猫といっしょ

川原モモ

第1話 ナーコ

 大輔は部屋の中央で仁王立ちをしていた。腕を組み、両目を閉じて、両足は肩幅一杯に開いている。自身の住んでいる十畳ほどの広さのワンルームマンションの一室で一人、静かに頭の中で思案を巡らせていた。

 来週までの提出期限が迫ったレポートの内容を考えていたのだ。

 大学四年生となり、自身も周りも就活のため空いた時間も多くなってきた頃だが、相も変わらずこなさなければいけない課題は多かった。

 レポートの作成は構図を事前にしっかりと頭の中で構築するのが大輔のやり方だった。仲の良い友人はとりあえず手を付けてから考えるタイプだったが、大輔は脳内で序盤から終盤までの文章の流れを組み立てて、ある程度の道筋を決めてからでないと書き出せなかった。そういう性分なのである。

 「よし。」

 三十分ほど考えていたであろうか、ある程度の構築は出来たので大輔は目を開いた。そしてベッド横にある小さな丸テーブルに向かって床へ腰を下ろした。

 テーブルの上に置いてあるノートパソコンの電源を入れ、必要な書類や資料をカバンの中から取り出した。分厚い本には色とりどりの付箋が貼られていて、見ている分には非常に綺麗に感じると大輔は思った。

 その時、ベッドの上で気持ち良さそうに寝ていた飼い猫のナーコが目を覚ました。ベッドから音も無く降りてきて「ニャー」と高い声で鳴いて大輔の元へ寄ってきた。

アメリカンショートヘアーでメス猫のナーコは丁度一週間前に一歳の誕生日を迎えた。

 ナーコをとても可愛がっている大輔は、近くのペットショップで猫用のケーキを購入した。趣向品なので一気に与えるのは好ましくないと思ったので三日に分けてナーコに与えた。丁度昼過ぎのお腹が減ってくるタイミングに与えた影響もあってか、ナーコは目の色を変えるほどがっついて食べた。

 そして三日が過ぎてケーキを全て食べ終えてからも、ナーコはケーキが食べたそうな、そんな素振りを見せ続けた。

 昼過ぎのケーキを与えていた時間になると、大輔の近くに擦り寄って甘えてくるのだ。初めの頃は大輔も「ケーキはもう無いよ」と言って聞かせようとしたが、あまりにも甘えて来るので、つい買い置きで棚にしまってあったおやつを与えてしまった。

その事がきっかけで、昼過ぎの時間に大輔が在宅していると、決まってナーコは甘えてきて、大輔は代わりにおやつを与えるようになった。それが最初にケーキを与えた日から一週間経った今でも恒例行事のように続いていた。

 「ニャー。」

 相変わらず今日も完全にナーコは甘えモードだった。銀色と黒色の縞模様になった綺麗な毛色の体を、惜しげもなく大輔の膝に擦り付けている。

 しかしいくら目の中に入れても痛くないほど可愛がっているナーコの必死の懇願でも、あまりおやつを与え過ぎるのは良くないと大輔は思っていた。おやつを食べた影響で腹が膨れるからか、最近は夕飯で出しているキャットフードの食い付きも悪くなってきた。

 「あまり贅沢すると、後々大変になるんだぞ。」

 大輔はナーコに向かって諭すように話したが、ナーコは尻尾を立てて目を細め、甘えた声を出し続けていた。

 ナーコは大輔が以前に付き合っていた彼女である、梨恵の要望で飼う事になった。

 「ねぇねぇ大ちゃんさー猫飼ってよ。私の家ってペット禁止だからさー。私アメショーが良いなー。」

 突然の提案だった。

 大輔は元々猫に一切興味を持っていなかった。飼った事も当然無いし、今後飼う予定も無かった。それなのに梨恵は自分が猫を飼いたいのに飼えないから大輔に頼んできたのだ。

 普通なら生き物を飼うという責任の重い行為を、彼女の軽い言動で決断する人は少ないだろう。大輔も通常ならじっくりと数週間は考えて悩むほどの重要な行動だ。

 しかしこの時の大輔は普通ではなかった。

 梨恵は大輔が大学生になって初めて出来た彼女だった。今まで女性と縁遠い生活をしてきた大輔にとって、友人との飲み会で出会った梨恵はとても魅力的に見えた。

 梨恵はフリーターをしていたが同い年という事もあり、すぐに打ち解ける事が出来た。初めは化粧が濃くて話し方から軽薄な印象が強かったが、意外にも他人に対して気配りが出来たりと優しい一面も見えて、大輔はすぐに彼女に対してのめり込むように夢中になってしまった。

 ほどなくして二人は付き合う事になるが、付き合い始めて一週間後、いきなり梨恵から猫を飼わないかと言われたのだ。

 付き合い始めてたった一週間。

 大輔の頭には『彼女に嫌われないように』と『もっと好かれるように』の二つしか無かった。だから猫を飼うという重大な行為を、後先考えずに決断してしまった。

 掛かる手間や費用の事などは頭から完全に抜けてしまっていた。

 大輔はすぐに梨恵とペットショップへ行って猫を購入した。もちろん全て大輔の支払いである。目の飛び出るような金額だったが、大輔にとっては彼女のために潔く金を払う姿は男らしいと思っていたし、梨恵が喜ぶならと深く考えなかった。

 大輔の家に連れられた小さなアメショーは、梨恵によってナーコと名付けられた。

梨恵はナーコをとても可愛がった。

 自身が飼いたいと熱望した猫だから当然の事だろう。おやつを与えたりおもちゃで遊んだり、好きなだけ子猫のナーコと共に幸せな時間を過ごした。

 ナーコのおかげで梨恵は大輔の家に頻繁に通うようになった。金に余裕の無い貧乏学生の大輔にとってナーコの購入はかなり痛い出費だったが、梨恵に会える機会が多くなった事は素直に嬉しかった。

