首都にて
朝倉千冬
首都にて(1)
発車を知らせるベルがけたたましく鳴るものだから、エトワールは駆け足で列車に飛び乗った。
首都への列車は一日に二本だけ、毎日決められた時刻に行くために車内は混み合っていた。
エトワールの小柄な身体には似合わないサイズのトランクを、すれ違う人の邪魔にならないようにと気をつけながら、エトワールはまだ空いている席がないかと探す。新聞を広げてくつろいでいる男の人、おしゃべりに夢中な娘たち、ちいさな男の子は窓から身を乗り出すようにして、落っこちないようにと慌てて母親がそれをやめさせる。ホームに向かって涙を流している女の人は、恋人との別れを惜しんでいるのかもしれない。エトワールはその横をすり抜けて行く。
列車の旅はこれがはじめてではなかったけれど、行くとすればせいぜい隣町くらいでそれも日帰りだった。首都行きの列車に乗るのはこれが最初、そして最後だ。
けれども、エトワールには見送りに来てくれる人なんて誰もいなかった。エトワールの家族は足の悪い祖母だけで、ここまで来ることなんてできなかったのだ。
ようやく空きの席を見つけて、エトワールは安堵する。列車はまもなく発車した。
大きなトランクを荷物棚へと乗せようと思ったものの、列車はすでに動き出してしまったし、なにより持ちあげるにはエトワールだけの力では足りない。それにトランクの中には乗車券と、祖母がこしらえてくれたピーナッツサンドが入っている。寝入ってしまって食べるのを忘れては、祖母がきっと悲しんでしまう。邪魔になっても足元へと置くしかなかった。
乗務員が確認にくるのは小一時間ほど経ってから、その前に乗車券だけでも手元に置いておこうかと、エトワールは手を伸ばしかけてやめる。あれをもしも失くしてしまったら大変だ。
列車はときおりひどく揺れるけれど、心地良いリズムで進んでいく。エトワールの周りにはそこそこ乗車客がいたけれど、話し声はそれほど気にはならなかった。しかし、
まだ、ちいさい頃のエトワールは何か嫌なことがあるたびに、こっそり瓶を嗅ぐのが習慣だった。ほのかに残ったフローラルの香りだけが母親の思い出だったのを、祖母は知っていたのだろう。もう戻ってはこないエトワールに形見の品を譲ってくれたのだった。
それから、エトワールの誕生日に友達がくれた栞と、引っ越してしまった仲良しの男の子からもらったきれいな貝殻、エトワールが好きだった本たちは荷物を増やさないために置いてきた。
名残惜しむ気持ちはある。あの町はちいさくとも十六年間エトワールが暮らした場所だ。
仲のよかった友達たちはこぞってもうすこし大きな街へと行ってしまったので、足が悪くほとんどしゃべらない祖母とふたりきりだった。そうした退屈な日々はエトワールから好奇心をことごとく奪ってしまっていても、だからといって首都への憧れよりも不安心の方が大きかった。
無意識のうちに吐いていたため息の大きさに、エトワールは笑いたくなった。
十六歳になったら首都にいる父のところへと行き、決められた相手と結婚をする。それが、生まれてから一度も会っていない父親との約束だった。エトワール宛てに手紙が届いたのは十五のとき、けれども顔も知らない父親に背くという考えはなかった。この歳には娘たちは家を離れて行くものだと、それは暗黙の決まりのようなものだった。
足の悪い祖母を置いて行くことに罪悪感はあった。二軒隣の夫婦が助けてくれると申し出てくれなかったら、エトワールはあの町に残っていただろうか。エトワールは薄く笑む。それでは父親に逆らってしまう。エトワールは十六年間知らなかった。顔も名前すら知らない父親が、遠く離れた娘のために毎月仕送りをしてくれていたのだ。エトワールが行かなかったら、祖母はたちまち生活に困ってしまうだろうし、エトワールの仕事だけでは暮らしていけない。
エトワールは顔をあげた。列車に乗ってしまったのだから、今さら引き返せないことなんてわかっていた。
