第3話 マル坊

マル坊



 恵美菜は車を降りると、両手を空へ向かって挙げて思い切り体を伸ばした。腕と足からパキパキと乾いた枝が折れるような小気味良い音が鳴った。

 昨日は丸一日ずっと雨が降っていた。仕事がある日に雨が降ると陰鬱な気持ちになる。しかし今日は雲ひとつ無い晴天だった。地面はまだ湿っているものの、心地良い 気温と湿度で朝から踊りたくなるほど気分が良かった。

 砂利道の駐車場を抜け、事務所の入り口へ向かった。

 ドアノブを回すと鍵がかかっていなかった。恵美菜は不用心な、と思ったがこんな山中にポツンと佇んでいる、さびれて薄汚れた事務所へわざわざ盗みに入る輩など中々いないだろう。

 木々に囲まれて人気の無い場所だから逆に狙われやすいという事もあるかもしれないが、事務所内に金目の物は型落ちのパソコンくらいしかない。そんな型落ちの機械を売り払ったところで二束三文にしかならないので、盗みに入った者がいたとしたら気の毒と言うほかない。

 鍵をかけずに出掛けたのも、どうせいつも通り社長だろうし、恵美菜は特に気にする事無く薄っぺらのドアを開けて中へ入った。

恵美奈はこの会社に勤め出して半年が過ぎていた。社員が社長を含めて五人だけという零細企業だ。二十代で三回転職を繰り返したが、今の会社は一番居心地が良かった。

 職場は山奥のプレハブみたいなボロイ事務所で、日々事務作業や電話対応をこなすだけの毎日。単調で簡単な作業の上、事務所には恵美奈以外の社員はほとんど顔を見せない日が多かった。

 社長を含めて恵美奈以外の人達は、現場へ直行してそのまま帰宅する場合がほとんどだ。だから恵美奈は一人でのんびり仕事が出来るこの環境がとても気に入っていた。

 事務所へ入ると案の定、中には誰もいなかった。特に泥棒の入った痕跡が無い事を軽く目視で確認すると、恵美菜は自身の机の上にカバンを置いた。壁側に五つ並んだ机の一番端が恵美菜の席だった。

 パソコンの電源を入れてモニターの電源も入れると、スイッチ部分がポロッと下へ落ちた。

 「あー、またか。」

 恵美菜は机の上に転がったスイッチを拾うと元の場所にはめ込んだ。だいぶガタが来ているのか、恵美菜が使っているモニターはスイッチ部分が頻繁に外れる。裏側には配線の補強のためかガムテープが張られていた。

 買い換えたらどうかと社長に進言した事もあったが、まだ使えるとの事であっさり却下された。物持ちが良い事は悪くはないと思うが、このパソコンは動作も遅いし時々強制終了する事もある。仕事への影響は大きいと思うのだが、そもそも社員でパソコンを使うのはほとんどが恵美菜だけだった。だから社長もいまひとつ危機感が無いのだろう。

 全体的に陽に焼かれてしまったのか黄色く濁ったキーボードを見ていたら、無性に綺麗にしたくなった。

恵美菜は机の上に置いてあったウェットティッシュで手垢の付いたキーボードの表面を拭いた。

 それが終わると事務所の端にある小さな冷蔵庫を開けて、中から買い置きしてあったアイスコーヒーをコップに入れた。給湯室でもあれば電気ケトルでも置いて、淹れたてのコーヒーを堪能したいところだが、こんな貧乏会社にはそんな立派な設備など無い。

 入社したての頃は、こんなオンボロ環境でこの会社は大丈夫なのかと思った。

入り口のドアが外れた事は一度や二度ではない。事務所の外壁にある鉄部分は真っ赤に錆びているし、トタンで出来た屋根は雨が降ると室内に銃弾でも撃ち込まれたみたいな爆音が響く。周りが森だからかムカデやカメムシなどの虫も頻繁に姿を見せる。

しかし住めば都と言うのか、今では大して気にせず仕事をこなせるようになった。

 「でもパソコンだけは何とかして欲しいなぁ~。」

 恵美菜は歩きながらコーヒーを少量だけ口に含むと、自身の席に座って早速仕事を始めた。普段ならダラダラしてから適当に仕事を始めるのだが、今はやるべき事が非常に多かった。

