首都にて(3)
彼、の秘密を知ったエトワールは自身が思っていた以上に傷ついていた。
父親の声もマダムの声も嘘みたいにきこえる。しかしあの二人がエトワールに対して偽りの声をしたところで何になるのだろう。
あれはきっと、歳の離れた兄へと抱く憧憬のようなものだと、エトワールは思う。
けれどもこの行き場のない感情はどうすればいいのか、エトワールにはわからない。幼く、拙く、そうして脆い。そっと大事に閉じ込めていたいと思うのは、エトワールにとってそれがはじめての恋だったからだ。
いつも女の子たちが集まっておしゃべりをしていたときのような、きらきらと眩しく、輝いていたものとはちがう。エトワールがほんのすこしだけ、そこへと憧れていた時分は、もうずっと昔のようだった。
このところのエトワールはぼんやりと一日を過ごすことが多くなった。
クロード=ミシェルは元気のないエトワールをいつも励ましてくれる。音楽会へと連れて行ってくれたり、わざわざ休みを取ってくれて首都の郊外にて自然豊かな避暑地で七日間を過ごしたりもした。そんな夫に対して、どこかで後ろめたさを感じているのは間違っている。エトワールは努めて明るく振る舞った。
一年の半分が終わった頃、エトワールは彼のことを考えるのはやめていた。けれども、あの日シャルル=ニコラがくれた詩集はまだエトワールの机の上に出したまま、母の香水といっしょに並んでいる。エトワールはときどき、ふだんは
ある日、クロード=ミシェルはお芝居のチケットを二枚持ってきた。
夫と二人で大劇場に行くのははじめてだった。あれ以来、図書館へと足が遠のいているエトワールは屋敷に籠もりきり、そうしたエトワールを案じてくれているのかもしれない。
好意をありがたく受け止めて、エトワールはふだんはほとんどしない化粧を侍女にお願いした。白粉のにおいは好きではなかったし、頬紅をたたけば幼く見えた。口紅の使い方すらよく知らないエトワールに侍女は心のなかで笑っていただろう。
ところが、夕方に屋敷を出る時間になってもクロード=ミシェルは帰ってこなかった。
夫が多忙で急な仕事が入るのもいつものことだ。若い執事に車で送ってもらってエトワールは大劇場へと着いたものの、はじめて来たときのような興奮はなかった。
開演のベルが鳴り響く前に席へと座り、パンフレットへと目を通す。大人よりも少女たちの方が多いのは、若者向けの内容だからだ。
大貴族に生まれた美しい娘は使用人の息子といつも一緒に遊び、そうして育ってきた。
やがて年頃になると縁談がいくつも舞い込んでくるものの、娘はどれにもいい顔をせず、父親を落胆させるだけ、実は娘は使用人の息子に淡い恋心を抱いていたのだった。それを知った父親は激怒し、使用人一家を国外へと追放しようとする。別れの日に使用人の息子は娘の部屋へと忍び込み、そしてふたりははじめてのキスをして――。
エトワールは最後まで見届けずに席を立っていた。
きっと、あのふたりにはしあわせな日々が待っているのだろう。思わずそんな風に考えてしまったエトワールは、自身の卑屈さに笑いたくなった。
若い執事が迎えに来る約束の時間までまだ早く、エトワールはどこかのカフェで時間をすごそうと思った。しかし、この日は午後からあいにくの雨、傘を持っていなかったエトワールは雨に見舞われながら空いているカフェを探す。カフェテラスではコーヒーをたのしむ恋人たちで満席だ。しばらく歩いてみたものの他のカフェもおなじだった。そうするうちにずいぶんと大劇場から離れてしまっていたようだ。エトワールは自分を呼ぶ声にも振り返らず、腕を掴まれてやっと彼に気がついた。
「身体を冷やしてはいけませんよ」
エトワールは目を瞬かせた。大通りから外れた路地裏へと入り込んでいたようだ。しかし、こんなところで出会うとは思わなかった。彼の方もおなじだったのかもしれない。
「いらっしゃい。少し休んだ方がいいでしょう」
シャルル=ニコラはエトワールの声を待たずに歩き出した。彼と手を繋いだままエトワールは路地裏を進んでいく。そこらにたむろしている女たちは売春婦たちなのだろう。値踏みするような目でエトワールを見ている。大通りを境に貴族街のある北と貧困窟の存在する南とでは首都はまったく別の街のようだ。こんなところを一人で歩いていたらどんな目に遭うか、エトワールは考えただけで震えた。
