八.垣根

  

 

 あれは折檻だ。

 代官所の門扉が見えたところで、義母は声を落とした。

「宿場にはよく見かけるもの。おまえももはや白井家の者なのですから、無闇に関わり合ってはなりませんよ」

 義母は釘を差すように、そこだけはやや声を太くした。

 大方、飯盛女が何か粗相をしたのだろうということだったが、りくの脳裏には先に見た女の姿が生々しく残り続けている。

 太い縄できつく縛り上げられた身体は、あれで客が取れるものかと思うほどに痩せこけ、投げ出した脚には赤く蚯蚓腫れが幾筋も覗いていた。

 痛々しいというほかはない。

 だというのに、その眼の昏い光だけは真っ直ぐにりくを見ていた。

「……このこと、麟十郎さまには」

「話す必要はありませんよ」

「でも、あのままでは──」

「死にはしません」

 義母は酷薄とも取れる一言を告げて、先に潜戸を入った。

 その背にはそれ以上追求するのを咎めるような気配があり、りくは仕方なく口を噤んで後に続いたのだった。


   ***


 菜切り包丁の切れ味が、今一つ悪いらしい。

 俎板に乗せた大根菜が途中で閊え、りくは包丁の背を押さえた。

「明日にでも研ぎに出したほうが良いかしら」

 夕餉の仕度にかかった下女のたきを手伝って、りくは土間に立っていた。

 たきは白井家がこの地を任されてから来た下女で、近郷の農家の娘である。

 嫁入り前の十四、五歳ほどで、色黒で健康的な娘だった。

 てきぱきと働く娘だが、口数は少なく、どことなく冷たい印象が漂う。

 声を掛ければ返事はするが、それ以上の無駄口というものを一切きかない。

 口が固く真面目な働き者というところで、代官の家には相応しいのだろうが、どうしても取っ付き難い面がある。

 そのたきに聞こえるよう、りくはあえて包丁の切れ味が悪いと呟いたのである。

「明日、街道沿いの金正かねまさに研ぎに出して参ります」

 案の定、たきはそれだけ言うと囲炉裏の火にかけた鍋の様子を見に行った。

「金正なら、私も一緒に行こうかしら」

「他にも御用事ですか。研ぎと一緒に出して参りますよ」

「ああ、いいの。私も少し外を歩きたいから、一緒に行きましょう」

「そうですか」

 たきはすんなり頷いた。

 りくの言う事に何の疑問も抱く様子はなく、ただ黙々と従うのみであるらしい。

 武家の下女としてそれは正しいのだろうが、何の意思も伺えないのは正直なところ不気味ですらある。

 金正は研ぎ師だが、あの旅籠の三軒先の店で、行き来にはまた路地を抜けて行くことになる。

 義母に詮索を止められはしたが、あの女の眼が今も脳裏にこびりついたようで、今もどこかからあの眼がじっと見ているような気がした。


   ***


 じり、と音を立てて行灯の灯が鳴った。

 風が吹き込んだような気配はなかった。

 恐らく小虫がどこからか入り込み、灯に誘われて焼けたのだろう。

 もう子の刻にはなろうか。

 こんな遅くにまで灯を入れてあるのは、麟十郎の執務のためであった。

 嫁いできてからというもの、麟十郎は毎夜遅くまで控え帳やら書状やらに向き合っている。

 りくが寝室に入っても、麟十郎はただ一言、先に休むよう言うだけで、煌々と明かりの灯る中、りくは一人先に夜具に入る。

 毎晩がそんな調子だった。

 新婚にも関わらず、麟十郎は指の一本も触れてこようとはしなかった。

 果たしてこんな夫婦があるのだろうかという気もしたが、互いに気乗りしない縁組ならば、こんなものかも知れない。

 ちらちらと揺れる灯と、麟十郎が走らせる筆の音、紙を手繰る音とが気になって、りくはとうとう身体を起こした。

「どうした、眠れないか」

 麟十郎の声は思いがけず、温和だった。

 灯のせいでりくが寝付けずにいると思ったのか、麟十郎は行灯を横目に見て、またりくを見る。

「じきに終わるが、もう少し辛抱して貰えるか」

「はあ、それは構いませんけど……」

 毎夜遅くまで勤めなければならないほど、代官というのは忙殺されるものだろうか。

 りくの父・丈左衛門も郡奉行という役目柄、確かに多忙な人ではあった。

 父は家にいても入れ代わり立ち代わり役人が出入りし、たまに余暇が出来ても村々の視察を兼ねて川釣りへ出掛ける。

 そういう時は決まって兄を連れ出し、りくを連れて出るのは、年頃の近い娘や嫁のいる家だけであった。

 他家の女たちを見習え、という父の意図が垣間見える気がして、内心疎ましく思っていたのである。

 無論、家々の女たちも様々で、峰のようにからりとした娘もあれば、さとのように控え目で穏やかな気立ての者もいる。

 身分も様々で、上役の家へ行けばその差からこちらが気負ってしまうし、配下の家へ行けば逆に気を遣われる。

 なかなかに面倒なものであった。

 その点、道場はいくらか気が楽だった。

 りくが女だからと邪険にするような門弟はなく、何より気の合う孫六と話すのが楽しかったのだ。

(どうして父上はこんな風采の上がらない方との縁談を進めたのかしら)

 再び文机に目を落とし、真剣な面持ちで筆を執る麟十郎の横顔を眺める。

 初めて立ち合った時に受けた、文弱の印象は今も変わらない。

 如何に学問の成績が良かろうと、道場ではただ打ちのめされるだけでぱっとしない男だった。

 道場仲間の大半に見下されながら生真面目に通い続けていたが、嫌にならなかったのだろうか。

 りくなど、一向に上達しない針に嫌気が差して、結局は諦めてしまったというのに。

 それとも、他に何か通い続けねばならない理由でもあったのか。

 役替えで遠代官になって道場に通えなくなったことは、或いは麟十郎にとって幸いだったのではないだろうか。

「明日、たきを連れて出かけてきます」

「……そうか。気を付けて行きなさい」

 上げかけた顔を止めて中空を見たまま返事をし、麟十郎はまた目を伏せた。

 まるで興味がない、といった風である。

 どこへ行くのか、何の用事があるのか、そういう一切を何も詮索しない。

 真面目ではあるのだろうが、それだけだと思った。

「………」

 逆にこちらから問うてみようかとじっと窺い見たものの、麟十郎は一向にこちらを気にかける素振りもない。

 結局、問い掛けること自体が馬鹿馬鹿しく思えて、りくは再び夜具に包まったのだった。



【九.へ続く】

 

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雪の果て 紫乃森統子 @shinomoritoko

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