過去のあなたと、時透珈琲店で。
夏希纏
前編 医師になることを望まれた私
「嘘、でしょ……?」
今日は私の第三志望である、
模試の判定はA判定と上々で、当日の感触もよかった。面接練習に付き合ってくれた先生からも好印象だと太鼓判を押してくれた。聖凛医科大に詳しい担任の先生や予備校のメンターからも、確実に合格するだろうと言われていた──それなのに。
合格発表のページには、不合格と書かれている。
「どうしよう、お母さんに叱られる」
初めに小さく漏れた言葉はそれだった。
これ以上液晶を見られなくて、即座にスマホをポケットへ入れる。
お母さんは私が中学校へ進学したあたりから、やたらと医大を推し始めた。
少しでも課題や塾をサボれば烈火の如く叱られたし、英検に落ちた日なんかは勘当されかけたものである。違う進路を検討しただけでも『どうして医者にならないの。せっかくあなたのためにお父さんとお母さん、頑張ってお金を貯めてるのに』と泣かれる始末だ。
そんなお母さんが、不合格を知ったらどうなる? この聖凛医科大学の受験を勧めたのもお母さんだ。
動揺していて、何ら有効な逃げ道は思い浮かばない。そうこうしているうちにポケットに入れていたスマホが振動し始めた。
友人だといいな。そう思い画面を確認したら、案の定お母さんだった。合格発表からはもう1時間も過ぎている。そろそろ合格の知らせを聞いて安心したいのだろう。
──それか、私に罵声を浴びせるために電話してきたのだろうか。
受験番号などは教えていないはずだが、あの人のことだ、勝手に控えていてもおかしくはない。
逃げたい。現実ではないところに、私が私でいられるところに。
その一心で、家とは逆の方向へ走り出す。今日が好きな作家の新刊発売日でよかった、本屋ではなく家にいたら、即座に拷問みたいな時間が始まるところだった。
たったそれだけの救いを胸にあてもなく走る。見慣れないビル街に不安を感じつつもひたすら道路を蹴っていると、路地に差し掛かったところに喫茶店を見つけた。場所的にもあまり目立たないところにあるし、お母さんと来たこともないのでうっかり鉢合わせることもないだろう。友人と会っても気まずいし、ひとまずここで休むとするか。
黒板の立て看板には『時透珈琲店』と書かれてある。飲み物の値段が300円と安いことにも惹かれ、純喫茶らしい重厚な扉をゆっくりと開いた。
「いらっしゃいませ。ご休憩ですか、お食事ですか、対話ですか?」
ピカピカに磨かれたカウンター越しに、マスターらしき初老の男性が微笑む。店内の雰囲気も想像以上にいい感じで、アンティークの品々が所狭しと並んでいた。
それなのに挨拶の奇特さで、一気にお洒落さが吹き飛ぶ。
「対話って、何ですか?」
満員とは言えないものの、店内には数人のお客さんがいる。とてもひとりの客とじっくり雑談する余裕なんてなさそうだけれど……。
戸惑っていると、マスターは『おや』と言いたげに驚いた表情を浮かべた。驚いているのはこっちだ。
今からでも外に出ようか迷っていると、マスターが苦笑しながら「失敬、ここに来る人は大抵知っているものですから」と柔らかく言葉を重ねた。何となく気持ちが落ち着く声に、自然と足がカウンターへ向かう。
「この時透珈琲店には少々特殊なシステムがありまして。『一度だけなら過去の自分と対話できる』というものなのですけれど」
「そんなこと、ありえるんですか?」
荒唐無稽な話だが、マスターがあまりにも確信を持って言うものだからおかしくなる。マスターは笑みをたたえながら「ええ」と頷いた。
「ただし話ができるだけで、あなたの記憶には何の変化も及ぼしませんし、現在が何か変わるわけではございません。もし何か変わってしまったら、世界が
マスターは珈琲をハンドドリップで注ぎながら、流暢に説明をする。慣れているのだろう。
周りのお客さんはマスターの話に驚きを見せるわけではなく、それぞれの読書や話に夢中になっていた。ここにいるお客さんは過去の自分との対話を経て、ここの常連になっているのだろうか。
「夕刻から陽が落ちるまでのみ、過去の自分と話をすることができます。とても短い時間ですが、もし自分の進路について過去の自分と話したいことがあれば、やってみるのもいいと思いますよ」
悩んでいることを言い当てられて、思わずドキッとする。
しかし高校生やそれに近い年齢の人は、多かれ少なかれ自分の進路について不安を抱いているだろう。もしかしたらそれ以上の年齢になっても、過去に自分にヒントを求める人は多いのかもしれない。確信を持って自分の人生を歩んでいる人なんて、そうそういないだろう。
「……やってみたいです」
せっかくのチャンスだ、いまだ信じきれていないところはあるものの、踏み出してみたいと思った。それに私は逃げたくてここに辿り着いたのだ。これも何かの縁かもしれない。
私の声にマスターは頷いて、「夕刻までにはまだ時間があります。詳しい説明をしますから、それまで珈琲でも飲みませんか? 1杯サービスしますよ」と笑んだ。
その申し出をありがたく受け入れると、マスターは先ほどハンドドリップで抽出した珈琲をカウンターに置いた。
◆
私はそもそも医者になんかなりたくなかった。
話を切り出された最初こそはいい選択かもしれないと思ったが、周りの医大を目指している人は本気だったし、調べれば調べるほどブラックな職業だということがわかり、嫌になっていた。
周りの温度差に居心地の悪さを覚え、偏差値の低さに心を削られ、帰ったらお母さんの言葉に絶望を覚える。そんな生活を続けているうちに、だんだん医師を目指すしかないように思えてきた。
たったそれだけで、私は医大を受験してしまったのだ。
医大受験を考え始めた当初は苦しいばかりで、それからもあまりいい思い出はない。しかしその記憶が大きすぎたからか、それより前の記憶はあまり思い出せない。幼いころ私は何を目指していたかすらわからなくなってしまった。
だから。
「7歳くらいの私に、将来の夢は何か聞きたいんです」
どうして過去の自分と対話したいかというマスターからの問いに、私はそう答えた。マスターは私の独白にも付き合ってくれ、時折「それは大変でしたね」などの相槌を打ってくれる。その温かさに、たまらなく安心を覚えた。
そのおかげか、あまりおしゃべりが上手くない私でもすらすら言葉が出てくる。
「7歳のあなたはきっと、いいヒントをくれると思いますよ」
マスターはふっと表情を綻ばせると、「そろそろですかね」とつぶやいた。マスターの視線の先にはアンティークの壁時計があり、時刻は4時30分を指している。
「それでは、改めて簡単に説明します。過去の自分と話せるのは夕刻から日没まで。それを過ぎると、過去のあなたはあるべき場所へ還ります。話しているうちに時間が過ぎてしまっても、特に現実のあなたに危害が及ぶことはありません。しかしもう二度と対面で話すことはできませんので、重要なことは最初に話すことをおすすめします」
マスターの言葉に頷くと、彼は流れるように説明を続けた。
「過去のあなたと話せるのは奥にある部屋限定です。日没までに退室することも可能ですが、一度部屋を出てしまうともう二度と入れません。もう一度戻って過去の自分と話すことはできませんので、ご了承ください」
「わかりました、気をつけます」
私が頷くと、マスターが「では、対談室へとご案内します」とカウンターを出て案内を始めた。
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