やがて古びたアパートへとたどり着いた。外観も相当だが中の部屋もかなりの年数が経っている部屋だ。水道が壊れているのかぽたぽたと水が漏れている流し台と小さいクローゼット、それからベッドがあるだけの、まるで生活感のない部屋に招かれてエトワールはしばし立ち尽くす。彼がクローゼットからタオルを取り出してエトワールに渡してくれた。ずぶ濡れになった蜂蜜色の髪と水色のワンピースを拭いているあいだに、彼はコーヒーを用意してくれた。
「どうぞ。ミルクも砂糖もありませんが」
促されてベッドへと腰掛ける。彼の部屋にはソファーもなかった。
「マダムがあなたのことを話してましたよ。だから、少し気になっていたんです」
それはどう意味だろうと、エトワールは不安と動揺が彼に伝わってしまわないようにカップを両手で包み込む。シャルル=ニコラは苦笑した。
「私みたいな下っ端の兵士はね、こういうことをしていないと生きてはいけないんです」
「じゃあ、わたしがあなたを買うのを待っているのですね」
何の感情もない冷たい声に、エトワール自身が驚いていた。彼もいささか面食らったように目を瞬き、しかしまたすぐに微笑んだ。
「まさか。大佐殿のお嬢さんにそんなことを、」
「わたしのことを知っていたのですね」
明け透けのない物言いをエトワールはつづける。
「図書館でお話をしているときにね。会う度に、どこかで見たことがある色だと思っていたんですよ。綺麗な蜂蜜色だったから」
たしかに父とはおなじ色の髪をしていると、エトワールは認めた。彼はおもむろに胸ポケットから銃を取り出すとまるで自分の半身のように愛おしげに撫でた。
「あなたとお話をしているときはたのしかった。私の周りには無骨な人間しかいませんからね。マダムたちも目が弱くて本など読みませんし」
エトワールはおもわず笑ってしまっていた。彼の目はいつだって綺麗だった。エトワールの故郷の空とおなじ、セルリアンブルー。
「これからも良き友達として、会っていただけますか?」
エトワールの父親もあのマダムも、そしてシャルル=ニコラも。皆が誤解をしている。エトワールにそんな勇気などないことを知らないのだ。
彼は笑顔でそれに応え、また図書館で会いましょうと言った。しかし、あの図書館でエトワールとシャルル=ニコラが会うことは二度となかった。
*
エトワールがそれに気がついたのは、雨の日に彼と会ってから三日後だった。
使用人たちはエトワールに対して良心的であってもそれはうわべだけで、その冷えた仮面の下ではさまざまな感情が渦巻いていたのだろう。とはいうものの、ここまであからさまに嫌悪を向けられてはエトワールも居心地が悪く、何か彼らに対して不都合なことをしてしまったのかと気を揉んでいた。
そしてその夜、久しぶりに帰宅したクロード=ミシェルはエトワールと夕食を取った。
いつもならば夕食のデザートを平らげると早々に書斎へと引きあげる夫が、エトワールが食べ終わるのを律儀に待っていた。急かされているようでエトワールは居心地の悪さを感じる。愛のない行為をつづけるのはうんざりしていたし、いつまでたっても授からないエトワールに夫も諦めていたはずだ。
ようやく空になった皿を侍女が片付けた。それでもクロード=ミシェルはまだ席を立たずにいる。
クロード=ミシェルと結婚してから三年と半年が過ぎていた。だからエトワールは夫の表情や仕草などの些細な変化を読み取り、夫の感情がどこにあるかを探ることもできた。物分かりの良い妻を演じてきたつもりだ。機嫌を損ねないように今もこうして気遣っているのがその証拠で、クロード=ミシェルの仕事が上手くいっていないときなどは特に気を使っていた。
けれども、クロード=ミシェルがこんな目をするのははじめてだった。
エトワールは夫の唇が動くまでただ耐えて待つ。蔑まれているのにも慣れてしまったように、エトワールはそう思う。
「僕は君に対して何かを望んだことはなかった」