 しかしそんな幸せも長くは続かなかった。

 ナーコを大輔の家に迎えて一ヵ月ほど過ぎた頃、あれほど頻繁にナーコに会いに来ていた梨恵がぱったりと姿を見せなくなった。

 何があったのか不思議に思い、大輔は梨恵に連絡をした。

 「だってナーコのトイレが臭いんだもん。大ちゃんは気付いてないかもしれないけど、部屋の中までウンチやおしっこの匂いで一杯になっている時があるよ。」

電話口で梨恵からの予想外の返答に、大輔は面食らって固まってしまった。

 「ご、ごめん。これからはちゃんと掃除もするし換気もするよ。必要なら空気清浄機も買うから。」

 「うーん、でもやっぱりナーコはもういいかなー。」

 「もういい?」

 「猫ってやっぱり匂いがきついし、思ったよりも私に懐かないからさー。やっぱり私には犬の方が合うと思うんだよねー。キャンキャン甘えてくる姿とか可愛いと思うし。うん、やっぱり私って犬派だなー。」

 その言葉を聞いた瞬間、大輔の中で何かが終わったかのような、夢から覚めたような、今まで梨恵に対して感じていた思いや感情が一気に変わっていくのが実感出来た。

 その変化を大輔自身は冷静に客観視していて、驚きはあったが戸惑いは全く無かった。

 価値観が違う。ただそれだけの事だが、圧倒的に人として全く別のタイプの人間である事を大輔は理解してしまった。

 気が付くと大輔は梨恵に対して別れを告げていた。大輔は怒らず悲しまずあくまで冷静に言葉を紡ぎ、この関係を終わらせようと努めた。

 梨恵は一言「うん、わかったー。」とだけ能天気に言って電話を切った。

 大輔は何だか気が抜けてしまった。男女の関係とはこんな物なのだろうか。

 それから大輔はナーコと一緒に暮らしてきた。夏も冬も大輔はいつだってナーコを気に掛けて一人娘のように大切に扱ってきた。

 不思議と独り身になった寂しさや後悔は全く無かった。

 友人は「もう猫を飼う理由無いんじゃね?」と言っていたが、大輔にとってすでにナーコは家族の一員になっていた。情も沸き、この先ナーコが老いて亡くなるまで、出来るだけ長く一緒に生きて行きたいと思っていた。

 「ニャー。」

 ナーコはテーブルに向かって床に座りながらレポートを作成している大輔に向かって、しつこいくらい甘えた鳴き声を出し続けている。頭や首を大輔の足に擦り付け、期待に満ちた顔をして大輔の顔を見ていた。

 大輔にはナーコの鳴き声は「私の事を大切に思っているなら、おやつをちょうだい」と言っているように聞こえた。

 大輔は今すぐにもナーコにおやつを与えたい気持ちで一杯だった。

 ナーコがおやつを食べて幸せそうな顔をしている所を見ると、大輔も幸せで胸が一杯になった。その幸せを味わいたくて大輔の気持ちは揺れた。時折キーボードを叩く手を止めて甘えるナーコを撫でて、自身の気持ちをごまかすように抑え込んだ。

 誕生日ケーキをあげる前から大輔はナーコに良くおやつを与えていた。しかし年齢の割に体重が重いらしく、ワクチンを打つために訪れた動物病院で獣医師に「ちょっと体重が増えてきているので、これ以上は太らないように管理した方が良いですねー。」と言われた。

 出来るだけナーコに長生きして欲しいと思っていた大輔は、その日を境に頻繁に与えていたおやつを止めた。そして遊びを増やして運動量を増やした。

そうして一ヵ月間ダイエットを頑張ったナーコに、ご褒美のつもりでケーキを買い与えたのだった。

 そこまでは良かったのだが、それから今日まで一週間、大輔は流されるようにダイエット以前と同じ量かそれ以上のおやつをナーコに与えてしまっていた。

こんな事を繰り返してはナーコの健康のためにはならない。大輔は自身の軽率な行動を反省し、心を鬼にしてナーコへの甘やかしを止めなければいけないと思っていた。

大輔はナーコの甘えた声を無視してレポートの作成に集中した。

狭いワンルームの部屋にはキーボードを叩く音と、ナーコが繰り返し甘えた声を上げる音が響いていた。

 するとナーコはしびれを切らしたのか、テーブルの下から大輔の胡坐に組んだ足の上に乗ってきた。顔を少し斜めに傾けながら、大輔の顔を見上げたまま「ニャー」と高音の鳴き声を発してあざとく甘えている。

 「ナ、ナーコ。」

 そんなナーコを見て大輔の我慢は臨界点に達してしまった。

 「しょうがないな。じゃあ、食べた後はちゃんと運動してカロリーを消費するんだぞ。」

 大輔はおやつを与えても遊んで運動させてあげれば大丈夫という免罪符を言い訳にした。

 引き出しの中にしまってあった液状のおやつを取り出して封を切ると、ナーコは「待ってました」と言わんばかりに前足を大輔の足に掛け、器用に後ろ足だけで立ち上がった。

 切り口から出たカツオ風味の液状おやつをナーコの口元へ近づけると、目を真ん丸に開けて必死にペロペロと舐めて堪能していた。

 「はぁ。」

 大輔は幸せだった。

 この後はきちんと遊んで運動させてあげなければいけない。その後はブラッシングをして爪も切ろう。

 すでに大輔の頭の中にはレポートの事など完全に抜けてしまっていた。

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