後編 本当の『夢』

 とはいっても喫茶店だ。ほどなくして『談話室』と書かれたプレートのついた扉が見える。マスターが「どうぞ、こちらです」と開いた先に──7歳の、私の姿があった。


「……京谷きょうやみやこ?」


 おずおずと名前を尋ねると、7歳の私はきょとんとしながら「そうだよ。未来のわたしが呼んだんでしょ?」と答えた。


 どういう仕組みかはわからないが、本当に7歳の私はここにいて、しかも事情を知っているらしい。私にはこんな記憶なんてないから、何を言っても現実の私には何の変化もないというところも正しいのだろう。


「えっと……。将来の夢ってある?」

「お医者さん!」


 ためらいがちに飛ばした問いに、7歳の私は食い気味に答えた。


「え……。本当に? 医者なんてロクなものじゃないよ。すごく勉強しなきゃいけないし、精神は削れるし、長時間労働による過労死やら、精神疾患を治しに来たはずなのに自分がかかるとか」

「もー、お母さんみたいなこと言うじゃん。どうしちゃったの?」


 戸惑いのあまり7歳児が理解できるはずのない語彙を用いてしまったことを反省する。……しかし、お母さんみたいとはどういうことだ。

 お母さんは『医者はいい職業』と宗教のように言っていた。それなのに私が7歳のときは反対していたというの?


「えっと、みやこはどうして医者になりたいの?」


 自分の名前を問いかけるむず痒さを感じつつ、言葉を投げかける。7歳の私は「どうしてそんなこと聞くの?」と不思議そうに首を傾げてから、いっぱいの笑顔を浮かべて答えた。


「辛い人を、私が幸せにしたいの!」


 ……ああ、そうだったっけ。


 その声色で、すべてを思い出した。受験勉強の辛さというヴェールが剥がれ、本来の私をやっと取り戻す。


 一度だけ、インフルエンザが悪化して入院したことがあった。息をするのも苦しくて、このまま死んでしまうかもしれないという強い不安を抱いていた。


 そんなとき、看護師さんが寄り添ってくれたのだ。


『今はみやこちゃんの体の中にいるヒーローが戦ってるから、苦しいの。絶対によくなるから、それまで頑張って』


 必死に語りかけてくれたその人の、少しだけ冷たい手のひらの体温。絶対に忘れないと思っていたのに、私はすっかり忘れてしまったらしい。


「わたしの体のなかに、ヒーローがいるって言ってくれたんだー。それがね、すごいの。すぐ治っちゃった!」


 元気な体の『わたし』が足をぶらぶらさせながら喋る。なるほど、そのときの私は看護師を医者と勘違いしてしまったのか。そういえば幼いころ、大きな病院には医者しかいないと思っていたっけ。


 何という勘違いだ。急に笑い出した私を、『わたし』は不思議そうな目で見つめていた。


「それ、医者じゃなくて看護師だよ」

「え!」


 7歳の私が固まる。「じゃあわたし、看護師になる!」と即座に訂正して宣言した。


「なれるよ、絶対に」

 なるよ、絶対に。


 心の中で宣言すると、『わたし』は笑って──そのまま、最初からいなかったように存在を消した。


「お客様、お時間です」

 同時に後ろのドアが開き、マスターが穏やかな声で私を呼んだ。


   ◆


「ありがとうございます、マスター」


 不思議な空間から出ると、喫茶店の穏やかな空気が私を包み込んだ。はやる気持ちを抑えるために珈琲を頼むと、マスターが「ヒントは得られましたか?」と尋ねる。


「はい。なんか、こんなことで悩んでいた自分がバカみたいでした」


 苦笑しながら答えると、「だいたいそんなものですよ」とマスターは鷹揚に受け止める。


「どうしますか。もう少しだけゆっくりしてから、ここを出られますか?」

「いえ、そろそろ帰ろうと思います。母親と話したいことがあるので」


 私が言うと、マスターは幸せそうな表情を浮かべた。心底ほっとしたような、巣立ってゆく鳥を見るような目。


 正直、母親に不合格と進路変更を告げるのは怖い。だけどマスターの顔を見て声を聞くと、不思議と勇気が湧いてくる。


 それに、過去の私の『看護師になる!』という宣言を無下にするわけにはいかない。どれだけ怖かろうが、やるしかないのだ。


「お会計……はサービスでタダですね。またのご来店をお待ちしております」


 頭を下げるマスターに、私は「絶対に、また来ます」と告げて店を出た。


 店を出るとすっかり陽は落ちていて、そのあいだ今までどうして気がつかなかったのかわからないくらい多くの不在着信が届いていた。友人はメッセージアプリで合否を聞いているから、不在着信はすべて母親からのものだった。

