茶目に手を合わせて「ごめんなさい」ポーズをする後輩がいた。


「いや、まあ、お前はそういう奴だし」

「む、いつもとは失敬な。ちゃんとしてるときはありますよ」


 むっとした顔で、反論する後輩。

 僕はいつもの調子で、言葉が口をつく。


「部活はどうした?」

「今日は早めに終わったんです。……シャワーもちゃんと浴びてきましたよ?」

「ん? ……ああ、なんかさっぱりしてるな」


 快活な笑みを浮かべる後輩。

 あまり、気にしていなかったけれど、サボン系の香りが鼻腔を擽った。




 夕陽のオレンジ色が瞼裏を赤く染め上げる。


「起きて」


 声音に引き寄せられ、目を開けて体を起こすと、隣に先輩が立っていた。


「……あ、すいません。寝ちゃってました」

「いいよ……もうすぐ、図書室、閉めるから」


 先輩がすっと僕の肩に手を当てて、ぽんぽんと叩く。


「あ、どきます」

「うん」


 立ち上がって、片付けや戸締りの邪魔にならないように、隅の方へ移動する。

 先輩は黙々と窓にカーテンをかけていく。

 僕は何もすることがなく、手癖でスマホを触る。

 通知には、彼女からのメッセージがあった。


『わぎもこに恋ひてすべなみ白袴への袖返ししは夢に見えきや』

『旧い人の遺した歌ってね、とても浪漫に溢れてるの』

『儚き夢での逢瀬を現実につなげて……それってとっても素敵なことじゃない?』


 頭が、働かない。

 でも、僕はなんて返そうか、と幾らかの時間考えたけれど、その前に先輩の真っ黒いローファーが視界端に滑り込んで、思考は途切れた。


「じゃあ」


 図書室の電気を消して、先輩が僕に呼びかける。


「行こうか」


 切れ長の目にじいっと見据えられて、僕は頷いた。


―――――




「なんでだろう……本当に運命なのかな。ずっと、君を探していた気がするよ」


 僕は彼女に向かって、本心を告げる。


「ありがとう」


 彼女は切れ長の目を細め、薄く微笑んだ。


 僕は彼女の名前は、知らない。今聴いた声も、聞き覚えがない。妹の友達なのか、幼馴染の知り合いなのか、後輩の部活仲間なのか、先輩とおなじ図書委員なのか。


 でも、たしかに、僕は彼女を知っている。

 親近感、好意のような、そんな気持ちが、彼女を目の前にして、芽生えていた。

 これは、運命だとしか思えなかった。


「それで、さ。これから、僕たちは……」

「そう、私たちは運命で繋がった。だから、これを永遠にしないといけない」


 地平線に沈みゆく赤い夕陽にあてられた海が、黄色に染め上げられる。

 微風が肌を撫で、彼女の長い黒髪がたなびき、石鹸の淡くも落ち着く香りが届いた。

 僕たちはお互いを見つめ合う。


「他の人じゃなくて、本当に、私でいいの?」

「……うん。だって、これは運命ってやつでしょ?」

「……嬉しい」


 徐々に暗くなる空の下、彼女はわらう。


「じゃあ、手をつなぎましょう?」


 指先に塗られた淡い葡萄色のマニキュアが最後の陽光できらと瞬く。彼女は僕に向かって手を差し伸べる。

 掌には、僕らを逢わせてくれた、お腹をさする獏のキーホルダーがのせられている。


「そうだね」


 僕も片手を差し伸べて、彼女と手をつなぐ。

 キーホルダーの固い感触とは違って、彼女の掌は嘘みたいにやわらかかった。


「――行きましょうか」


 刻一刻と深い藍色に堕ちていく海へと、彼女と僕は歩みだした。




「今度は、ちゃんとね」



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