第14話 『海の章』
相当に酷い状態だったようだ。リスカ癖のせいでベッドのあちこちが血で染まっていた。私は清明な意識の中、「生きてっ!」と叫ぶ女性の声を聴いた。どうにか動く左手で携帯電話を操作する。119・・・
それまでもリスカで医療機関を受診することはあった。一度は、駅前の交番で職質を受け、手首の傷を発見され、その場で救急車を呼ばれたこともある。だが、治療はおざなりで、大抵は止血して「テープ」で傷口を寄せるだけであった。
だが、今回は違った。正直、瀕死の状態であったようで、私は119通報をしたあと、意識を失ったようだ。狭いワンルームマンションの階段を、シートに包んだ私を2人の救急隊員で抱えて駆け降りていた。「こんなことでは死なせないからなっ!」「がんばれっ!」私は救急医療に携わるすべての人に感謝と、激励の言葉を贈る。
通常はしないと噂されている「リスカ患者への輸血」を受けた。200ccだが。そしてこの時の医師がまた素晴らしかった。ズタズタになった私の右手首を、切創をすべて縫合してくれたのだ。34針縫ったと言っていた。言葉は必要なかった。私を助けようと、大勢の人が懸命になってくれたのだ。
自殺未遂、つまり「リスカ」のレベルではなく、本当に死ぬところであった場合、それはもう大騒ぎになるものだ。病院で処置を受け、ロビーで治療費の計算を待っていたら、市役所と保健所と精神科のケースワーカーが押し寄せてきた。皆、心配してくれていた。私は翌日以降、歩けるようになったらメンタルクリニックを受診するように言われた。この時の治療費は払わなかったと記憶している。
貧血でフラフラする。私がメンタルクリニックを受診したのは2~3日後であったと思う。ソレまでの主治医ではなく、院長が出てきて、「クリニックを開業している精神病院に行くように」と告げられた。「入院の準備もしておくように」とも言われたので、私は帰宅して、それなりに入院に必要なものを大きなバッグに詰め込んだ。予約は2日後であったので、多少はマトモになった頭で考えて、しっかり食事をしたが、元気な頃の半分も食べられなかった。
大きな病院だった。主治医となる医師は禿げた狸みたいな大男であった。ケースワーカーが同伴して初診となったが、入院は確定している。ただ、この主治医は優秀であったようで、ケースワーカーさんの「措置入院にしますか?」と言う問いに、「自分から来たんだから任意でいいだろう」と言うことになった。措置入院と任意入院では「自由度」が大違いだと後に知って、主治医に感謝した。感謝したが、措置では公費負担である。私は知識が無かったので、最初の入院費は国保だけで丸々払う羽目になった。半年間の入院で200万円を超える医療費であった。幸い、この初回分の半分以上は乏しい預金から払うことが出来た。残りは分割で払うことになりそうであるが、私はこの後、10年間にわたって、短期の入退院を繰り返すことになる。病状が安定すると退院して、医療費を稼ぎ、そのせいで疲弊するとまた入院。ほぼ3か月、短い時でも2か月は入院しては、医療費を稼ぐ生活である。2回目の入院以降は、高額医療費制度を利用したので、毎月9万円弱と、保険の利かない雑費2万円ほどを払うだけで済んだ。しかし、払えるわけもなく、ソレは初回の入院費を払いきっていないことが原因。結局は、入院するたびに病院への借金が増えることになる。私は毎月、決まった日に返済をしていたので、温情であろう寛大な措置を受けることが出来た。10数枚の書類に署名捺印をすることにはなったが、「無利息で分割支払い」となったのだ。最後の入院と退院を済ませた後のことである。主治医には「もう入院はさせないから」と宣告されていた。
最初の入院から既に波乱含みであった。ケースワーカーさんは「入る前に病棟見学をしますか?」と訊いてきたが、どうせ入るのだから無意味だと考えて、断った。断って正解だった。もしも事前に病棟を見ていたら、私は逃げ出していただろう。閉鎖病棟なのだから当たり前である。しかし、そんな「精神科への忌避感」も、3日目で消えた。それなりに楽しい入院生活を送れそうであったから。最初に入院した時は「ベッドのある部屋」であった。まだまだ精神科と言う科目は「人権意識」が低く、畳敷きの大部屋では、毎晩倉庫から布団を運び出して、10人がその大部屋で眠る。朝になると布団を畳んで丸めて、倉庫に仕舞うのだ。私はベッド部屋で助かった。
精神科と言っても、患者はピンキリである。20年前の田舎の精神科は「セーフティーネット」としての機能もあった。既に入院20年で、多分出る時は裏口からだろうと言う人から、若く陽気な男とか。当然、男女別であるが、入院時処方と言うものがあるのだろうか?私は長い入院期間を通じて「性欲」を覚えたことが無い。私はまだ若い部類で、入院当時で35歳だったと思う。この入退院時代は、私にとって「失われた10年」となった。大きな事件やイベントは憶えているのだが、退院している時期の記憶がほとんど無いのだ。故に、のちにインターネットで遊ぶ時のハンドルネームは「記憶を失った主人公」の名を使っていた。
