BREMEN

ぷにばら

BREMEN

 この9年間は今日のためにあったのだ。

 僕は強くそう思う。

 目の前のモニターには、既に準備が整っている計4人のバンドセット隊と計8人の弦楽器隊が各々ゆったりと過ごしている。余裕があるのはこれまでの経験の賜物だろう。

 その隣のモニターでは、開場が始まった場内が映し出されており、来場した人の波が粘度をもった液体のように客席を満たしていく。

 チケットは発売初日にソールドアウトしている。開演する頃にはこのライブハウスの客席を3000人強の人々が埋め尽くしているはずだ。

 僕のために時間を割いて来てくれる人がこんなにもいるという事実だけで、胸が熱くなる。

 目の前のフライヤーに目を落とす。そこには『Vtuber弓弦モケ ファースト有観客ライブ【BREMEN】』と記載されている。


 無線のイヤーモニターから、スタッフの呼びかけが聞こえる。

 僕は控室を出て、上手側のステージ裏に入る扉を素通りし、普段は倉庫として利用されている部屋へ入った。

 そこは、グリーンバックと呼ばれる緑色のスクリーンが部屋の四方と床に張られていた。

 中央を避けるように、録音や撮影のための機材が点在しており、数人のスタッフ達が調整を行っている。

 僕は挨拶をしてから、カメラが映しているエリアへ足を踏み入れた。

 確認用モニターを見ると、見慣れた3Dモデルが僕の動きと鏡合わせに同じ挙動をしている。

 ロバのように垂れた耳が特徴的な、少年とも少女ともつかない中性的な顔立ちのキャラクター。

 モニターに映っているのは弓弦モケ――僕の分身であり、僕そのものだ。

 試しに口角を上げてみる。するとモニターの中の弓弦モケは笑みをこぼした。トラッキングに問題はないようだ。

 でもどうしてか、いつもと同じ表情をしているはずの3Dモデルが少し緊張しているように見えた。それは、見る側の――つまり僕の心の持ちようがそう見せているのかもしれない。