 しばらくキーボードを叩きながらやるべき事を進めた。一時間ほど経ち、机の上にあるぬるくなったコーヒーに手を伸ばすと、何やら窓の外でガタッと小さな音がした。

 恵美菜は何かと思い、コップを机の上に置くと窓の方向へ向かった。

 「あ!マル坊か。」

 事務所に一つだけある窓を覗くと、丁度窓の下に置いてある小さな物置の上に大きな猫が座っていた。黒と濃い茶色の縞模様で、野良猫の癖に丸々と太っている事から社長がマル坊と名付けて呼んでいた。

 「久しぶりだね~。一週間ぶりくらい?今開けるからちょっと待ってて。」

 恵美菜はそう言うと、窓と網戸を開けた。するとマル坊は慣れた様子で軽くジャンプして開いた窓から事務所の中に入った。足音も無く地面に降りると、我が物顔で狭い事務所内を歩き回っている。

 恵美菜は窓を閉める前に軽く外に顔を出して周りを確認した。

 「よし。誰も帰って来ないね。」

 マル坊は直々に名前を貰っているにもかかわらず社長からは嫌われていた。勝手に事務所内に入れたところを見られでもしたら、ひどい叱責を受ける事は予想出来た。

この猫は普段は会社周りの森に住んでいて、たまに事務所の窓際に来ては何をするわけでもなく静かに中を覗く事があった。

 「何が目的で来ているのかわからんところが不気味だ」と社長は言っていたが、他の社員は社長がマル坊を快く思っていない原因を知っているようだった。恵美菜が社長に隠れてこっそり聞くと、社長には内緒にする事を条件に教えてくれた。

 恵美菜が入社する前の事だが、ある五十代のおばさん社員がいた。その人は今の恵美菜と同じ仕事をしており、恵美菜と入れ替わる形で会社を辞めていった。恵美菜は顔も見た事の無い人だったが、どうもその人が隠れてマル坊に餌付けをしていたらしいのだ。

 以前から事務所は事務員以外の人はあまり寄り付かず、人気の無い状態だった。その中で仕事をしていたおばさんはたまたま窓際に来たマル坊に、冷蔵庫にあった唐揚げの衣を剥がして中の肉部分をマル坊に与えた。するとそれに味を占めたのか、マル坊は気が向くと窓際に来て餌を催促するようになった。

