首都にて(2)
改札口を出てからすぐにエトワールは呼び止められた。
迎えに来た
執事は車の中でも一言も喋らずに、エトワールは居心地の悪さを誤魔化すように外を向く。それすら咎められているような気分になり、はじめての首都だというのに感慨にふけることなく、エトワールはただ夜の首都を眺めるだけだった。
屋敷に着けば玄関ホールでは使用人たちが勢揃いでエトワールを待っていた。
笑みをちゃんと作れていたかどうかわからない。列車の長旅で疲れていたし緊張で足が震えるのを隠すだけで精一杯だった。エトワールが挨拶するあいだも
「長旅お疲れさまでした。旦那さまは心待ちにしておられましたよ」
作り笑顔ではなかったにもかかわらず、エトワールは緊張を解けなかった。長い廊下を渡って書斎へと連れて行かれる。仕事中だったのだろう。痩身の男はデスクに向かったまま、エトワールが入っても立ちあがることすらしなかった。
このひとが、わたしのお父様。
エトワールとおなじ蜂蜜色の髪はきっちりと撫で付けられている。ヘーゼルナッツ色の瞳もそっくりだ。エトワールは声が震えないように気をつけながら、父親の前でも挨拶をした。父親はちらりと見ただけで、またすぐに視線を書面へと戻した。
「ミシェル邸には明日挨拶に行く。悪いが私は一緒には行けない」
エトワールが父親と交わした会話はそれだけだった。追い立てられるようにして書斎を出たエトワールは客間へと案内される。遅い時間だからか侍女も執事も下がっているのだろう。湯を使わせてもらうとテーブルには冷めたハーブティーが用意されていた。一人で使うには広すぎる部屋の中でため息をひとつ吐き、エトワールはベッドに転がり込む。座り通しの列車の旅で腰が痛かったし、とにかく疲れていたのだ。
客間のベッドは信じられないくらいにやわらかくて、これなら朝までぐっすりと眠れそうだった。それなのにエトワールは瞼を閉じずに、天蓋を見つめている。エトワールとほとんど目を合わせなかった義母、たった一言だけで済ませた父親、歓迎されていないことに落胆したわけではなかったが、勝手な期待をしていた自分を笑いたくなった。
エトワールは身を起こしてトランクを探す。故郷から持ってきたエトワールの大切なトランクは、エトワールよりも先にこの部屋に来ていたようだ。列車の中で黒髪の軍人さんから頂いた古書もちゃんと入っていて、エトワールは安堵する。すこしだけ捲ってみればそれは詩集だった。ゆっくり中を読みたい気持ちはあっても、あまり遅くまで明かりを使っていると叱られてしまうかもしれない。古書をトランクへと戻して、エトワールはふたたびベッドに入る。眠気はなかなか訪れなかった。
翌朝、ダイニングルームへと案内されたエトワールを義母が待っていた。
ほとんど寝付けなかったが、
「よくお似合いですよ」
義母が微笑む。追従めいた声ではないと感じたものの、エトワールはやはり緊張してしまう。まずコーヒーが運ばれてくる。つづいて並べられたのは焼きたてのバケットにブール、ブリオッシュにクロワッサン。チーズ入りのオムレツとカリカリに焼いたベーコンが載った皿、それからオニオンスープに山盛りのサラダ、デザート用のフルーツとテーブルの上は皿だらけになった。
昨日は午後から祖母の作ってくれたピーナッツサンドしか食べていなかった。しかし、エトワールはこれらを見ただけでもうお腹がいっぱいになった。
まるで誰かの結婚式にでも呼ばれたみたいだと、エトワールは思った。
エトワールの祖母は
屋敷を出る前に義母はエトワールに言った。すこしでも困ったことがあればいらっしゃい、と。エトワールはぎこちない笑みで返す。悪い人のようには見えなかったがエトワールはどこか煩わしさを感じていた。夫に従順な妻を演じなければならない。暗に促されているような気がして息が詰まるのが本音だった。
ミシェル邸まで車でそれほど時間は掛からなかった。
夜の首都では気づかなかったが、人と車の多さにまず圧倒され、建物が密集していることにも驚いた。エトワールの町ではまず見られない光景だ。どの人の服装も洒落ていて、エトワールは思わず自分の服装をたしかめた。ワンピース・ドレスは義母が用意してくれたらしく、ちゃんとしたお礼を言っていないことに今さらながらに後悔をした。
