せめて灰になるまで
御角
せめて灰になるまで
「すみませーん、ビール追加で!」
「はーい! 少々お待ちください!」
閉店間際だと言うのに、泥酔したサラリーマンからすました顔のOLまで、様々な客が追加注文という名の祝砲で宴会を盛り上げ続ける。大学に入り2年間、ろくにバイトもしてこなかったのに、こんな
「いらっしゃいませー!」
私は必死で体裁を
「ここ、いいですか?」
そう私に問う目の前の客は、忘れもしない、高校時代の担任の先生だった。
「ど、どうぞ。今の時間ですとラストオーダーになりますが、ご注文は?」
化粧のせいか、それとも数ある元教え子の一人など覚えていないのかはわからないが、先生は、目の前の店員が知り合いであるとは夢にも思っていない様子だった。
「じゃあ、日本酒を。
そう言って微笑む顔は、あの頃と変わらず愛嬌があって爽やかで。喧騒の中で、自分の心臓がいまだにチリチリと
「久しぶりだねー。もう少し早く来たらサービスしたのに」
先生はどうやら店主との付き合いが長いようで、ちびりちびりと熱燗で喉を潤しながら、昔話に花を咲かせているようだった。
「いやー。実は、ちょうど妻を病院まで送り届けて来たところでして」
その言葉に、私の全身がピタリと働くことを放棄する。嘘だ、だって、2年前にはそんな人……。
「ええ!? 付き
「まあ、本当は付き添いたいところなんですが、予定日より早いものですから、最後に酒とタバコを楽しんでこいと妻が……」
「ありゃ、随分できた奥さんじゃないの。本当、大したものが出せなくてすまないね……。最後の熱燗とタバコ、存分に楽しんでからちゃんと病院に行ってあげなよ」
「勿論ですとも」
そう息巻いて、先生はグイッと日本酒を飲み込んだ。こんなに顔が赤い先生は、初めて見た。
「おーい、そよちゃん。灰皿、向こうの席から持ってきて!」
店主の呼びかけでハッと我に帰る。いつの間にか、先生以外の客は皆、座席を荒らし回った挙句、また別の店へと旅立ったようだった。
「はーい」
どうせここには3人しかいないのだ。声を張る必要はないし、今はとても張れる気分ではない。私は一番手近にあった石の灰皿を、そっと先生の前に置き、再び片付けに集中した。
そうでもしないと、今にも胸が炭になってしまいそうで、手足が灰になってしまいそうでどうしようもなかった。
ふと、懐かしいメンソールの香りが店内に漂う。ずっと好きだった香り。初恋の、香り。
フーッと、大きなため息とともに、背後に
先生と出会ったあの日から、私はずっと、この身を燃やし続けているのだ。それを消すすべを、今の今まで知らなかったのだ。
「……ごちそうさん」
先生は空の一升瓶と吸い殻の残る灰皿を置き土産に、さらっと会計を済ませた。
「ありがとうございました」
心とは反対に冷え切った頭を下げる。先生は、すれ違い様に右手を下ろし、私の髪をそっと撫でた。
「見ないうちに綺麗になったな、橘」
一瞬で撫でられた部分が熱を帯びる。慌てて顔を上げたが、すでに扉は閉ざされた後だった。
「……なんで、消えかけたのに消してくれないのかな」
店主はゴミを出しに行ったらしい。店内にあるのは惨めに燃え残った私と、彼が消し忘れたタバコの吸い殻。
そっと持ち上げ、ゆっくりと口に含んで、あの頃みたいに深呼吸した。先生の唾液が、息が、私に空気を送り込む。先生の味が胸一杯に広がって、吸い殻が一気に灰へと変わって、全身の血管が、酸素を求めてのたうち回って。
指と唇が火傷するほど、私は先生が好きだった。彼が私に残したタバコの香り。消し忘れた私の思いは、今、ようやく、全部真っ白に燃え尽きた。
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