さて、入院してすぐに洗礼を受けることとなる。持ち込んだ「入院の準備品」から様々なものを取り上げられるのだ。刃物は禁止なので、「爪切り」まで取り上げである。「入院中の縊死」を防ぐため、紐の類は全部取り上げである。靴紐はもちろん、ジャージの腰ひもまで取られてしまい、私はジャージを持ち上げながら歩く羽目になった。コレは優しい看護師さんのご厚意で「ゴム紐」を通すことで解決した。煙草も取り上げである。当時は病棟内に喫煙所があったのだが、患者は1日1箱の制限があった。これはかなりきつい処遇であった。入院中は暇なので、自然と喫煙所で駄弁ることが増える。1箱などあっという間であった。実際、他の患者の吸い殻を「シケモク」として吸っていた患者数人に「口唇ヘルペス」が流行ったこともあったのだ。そんな制限はあったが、少なくとも入院中は「私を傷つける人はいない」ので安心であった。安心であったが、やはり相性の悪い人はいるようで、持ち込みを許可されたCDプレイヤーを盗まれたことがあった。「新患者の安元が気に入らない」と言うことで、盗んだと言うよりは「隠した」と言うのが真相だろうが、CDを聴けないとなるとかなり困る。ベッドでCDを聴くことで暇をつぶし、煙草の消費量を抑えるのが常であったから。仕方が無いので看護師長に訴えた。すぐに師長は「見つけてあげるから待ってて」と言って、各部屋を回り、「CDプレイヤーが出てこない場合、全員の持ち物検査をして、隠した者は保護室に入れる」と告げた。保護室とは、多くの人が精神科に抱くイメージのアレである。個室で監禁されて、24時間カメラで監視される部屋である。コレは「患者の身体生命の保護」と言う目的があるので仕方がない面もあるが、「懲罰的な意味で保護室に入れる」こともまかり通っていた時代である。私のCDプレイヤーはほどなくして出てきたが、師長が「犯人に関しては何も聞かないで欲しい」と言うので不問に付した。
当時の精神科の事情は大体説明できたと思う。
ここからが私の体験談であるが、時系列はバラバラで、全部合わせても20日分にも満たないお話である。それほどに入院中の処方薬は強烈なのであった。
最初の入院ですぐに友達になった男がいる。入院中限定の「友達」であるが、話し相手にも困るようでは、長い入院期間を乗り切ることは難しいだろう。私はプラスチック製のマグカップを買うことにした。入院時に持ち込めるコップ類は「プラスチック製」と決まっていたので、持ち込んだ金属製のマグカップは取り上げられていた。紙コップを使うことは可能だが、病棟で売ってくれる紙コップは1個30円と言う暴利であり、1日が終わる就寝時間には回収されると後に知った。食中毒防止の意味合いなのだろうが、紙コップを毎日買うのも馬鹿らしい。入院時に会計に預けた現金が「お小遣い」となる。そのお小遣いの範囲で、売店で買い物が出来るのだが、閉鎖病棟なので自分で買いに行くのは不可能。看護師さんにメモを渡して買ってきてもらうのだ。窮屈な生活であるが、殺されるわけでは無いので安心である。性欲も無いので平和そのものである。私はバイクの事故で大怪我をしてもオナニーを欠かさなかった男だが、この入院時代と、入院不要となったあとの2か月は、股間のぷらいべーとらいあんが不調であった。早い話が「勃起不全」になったのだが、今では息災なので安心して欲しい。
マグカップにコーヒーを入れて飲んでいた。この程度の自由はあったのだ。最初の入院は夏だったと思うのだが、「長老」と呼びたい長期入院患者さんは、粉末のポカリスエットなんぞを買い込んで、大きなペットボトルで作っていた。アレも1日で飲み切れなければ廃棄されるのだが。
私がコーヒーを飲んでいるのを真似して、若い男もコーヒーを飲むようになった。生ぬるい水道水で作っていたが、私は夏でもホットで飲んでいた。氷が手に入らないのなら、いっそホットで飲んだ方が気分もいいし美味いだろう。ソレを知った若い男は「安元さん、熱湯で淹れてるんですかっ?」と驚いていた。そう言えば、レストスペースには電気ポットがあったなと、今思い出した。食事はお世辞にも「美味い」とは言い難いもので、通常の病院食よりも不味い。それも慣れればそれなりに食えるようになるものだ。最近、刑務所の飯をネットで見たが、アレはご馳走レベルに感じる、そんな病院食であった。
さて、初回と2回目の入院の記憶はほとんど無い。CDのエピソードとか、コーヒーのエピソードくらいである。あとは、数分だがベッドの上に煙草を置いて、その場を離れたら、看護師さんに「盗まれるから気をつけなさい」と注意されたことぐらいか。油断も隙もあったものではない病棟暮らしであった。1回目か2回目かは憶えていないが、「長谷川」と言う男と知り合ったのがこの時期である。病棟では、風呂は週に2回であった。今の私なら耐えきれない待遇である。しかも、入院患者を2グループに分けての15分制限なのだ。湯船は大量の入浴剤が投入され、蛍光色になっていた。汚れてもお湯は替えないぞと言う強い意思を感じた。その風呂場の脱衣所で、私は長谷川を見たのだが、白いブリーフに黄色い尿染みを付けたおっさんであった。ひょろがりで貧相であった。なおロリコン。
2回目の入院で憶えているのは、エアコンの故障である。2回目は冬であったので、山の方にある精神病院(大抵は不便な場所に建つ不思議)は本当に冷えるのだが、この時は私は「畳部屋」だったので、寒くても布団に逃げることは不可能であった。ベッド部屋の患者は恵まれていたと言えるだろう。看護師に「布団を出させろ」と要求したが、あっさりと断られた。もう本当に寒い。持ち込んだダウンジャケットを出してもらったのだが、それでも寒いのだ。室温は一桁だったと思う。ポットのお湯はすぐに無くなる状態。ここは冬山の小屋なのか?
