第18話:連綿と続く、自己愛の連鎖 ――― これが愛の本質である


愛してほしい。

可愛がってほしい。

護って・・・ほしい。


これは、例えば犬にもあると思う。だけど、倒錯、置き換え、が可能なのは、やはり人間だけのような気がする。


人間と、動物とを隔てるもの。

――― 想像力。


追いかけっこは動物の子供とかでもやっているが、鬼ごっこは、人間にしか出来ない。ままごとも、お姫様ごっこも、人間にしか出来ない。


想像力。

虚構。

仮想現実。


がらんと大きな頭蓋の内側に、人間はイメージだけで、もう一つの世界を、構築することが出来る。いや、その世界に住んでいる、と言っても過言ではない。頭蓋の内側に、住んでいる。


あまりに大きな頭脳を捧げ持つ人間という生き物は、圧倒的なその機能を駆使して、時にその機能に振り回されて、実に様々なことをしている。


人間が情報の海を漂流するのは、何も現代社会から始まった話ではない。怖らくは最初に言葉を話し出した頃から、きっとそうだったに違いない。情報を伝え合い、世界の在り様と、「ものがたりストーリー」とを、共有し、無数の人々がログインする広大な仮想空間の中に、人間は暮らしているのだ。当時も、そして今も。


幼い子供は口に物を入れたり、砂を触ったりして世界を計るが、少し大きくなると石を建物に見立てたり、棒っ切れを刀剣やライフルに見立てて遊ぶ。そして十代を迎え、性徴を発する頃になると、幼子おさなごを自分に見立てて可愛がったり(自分を可愛がっている)少女を自分に見立てて愛したりするのだ(自分を、愛している)。


人は、決して満たされぬ愛への希求を、より幼く、より美しい存在に自らを「投影」してみたり「倒錯」してみたりすることによって、なんとか凌ごうとする。自慰に、似ている。


人間には自己愛しか無い。倒錯することで、初めて他者を愛することが出来る。子供を可愛がったり、子猫を可愛がったり、ぬいぐるみを撫でてみたり、etc、etc、


しかし、異性を異性として愛する場合、少し勝手が違うのは周知の事実と思う。


私たちは異性の容姿に、次世代に引き継ぐべきスペックを見る。健康か? 身体能力は? 頭の良さは? そしてその姿すがたかたちは成体の庇護を受けられる「可愛らしさ」を有しているか?


こうして異性は互いに愛し合い、やがて女性は子を身籠り、出産へと至る。


子供は、胸中に抱き続けてきた自己愛、こうなりたいと願い続けてきた憧れが、生命を宿してこの現実世界に出現した奇跡である。


原初の憧れ。

愛しさと羞恥の、核心。

自分の中にある、最も愛しくて、恥ずかしくて、大切なもの。


その子供の為に、親は、しばしば身体からだ生命いのちとを投げ出す。それは、子供の方こそが自分の核心・正体であり、自身は単なる肉体、つまり「抜け殻」に過ぎないからだ。自分を護っているのだ。大切なものは何一つ、棄てたことにならない。諦めたことにならない。


愛とは、自分が生き残るための生存本能だ。

子供が「愛されたい」と願う心だ。


それが満たされなくなった時、しかし人はあまりに強力な本能の、その熱量に耐え兼ねて、自分と、本来憎み羨むべき相手とを脳内で置き換え、結果として他者を愛するようになるのだ。倒錯 ――― 子供時代の自身を想起させる対象を愛することで、自分が子供時代に愛されたかのような充足感を得て、幸福な気持ちになるのだ。


無償の愛、と言うが、愛は何時でも無償である。何故ならそれは、その感情のベクトルは、自分自身に向いているものだからだ。自分を、愛している。


親を呼んで、赤子が泣き叫ぶ、その激しさのままに、人はやがて我が子を愛する。連綿と続く、自己愛の連鎖 ――― これが愛の本質である。
















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愛とは子供時代を生き抜く為の本能であってそれ以上の物では無い。 刈田狼藉 @kattarouzeki

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