膝の上で作っていた拳が震える。子爵夫人としてエトワールの務めは跡継ぎを生むことだけだ。それすら満足にできないエトワールは自分がなぜここにいるのかわからなかった。見限られるのだろうかと、エトワールは夫の声を待つ。
「けれど、まさかこんな裏切りを受けるとは思ってもいなかった」
しかし、思いも寄らぬ言葉にエトワールは激しく瞬いた。
「なにを、おっしゃっているの? わたしにはよく……」
「よくも白々しい口がきけるものだな」
夫がエトワールに怒鳴り散らすことも、物に当たって壊すことだってこれが最初ではなかった。ただしそれは寝室でエトワールと二人きりのときで、こうして侍女や執事たちがいる前では良き夫であり、良き当主でありつづけた。
クロード=ミシェルは声を荒らげる。わざわざ皆の前で言うのだから、侍女の誰かが密告したのかもしれない。エトワールと彼――シャルル=ニコラの関係を、彼の部屋へと行ったあの雨の日のことを。
エトワールは使用人たちが自分へと向ける視線の意味を知った。皆が誤解をしているのだと、かぶりを振った。
「ちがうわ。彼は、友人です。あなたを傷つけるようなことなんて、なにも……」
エトワールの声など夫には届かなかった。その日以降、クロード=ミシェルは屋敷に帰らなくなった。
繁忙時期のために職務に忙殺されているなどは建前であり、本当は自分と顔を合わせたくないのだと、エトワールはそう思っていた。しかし、現実はもっと醜くて酷い。エトワールは侍女たちの噂話を耳にしてしまった。以前からこうした業務に関係のないおしゃべりばかりする侍女たちだったが、エトワールは叱りつけたりもせず、こうして放置していたその結果がそれだった。
クロード=ミシェルがほとんど家を空けているのは、外に愛人がいるというのだ。それも幼い頃から付き合いのある佳人であり、相思相愛でありながらも、エトワールとの結婚は互いの家のために断れなかったようだ。
急な眩暈を覚えてエトワールは自室へと引き返した。
互いの家を結びつけるだけの結婚、そんなことははじめからわかっていた。それなのに裏切られたような気持ちになる自分が惨めで堪らなかった。
エトワールはあの日、彼がくれた本を開いてみる。あれほど感動して何度も繰り返して読んだ本なのに、今は何も心のなかに入っては来なかった。
*
エトワールは思い立ってあの図書館へと足を運んだ。けれども、やはりシャルル=ニコラには会えなかった。
彼に話したいことがたくさんあったし、彼の話がたくさんききたかったというのに、春が来て初夏が過ぎてもシャルル=ニコラは姿を現さなかった。クロード=ミシェルとの夫婦仲も冷えたままで、夫は以前にも増して家を空けることが多くなった。
夏がはじまるある日、エトワールはあのマダムを見かけた。
高いヒールで石畳を颯爽と歩くマダムもまたエトワールに気がついたらしく、にっこりと微笑んだ。
「シャルル=ニコラは、もうここへは戻ってこないわよ」
むせかえるような薔薇のにおいがする。マダムの香水だ。
「それは、どういう意味ですか?」
きき返したエトワールにマダムは眉を上げた。
「知らないというのなら、あなたのお父様にたずねてごらんなさいな」
「父が、彼になにを」
「あんな美しい
嫌な予感を覚えたエトワールはマダムに挨拶をせずに、その場から駆け出していた。
昼間のこの時間ならまだ邸には戻っていない。だからエトワールは軍本部へと乗り出していた。一般人が立ち入れる場所ではなかったが、身の上を必死に訴えるエトワールに負けたのか衛士は中に入れてくれる。執務室で公務を行っていた父親はいきなり入ってきたエトワールに驚きもしなかった。
「彼をどうして戦地に送ったのです?」
父親はさも意外そうな顔をした。
「可笑しな事を言う。軍人がそれが仕事だ」
「いいえ。彼でなければならない理由がありまして? それも東の最前線になど、」
「あの男とは関わるなと言ったはずだ」
父を、これほどまでに憎く感じたのははじめてだと、エトワールは思った。