ミシェル邸に着いた。ここでも執事や侍女たちは貼り付けた笑みでエトワールを待っていた。まるで招かれざる客のようで、エトワールは緊張する。ミシェル邸も父の屋敷に負けないくらいに大きく、田舎から出てきたエトワールにはお城みたいに見えた。
その人はエトワールの姿を認めるなりハグをした。都会の紳士にはこれがふつうの仕草なのだろう。エトワールはそんなものに慣れていなかったので、鳥肌が立つのを抑えられなかった。
「あなたのことをずっと待ちわびていた。こんなに美しい人だとは思っていなかった」
社交辞令だろうと、わかっていながらもエトワールは口角をあげる。エトワールはこれまで誰にも容姿を褒められたりしなかった。毎日鏡で見ている自分の顔と、目の前にいるこの人では不釣り合いなことだって、人に言われる前に理解した。
白金の指通りの良さそうな髪とアンバー色の瞳、すっと通った鼻筋に薄い唇にどこか中性的ではあるものの、女性が好みそうな面貌をしている人。クロード=ミシェル。この人がエトワールの夫となる人だ。
挨拶を済ませたところでクロード=ミシェルは慌ただしく出て行った。それから日が沈んでからようやく帰ってきた。その後はすぐにダイニングルームで夕食がはじまる。お昼はエトワールのために用意された部屋で軽めのサンドイッチが出されたが、夜になってもお腹は空かないままでテーブル一杯に並べられた料理の数々にエトワールは辟易した。
差し障りのない会話をしてくれたクロード=ミシェルもさすがに気がついたらしく、首都に来たばかりで疲れているだろうと早めにエトワールを部屋に帰してくれた。
寝所がまだ別なのは夫婦の契りを交わしていないからで、クロード=ミシェルは敬虔な信徒だった。食事の前のお祈りは祖母と一緒にしていたときよりも長く、これが毎回つづくのだと思うと、エトワールはため息を吐きたくなった。
そこからの三ヶ月間はあっという間に過ぎていった。
信徒の家では大仰な結婚式は行わずに、教会で短い式を終えればあとは親しい者だけを呼んで立食パーティーをする。とはいえ子爵夫人となるにはそれなりの礼儀とマナーは身に付ける必要があり、エトワールには何人もの
そして、エトワールはその日を迎えた。白のモスリンのドレスは若い娘たちのあいだで流行っている。ミシェル家御用達のオートクチュールに何度も通い、窮屈なドレスに合わせて体重を落として体型の維持に努めた。故郷の町で一時でもウェディングに憧れた自分を思い出すと、笑ってやりたくもなった。
式は粛々と進められていき、神父様に言われるがままにエトワールは神の前で誓った。はじめての口付けはほんの一瞬だったので感情は動かずに、エトワールとクロード=ミシェルの左手の薬指には銀の指輪がそれぞれ与えられる。エトワールがあの町を出て行くときには、ずいぶんと嫉妬混じりの羨望の声を掛けられた。エトワールはそれらすべてを微笑んでただ受け流した。
この指輪は枷でしかないと、エトワールは他人事のように思う。恋など知らないままあの町を出てきたエトワールはその機会を永遠に奪われたのだ。
その夜、寝所で待っていたクロード=ミシェルに、エトワールは身を預ける。
*
クロード=ミシェルはミシェル家の当主であり、幼い頃に母を病気で失い、長らく当主を務めていた父も年のはじめに亡くした。他に兄弟もなかったために、爵位はそのときに受け継いだという。つまりエトワールに望まれているのは跡継ぎを生むことだけ、しかし夫は仕事を理由に家を空けているため滅多に帰ってこない。名ばかりの子爵夫人であるエトワールは、ミシェル夫人と呼ばれるたびに頬が引き攣る自分が嫌になった。
エトワールには専用の
年嵩の執事は所作も美しく落ち着いていて、エトワールに用事がなければ話しかけてこない。余計な干渉をさせるよりは気が楽でも、どこに行くにも一緒なので窮屈なのが本音だった。ミシェル邸でエトワールがすることなどほとんどなく、子爵夫人の仕事といえば茶会や晩餐会に足繁く通うだけだ。それもたった二回で疲れてしまったエトワールは、体調が優れないと生まれてはじめての嘘を吐いた。それ以降、エトワールが貴族の集まりに呼ばれることもなくなった。
予測はしていたと思う。ここは都会で、エトワールがこれまで生きてきた世界とはまったくの別ものだ。
あのちいさな町でエトワールはいつでも働いていた。足の悪い祖母に代わって、エトワールは目覚めてからすぐに家を掃除する。午前のうちに水周りもぴかぴかにして、食事の準備ももちろんエトワールの担当だ。昼からは知人のところへ行って寝たきりの老人の介護を任され、それを生活の足しにしてきた。家に戻ってからも祖母の食事や身の回りの仕事をするためになかなか一息付けず、やっと解放されるのは夜遅くになってからだ。