いっそ、眠ってしまおうか。エトワールはまばたきをする。首都までは六時間の長旅で、どちらにしてもどこかで眠ることにはなる。とはいえ目もぱっちりと覚めていて、祖母が持たせてくれたピーナッツサンドに手を伸ばすにもまだお腹は空いていなかった。トランクに忍ばせた本も今は読みたい気分にはならないし、何度も繰り返し読んだ本だからわざわざ広げなくてもそらで言える。
エトワールは仕方なく頬杖をついて外の景色を眺めた。オレンジの三角屋根の家、
上から声が降ってきたのは、エトワールが二度目のため息を吐いたときだった。
あまりに突然に声を掛けられたものだから、エトワールはしばし言葉を紡げずにいた。心地の良いテノールはもう一度きこえた。
「相席しても?」
エトワールはうなずいた。相手はにっこりと、ひと好きのする笑みをした。
最初にエトワールが惹かれたのは目の色だった。それは故郷の空の色とおなじセルリアンブルー。くっきりとした二重瞼はその色をより魅力的に見せている。均整の取れた太眉や鼻筋に、薄い唇。それを追いかけているうちに知らずと凝視していたエトワールは、恥ずかしさのあまりにぱっと顔を背けた。
エトワールの町の娘たちはいつだって男の子のはなしばかりをしている。娘たちは
「黒髪がめずらしいのですか?」
彼は言う。たしかに、それはめずらしい色だった。黒髪は東の人間の証だと学校でも教わったし、本で見た東の国は野蛮な人間がいる場所だった。
「心配はいりません。私は、半分はあなたとおなじですから」
よほどエトワールの顔が強張っていたのか、彼の目がもっと細くなった。エトワールはどうしても警戒してしまう。東の国とはずっと戦争をしている。新聞でも毎日戦況が届くし、遠く離れていたって不安になるのは当然だ。
彼が半分と言ったのは、東と西のハーフだからだろう。たしかに彼の目は西の人間に多い碧眼だ。セルリアンブルーの色はエトワールの好きな色だった。
「でも、あなたは……」
エトワールはそこで口籠もった。彼が着ているのは軍服だ。父とおなじ軍人さん、エトワールは口のなかでそう零す。身内とはいってもこれから知らない人に会いに行くエトワールが唯一知っている父親の情報だ。
「いいえ。失礼をいたしました。おゆるしください」
取って付けたような笑みでもないよりはよかったと、エトワールは思う。彼は
エトワールが気になったのは、なぜ軍人がひとりきりで列車に乗っているのかということ、軍人は集団で行動するし(エトワールが実際見た軍人たちは実際にそうだった)、そこそこの階級にあるのだとすれば従卒が付くはずだ。エトワールは彼の胸元の勲章を見たものの、それが何を意味するものかがわからなかった。
「お嬢さんは、ひとりきりで首都へ?」
エトワールはどきりとした。勝手に相手を詮索していた自分が恥ずかしくなった。
「ええ……。父のところに」
偽りではないのにどうしてか声が詰まってしまう。エトワールはぎこちなく笑んだ。彼の問いかけに他意は隠されてないと思う。エトワールくらいの娘が一人で列車に乗るのはたしかに目立つのだ。それも、朝の便ではなく夕の便であればなおさらに。
「その、首都に行くのは……はじめてなんです」
会話が止まってしまえば急に居心地が悪くなったような気がして、エトワールは付け足した。
「そうですか。それにしては落ち着いていますね」
「列車に乗るのは、はじめてではないので」
彼は笑みだけで返した。
こうして話していくうちに、最初ほどの気まずさは消えたようにエトワールは思う。見ず知らずの、それも父とおなじ軍人の人にどうしてこんな風に話せるのだろう。他愛もいない会話ばかりがつづき、けれどもその時間がエトワールは嫌ではなかった。乗務員がエトワールのところに来るまで自分が話に夢中になっていたことにも気づかなかった。
彼は慣れた所作で乗車券を渡す。無表情の乗務員に緊張しながらもエトワールも乗車券を取り出した。エトワールはふと周りの乗車客を見た。皆、静かに思い思いの時間を過ごしている。エトワールたちの話し声も気にしていないようだ。
エトワールはトランクへと手を伸ばし、それから彼の方を向いてにこりとした。
「あの、もしお嫌いでなければ、どうぞ」