私はこの閉鎖病棟の2回の入院でかなり良くはなったが、生活に不安はあった。いつまた誰かが私の心を追い詰めないとも限らないのだ。そして、入院費を払うための過酷なアルバイト。月に20万円は稼がないと生活が出来ないのだから仕方ない。当時のわが県の平均時給を考えれば、休日など月に2日もあれば上等であったはずだ。
私は退院している間の記憶が本当にない。大抵は経験のある「警備員」と「パチンコ店の清掃スタッフ」をやっていたはずだ。向精神薬でぼんやりした頭でやっていい仕事ではないが、稼ぐにはこれしかなかった。あとはぼんやりと生きて、疲れ切ると主治医を頼って短期入院の繰り返し。徐々に好転はしているが、やはり生活は苦しかった。
そして3回目の入院から、環境が劇的に変わった。今までの閉鎖病棟のほかに「短期入院病棟」が出来上がったのだ。制限もかなり緩く、何よりも「長期入院になる可能性が無い」と言うのが魅力であった。ソレまでの閉鎖病棟では、主治医の判断でどんなに長期でも入院させることが出来たのだ。「任意入院」は、あくまでも患者が自分の意志で入っていると言う建前はあったが、実際は主治医の判断でなんぼでも長期化させることが出来たのだ。本当に「任意で退院する」ことは可能だが、確実に主治医と喧嘩になる。挙句、退院は出来てもその後のフォロー(治療)はしてもらえなくなる。こうなると、次の精神病院を探す羽目になるが、大抵は県内では「お断りされる」と言う因習があった。かなり酷い話である。
最初の「短期入院病棟」への入院は衝撃的であった。
それまで入院していた閉鎖病棟と、「短期入院病棟」には違いがあり過ぎた。最大の違いは「女性も同じ病棟にいる」と言うことだった。新しく出来た病棟(フロア)なので臭くない。まだ新しい建材の匂いが残る清潔な病棟に、女性患者までいるのだ。コレには本当にびっくりした。また、喫煙所ではなく「喫煙室」が独立して存在した。煙草を吸う場所ではなく「部屋」が丸ごと喫煙所なのだ。規則も緩い。基本的に「閉鎖病棟」に入ると、毎回主治医の「許可」を取るのに苦労した物がある。音楽プレーヤーもそうだし、買い物一つ取っても「制限あり」がデフォルトで、私はこの面で苦労した。主治医の「診察」は週に1回で、その時に「許可願い」を出さないと、1週間は放置される。煙草を吸えないのは地獄なので、こればかりは無理を言って、入院当日に許可を貰ったが、後は知らない「制限」が多く、何かしようとすれば「許可制」だと言われて退散することが多かった。また、閉鎖病棟では「外に出られない」わけで、この点でも差別待遇であった。「作業療法」は暇つぶしにはなるのだが、閉鎖病棟時代は作業療法プログラムが無かった。
「短期入院病棟」では入院時に「治療方針」が定められ、私の主治医の禿げた古狸はかなり制限を緩めてくれた。どうかすれば2週間も会わないこともあるので当然の措置だろう。「治療方針」の中には「入院生活中の制限」に関することもあったようで、コレは看護師長の裁量で許可を出せる項目が多かった。流石に「院外に出る」ともなると、看護師長の裁量では無理があったが、作業療法への参加や、院内の売店での買い物等、病棟から出ることも可能になった。
そう言えば、私に付いたケースワーカーが面白い人で、最初の入院と2回目の入院では世話になったが、記憶に残ってることがある。若い女性であったが、このケースワーカー同伴でなら、閉鎖病棟から出ることが出来た。「出ることが出来る」と言っても、何の用事もなく出るわけではない。入院当初の「診断」が必要で、そのたびにケースワーカーが迎えに来る。本当に「ロールシャッハ検査」とか「バウム検査」をするのだと知った。コレは先に知らない方がいい検査なので、ググる必要もないだろう。いわゆる「心理テスト」だと思えばいい。そんなテストや、病棟に入れない「臨床心理士」俗に言う「カウンセラー」に会って、とにかく喋らされたりすることもある。ケースワーカーは室内には入らず、廊下で待っている。そんな検査の日。
「安元さん、何かしたいことはありますか?」と訊いてくる。どうせ籠の鳥であるので、特になかったが、「煙草、置いてきたな・・・」と言ったら、「ちょっと待っててっ!」と言って、患者を放り出して小走りしていく。すぐに戻ってきた彼女の手には1本の煙草。どうやら、通院患者からカツアゲしてきたらしい。そのままケースワーカー同伴で喫煙所に入り・・・そうそう、夏のことだと思いだした。最初の入院の時だ。煙草を咥える前に「甘くて冷たいコーヒーが飲みたい」と要求してみた。「ちょっと待っててっ!」と、また小走りだ。すぐに戻ってくるところは、まるで犬のように可愛いが、可愛いと言うよりは美人であった。今でもあのレベルなら嫁にしたいと思うほどである。戻ってきた手には110円。「安元さんの口座から下ろしてきました」と言う。「口座」とは、経理に預けているお小遣い等の雑費のことであるが、そこから下ろしてきた110円で缶コーヒーを買えた。ライターは喫煙所にいる「通院患者」から借りることが出来たのだが、アレは「問題ケースワーカー」であろう(笑)閉鎖病棟の患者と通院患者を近づけるなど、普通はやらない。しかもまだ「心理テスト」の真っ最中である。挙句、私が缶コーヒーを惜しみながらチビリチビリと舐めながら、人の好さそうな通院患者にもう1本煙草を貰う時は知らんぷりをしていてくれた。缶コーヒー1本と2本の煙草。ほのぼのエピソードだが、今やったら確実にケースワーカーは叱責を受けるだろう。