 今日は、僕――弓弦モケにとって初めての有観客ライブなのだ。

 ライブハウスを押さえ、撮影や音響などそれぞれ専門のスタッフを雇い、演出家の手を借り、ミュージシャンに生演奏を依頼した。

 幾度の話し合い、リハーサルを経て、今日を迎えた。

 ようやくここまできたのだ、と改めて思う。

 アンビエントマイクが数本ぐるりと取り囲んでいる、部屋の中央へゆっくり歩く。

 バナナから着想を得たかのような特殊な形状の椅子が置かれている。

 そこに座ってるのは、僕の祖父――吉乃お爺ちゃんだ。

 祖父はまるでこの世から切り離されているかのように眠っている。

 この9年間、祖父は目を覚ましていない。

「やっと、今日を迎えたよ」

 僕は吉乃お爺ちゃんに話しかける。

 当然、反応はない。

 僕は祖父が着ているセーターを脱がす。

 痩せすぎず、太すぎない上半身があらわになる。

 室温には十分気を使っているため、寒くはないはずだ。

 車椅子の後ろにあるチェロ椅子に腰かける。

 祖父を後ろから抱きしめるようにして手を回す。

 僕はいつものように左手の人差し指と親指で祖父の左乳首を軽くつまむ。

 軽く息を吸ってから、右手で祖父の右乳首を押し付けるようにゆっくり擦る。その動作は――運弓法ボーイングのイメージだ。

 祖父の口から松脂を塗りたての弓で弦を弾いたような、豊かな音色が響いた。

 それは、スプルース材で丁寧に作られた名器に勝るとも劣らない、チェロの音そのものであった。

 チューニングをするまでもなく、その音はきっかりAを鳴らしている。

 そのまま腕慣らしに、『ユモレスク第7番』を演奏する。

 左の乳首を細かく制御して音程変化をつける。右の乳首は優しく、時に激しく擦ることで弓で表現するように音色にダイナミクスをもたらす。

 祖父の口からは絶え間なく美しく芳醇なチェロの音が奏でられた。

大丈夫みたいだね」

 一通り弾き終えてから、僕は労わりを込めて祖父の肩を撫でた。

 ふと目をやると、モニター上で弓弦モケはチェロを構えている。

 それはそのまま僕と祖父の恰好に相似だ。

 僕が祖父を奏でる時、弓弦モケはチェロを奏でる。

 僕が祖父を奏でる時、その音を聞いてチェロではないと思う人間はいない。

 チャンネル登録者数が150万人がいて、一度たりともそこに疑いを向けられたことはない。


 ――僕は祖父チェロを弾いて、Vtuber活動を行っている。


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 うちの一家は代々有名な音楽家を輩出してきた家系だ。

 祖父は声楽を専門とした音楽家だった。

 テノールからバリトンまで見事に歌いこなす、有名な歌手であった。

 祖父は僕にだけこっそり声帯模写の特技を披露するのが好きだった。

 鳥の声から楽器の音色ねいろまで、まるで喉の中に百貨店を備えているかのようなバリエーション豊かな声を出した。

 当時プロのチェリストを志していた僕は、よく祖父にチェロ役をやってもらい、僕自身は楽器を弾いて二重奏をすることをせがんだ。

 演奏の息が合うと、決まって祖父は孫煩悩な笑顔で僕の頭を撫でてくれた。

 このまま祖父のような有名な音楽家になって一緒にステージに立つのだと、そう無邪気に考えていた。


 忘れもしない10歳の夏。

 事故によって、僕は右手の握力と――祖父の笑顔を失った。

 祖父が運転する車に、横合いから居眠り車両が突っ込んできたのだ。

 助手席に乗っていた僕は、ガラス片で手の筋を傷つけて以前のように弓が握れなくなった。

 祖父はいわゆる植物状態となった。


 この家の実権を握っていた父と母は、僕と祖父の心配よりも、もう音楽ができないであろうことを残念がっているようだった。

 僕は握力を取り戻そうと必死にリハビリを行ったが、改善はしなかった。

 そして、事故のことで責任を感じた僕は、目覚めない祖父の世話を率先して買って出た。

 苛烈なリハビリと祖父の介護の往復の中で、僕はを発見した。

 それは祖父の身体を拭いている時だった。

 乳首にタオルが擦れた時、わずかに声がしたのだ。

 僕はすぐさま、それがチェロの音だということに気づいた。

 その時の感情を、どう言葉にすればいいだろう。

 運命だ――という直感に近い情動だったかもしれない。

 すぐに僕は祖父の乳首の使い方を学習した。

 そもそも膜を振動させて音を出す喉と、弦を擦って鳴らすチェロとは、音の鳴る原理からして違うはずだ。

 しかし不思議なことに、乳首をこねると、それに対応して祖父の喉はチェロの音色を奏でたのだった。

 仕組みは分からなったが、その時の僕は意識のない祖父からの贈り物だと思った。

 練習の末、僕は祖父が入院する病院で人を集めて『きらきら星』を披露した。

 聴いた全員が怪訝な顔をした。

 こんなに素敵な音なのにどうしてだろうと思い、駅前まで祖父を連れ出した。半裸にした祖父の乳首を弄って同じように演奏をした。ほどなくして警察官がやってきて、署へ連れてかれた。