「ああ。ピーナッツサンドですか」
なつかしいと、彼はエトワールから受け取り、またえくぼを作った。
「祖母が持たせてくれたんです。お口に合いまして?」
「ええ、とても。美味しいです」
不安そうに見つめるエトワールの眼差しをしっかりと受け止めながら、彼はもう一口を食べた。エトワールもそれにつづく。
「私の母は料理が苦手なもので。ですが、たまにサンドイッチを作ってくれたんです」
「まあ、それは」
「たまごサンドは味が薄くて、トマトとレタスを挟んだサンドもひどかったな。パンが湿ってて美味しくなかった。けれど、ピーナッツサンドだけは別でした」
「でしたら、故郷にお戻りになっては? お母様もきっと喜びますわ」
それまで好意的な笑みだった彼の顔からすっと表情が消えた。過剰な深入りだったのかあるいは余計なお節介だったのかもしれない。エトワールは唇に手を当てる。
「母はもうおりません。だいぶ前に死にましたので」
それはあまりにも他人事のように、それから独り言のようにも取れたので、エトワールはやっと彼にだけ届くような声でごめんなさいと紡いだ。彼はかぶりを振る。それはこれ以上詮索されないようにと、予防線を張られたようにも思えた。
「しかし、帰るのもいいかもしれません。あそこにはもう長いこと行っていませんから」
彼はそれだけを言った。少なくとも怒らせてはいなかったらしく、エトワールは安堵する。
「東の国です。知っていますか?」
「いいえ……」
エトワールはそう答える。彼はにこりとした。
「実は言うと、私もよく知らないのです。暮らしていたのは幼い頃だけでしたので」
相槌に困ってぎこちない笑みで返したエトワールに彼はつづける。
「首都とちがって、あそこは滅多に雨が降りません。岩と砂ばかりの国です。でも、時々嵐がやって来る。そんな時期には家から出ません。危険ですからね」
「まあ、それは大変ですね」
「ええ、そうです。でも、私は母が家にいてくれるから嵐の日が嫌いではなかった。それに石榴や梨をたくさん買ってくるんです。それが嬉しかった」
それから彼は子どもの頃の話を色々としてくれた。エトワールも自分が童心に返ったようでわくわくして、その頃には彼への警戒心もすっかりなくなっていた。聞き役に徹していたエトワールにも彼は問いかけてくれる。やさしい人だと、そう思った。
夜が近づけばそれだけこの旅が早く終わってしまう。
エトワールはこれまで永遠を望んだことなんてなかった。それは、鍵の付いた
やがて列車の動きが鈍くなり、それに伴って響きの間隔が狭くなった。エトワールはついに眠らないまま、彼とおしゃべりをたのしんでいた。エトワールは彼をちらりと見た。軍人は休みが少ないという。疲れているだろう。それなのに、彼はエトワールとの会話をつづけてくれた。そんな人ははじめてだった。
エトワールの町の娘たちはどの子の皆おしゃべり好きで、いつも自分の話ばかりをしていた。あまりおしゃべりが得意ではないエトワールの話を皆はききたがらなかったし、忙しいときなんてエトワールを誘ってもくれなかった。
彼がエトワールよりも大人だからやさしいのだ。はじめはそう思った。けれども今はちがう。エトワールは自分の心に宿るこの感情の名前を知らなかった。
大きなトランクを抱えてきたエトワールとはちがって、彼の荷物は最小限だった。彼は鞄から一冊の本を取り出す。エトワールは戸惑いつつもそれを受け取った。
「差しあげます。ピーナッツサンドのお礼です。それからたのしい旅に。おかげで退屈せずにすみました」
それは古書だった。中を開いてみたい衝動に駆られたものの、列車はまもなく首都へと着く。エトワールはお礼を繰り返し、彼は別れの言葉を口にした。現実へと戻されたエトワールは彼がくれた本を抱き、大きなトランクを引き摺りながら運ぶ。首都のプラットホームにはたくさんの人で溢れていたために、彼の後ろ姿をどれだけ捜してみても、エトワールは見つけられなかった。
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