短期病棟では作業療法への参加が認められたが、午前は普通の入院患者と同じ作業をしていた。陶芸とか、かなり本格的なこともやった。短期入院と言っても、2か月はいるわけで、湯呑みぐらいは粘土をこねて作れたものだ。しかし、午後のプログラムでは、私は特別処遇を受けることとなった。通院患者が通ってくる「美術教室」に放り込まれたのだ。なぜ、主治医がこの判断をしたのか、今でも理解出来ないが「優遇」であったのは確かだ。入院患者が「通院患者と触れ合える」と言うことは、外の空気を感じることが出来て新鮮であった。教室を指導する爺さんは口うるさい人でもなかったし、そこそこに楽しめた。入院患者がまだ珍しかった頃なのであろう、美術教室に人たちは親切であった。私に「絵心」は無いのだが、せっかくなので絵を描いたりしていた。その教室では、何をやろうが自由だった。絵を描いてもいいし、詩作に没頭してもいい。立体造形も出来た。画材は一通り揃っていて、無料で使えた。私はこの教室でアクリルから油彩までの「知識」を身に着けた。高校時代にちょっとかじった程度であった油彩も、それなりに使えるようになり、結局は使いやすいアクリルに落ち着いたが、この時期の経験は結構な宝ものだと思う。
かなり短いスパンで入退院を繰り返していたので、再入院すると、前の入院の最後の方で後から入ってきた患者がまだいたりする。そんな調子なので、割と「喫煙室の主」となっていった。そうなると困るのが煙草の本数である。短期病棟でも「1日1箱制限」があったのだ。コレはかなり厳格なルールで、例えば、煙草を隠してから院内の売店に行って煙草を買ってもすぐにバレる。売店に行く時にボディチェックを受けるからだ。院内の売店に行けるのは1日1回。病棟を出る時に盛っていなかった煙草を持って帰れば「コレはなに?」となり、没収である。男女が共に過ごす病棟で、当然ながら若い女性もいた。ここでは「Mちゃん」と書くが、この子のたばこの吸い方が豪快で、半分以上を残して火を消してしまう。しかもかなり可愛い子であったので、どこから見ても「ダンロップのスニーカー」を愛用していそうな若い男性患者が「コレ、貰っていい?」とシケモクを集めだす。「いいよー」だそうだ。「ヒヒヒ、Mちゃんのシケモク~」とか言っていたが、まあ、慢性的な煙草不足の病棟なので許容範囲だろう。Mちゃんはキャバ嬢で、理由は知らないが精神科に入院していた。大体3か月で「満期」となって退院していく患者が多い。私はそれこそ1か月で退院してみたり、満期まで居座ったりであったが・・・
そのMちゃんも満期まで入院していて、入ってきた時よりは若干ふくよかな体型になっていたが、まだまだ美人で通用するレベルで、しかも若い。後にほかの入院患者と再会した時に「そう言えばMちゃんは綺麗だったよなぁ」と、目の前のおばさんを見ながら呟いたら、再会したその入院患者が「Mちゃんさ、飛び降りて死んだよ」と教えてくれた。私は一体、何人の死を見てきただろうか?例えば「Yちゃん」と言う拒食症の若い子がいた。何故か可愛い子が多いのだが、アレは「メンヘラ」と言うのも失礼なくらい深刻な人が多かった。Yちゃんはどうしても「食べることが出来ない」ようで、チューブで胃に栄養を送っていた。鼻からチューブを入れるのだ。結局、このYちゃんも最後は栄養失調で死んでしまった。10年近くも精神科に関わっていると、本当に驚くくらい呆気なく死んでいく。何人も、何人も・・・
かと思えば、「生きることは本能なのだな」と納得することもあった。認知症のホームレスなのだろう、名前が無かった。それでは困るので、保護された街の名前を名字にして、名は「太郎」である。六本木ジェリーである。今風に言えば、「ギロッポンの幸之助」とかであろうか?いや、六本木とか都市伝説だと思っている。ジュリアナ東京では、若いチャンネェがお立ち台で扇子を振りながら下着を見せるのがステータスだったとか、深夜番組で知った。「テンパイポンチン体操」の番組であったが、アレはおかしいと思った。若い女の子がこの「テンパイポンチン体操」をぎこちなく踊るのだが、「テン」で頭をポンポンする。「パイ」でおっぱい付近をポンポンする。「ポン」でお腹のあたりをポンポン、そして「チン」で股間をポンポンするのだが、そこに「チン」は無いだろう?「テンパイポン”マン”体操」ではないかっ!