十六年ものあいだに一度も連絡を寄越さなかったのが父親だ。それでもエトワールは十六歳になったら故郷の町を出て首都へと行き、決められた相手と結婚をするのが約束だったし、言われたままにクロード=ミシェルと結婚した。父は母が亡くなったときにも姿を見せずに、あとから手紙とお金だけを送ってきた。そんな人だとわかっていた。しかし、エトワールはこの父親をどうしても許せずにいる。エトワールから引き離すためだけに、シャルル=ニコラを危険なところへと追いやったのは明白だった。
「お前は、一つ誤解をしている。私があれを捨てたのではない。私があれに捨てられたのだ」
エトワールは父親を見つめた。おなじヘーゼルナッツの色をした目と目がかち合った。
「どんな言葉を並べても、いなくなった人はもう戻っては来ません」
父親はため息を吐くだけだった。
*
それからのエトワールの足に迷いはなかった。
大通りから裏路地へと入る。
エトワールは彼の部屋をノックした。三回、そしておなじ回数をもう一度。ふた呼吸ほど待ってみても物音すらきこえなかった。
他に心当たりがあるとすれば図書館か、大劇場だが図書館ではもう彼に会えなかったし、マダムの口ぶりからすれば彼が首都から旅立っている可能性は高い。エトワールはノックを繰り返す。他に彼と会える場所なんて思い浮かばなかった。
やがて、諦めて手を下ろしたエトワールはしばしその場に立ち尽くした。彼が戻ってくるという保証などなくても、ここで待つつもりだった。しかし、そのときゆっくりと扉は開かれた。
「ああ、あなたでしたか。お嬢さん」
彼はエトワールを認めるなり笑みを作った。
「大家が家賃の催促に来たのかと思ったのでね」
シャルル=ニコラの頬にはえくぼができている。
「東へと、言ってしまわれるときいて……」
「それでお別れの挨拶に来てくれたのですか。わざわざありがとうございます」
「お別れなんて……」
部屋へと入れてくれたものの、彼は以前のようにコーヒーを出してはくれなかった。もともと生活感のない部屋だったが、身の回りのものが片付いているように思える。エトワールは彼の目をじっと見つめた。
「いつ、旅立たれるのですか?」
「明後日です。でも、明日の昼にはここをトンズラしようと思いましてね」
彼のセルリアンブルーの目が細くなった。エトワールは今まで運命など一度も信じたことがなかった。小さい頃から一度だって運命に身を預けたこともなかった。自分で何かを望んだりも、他人に期待することもなかったのは諦めではなく、勇気がなかったからかもしれない。だから、エトワールはきっとこれが最初で最後だと思った。それがはじめての我が儘だった。
「今夜、あなたを買うわ」
エトワールは彼の胸に顔を埋める。シャルル=ニコラは黙ったまま、しかし拒絶されようがここで帰るつもりはなかった。
エトワールは彼に口付けをした。乾燥した彼の唇をエトワールは己の舌で湿らせてゆく。彼はしばらくエトワールの好きなようにさせていたがやがて唇を舌でこじあけて、荒々しいキスへと変えた。
その日の夜はエトワールにとって人生で最も短い夜だった。
二人は何度も溶け合った。シャルル=ニコラの愛撫は普段の彼の気性とは反対に荒々しく優しさなどなかった。エトワールはもしも自分が少女だったのならもっと愛されたのではないかと思いつつ彼に身を任せ、そして自らも欲情のままに彼を求めた。そうして朝を迎えて眠る彼の顔を見たときに、エトワールはやっと、本当の彼を見たのだった。
*
エトワールが最初に感じた不調は眩暈と日中の異常な眠気で、しかしそれは心因性からくる疲れからだと思い込んでいた。
月の障りが遅れるのも間々あることで、さして気にしていなかったがそれが三月も過ぎると自覚せざるを得なくなる。おしゃべり好きな
けれども、お腹の子どもの父親がクロード=ミシェルではないことなんて、皆がわかっていた。夫婦の関係などとうに壊れていたし、夫は癇癪を起こして以来エトワールに触れていなかった。
父親は手紙だけを寄越してきた。生まれた子は自分が預かるという勝手な申し出に、エトワールは手紙をくしゃくしゃにして塵箱に捨てた。
それからさらに三ヶ月が経ち、エトワールの腹部が目立つようになってからやっとクロード=ミシェルは帰ってきた。
夫はエトワールが身籠もっていたことをもっと早くから知っていたはずだ。
