エピローグ ララ
巡る因果
ララの一番古い記憶は、母に連れられて見た、黄金の麦畑だ。
「見てごらん、ララ。この麦畑はね──……」
その時母が何を言っていたのか、ずっと思い出せなかった。
風に揺れる美しい黄金の記憶しかない。
けれどメリーアンに言われて、やっと思い出せた。
母は言ったのだ。
「見てごらん、ララ。この麦畑はね、神様が生んだみたいに綺麗だろ? でも違うんだよ。人の手で一つ一つ、麦を撒いたんだ。人の手で麦を育てたんだ。この景色は、私たちみんなで作ったんだよ」
この景色を作ったのは誰か。
誰が麦を植えたのか。
──他でもない、人間だ。人間が汗水を垂らして、必死に麦を育てたのだ。
そんな当たり前のことも忘れていた。
自分は神にでもなったつもりで、風に揺れる麦を見ていた。でもこの景色は、神の作った景色などではない。人の努力によって作られた景色だ。
ララは、麦からできたパンで育った。
たくさんの人の手によって、生かされていた。
それなのに感謝ひとつせず、それらを当たり前のように受け取っていた。
ララは神などではない。ただの人間だったのに。
*
ララとユリウスは事件後、財産を全て取り上げられた上で、辺境の地へ追放された。
最初は、なぜ自分がこんな目に遭わなければいけないのかと、ララは理解できなかった。生活も困窮し、日々食べるものにも困った。ユリウスが新しく始めた畑仕事も手伝わされ、優雅な暮らしから一転、辛い日々が続いた。
幸いなことに、子どもは無事に産まれた。体も丈夫で、よく笑う子どもだった。
自分の腕の中にいるあたたかくて小さな存在を、ララは心底大切に感じた。ララは、一人の人間を守らなければならなかった。その使命が、彼女を成長させた。
子どもの世話は大変だった。熱を出すたび、どうか死なないでと神に祈った。子どもに栄養のあるものを食べさせたくて、ララはよく働くようになった。必死に働くララとユリウスを見て、冷たかった周りの人々も、少しずつ協力してくれるようになった。
お腹いっぱい食べられること。寒さをしのげる家があること。辛い時に、助けてくれる人がいること。その全てを、初めてララはありがたいと思った。人は一人では生きていけないのだと、子どもの世話を通して知った。ララはようやく、常識というものを知ったのだ。
貧しくても、仕事が辛くても、ただ生きているだけで幸せだった。夫と子どものおかげで、ララは普通の人間になることができた。
*
さて。
今日でララとユリウスが辺境の地に追放されて、十年がたった。
子どもも十歳になり、最近は腰を痛めたララを気遣って、たくさん仕事を手伝ってくれる。
「十歳か。あの子も大きくなったわね」
椅子に座って繕い物をしながら、そんなことを呟く。
しかしふと、何か引っ掛かりを覚えた。
十。
十?
十とは、なんの数字だったか。
しばらくして、ララはああ、と呟いた。
(メリーアンさんと、ユリウスが過ごした年月だわ)
メリーアンのことを思い出して、ララの胸に重たい痛みが走った。
七歳の時にユリウスと一緒に暮らし始めた婚約者のメリーアン。
十七歳のとき、ララがユリウスを奪ったのだ。
(でも、メリーアンさんは、私ではとても手が届かないような人と結婚した……)
とても幸せそうだと、風の噂で聞いている。
だったら、もう許してくれるわよね? 私は、許されるわよね?
と心の中で考えていると、家のドアがあいた。
畑仕事に出ていたユリウスが、戻ってきたのだ。ララは立ち上がって、夫を迎えに行く。
夕方の眩しい光を背にして、ユリウスが玄関に立っていた。
ユリウスはいつも通り、ニコニコと笑っている。
「ただいま、ララ」
「おかえりなさ……」
──奇妙な香りが、鼻についた。甘くてきつい、人工的な香り。けれど、どこかで嗅いだことのある匂いだ。
あ、香水。
ララは昔、王宮で貴族の娘たちが振っていた香水の香りを思い出した。
なぜ香水の香りが、ユリウスから漂っているのか。
「……ユリウス、畑の様子はどうだった?」
「ん? ああ、いつも通りだと思うよ。あの子が見てくれているから大丈夫」
「……あなたは、畑に行ったんじゃなかったの?」
「……あ、えっと、行ったよ。でもちょっと、別の農家の方と相談があってさ」
ユリウスは、しどろもどろになりながら、誤魔化すように別の話を始めた。
「それより聞いたかい? 新しい聖女様が生まれた話。すごく綺麗な人らしいね。新しい聖女様はさ──……」
ねえユリウス。
どうして女性ものの香水の香りがするの?
どうして最近、身だしなみに気を使うようになったの?
どうして、家を空ける時間が多くなったの?
ねえ。
どうして?
ど う し て な の。
因果応報。自分の行いは、巡り巡って、必ず帰ってくる。
呆然とするララの頬を、一筋の冷たい汗がつうっと滑り落ちた──……。
エピローグ ララ END.
聖女様に婚約者を奪われたので、魔法史博物館に引きこもります。 END.
2024/8/10 執筆終了
Thank you for reading.
【完結】聖女様に婚約者を奪われたので、魔法史博物館に引きこもります。 美雨音ハル @andCHOCOLAT
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