いや、脱線したが、その〇〇太郎さんは認知症のホームレスであった。もう「知性」の多くを失っているのだが、「食への執着」は凄まじいもので、食器トレーを片付けるワゴンの横には「食べ残しを捨てるバケツ」が置いてあるのだが、太郎さんは「食べなきゃっ!食べなきゃっ!」と言いながら手を突っ込む。看護師さんが「ご飯はまた出ますからね~」と言いながら部屋へ連行する様式美があったものだ。認知症のホームレスでは長生きは出来まいと思ったが、せん無いことであろう。たかが「煙草の話」と侮るなかれである。本当に煙草が原因で暴力沙汰だって起きるのだ。故に、脚が悪い患者は問答無用で「車椅子」である。松葉杖が「武器」になるからなのだが、松葉杖があれば歩けると言うことは、少なくともその場で立つことは出来ると言うことだ。喧嘩がヒートアップして、車椅子を投げつけた気違いがいたが、そう言う病院なので心配無用だ。割れるガラスは無いのだし。そうそう、ガラスは無かった。すべてが分厚いアクリル板なので、割れないのだ。そして、窓は10㎝ほど斜めに開くだけである。飛び降りる馬鹿がいるから当然だし、県下の他の病院では、窓が開く仕様だったので、脱走した患者まで出ていた。
さて、煙草の話だが。しつこく書くが本当に深刻な問題だったのだ。1日1箱では足りない。入院して6週間を過ぎると「退院を目標としたプログラム」に切り替わる。最初は「院内散歩」その後、「院外外出」の許可が出る。外出して友達と会うのも自由だし、そのまま帰ってこないのも自由だ。主治医に見捨てられるけれど。私の場合友達がいないので、院外外出は「買い物デー」となっていた。この買い物を利用して煙草を「密輸」する方法を編み出したのは、当時の私が天才だったからであろう。買い物で「ボックスティッシュ」を買うのだ。そして、「箱の横を開いて、ティッシュをごっそり抜いて、煙草を詰め込む」と言う方法。煙草は軽いので、中でゴソゴソと動かないように注意すれば100%バレなかった。コレで持ち込める煙草は、ボックス1個当たり6個ぐらいが限度であったが、バラで買ったボックスティッシュ3箱で2カートン近く「密輸」出来る。この方法を編み出してからは、煙草で困ることは無くなったし、ほかの喫煙者にも「密輸」を指南した。今はどこの病院も「原則禁煙」なので、手の内をバラシてもいいだろう。当然だが禁制品の「ライター」も持ち込んだ。喫煙室にはライターが備え付けられているのだが、このライターは看護師が朝06:00に喫煙室に持ってきて、鎖とホルダーでガッチリ繋いでしまう。盗むのは不可能だし、盗んだらほかの喫煙者からのヘイトを浴びる羽目になる。そして、就寝時間の21:00になると、ライターは回収されるのだ。本当に辛いものである。昼間は暇なのでついつい昼寝をしてしまう。コレが普通の病院ならば、喫煙所で好き放題吸えるし、何ならちょっと外に出て吸うことだって出来る。しかし、制限が緩い「短期入院病棟」とは言っても、「閉鎖病棟」であることに変わりはない。20:30に飲まされる睡眠薬で眠れるわけもなく、歯ぎしりをするしかなかった。しかし、ライターさえあれば、隠れて吸えるじゃないかと言うことなのだが、臭いでバレる。今なら「加熱式たばこ」もあるが、当時はそんなハイテク機器は無かった。しかし、喫煙者の執念は凄いもので。夜間は2人の看護師が「夜勤=泊り」で勤務しているのだが、その「仮眠時間」を把握して、トイレで吸う。一人が仮眠していれば、もう一人の看護師は「見回りに出ることは無い」と知ったのだ。ならば、ナースステーションから一番遠いトイレでと言うことになり、そこで深夜の密談が行われる。様々な情報が行きかう。昼間の喫煙室で大っぴらに言えない話とか。ぶっちゃけた話、トイレで隠れて吸うために「起きている」と言う本末転倒な話にもなるわけで・・・それでも朝の06:00直前から喫煙室は「ライターを待つ喫煙者」が集まっていた。精神科の患者には喫煙者が多い気がする。
ある日のことだ。私は今は右手首を「アームカバー」で隠している。見せるようなもんじゃ無いので当たり前である。長袖の季節は楽なのだが、夏は仕方がない。右腕だけ日焼けしないことになる。そんな私の傷を見たとある女性患者(シンママ)が「うちの娘もリスカするのよ・・・話をしてやってくれない?」と言いだした。何を話せばいいのか分からないのだが、その娘さんが面会に来た時に、喫煙室を封鎖して娘さんと二人きりにされた。若い子なのは言うまでもないが、顔は憶えていない。お互いに困り果てた。
「何を話せばいいのかな?」
「ねえ?」
と言うことだ。今ならば、必要なのは言葉ではなく「体温だ」と言えるし、そのための助言も懸命に考えるだろうが、当時の私は「可哀そうな僕ちゃん」気取りであったので、どうにも出来なかったのだ。とまれ、出会った入院患者数はかなりの数になる。その中で「若い女性患者」は本当に可愛い子が多かった。私は相当な「面食い」なのだが、そんな私から見ても可愛いと感じる子が多かった。ブサイクもいるが、病棟内でのヒエラルキーは最下層であった。コレはブサイクだからと言う理由ではなく、「陰湿な性格」だからである。ちょうどいい感じのブスは、喫煙室で結婚相手を見つけていたし、「陰湿なブスのメンヘラ」は自然淘汰されるのであろう。酷いことを書いている気もするが、ブサイクだと「メンヘラ」のままでは生きていけないので、自然にメンタルも持ち直すのではないだろうか?人を美醜で判断するなとは言われるが、ちょっと遊ぶ相手と言うならば、可愛い方がいいに決まっている。コレが「メンヘラが暴れて男を追い詰める事件」や、「シンママの連れ子虐待」に繋がるわけだが、結局はシンママが「選んだ相手」なので、当事者責任はあるだろう。男も「メンタルを病んでる子」に手を出したがる傾向がある。簡単に抱けるのだから、「メンヘラ狙い」をするのだろうが、本当に「のめり込むと危険な相手」なので注意して欲しい。
