第2話 ミィ

 初江はバスから降りると日差しの強さに目を細めた。梅雨の合間に気まぐれに出た太陽は空気中の湿気を全てどこかへ運んでくれるような気がした。

 さわやかな風が体を撫でつけて気分が良い。どこかで鳴いている虫の声も風情があって心地良かった。

 時刻はまだ昼前だった。初江は早朝からの清掃パートを終えて帰路に就く途中だ。肩掛けカバンと買い物袋を左手に下げながら、ゆっくりと自宅である団地に歩を進めた。

 昨日は七十二歳の誕生日だった。

 こんな年齢まで働かなくても良いのにと娘には良く言われるが、夫が亡くなるまでの間ずっと専業主婦をしていた初江にとっては、社会に必要とされている事が嬉しかったし楽しかったのだ。だから体が動く間は出来る限り働きたかった。

 平日の昼間で人と車の少ない団地の駐車場を抜けて中に入った。郵便受けを確認してから階段へ向かう。ここは昼間でも日当たりが悪くて薄暗い。何だかジメジメとしているし、白い壁には黒カビが所々斑点状に付着していた。夜になれば電灯が灯されるのだが、それでも必要最低限の光量は古い建物と相まって薄気味悪かった。

 昔、上の娘がここにオバケが出ると言って怖がっていた。

 小学校から帰って来る時は、いつも目をつぶりながら駆け足で抜けていたらしい。初江が怖がっている娘に「昼間にオバケは出ないよ」と言ってもまるっきり効果は無かった。だから休日に友達の家に遊びに行っても、帰ってくるのは決まって陽が落ちる前だった。下の娘は、郵便受けの前に出るオバケは全く気にしていないみたいで、お姉ちゃんの怖がり方をいつも笑っていた。

 もう半世紀ほど前の事だが、初江にとっては昨日の事のように思い出せる。

 人生のほぼ全てをこの団地で過ごしてきた。多くの思い出が汗のように浸み込んだこの場所は、初江にとってはとても大事な宝物だった。

 夏祭りに娘二人と浴衣を着てリンゴ飴を食べた思い出。

 風呂の改修で近所の銭湯へ家族四人で笑いながら通った思い出。

 雪が降って積もった日、外で白い息を吐きながら娘達と雪ダルマを作った思い出。

 沢山の出来事は、古いビデオテープを見るみたいにノイズが混じっていて、もう詳しく思い出す事は出来ない。それでもこの団地にいれば時たま思い出が断片的に蘇ってくる。

 「お母さんも歳なんだし一緒に暮らそうよ。」

 娘二人には良くそう言われるが、初江は自分の体の一部みたいになっているこの団地を捨てる事は、今まで大切にしてきた思い出も一緒に捨ててしまうみたいで出来なかった。

 死ぬ時はこの団地で死にたい。

 郵便受けを通り過ぎると、娘がオバケを怖がって初江の袖をつかんで後ろを隠れながら歩いている姿を思い出した。少しだけ一人で口元を緩めた。

 「オバケねぇ。本当にいるなら会いたいねぇ。」

 そんな事を思い出しながら階段を上った。手すりにつかまり、曲がった腰をさすりながら一歩ずつ確実に上段へと昇って行った。

 登っている最中は膝が痛かった。腰も痛い。

 最近は体が思うように動かない日も多くなった。歳を取れば誰でも直面する悩みだが、初江はそんな自分の体を愛おしく思っていた。自分が歩んできた歴史が体に刻み付けられているみたいで誇らしかった。強がっているだけかもしれないが、娘達に心配されないように、心くらいは元気でいたかった。

 三階に着いた。階段を上り終えると大きく息を吐いた。陽が出ているせいか気温も高く、服の下は若干汗ばんでいた。

 麦茶でも飲んでゆっくり休みたい。そんな事を考えながら自宅の扉の前まで歩いた。

 カバンから鍵を取り出して扉をゆっくり開けて中に入った。

 「ただいま、ミィちゃん。」

 部屋の中に響いた声には何の反応も無かった。

 初江は居間のテーブルの上に買い物袋と郵便を置き、和室へと向かった。

 半開きになっている曇りガラスの付いた引き戸を開けた。建付けが悪く、上下へガタガタと戸を揺らしながら横へずらして開けた。和室の中に入ると部屋の中央、畳の上にある小さなちゃぶ台の奥、薄汚れた茶色い座布団の上に飼い猫であるミィが、座布団に嵌る形で寝ていた。薄いレースのカーテンから漏れ入る光を浴びながら、初江の帰宅にも気付かない様子で熟睡している。

 初江が近寄ってしゃがみ、皺だらけでカサついた手で背中を撫でた。ミィはゆっくりと目を開けて初江を確認すると、喉を鳴らしながら再び目を閉じた。

ミィは今年十五歳になるメスの三毛猫だ。

 十五歳はもう老猫と言って良いだろう。人間だと七十五歳くらいの年齢だ。初江と同じように体もうまく動かなくなってきたし、こうして寝ている時間も増えた。食も細くなってきて、毛並みは初江の手のように乾燥して艶が無い。目は白内障を患っていて眼球が白く濁り、ほとんど見えていないだろう。

 初江はミィの目元に堆積した目ヤニをティッシュでこすり取ってゴミ箱に捨てた。ミィは大きなあくびをして体を起こしたが、再び向きを変えて座り直し、丸まって寝てしまった。

 ミィは亡き夫である敏行が飼いたいと言って引き取った猫だ。

 夫は生前から定年になったら猫を飼ってゆっくり暮らしたいと言っていた。手間の掛かる娘二人は家を出たのだし、すぐに飼っても良いんじゃない?と初江は言ったが、夫は猫と一緒の時間を多く取りたいから定年まで我慢するよと言った。