 意を決してかけ直すと、幸か不幸か、すぐにつながる。


『ちょっと、どうして今まで出なかったの⁉︎』

「ごめん。言う勇気がなくて」


 電話に出ない時点で薄々察していたであろうが、その言葉を聞いて不合格が確信に変わったのだろう。お母さんは黙り込んだ。


 その隙に「聖凛医科大、不合格だったよ」と告げる。お母さんは金切り声を上げるでもなく、「そう」と静かにつぶやいた。その静けさが逆に怖い。


「お母さん。たぶん私、医学部医学科は全部落ちてると思う。聖凛がいちばん難易度が低いし、手応えがあったから」

『……そう、ね。お母さん、あなたならやれると思っていたわ』


 幾度となく言われた言葉を、また繰り返された。今までだったら勝手な期待だと一蹴していたが、今は違う。


「お母さん、私が医者になるのを反対したことある?」


 7歳の私が言ったことがどうしても気になり、聞いてみた。一瞬の静寂ののち『最初はね』と優しい声が聞こえてくる。


『医者なんて激務だし、お金もかかるし行かせられないって思ってた』


 そうだ。5歳くらいのとき、私の家はそこまで裕福な家庭ではなかった。絵に描いたような中流家庭だったはずだし、とても私立医学部進学なんて叶えられないような環境だったはず。


『だけど』


 それなのになぜ、医学部受験が可能になったのだろうか。

 疑問を抱くと同時に、お母さんが震えた声で続けた。


『みやこがあまりにもキラキラした目で言うものだから、お父さんも単身赴任だけど稼げる部署に異動したし、お母さんもフルタイムで仕事を始めたの。……そこまで環境を整えちゃったから、もう後には引けなくて。みやこが他の進路を検討したときも、怒ってごめんなさい。それならお母さんがひとりで仕事も育児もずっとやる必要はなかったし、お父さんだって同じ家で暮らせたのにって思っちゃったの』

「そっか……」


 普通、7歳の子供が『医者になりたい』と言っただけでそこまでしないだろう。しかし両親は整えてしまった。それはきっとインフルエンザで入院したことも無関係ではないだろう。


 私が『死んでしまうかもしれない』と不安に思ったくらい、両親もそう思ったかもしれない。私は看護師さんに勇気づけてもらったけど、両親はそんな気休めも通じていないだろうから、もしかしたら私以上に恐怖を感じていた可能性もある。それに一人っ子なのだ、夢を諦めさせたくないと強く思ってしまったのだろう。


 逆にそれが、私を傷つけてしまっただけだ。


『みやこがもう医者を目指してないなら、お母さんはそれでいいと思う。落ちるまでそれに気づけなくてごめんね』

「謝らなくていいよ、もう。……本来の夢を思い出したから」

『本来? 医者じゃなかったの?』


 まさか『看護師を医師と勘違いしていた』なんて言えなくて、苦笑する。あとでおもしろおかしく言えば、お母さんも納得してくれるだろうか。

 いつか笑い話になってくれるといいな。そう思いながら、私は将来の夢を口にした。


「私、看護師になりたい」


 宣言すると、お母さんは電話越しでもわかるほど嬉しそうに『いいわね。みやこにぴったりだと思うわ』と言ってくれた。


 何だ、早く言っておけばよかった。


 安堵の混じった後悔をする。もっと早く医者になりたくないとお母さんに言って、本当は何になりたかったのか思い出していれば、こんな無駄な時間を過ごさずに済んだのに。


「……いや」


 電話を切って、もう一度私の人生を変えてくれた店──時透喫茶店を見る。

 この店を知れたのだ。きっと、この回り道にも意味があったのだろう。


「絶対になるからね」


 小さくつぶやいて、一歩前に進む。満天の星空に、自分の将来を重ねた。

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過去のあなたと、時透珈琲店で。 夏希纏 @Dreams_punish_me

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