孤高と弧度法

たのしいルートヴィヒ

無題

 山手線が人身事故で遅延してるらしい、どうせ遅れるなら十分も二十分も一緒だろう。僕は混雑した秋葉原駅から出て、コンビニでカカオ80%のチョコを買い、ヨドバシカメラの前のベンチで時間を潰すことにした。まだ平日の午前七時半、ヨドバシカメラは開いていないのでベンチも空いている。あいにく今日は本を持っていないから、インスタグラムを見て暇を潰す。繋がっている人の殆どは中学の同級生で、高校から東京に来た僕はもう久しく彼らに会っていない。更新されたストーリーを事務的にタップし既読をつける。なんの感情の動きも無い…はずだった。背の高い男子高校生が女子高校生に後ろから手を回した写真があった。付き合っている男女の距離感だ。普段なら気に留めず飛ばしていたが、今回は違った。まさか。呆然としている間に次の投稿に移り変わってしまい、震える指でタップしてもう一度その写真を見る。間違いない、Kだ。スマホを閉じ、駅の人混みを虚ろに眺めながら2年前を思い出す。


 チャイムが鳴って4時間目の授業が終わりが知らされた。先生の不在で自習だったので僕は課題を終わらせ、本を読んでいた。村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を机に仕舞った。ディティールは思い出せないが、当時の僕には酷く衝撃的で、特に過激な性描写には目眩がした。爽やかな題名と綺麗な青の装丁に惹かれて手に取ったが、内容についてはよく知らなかった。この本を読んでいることを大人に知られたら怒られるんじゃないか、そんな気すらしてきた。給食の準備に取り掛かるべく、机を動かしたが物語と現実のギャップを埋めるのに時間がかかった。手を洗い、配膳に並び、自分の席についた。日直がいただきますの挨拶をして、お昼の放送が流れ、食事が始まった。


 給食のとき、Kは僕の右斜め前の席だった。おいしいご飯を食べながら人の会話を聞くのは嫌いじゃなかった。そしてKを見るのは好きだった。Kは自分からは話さない。周りの話題に相槌を打ち、時にはユーモアも挟んで話を盛り上げる。そして放送で流れる流行りのアイドルソングや、今売れている芸人、学校生活でのゴシップなど何もかもを知っていた。僕は興味がなかったのでどれも分からなかったが、多くの中学生にとっての話題の殆どだ。そして彼は自分から話題を始めることはなく、会話の中心にはならなかった。僕はそんな彼を影から見て密かに憧れていた。Kは持ち前の頭の回転の速さでクラスメイトにも先生達にも好かれていた。彼が多くを話すことはないが、彼の周りには常に人がいた。僕は人と話すのが苦手で、空いた時間は本を読んでいたし、友達と呼べるような人はいなかった。誰かに嫌われていたとは思わないが、誰からも好かれていなかった。クールなやり方で輪の中心にいたKは僕の羨望の対象だった。いつかKと話せたらな、と思っていたが、僕はその日もKとクラスメイトの会話に耳を傾けるだけだった。


 ある日の給食の時間、数週間後に行われる文化祭の後にクラス会をやろうという話が出た。僕は一応クラスラインにはいたし、僕だけハブるのも気が引けるのか、ほぼ話したことない女子が僕をクラス会に誘った。僕がいてもそんなに面白くならないし、と思って断ろうと思ったが、Kが来るなら行こうと思って保留にした。Kの様子を伺った。女子はKも誘った。僕の時より誘い文句が丁寧だ。Kは背が高く運動もできて成績もよく、女子からも絶大な人気を誇っていた。でもKは断った。

「いや、いいよ。ありがとう」

彼は常に人の中心にいたが、誰に対しても媚びることがなかった。彼は孤高だった。彼が休みの日何をしているのか、いつ勉強しているのか、家族構成はどんなかについても話さなかった。Kは他人との間に絶対的な線引きをしていた。僕はクラス会の誘いを断った。

 