もちろん、かなりの割合で「なんちゃってメンヘラ」がいることも付記しておきたい。
偉そうなことは言えないが。私も当然だがそんな患者仲間の女性に手を出していた。可愛ければ取り敢えずは口説くのが礼儀である。男女が同じ病棟で過ごすのだから、入院中の処方は強烈で、性欲を根こそぎ刈り取っていくのだが、頭の中は「飢えたオス」であるから、どうにか乗っかりたいわけだ、性的な意味で。そんなことばかり考えていたので、喫煙室で仲良くなった可愛い子と「院外外出日」を合わせて遊んだことがある。大人なので、「遊び」もアダルトな領域に及ぶのは、誠に必然であろう。病院の会計から持ち出せる「お小遣い」には制限がある。せいぜい5千円ほどだ。仕方ないので、キャッシュカードも持ち出して銀行で下ろす。ここまでは管理されていない。7千円あればラブホテルで「休憩」出来る。
可愛い子がシャワーを浴びる。交代で私も浴びる。そしていよいよ「合体」となるのだが、股間のリビングストン将軍が勃たない・・・
上に乗っかっているので、真下には可愛い顔がある。そこそこに可愛いのだ。でも勃たない。
戦う ←
逃げる
魔法を使う
と言うわけで続行しようとするのだが、「生勃ち」がやっとであった。どうにか挿入に成功して性交は出来たが、ちょろっと出ただけ。「生勃ちでちょろっと」は男として情けないものである。そう言えば、そんな経験を数年前にもしたことがある。デリバリーヘルスを利用した時のことだ。いつもの店の馴染の嬢が出勤していなかったので、あまり使わない店の子を呼んだ。若い子で、それなりに可愛かったが「ギャル系」である。若干臭い。そんな子が「2万で生」と交渉してきた。いくら何でも高いと思ったので値切った。穴っぽこにそんな価値は無い。愛した女の穴ならプライスレスだが。
で、そんな交渉を挟んだので、股間のぷらいべーとらいあんは柔らかくなってしまった。金は渡してしまったので、中で出さないと大損である。結果、自分で擦る羽目になったのだが、生勃ち状態で逝きそうになって、慌てて挿れたと言うお粗末な話であった。
記憶を失っている数年間。今、時系列を整理してみると、33歳頃から7年弱となるが、そんなものだろうか?しかし、42歳の時には後遺症も無く治っていたので、長くても8年間である。私は一度は精神科と手を切ったのだ。通院不要となった時期があった。仕事の都合で、平日の通院が出来なくなり、薬を出してくれる「日曜診療」のクリニックに移った。精神科医療は「転院」が面倒なのだ。そして、その日曜通院も次第に行かなくなり、ほぼ治ったと言える状態になれた。
あの事件さえなければだが。
その事件から、私の記憶は鮮明になってくる。そのくらい衝撃的であった。当時の私は41歳(逆算すれば)であり、病院への借金ももすぐ終わると言う頃であった。アルバイトは時に掛け持ち、または休みなく働いていた。休日は先輩の紹介でちょっとした写真撮影で稼いでいた。カメラマンと言うほどの仕事ではない。チラシ広告に使われるような「商品写真」は、掲載時は3~4㎝にまで縮小されるし、雑誌の対談の随伴カメラマンでも、やはり撮影者のクレジットは無いような仕事だった。ちょっとした縁でサブカル誌のライターをやっていたこともある。とにかく、金が必要だったのだ。もう精神科の門を叩くこともない。私は「抑うつ」から解放されたし、人付き合いがちょっと不得意になっただけだ。
そんな生活はやはり身体に負担がかかるものだ。私はその時期は警備員のアルバイトをしていた。ベテランの領域に入っていたので、任される現場はかなりハードであった。資格があるので、施設警備への配属を願い出てはいたが、その会社が持つ現場には、施設が少なかった。施設とは、例えば駅でありデパートであり、または病院である。勤務地が変わらないと言う点で非常に気楽な現場である。
さて、任されていた現場は、「光ケーブルの敷設」と言うもので、これがまた酷い。トラックが電柱ごとに停まってケーブルを通すガイドを設置していく。当然だが、後にまたそのガイドにケーブルを通すことになるが、私は「ガイド設置」の担当であった。電柱ごとに10分弱の作業をして、またトラックが走り出す。私ともう一人の警備員は走って追いかける。電柱はほぼ等間隔で立っているので、片側一車線では「交通整理」が必要になる。その交通誘導のバリエーションが様々である。トラックは構うことなく停まっては作業。信号のある交差点や、横断歩道のある場所。はたまた「T字路の出口」と、交通誘導の技量が試される。ベテランでなければ勤まらないのである。しかも、監督に気に入られてしまい、3回目以降は「指名」されるようになった。「昨日の警備員さんを寄越してよ」と言われるのは非常に光栄で、社内でも評価が上がるが、現場は地獄である。雨の日も作業は行われるので、本当に大変な現場であった。そして私は走った拍子に左足首を捻挫してしまった。歩ける程度だが、走るのは無理で、仕方なく事情を話して仕事を休んだ。その日のことである。緊張状態が解除された身体が悲鳴を上げた。
尿管結石である。急に痛み出してしまい、それこそ息も絶え絶えに会社に電話した。「結石みたいで・・・動けません」と。しかし、病院に行くお金がもったいない。どうにか流れてくれないかと、水分をたっぷり摂りながらベッドで過ごしたが、悪化する一方で、ついには大の男が「痛い・・・」と涙を流す羽目になった。限界を感じ、這う這うの体で病院まで行った。私には「行きつけの病院」があり、内科ならここ、外科ならここと言う感じで、行くべき病院があった。受診を待つ間にも脂汗が流れる。11月の事だったと記憶している。