今さらミシェル邸に戻ってきたのは、夫の愛人が子を産んでいたからだ。それは間違いなくクロード=ミシェルの子だろう。侍女たちはエトワールにきかれても構わずにおしゃべりに花を咲かせている。
愛人に子を産ませた夫は、自分の不貞行為を棚に上げてエトワールを罵った。
どれほど口汚く罵られてもエトワールはただじっと耐えた。暴力は振るってこないことをわかっていたからだ。敬虔な教徒であるクロード=ミシェルはエトワールを離縁したりできなかったし、胎児を強要することもできない。お腹の子どもが流れてしまえばその父親は天寿を全うしたとき天界へと召されずに、冥界へと誘われると信じ込んでいる。たとえ本当の父親でなかったとしても、法の上ではお腹のこの父親はクロード=ミシェルだ。
癇癪を起こした夫の気が済むまでの長い時間を、エトワールは待つだけだった。
エトワールの洋服はみな引き千切られてしまったし、ベットのシーツも羽毛の布団も枕もひどい有様、そこここに羽根が散らばっている。エトワールの机も荒らされてしまった。母の形見の香水は粉々に砕けてしまい、仲良しだった男の子がくれたきれいな貝殻も祖母の手紙も、シャルル=ニコラがくれた詩集も引き破られてしまった。癇癪が治れば、夫は人が変わったようにやさしくなるのはいつものことだ。今さら優しい言葉を投げられたところでエトワールは返事すらも返さなかった。
やっと一人に介抱されたエトワールは荒らされた部屋で呆然とそれらを眺めていた。エトワールの大切にしていたものたちは、みんな壊れてしまっていた。
*
プラットホームではたくさんの人たちが行き交っている。
大きなトランクを持ったおじいさん、はじめての列車の旅に緊張しているのか母親の手をしっかりと握った男の子、お喋りをたのしんでいる娘たちは揃いのポシェットを下げて、恋人たちは腕を組みながら列車の到着を待つ。
エトワールは何も持たずに身ひとつで列車に乗り込んだ。少女の頃に少ないお小遣いを貯めて買った生成り色のワンピースは、もうエトワールの歳にも体格にも合わなかったのだけれど、どうにか手を加えればスカートとして履くことができた。
他はぜんぶ置いてきた。もともとエトワールの所有物はなかったとはいえ、与えられたものには縋りたくもなかった。指輪も手紙を添えて机の上に残してきたから、クロード=ミシェルもいつかは目にするだろう。
規則的に揺れる列車の動きにエトワールは身を任せる。
エトワールの身体は自身が思っていた以上に悲鳴を上げていて、医者がすぐに入院をすることを勧めても、エトワールは従わなかった。どこにいても閉じ込められるくらいならと、エトワールは最後にそれを望んだのだ。
エトワールは窓の外を見た。首都の密集した建物はあっという間に見えなくなり、あとは長閑な情景ばかりだった。オレンジの三角屋根の家、
やがて乗務員が切符の確認に来る。エトワールはスカートのポケットから取り出し、乗務員は慣れた所作で印を押してエトワールへとまた返した。そうすれば、あとはもう長い列車の旅がつづくだけだ。
エトワールは瞼を閉じる。このところ、どんなに眠ろうとしても途中で目が覚めてしまうものだから、身体は疲れきっていた。けれど、やっと訪れたこのおだやかなときはエトワールを眠りに誘ってくれる。
エトワールは見知らぬ土地にいた。高い岩壁に周囲を覆われたそこは荒野だった。エトワールの視線の先には二人がいて、一人はエトワールとおなじ蜂蜜色の髪をしたちいさな女の子、それから女の子を抱き上げる男の人は異国人のような黒い髪をしている。彼と女の子の瞳の色はまったくおなじで広い空の色だ。エトワールが一番好きなセルリアンブルーの色。あれは、懐かしい故郷の空の色だ。
二人はエトワールに向かって何かを呼び掛けていた。エトワールはそれに笑顔で応える。それは、きっとエトワールが望んでいた明日だったのだろう。夢の中でその三人は、本当にしあわせそうに微笑んでいた。
首都にて 朝倉千冬 @asakura
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