 担任はKのことを好んでいた。体育会系の担任は、分かりやすく愛嬌のある生徒を好む。Kもそれを察して担任の前では普段よりほんの少し明るく振る舞っている。僕は声も小さくて暗いし、愛嬌と呼ばれるものは微塵も持ち合わせていなかった。当然、担任には好かれていなかった。クラスでは担任に軽いドッキリを仕掛け、インスタントな笑いを取るのが流行っていた。そこでクラスメイトは担任にドッキリを仕掛けようと試みた。帰りの会の前に全員の机を180度後ろに向け、クラスメイトはみんな後ろを向いているという状態で担任を迎えるといったものだ。僕もそれに従った。Kも従った。Kがその時に

「2π回転だ」

と呟いたのを聞き逃さなかった。当時僕らは中学生だったから、弧度法はまだ習っていなかった。でも僕はたまたま数学の本でそれを知っていた。そして180度は2πではなくπだ。つい

「いや、πじゃないかな」

と口に出していた。Kがこちらを見た。僕を見た。

「そうだね。πだ」

Kは笑っている。Kの視界に僕が入れた。当時の僕にとってまだ先の履修範囲について話せる、ということは密かな優越だった。その場にいた他のクラスメイトは首を傾げている。そのことが尚更嬉しかった。僕とKにしか伝わらない言い方だったから。


 その日から僕はKと少し話すようになった。もちろん僕はKの周りのクラスメイトの1人でしかなかったが、僕だけがKの言っていることを理解できた誇らしさを胸の中で額に入れて飾っていた。Kは僕の発言をよく拾ってくれたし、僕の目を見て笑ってくれた。そしてKとの会話を通してクラスの男子のグループにも入れた。放課後には彼らと公園でサッカーをするようになった。でもKは一度も来なかった。今日こそは来るんじゃないか、そんな期待が叶うことはなかった。


 グループでの会話に加わることは難しかった。僕はテレビを見ないから芸能人を知らないし、学校内の恋バナも嫌いだった。思春期にさしかかった頃の、男女を意識し始める感覚にとてつもない気持ち悪さを感じた。クラスメイトという、身近な実在の人物を話題に出すことに引け目を感じた。僕の鞄の中には限りなく透明に近いブルーが入っている。世の中には、僕らには想像もつかない世界があって、その存在を薄く感じながら狭いコミュニティで刹那的な付き合いをする気にはなれなかった。今思うとひねくれていた。自分に魅力が無いことを正当化していた。


 今日も恋バナだ。Kの様子を伺う。彼はこの話題のとき、中身のない相槌を打つばかりで口数が減る。彼も同じような気持ち悪さを感じているに違いないと思った。僕らだけしか共有できない感覚だと、何も疑わずそう思った。

 

 その後、大したイベントも無く、僕とKとの関係は変わらないまま、中学を卒業した。最後まで僕は取り巻きの一人だった。それでも僕だけしか知らないKの魅力や、クレバーさがあること、彼しか見つけられなかった僕がいることは僕にとっての暖かい思い出だった。


 僕は、同じ地域からは誰も通わない東京の高校に進学した。もともと僕と関係の深い人はいない、それでも新しい環境で高校生活を送りたかった。東京なら自分も変われるんじゃないか、Kのようになれるんじゃないかと思って東京を選んだ。特に根拠はなかった。


 ヨドバシカメラ前。ベンチ。スマホを見る。インスタグラムを開く。Kのプロフィールをタップする。Kの最新の投稿は、ミスディオールの香水の写真だ。彼女に渡すのだろう。Kに彼女ができたことじゃなくて、それを投稿したことが受け入れられなかった。僕はただの取り巻きの一人に過ぎなくて、彼から見たらクラスメイトDなのに、何を言ってるんだろう。僕の中の、孤高でミステリアスだったKはもうどこにもいない。腕時計を見る。もうそろそろ行かなくちゃ。苦いチョコを噛み潰し、駅の人混みに向かって歩き始めた。


 

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