エトワールのたのしみといえば、月に一度の友達たちとのおしゃべり(といっても、娘たちの恋愛話にはついていけずにエトワールはほとんど聞き役だった)、それから夜に懐中電灯の明かりだけを頼りにお気に入りの本たちを読むことだった。
エトワールは机の上に出したままの詩集をときどき捲ってみる。
首都へと向かう列車の中で、黒髪とセルリアンブルーの目が印象的だった軍人さんがくれた古書だ。中身はそれほど有名ではない詩人の作品ばかりだったが、そのどれもがやさしく素朴で、エトワールに近いところにあるようにも感じられる。それには長い人生について、家族について、あるいは満たされぬ愛であったりと、心が自然とあたたかくなるのを感じてエトワールは微笑む。彼はロマンチストだったのかもしれない。一度きりの邂逅でも、エトワールは彼を忘れたりはしなかった。
あるとき、ミシェル邸で所在無くしているエトワールを見かねて夫はお芝居のチケットを渡してくれた。
エトワールは以前、故郷の町から二駅先まで列車に乗ってお芝居を見に行ったことがあった。お芝居を見に行くのはひさしぶりで、エトワールは夫のやさしさに感謝する。自分は仕事だから行けないと言った夫を責める気持ちもなかった。
エトワールは年嵩の執事が運転する車に乗り込む。マロニエの街路樹もすっかり寂しい色へと変わってしまい、エトワールは首都に来てからずいぶん時間が経っているのだと気づいた。
劇場へと吸い込まれる人々は思っていたよりもずっと多く、家族連れや恋人たち、友だち同士の娘たちも老夫婦もたのしそうだ。
開演のベルが鳴り響くと、それまで騒がしかった客席が一斉に静かになった。
さすがは都会の大劇場、舞台俳優たちは見目の良い者たちばかりだ。歌声も伸びやかで老若男女問わず虜になるのも頷ける。カーテンコールが終わっても観客たちの拍手は鳴り止まなかった。
年嵩の執事が迎えに来る時間まですこし余裕があったものの、エトワールは席を立つ。お手洗いは化粧直しの女性たちでいっぱいだろう。演目は女性好みのストーリーだった。
赤子のときに親切な老夫婦に拾われた少女には青年貴族の幼馴染みがいて、身分違いの恋に悩んでいた。しかし少女の正体は大貴族の娘であり、紆余曲折を乗り越えて幼馴染みと結ばれる。いかにも若い娘好みのストーリーで、それは少女のエトワールも憧れたものだった。
けれども、今のエトワールの心には入ってこない。まるでヒビの入ったグラスのように、いくら水を注いでも満たされずに零れてしまう。いつのまにそんなつまらない人間になってしまったのだろう、と考えごとばかりしていたエトワールは階段を踏み外してしまった。
このとき、誰かに腕を引っ張ってもらっていなければ足を骨折していただろう。
呼吸を整えながら、エトワールは自分を支えてくれた人にまず礼を言う。
「あ、ありがとうございます。大変失礼をいたしました」
「いいえ。間に合ってよかった」
顔を仰ぎ見たエトワールは激しくまたたいた。
「どこかで、お会いしましたかな?」
艶のある黒髪と空の色とおなじセルリアンブルーの瞳。整った太眉に鼻筋に、どれを見てもあのときの軍人さんだった。それなのに、彼はまったくエトワールを覚えてはいない。
「あなたは……」
エトワールは彼の傍にいるもうひとりを見た。大貴族のマダムだろう。毛皮のコートを纏い、耳や首にたくさんの宝石を光らせている。マダムがエトワールを不審そうな目で見るものだから、彼は慣れた所作でマダムの頬にキスをした。エトワールは信じられない気持ちになった。
年頃はエトワールの祖母くらいだろうか。それにしてはちゃんと背も伸びて目も輝いている。ワインレッドのドレスはとても似合っているし、細かい皺を隠すための厚化粧もそれほど嫌味には感じない。
「知り合いなの?」
マダムが言った。むせかえるような香りは薔薇の香水だ。落胆を悟られてはいけない。彼がエトワールを覚えていないのは仕方がないことで、なにしろあの列車の旅から一年は経っている。それに彼には同行者がいる。はじめは母親かと思っていたが、そうではなさそうだ。マダムは彼の胸にべったりと
「いいえ。人違いでしたわ」