 迎えにきた両親は顔を真っ赤にして、警察官に謝ったり僕を叱ったりした。

 僕は訳が分からないまま、ごめんなさいと言った。

 きっと、両親が、僕を――そして祖父を本当に諦めたのはその時だったのだろう。

 僕と祖父に全く見向きしなくなり、世間から隠すようになった。

 自宅療養に切り替えた祖父の世話は週5で家にくるヘルパーさんと僕に任せきりになった。

 自分が原因であることだけは分かっていた僕は祖父のことを誰にも話さなくなった。

 けれど、祖父を奏でることはやめなかった。

 ヘルパーさんと親の目を盗んでは、たびたび祖父の乳首を捻って擦った。

 最低限、普通の学生と同じように学校に通う生活を送った。


 高校生になった年の春。

 ふと大手Vtuber事務所のライバー募集の告知が目に入った。

 祖父のことが頭をよぎる。

 Vtuberになれば、誰からも咎められずに演奏を聴いてもらえるのではないか。

 そう思い、すぐさま募集した。

 幸運だったのは、幼いころから舞台経験で度胸があり話すのも得意だったことと、変声期が来ないおかげで男性では珍しい中性的な声だったことだ。

 デビューが決まり、僕には弓弦モケという名前と身体が与えられた。


 そこからは時間があっという間に過ぎていった。

 デビュー配信の時は右も左も分からず、その様子が面白いと視聴者から弄られた。

 演奏枠と称して、初めて放送で祖父を弾いた時にはさすがに緊張した。

 歌ってほしいという声に応えて歌うようになって、いまでは祖父で弾き語りができるようになった。

 同じ事務所の先輩や後輩とゲーム配信したり、オフコラボ配信もした。

 人気を得るためにどうすればいいか、同期と朝まで話し合った。

 その甲斐あってか、活動4年目にしてチャンネル登録者が100万人を超えた時は放送中に大泣きしてしまった。

 僕はその時にを決めて、このライブを行うことを決めた。


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 ライブが始まった。

 最初の曲は、僕の初めてのオリジナル曲『Donky』だ。

 愉快なリズムにおどけた調子のピアノとストリングスが乗っかる。

 僕はリハ通り、チェロを弾きながら歌を歌う。

 いくつかあるうちの一つのモニターが目に入る。

 それは客席視点からの映像だった。

 透明なスクリーンに楽しそうにチェロを演奏して歌う弓弦モケの姿が映されていて、その背後では楽器隊がこれまた愉快そうに曲を盛り上げている。

 別のモニターに目を向けると、今度はステージから客席を一望した映像を見つける。

 暗い場内だが、ステージのライトが照り返してはっきりと見えた。

 そこには、数多の笑顔があった。

 この会場にいるおそらくほぼ全員がこの曲を知っているのだ。

 曲中ずっとオレンジ色のサイリウムが瞬いており、コール&レスポンスでは皆が心底楽しそうに掛け声を返してくれる。

 明るい曲だというのに、感極まって泣いている子もいる。

 間奏中、僕は祖父にだけ聞こえるように「嬉しいね」と囁く。

 そこでようやく、いま祖父と共に舞台に立っているのだという実感が沸いた。

 ずっと夢だった、祖父とのステージでの共演。

 なんだか、僕の涙腺も熱を帯びてきていて、しかしそれをぐっと食い止める。

 僕は、弓弦モケとして目の前のファンを楽しませなければならない――いや、楽しませたいのだ。


 MCを挟んで次の曲に入る。

 その時、これまで何度も考えたことがある妄想が顔を出す。

 それは『いまこの場で僕と祖父の姿が晒されたら、ファンはどんな反応をするのかな』という被虐めいた妄想だ。

 Vtuberに顔バレがご法度なのはもちろんだが、チェロが実は祖父だったとバレたらどうなるのだろう。

 いま客席でノッてくれているファンも、手の平を返して失望してしまうのだろうか。

 鳴らしている音楽も、それに感動したという事実も変わりはしないのに、それらを全部否定してしまうのだろうか。

 そんなことをふとした時に考えてしまう。

 きっとその妄想は事実で、祖父のことがバレた時には非難されたり、悲しませることになるだろうと思う。

 でもいまこの場でその答えを見つけたような気がした。

 音楽の価値というのは状況や心情によって簡単に損ねられる。

 だからこそ、守る必要があるのだ、と。