 そして定年間際になって猫を探そうと話をしていた頃、夫にガンが見つかった。

すでに多くの臓器に転移していて、余命は長くても一年と言われた。

 これまで苦労して家族のために働いてきて、これから老後の生活を満喫出来ると思っていたのに、神様はなんて残酷な事をするのだろうと初江は思った。

 沢山泣いて沢山後悔して、そして沢山考えた。

 初江と敏行、そして二人の娘を加えて話し合った。

 結果として夫は延命治療を諦める事に決めた。残されたわずかな時間を家族と共に穏やかに過ごしたいと言った。

 今すぐに猫を飼おう。初江は夫にそう言った。

 夫が猫との生活をずっと楽しみにしていた事を知っていたから、少しの間でもその夢を叶えてやりたかった。

 初江と敏行はすぐに引き取る猫を探した。ペットショップで購入する事も考えたが、夫の希望で保護猫を見つける事になった。幸いな事に上の娘の知人が子猫を保護して、引き取り先を探している所だった。

 すぐに連絡を取ってからもらい受け、その子猫をうちに迎えた。

 その生後一か月ほどの小さな三毛猫は、家のリビングでキャリーケースから出ると速足で駆けてテーブルの下に隠れた。そして警戒した目で初江達を睨んでいた。

 夫が手を出すと「シャー!」と言って子猫とは思えないほどの威嚇を見せた。それでも初江は写真に残したかったので、夫に捕まえてもらった。手の平に収まるほどの小さな子猫を抱く夫をカメラに収めた。その瞬間、初江も敏行も笑いながら泣いていた。

 その子猫はミィと名付けられた。家に迎えた初日は、ずっとミィミィ鳴いていたからだ。

 ミィは離れた母親や兄弟を呼んでいたのだろうか、その鳴き声は夜中になっても鳴り止まなかった。だから敏行も初江も心配に思った。

 必死に鳴き続ける声を聞いて初江は夜中に目を覚ました。そして寝室を出て和室へ行き、ミィのそばへ行った。ミィは和室の座布団の上で初江を警戒しながらウーウーと唸り声を上げていた。

 この場所が安全であると伝えたかった初江は、明け方まで和室でミィと一緒に過ごした。

 ミィを怖がらせないために近づきすぎないようにして、適度に距離を取って寂しがって鳴いているミィのそばにいた。

 初江の献身的な態度のおかげか、その後ミィは徐々に心を開いていくようになった。

 ミィを引き取って一週間後くらいだったか、和室で仕事帰りの夫が寝転がりながらテレビを見ていた。よれた白いTシャツを着て所々破れたベージュ色の短パンを履き、片肘を畳に付けながら大好きな芋焼酎を飲んでいた。

 以前なら酒の飲み過ぎに苦言を呈す所だが、もはや初江には夫の残された時間を好きに使って欲しいという思いしかなかった。

 そんな夫のそばにミィは近づいて来た。

 手のひらサイズの小さな子猫は辺りを警戒しながら和室に入って、寝転がっている夫の腹の部分に鼻を近づけて匂いを嗅いでいた。

 夫はリビングの椅子に座っていた初江に向かって静かに声を掛けた。夫の声に気付いた初江は静かに和室まで見に行くと、ミィは夫の腹に寄り掛かる形で丸くなって寝ていた。

 あれ程威嚇して警戒していたミィが、夫に寄り掛かって気持ち良さそうに熟睡していたのだ。この家を、この家族を認めてくれたみたいで、初江は嬉しくて泣いてしまった。

 それからミィは二人にどんどん甘えるようになった。

 ご飯が欲しい時は高い声で鳴き、甘えたいときは喉を大きく鳴らして、頭を初江の足に擦り付けてきた。寒い時は布団の上に乗ってきて一緒に寝るし、夫婦の食事中でも我が物顔でテーブルの上に乗ってくるようになった。

 そうしてミィは順調に成長していった。引き取った当初に比べ、体は何倍にも大きくなった。手の平に収まるほどだったのに、いつの間にか初江が抱き上げるのにも苦労するほどの大きさになっていた。

 ミィを引き取って一年が経過しようとしていた時だった。夫が旅立った。

 意識を失っていた夫は、病院のベッドの上でふと目を覚ました。横にいて見守っていた初江に向かって「ミィを頼む」と細い声で囁いた。

 そんな夫の言葉を守り、初江は今まで十五年間ミィを大切に育て、共に暮らしてきた。

 「敏行さん、いま帰りましたよ。」

 初江は和室に置いてある仏壇に声を掛けた。写真立てには、引き取ったばかりの小さな子猫時代のミィを抱いて笑っている敏行が写っていた。

 弾ける笑顔をしている夫の手の中で、ミィは泣き出しそうなほど不安な顔をしている。

 「ミィちゃんもこんなに小さかった時があったんだよ。」

 初江はミィに向かって話しかけたが、ミィは座布団の上で背中を初江に向けて寝ている。

 あれから十五年。

 初江とミィは沢山の思い出を共有してきた。

 初江の服の上で吐いてしまった事もあった。

 おやつがどうしても食べたくて、おやつのしまってある棚を無理やり開けた事もあった。

 一緒に布団の中で寝ていると、何が気に食わないのかいきなり初江の足を引っ搔いてきた事もあった。

 大変な思い出も多いが、幸せな思い出の方が遥かに多かった。

 「ミィちゃんと私、どっちが早く敏行さんに会えるかねぇ。」

 初江にとって三人目の娘であるミィは、声に反応する事無く静かに眠り続けた。

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