やっと、それだけをエトワールは声にする。彼はにこりともせずに、マダムを伴って劇場を後にした。人違いだったらどんなによかっただろう。本当は、彼にもしももう一度会えたなら、エトワールはあの詩集のお礼を改めて言いたかった。エトワールが感じたのすべてを彼に伝えたかった。
彼の後ろ姿はもう見えない。エトワールは自嘲の笑みを落とした。
*
「お芝居はたのしかったかい?」
エトワールを迎えてくれた夫の声はやさしく、エトワールも笑みで応えた。あれやこれやと感想を求める人でなくてよかったと、エトワールは思う。夕食を終えるとクロード=ミシェルは早々と書斎に引きあげる。しかし夫はエトワールに声を残してくれた。次は図書館に行ってみればいい、と。
翌日、エトワールは年嵩の
大学に併設されている図書館は、学生でなくても一般人でも誰でも入ることができる。建物自体はやや古いが東館から西館まではかなり広く、人の一生ではとても読み尽くせないほどの本でいっぱいだ。
エトワールは東館の方へと進んで行く。文学を扱った本棚がずらりと並び、お気に入りの作者以外にも読み耽りたい本ばかりで、エトワールは童心に返ってわくわくした。
建物が大きいせいなのか、それともお昼時をすこし過ぎた時間だからか、人は思ったよりも少ないようで、エトワールはたくさんの本たちを独り占めしているような気分なる。迎えの車が来るのは四時を知らせる鐘が鳴る頃、それまでエトワールだけの時間がたのしめるはずだ。貸し出し可能な本もたくさんあるので、ひとつふたつほど借りるのもいいだろう。
とはいうもの、エトワールはこれだけ多くの本を目にするのははじめてだった。エトワールが通っていたのは、の故郷の図書館は学校に併設されているちいさな図書室と、隣町の図書館だけだ。
エトワールはしばらく歩いて児童文学のコーナーの前で止まった。
装丁はやや汚れていたがこれも繰り返し読まれている証拠だろう。森で迷子になった男の子が、動物たちの力を借りてそこから抜け出すというおはなしだ。すこし前のエトワールなら迷わず選んでいたかもしれない。このところずっと読んでいたのは、あの軍人さんがくれた詩集だ。この広い図書館ならば詩集のコーナーだってきっとあると、エトワールは足を進める。そのときだった。
「やあ、お嬢さん。また会いましたね」
エトワールはどういう顔をすればいいのかわからなかった。
あのときの彼だった。列車の中でも昨日の劇場でもおなじ軍服を着ていたし、なによりも彼の黒髪は首都で目立ってしまう。
「ええ……。昨日は大変失礼をいたしました」
エトワールは優雅にお辞儀をする。一重瞼の
「お元気そうでなによりです」
エトワールは息を止める。昨日の今日で言うような台詞ではない。セルリアンブルーの瞳がエトワールを見つめている。
「覚えていらっしゃったのね?」
「申し訳ない。連れがいましたのでね」
あの方は、と。言いかけてエトワールは唇を結んだ。たずねたところで何になるというのだろう。エトワールと彼が出会ったのはただの偶然だ。劇場にて会ったのも偶然、そうして今ここで会ったことも偶然だ。
「お嬢さんは本が好きなのですね」
やはり、彼はエトワールを覚えている。ピーナッツサンドを食べた後、彼と本の話をした。
「ええ……。ちいさい頃からそうでしたの。ここにはよく来るのですか?」
「休暇の日には必ず。ここならお金も掛かりませんのでね」
彼はウインクをする。彼は詩集のコーナーから一冊を取り出すと、そのまま言ってしまった。また会えることを、期待してもいいのだろうか。エトワールは早くなっていた鼓動を抑えるように胸に手を当てる。詩集のお礼を伝えるのもすっかり忘れていた。
その日以来、エトワールは足繁く図書館へと通った。もともと本が好きなのもあり、年嵩の執事も夫のクロード=ミシェルも、エトワールの気晴らしとなる場所ができたことを咎めたりはせずに、エトワールはひと月に数回図書館へと足を運んでいる。一度に借りられる本の数は三冊だが、エトワールは多いときには週に二度は行くものだから、これにはおもわず夫も苦笑いした。
そのうち彼に会えたのは三度ほどだった。天気の話など、はじめはたわいもない挨拶からで、けれども彼との会話はいつもたのしかった。彼が勧めてくれる本の話にエトワールはいつだって強い興味を持ち、会話が弾んだときなどふたり揃って職員に叱られたりもした。
エトワールが父親に呼び出されたのは、この冬一番の寒い日だった。