 楽しいという気持ちは簡単に揺らいでしまうからこそ、それを壊してしまわないように丁寧に扱わなければいけないのだ。


 その自分で見つけた答えが僕がは間違いでなかったと確信させた。

 僕は――弓弦モケは、このライブ後に引退を発表する。


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 ライブは終盤に差し掛かっていた。

 僕は祖父の声に微妙な違和感を感じていた。実はこれまでに何度かあったことだ。

 吉乃お爺ちゃんは限りなく楽器に近くはあるが、人間だ。

 弓弦モケとして活動し始めた頃はそうではなかったが、長く演奏していると祖父の声が精彩を欠く瞬間が次第に増えていることに気づいた。

 今でこそに僕にしか分からない程度ではあるが、いつか誰かがチェロではなく人間だと気づく日がくるかもしれない。

 その時は、先ほど妄想したように、ファンは失望に駆られて僕と祖父を叩くのだろうと思う。

 それは――嫌だ。

 最初に嘘をついたのは僕だけど、だからこそ綺麗なままで終わりにしたいのだ。

 しかし、その祈りは空しく散ることになる。


 


 それは、最後から二番目の曲の演奏のラストに、確かに聴こえた。

 何事かと祖父を見ると、いつもと同じ穏やかな寝顔をしていた。

 しかし左乳首を上向きにして右乳首を擦っても、音が鳴らない。

「え……?」

 擦る。こねる。引っ張る。つねる。

 使い込まれた乳首に何をしても反応はない。

 スタッフが異変に気付いたようで、こちらのマイクを切って、カメラを止める。ステージを映すモニターの中で、弓弦モケの姿が消えた。

 慌ただしく、脈や呼吸を確認したり、救急車を呼ぶかを話し合ったりしている。


 僕は茫然とその様子を眺めていた。

 理性ではこのまま祖父チェロを抜きにしてライブを進めるべきだと分かっていた。

 けれど、感情はそれを良しとしない。

 だってそうじゃないか。

 今日だって、これまでだって、僕は祖父と一緒にやってきたのだ。

 そんな簡単に、諦めてたまるか。

「……吉乃お爺ちゃん」

 仰向けに寝かされた祖父の、右乳首を摘まむ。

 反応はない。

「お願いだよ、あと1曲なんだ」

 力を籠める。

 反応はない。

「これが終わったら二人でゆっくり過ごそう?」

 引っ張る。

 反応はない。

「あと……ほんの数分でいいから……!」

 ブチン。

 力を入れすぎたのか、乳首がもげる。

 やはり反応はない。

「…………」

 じわりと出血していく乳輪を眺める。

 これでは音が鳴ったとしても、もう繊細なコントロールは望めないだろう。

 乳首を千切った後悔よりも、虚無感のほうが勝る。

 このまま何もかも終わりなのだろうか。

 ――その時だった。

 客席から声が聞こえた。

 弓弦モケ。

 僕の名前を呼ぶ声だ。

 その声は徐々に大きくなっていき、イヤーモニターなしで扉ごしに聞こえた。

 ファンが応援してくれているのだ。

 その声は、生の声援となって僕に届いた。

「――っ!!」

 僕は立ち上がった。

 何を諦めているんだ。

 二人でできなくたって、いや二人でできないからこそ、僕がやるべきなんじゃないか。

 いけます、とスタッフに伝えようとしたところで、

「い……」

 息を漏らすような声がどこからか聞こえた。


 耳を澄ます。

 その音の発生源は――祖父だ。


「いってええええええええ!!!!!!!」

 祖父がぐわりと目を見開いて、飛び起きた。

 スタッフは仰天して、僕も驚いている。

 けれどやるべきことは一瞬で把握した。

 僕はすぐさま脇に置いてある自分の鞄からを取り出す。

「なんだ、ここ……。どこなんだ」と狼狽する祖父に、僕はその紙を差し出した。

「おはよう、吉乃お爺ちゃん」

 僕は涙ぐみながら、告げる。

 祖父は、イメージにある僕と現実の僕のギャップに驚いた様子だ。

 9年振りなのだから無理はない。

 けれど、手渡されたそれが楽譜であることに気づくと、すぐにニヤリといたずらっぽい笑みを見せた。


 曲名は『BREMEN』。

 僕と祖父の、最初で最後のが始まる。

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BREMEN ぷにばら @Punibara

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