診察結果はむごいものだった。尿管結石を我慢し過ぎて、レントゲンでも分かるくらいに腎臓が腫れ上がり、診断名は「水腎症」である。当然だが緊急入院となった。「よく我慢出来たね・・・」とは、診察してくれた医師の言葉だ。我慢出来ないから病院に来たわけだが・・・
当座の買い物は院内の売店で出来たが、色々と足りないものが出る。入院3日目には点滴のお陰で痛みも治まり歩けるようになったので、いったん帰宅して日用品や着替えをバッグに詰めて病院に帰った。左腕には点滴を入れるルートが確保されたままで、包帯でぐるぐる巻きにされていた。毎回、針を刺されるよりは快適であった。入院生活は10日ほどで済んだ。足の捻挫も良くなっていて、これならすぐに職場復帰出来そうであった。
そして「事件」は起こった。
翌朝、目が醒めたら身体が壊れていた。動かないのだ。今思えば尿管結石が引き金となって「難病」を発症したのだと思う。全身の関節を激痛が襲う。かろうじて動かせるのは右腕だけであった。私は左利きなので非常に不便である。これではオナニーも出来はしないが、当時はちんこのことを思いやる余裕も無かった。1DKの狭いアパートで、トイレまでの3mが歩けない。立ち上がるのに10分はかかるのだ。そして、間接に対して「まっすぐ下に体重をかける」ようにそろりそろりと動く。トイレに行ってベッドに戻るまで20分かかる。困ったことに食料が無い。買い物に出るのも不可能。幸いにも、隣には大家さんの息子さんがいる。薄い壁を叩き続けて大家さんを呼んだ。「歩けないんですっ!」と大声で答えながら、どうにか玄関まで出た。お金を渡して買い物を頼んだ。本当に優しい大家さんであった。弁当を3つと、カップラーメンを買ってきてくれて、「何かあったら遠慮なく言ってくれよな」とまで言ってくれた。
私はこの動かない身体をどうにかする努力をすることにした。トイレに行くのもリハビリである。2日間でどうにもならないことを学んだ。病院に行くことも不可能なので、仕方なしに救急車を呼んだのだが、私を運ぶことすら中々出来ない。階段が急なので、担架が使えず、シーツに包んで運ぼうとするのだが、このシーツの中で身体を曲げることすら激痛で出来ない。しかし運ばないとどうにもならないわけだ。最終的には私の絶叫と共に階段を降ってもらうこととなった。本当に申し訳ないことだが、当時の私の身体はそれほどまでに壊れていたのだ。
病院に到着しても、救急搬送で「すぐに死にそうでもない」場合は「救急処置室」で放置されることがある。それでも私は「病院にいる」と言う安心感と、救急車の揺れでも激痛が走る身体を休めることが出来て良かったと考えていた。診察には数時間を要したが、どこにも異常が無いと言うことで、鎮痛剤を大量に処方され、松葉杖を貸してくれた。両脚が機能していないので、松葉杖は2本である。この松葉杖はレンタル品だったが、長期にわたるレンタルになり、予後不良と言うことで買い取らせてもらった。2本で4千円ほどだった。
家に帰されて、また地獄のような日々が始まった。一人暮らしで身体が動かせないのは致命的である。大家さんを頼ることも考えたが、そこまで甘えるのも気が引けた。何より、精神科入院のせいで他人とコミュニケーションを図ることが苦手になっていた。仕方が無いので、人通りの少ない深夜に、松葉杖で動かない身体を引きずるように歩いてコンビニに行った。左腕も激痛だが、間接では無いので、どうにかなった。鎮痛剤を飲み、座薬の鎮痛剤を挿入しても、動けるのは1時間・・・しかも動けば激痛である。挙句、金も無い。尿管結石の入院費さえまだ払っていないのだ。カップラーメンは買えなかった。割高であるのが理由である。
徐々に回復はしていたが、脚の関節は激痛で動かせない。ただ、座薬鎮痛剤が効いてる時間が伸びた。座薬を入れれば、3時間は動けるようになり、今度は大学病院に行くことにした。一般の病院では分からない原因も、大学病院なら分かるかも知れないと言う希望はあったのだ。結果、まだ若い研修医に当たってしまい「血液検査で異常が無いから健康です」と断言され、私は意気消沈しながら診察室を出た。後ろからその研修医が「転ばないように注意して」と言ったが、ならば入院なり、精密検査をしてくれればいいだろうと腹が立った。私は今でも大学病院が嫌いだ。担当医によって、医療レベルが違い過ぎる。通院にだって途方もない労力がかかる。痛みは座薬で軽快しても、関節そのものは「ふにゃふにゃ」なのである。左腕は「腱鞘炎」と診断されたが、診断されても無意味である。左利き故に、「箸を持てない」日々もあった。私は買ってきた弁当を手掴みで食べるしかなかった。インスタントラーメンも普通には作れない。袋を開封できないのだ。片腕が無い生活は不便である。オナニーも出来やしないのである。インスタントラーメンは、歯で食い破っていた。端っこを噛んで、右手で引き裂くのだ。そして、鍋に放り込んでスープを加える。若干冷めるのを待って、指で引っ張り上げて食べる。こんな暮らしが2週間は続いた。左腕が良くなってからは、生活の質が向上したが、歩けるようにはなっていない。相変わらず、2本の松葉杖で身体を引きずるように歩いて買い物に行っていた。すれ違う主婦の「可哀そうに・・・」の言葉が突き刺さる。
何よりも私を悩ませたのは「眠れない」ことであった。痛いのは我慢出来た。なるべく動かなければいいのだ。しかし、不眠症はそうもいかない。眠れないと言うのは本当に精神まで削ってくる。それでも最初のうちは、昔処方されていた睡眠薬があった。飲めば2時間は眠ることが出来た。しかし、いよいよ睡眠薬が無くなると、全く眠れなくなった。4日も5日も眠れずにいると、脳が自動的にシャットダウンする。不眠の果てに「失神」するわけだ。そして30分で覚醒する。コレの繰り返しで、私はこの3か月の闘病生活で25㎏のダイエットに成功した。性交はしていない。したかった・・・