朝から雪が降っているために車は出せず、エトワールは徒歩で苦労して父親の元を訪れた。濡れたブーツを乾かす暇も冷えた身体を暖める間もなく、エトワールは父親の書斎へと通される。父親と会うのは実に二年ぶりのこと、あの日だってまともに会話なんてしなかった。
「シャルル=ニコラと付き合うのはやめなさい。あれはふしだらな男だ」
エトワールは目を
「彼は友人です」
エトワールはきっぱりと言った。父親は眉ひとつ動かさなかった。
「あの男を買っている貴婦人は一人や二人ではない。それに群がる好色家だと見られたいのか、お前は」
彼はあのとき一緒だったマダムの他にも、情人が何人もいるというのだ。良心の呵責などないのなら、思い切って否定をすればよかったのだが、エトワールの唇は結ばれたままだった。声に出すのも馬鹿げている。そう、思ったのだ。
「まだなのか。お前は」
エトワールは耳の中に血が集まるのをはっきりと感じた。なんて無神経な発言をする父親なのだろうと、エトワールはなじりたくもなった。
クロード=ミシェルが常に多忙であり、ほとんどミシェル邸にいないことも父親は知っているはずだ。それでも夫は屋敷にいるときには必ずエトワールを抱く。月の障りのない日を除いて毎晩だ。普段はやさしく誠実な夫でもベットの上では別人だ。夫は自分の欲情を充たしているだけ、エトワールはそこに愛をみたことがなかった。
それなのに、父親は二年経っても授からないのはエトワールに原因があるかのように言う。もしかしたら屋敷の使用人たちも皆そんな風に思っているのかもしれない。
「ご期待に添えるよう、努力いたしますわ」
エトワールは父親の書斎を後にした。
*
エトワールが屋敷を出たときには雪はもう止んでいた。しかし朝から降りつづけた雪で交通機関は乱れていたために、エトワールは帰りも徒歩で苦労するしかなかった。
年嵩の執事は風邪をこじらせてからずっと体調が回復せず、冬の初めに解雇されていた。エトワールには若い執事が新しく付いていたが、この若い執事はあまり仕事熱心とはいえずに
冷えた身体を暖めるためにエトワールはカフェを探した。しかしどこのカフェもいっぱいで、皆はそれぞれホットチョコレートをたのしんでいる。仕方なくミシェル邸までの長い道のりを進み出したエトワールは、そこで覚えのある顔を見た。あのときのマダムだった。
マダムは伴を付けずに一人きりだった。革のコートとブーツで颯爽と石畳を歩いていくその姿は凜として若々しく、とても祖母とおなじくらいの年頃には見えなかった。
いけないことをしている自覚はあっても、エトワールはマダムの後を追ってしまっていた。マダムは迷いない足取りで大通りをまっすぐに進んでいき、やがて左へと曲がる。今度は右へと、長く首都に住んでいる者でなければ迷ってしまいそうだ。エトワールは一定の距離を保ちながらマダムを追う。雪が止んだからか、大通りではたくさんの人が行き交っている。これなら気づかれずに済むと、そう思い込んでいたエトワールは失敗した。マダムが急に振り返ったのだ。
「それで? あたくしに何を訊きたいのかしら? ミセス=ミシェル」
言い逃れができずに、エトワールはそのままマダムの屋敷に招かれる。動揺を悟られないようにコーヒーカップを両手で包み込んだが、エトワールの手は震えていた。
「あなたのことは知っていてよ。クロード=ミシェルの結婚式にあたくしは招かれていましたもの」
つまりエトワールの素性は知られていたのだ。マダムは微笑んだ。
「でも、あなたのような若い方までシャルル=ニコラの愛人をしているだなんて」
「愛人ではありません。彼は、友人です」
とっさにエトワールは言い返した。マダムは気の毒そうな目をエトワールに向けている。
「あたくしは彼のことを買っているの。十年……、いいえそれ以上かしら? もっとも、それよりも長く彼に投資している人もいるみたいだけれど」
優雅な所作でコーヒーをたのしむマダムは余裕の表情だった。
「それで、あなたはいったいどんな素敵な愛のことばを囁かれたのかしら? 知っていまして? 彼はね、寝起きの顔がとっても可愛いの。少年のようだわ」
マダムはエトワールと彼が
「失礼します」
エトワールはマダムの顔を見もせずにそこから立ち去った。
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