 その後はおばさんが社長に隠れて猫用の餌をマル坊に与え続けた。そしておばさんが会社を辞め後でも、餌を求めてたまに窓際に来るようになった。

恵美菜はその話を聞いた後、おばさんの次に事務所に常駐している自分がその役目を引き継ぐべきだと思った。

 元々動物好きで、特に猫に関してはいつか飼ってみたいと思っているほど好きだった。いつかは猫を飼うつもりだから、今の内に猫の世話を体験してみたいという思惑もあった。

 「餌をあげても良いけど、社長にだけはバレないようにね。」

 会社の先輩からは念を押されたが、普段から恵美奈以外の人はあまり寄り付かない事務所なので、よほどの事が無い限りはバレる心配はないと思っていた。

 「マルちゃん、ちょっと待っててね~。今用意するから。」

 恵美菜は自分の机の引き出しを開けた。中には書類に紛れて猫用の小分けにされたドライフードが入っていた。その餌と一緒に金属製の皿を取り出した。

するとその姿を見たマル坊が「ニャー」と高い声で鳴き、恵美菜の足元に尻尾を立てて擦り寄ってきた。

 ドライフードの封を切って餌皿の中に入れると、カラカラと乾いた音が事務所の中に響いた。足元に目をやると、マル坊が期待した瞳で恵美菜を見上げていた。

 「は~い、どうぞ。」

 餌皿を地面に置くと、マル坊は顔を皿の中に突っ込み勢い良く食べ始めた。ガリガリと音を鳴らして目を細めながら美味しそうに堪能している。

恵美菜はその様子をしゃがんで見ていた。

 「カワイイなぁ~。」

 家に連れて帰ろうかと思った事もあった。

 この子は野良猫だし、誰かに迷惑をかける訳でもないだろう。しかしマル坊には、この森の中での生活があるのだ。もしかすると奥さんや子供もいるのかもしれない。

そう考えると躊躇してしまう。恵美菜にとってはたまに来るマル坊に餌を与える、これだけの関係の方が丁度良いのかもしれないと思っていた。

マル坊は餌を食べ終わると、その巨体を揺らしながら陽の当たる場所まで行き、優雅に毛繕いを始めた。

 その姿を見て恵美奈にある考えが浮かんだ。

 「抱っこ、してみようかな。」

 恵美菜は今までマル坊を抱いた事が無かった。背中を撫でた事はあったが抱える行為は難易度が高そうに思えて実行に移せなかった。

 今後猫を飼うつもりの恵美奈は、マル坊で猫の扱いを学んでおきたかった。

 満腹のマル坊は眠そうに目を細めていた。恵美菜はその背後から静かに近づき、そっとマル坊の脇に両手を差し込んでゆっくりと持ち上げた。

 突然の事にマル坊は驚き目を見開いたが、特に暴れる様子も無かった。恵美菜は左手をマル坊の脇に差し込んだまま、右手を尻の部分に持って行ってから自身の胸部に引き寄せた。

 「マルちゃん重いね~。」

 想像していたよりも重くて、両手に大きな負担を感じるが、ふかふかの毛と温かいマル坊の体温は恵美奈の心を洗い流すように癒してくれた。

 会社の事務所でこっそり一人、猫を抱いて癒される。

 至福だ。

 恵美菜は恍惚の表情で満足していたが、抱かれているマル坊は同じ気持ちではなかった。

 十数秒ほどは大人しく抱かれていたが、その状況が嫌になったのか、突然体をくねらせて恵美奈の腕から逃れようとした。グネグネと体を左右に力任せに動かし、恵美菜の胸に思い切り爪を立てながら暴れ出した。

 「うわわわ。」

 いきなり腕の中で暴れたので驚いてしまい、恵美菜は投げ出すような形でマル坊を放り出してしまった。

 マル坊は恵美菜の胸を足蹴にして高く飛び上がった。そして事務所の机の上にうまく着地をした。

 とりあえず地面に落ちて怪我をさせずに良かったと胸を撫で下ろした。マル坊との付き合いは短いが頻繁に餌を与えているので、ある程度は懐いてくれているという自負が恵美菜にはあった。

 しかしここまで嫌がるようだと、その考えも幻想だったのかもしれない。

 「ゴメンねマルちゃん。嫌だった?」

 恵美菜が謝りながら机の上に立っているマル坊に背後から近づいた。すると警戒したマル坊は一回体をビクつかせると恵美菜の方へ顔を向けた。

明らかに猜疑心に満ちた顔で恵美菜を一瞥すると、逃げるように机の上を全力疾走した。

 「あああああ!」

 ドドドドドと大きな音を立てて、マル坊は五つ並んだ机の上を勢い良く駆けた。机の上に置いてあったキーボードやマウスは抗う術も無く地面に叩き落されていった。

 「ちょっと待って!ストップストップ!」

 マル坊はそのまま壁際にある恵美奈の机まで走って行った。そして机の上に置いてあったコーヒーが入ったコップを、その勢いに任せてマウスやキーボードと同じようになぎ倒した。そしてマル坊は壁際まで走り抜けると、地面に降りて恵美奈の机の下に潜り込んで隠れてしまった。

 恵美菜のデスク上にはコーヒーが水たまりのように広がった。黄ばんだキーボードや書きかけの書類は可哀想な位に茶色く染まっている。

 恵美菜は顔から血の気が引くのを感じた。

 こぼれたコーヒーはデスク上だけではなく地面にまで広がっている。幸いな事にパソコン本体は無事だが、キーボードは明らかに壊れているだろう。しかも自分の机だけならともかく、先輩社員達のデスクまで被害が及んでいる。出しっ放しのボールペンは地面に転がり、机の上に置いてあった書類は所々マル坊の爪痕が付いて破れている。

 これから掃除をして証拠を隠滅するとすれば、ざっと一時間はかかるだろう。

 恵美菜は頭を抱えた。しかしやるしかない。

 覚悟を決めて腕まくりをすると、外から車のエンジン音が聞こえた。

 その車は事務所前の道路を抜けずに駐車場に入ってきた。ジャリジャリとタイヤが砂利道を踏みしめる音を聞いて、恵美奈は再び顔から血の気が引いた。

 この駐車のやり方は社長だ。

 エンジン音が止み、バタンとドアが閉じられる音がした。

 そしてザッザッと徐々に大きく鳴る足音を聞いて恵美菜は再び覚悟を決めた。

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猫といっしょ 川原モモ @momoniku777

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