3か月間の無職である。家賃は滞納していた。本当に大家さんには感謝している。滞納の事実を不動産屋に告げることも無く待ってくれた。生活費や通院費はカメラ機材を売って凌いだ。写真撮影を仕事にしていたので、「プロ用の機材」を使っていたのが幸いした。高いレンズは売却で10万円ほどになった。そんなレンズ数本とカメラボディを売ることでどうにか生活出来た。もう売る機材が無いとなる頃には、松葉杖を使わなくとも「おっかなびっくり」なら歩けるようになっていた。ほぼ完全に治ったと言えるまで4か月を要し、治ればまた借金返済である。出来る仕事と言えば、警備員である。以前とは違う会社で勤務することとなった。この会社は「施設警備」の現場を多く抱えていたので、どうにか楽な現場に配属されることとなった。あとは駐車場警備である。この駐車場警備は非常に楽であった。そこにいればいいのだ。時間が経つのがゆっくり過ぎて頭がおかしくなりそうだったが、動き回り走り回る現場は無理なので仕方がない。日銭も必要だ。稼いだ金は病院への支払いと滞納している家賃に回したいので、警備員の仕事をしながら、昔取った杵柄で、雀荘でアルバイトした。どんな仕事なのかは知っている。そして私は「根反さん」になっていた。昔、どうしても勝てなかったあのジジィのレベルになっていたのだ。「勘が冴える」とでも言うのだろうか?私は「負けることが無かった」のだ。1日に半荘5~6回は打つのだが、「アウトはゼロ」どころか、逆に勝った分を入金するようになっていた。その店とチェーン店を合わせても、私のようなメンバーはいなかった。「アウトプラス」を3か月間続けた。最後は客に「お前は来るな」と嫌われたが、メンバーにはヘボが多く、月中には「アウト規制」がかかるので、打てるのは私ぐらいであった。「アウト規制」がかかっているメンバーも打たされていたが・・・
日銭が入る。コレは店のルールでは違反なのだが、現金でやり取りされる「チップ」をポケットに入れることで日銭にしていた。店も黙認してくれていた。ほぼ常勝のメンバーである。大事にされていたのだ。4か月で雀荘のアルバイトを辞めた。どうにか借金の返済の目途が立ったから。もちろん、精神科の主治医(禿げ古狸)にも「その仕事は辞めないか?」と言われていた。
私は今でもこの難病とお付き合いしている。戦っていると書きたいが、勝てる相手では無いので「病気と共存する」道を選んだ。診断名はまだ無い。「自己免疫疾患」で、頻繁に関節を壊すような感じである。今までは年に2か月は松葉杖生活を送っていたが、最近は悪化してしまい、直近1年間のうち、半年は松葉杖のお世話になった。また線維筋痛症を併発しているので、本当に悪い時期は、通常処方される「最強の鎮痛剤」を使っている。モルヒネまであと少しだ。この鎮痛剤は「意欲を根こそぎ刈り取る」薬で、要は脳を酔っ払い状態にしてしまう。性欲すら消える。私にとって「セックス」とはアイデンティティなので非常に困る。ただ、性欲が消えるだけで精力は落ちないようだ。その強い鎮痛剤を中止して数日後。オナニーをしたら1日に5回出来た。健気にも、私の金玉は「いつかまた逢う日まで」を信じて、精子を生産していたようだ。ありがとう、金玉。そしてニンニクと亜鉛に祝福をっ!
難病持ちとなってしまい、今はそこそこに楽な仕事に就いて生きている。毎月の通院はかなりの負担だが、薬の処方の関係で4週に1回は通院している。
ソレはまだ病院に喫煙所があった頃の話だ。
「あの~?ライター、貸してもらえませんか?」と声をかけられた。喫煙所に入った瞬間から気づいていたその少女の存在。煙草を吸える年齢なので、厳密には「少女」ではないが、小さいし、若いので「少女」と書いた。喫煙所にいるわけがないような、アイドルを超える美しさであった。「可愛い」のではない、「美しい」のだ。足元を見るとサンダル履きであったので、入院患者だと分かった。黒いジャージを着て、ショートボブにした髪は真っ黒で、逆に美しさを際立たせていた。喫煙所でライターを持っていない「うっかりさん」だとは思ったが、ジャージのズボンの前ポケットはライターの形に膨らんでいた。私はポケットからサービスで貰える100円ライターを出して、「コレ、あげるよ」とだけ言った。
こんな美しい人と関わる気は無かった。歳だってかなり違うのだ。
だから私はこの人生を捨てることが無かったとも言える。
真月は私の恋愛を許さないが、この時だけは何故か知らぬ存ぜぬを貫いていたようだ。
長い連載でしたが、ここで終わりにします。辛かったこともあったが、「生きてて良かった」と思うことの方が多い人生だった。私は「今を生きている」ことを誇りにしている。
あの難病発症時にも、私は「生きること」を選択し続けたのだ。
この物語の始まりは「太陽」の名を借りた。
章ごとに太陽から離れて、水星・金星・地球・火星・木製・土星・天王星・海王星の名を借りて。
思えばずいぶんと「遠くまで」来てしまったようで。
私の傍にいる守護の者は「月」の名を借りた。
冥王星は惑星から格下げされたので、「冥の章」は無いのです。
ただ、「冥い瞳」(冥は「くらい」とも読む)がテーマとなるお話はいずれ。
Daisy Cutter Syndrome. 四月朔日 祭 @Memorial-Sky
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