猩猩

無価値な存在。

猩猩

 追剥と、そう呼ぶのがふさわしい体であった。実に低俗な、生きることの為に命を削る、正しく物の怪のような。


 ある晩のことである。一人の女人が、主人の着物を繕っていた。狭い部屋には、女人のほかに、二、三匹の蚊が飛んでいるばかりである。普通ならば、隣の部屋では主人が寝ているのが筋であるはずなのだが、それを気に留めないのは、きっと、女人の精神の強さとは、別のところに理由があるのだろう。実際のところ、女人の顔には深いしわが刻まれている。まるで、全てを諦めたような顔で、女人は、手に持った針を、動かすのである。

 裏口のほうで、何かを引っ搔くような、擦るような音がした。女人ははじめ、それが風によるものだと、そう思っていたが、しかしその音は段々と近づいてくる。ごく僅かな、獣すらも聞き逃しそうなほどの足音とともに。

 その音は、女人の恐怖をかき立てた。何か生命によくない影響があると感じるものが、その音にはあった。女人はこの寂れた家に、自分のほかに誰かがいるなど、こと夜に於いては、万に一つもあるわけがないと、心に言い聞かせた。しかし、人間の情というものか、女人は尋ねないではいられなかった。

「もし、あなた、こんな夜分にいかがなすったの。」

  返事はなく、ただ微かな息遣いと、足音が近づいてくるだけである。先ほどと違うのは、恐らく足音の大きさ。恐る恐るといった風に近づいて来ていた何かが、今や確たる意思をもって女人の部屋に向かっていたのである。その証拠に、先程まではなかった、がちり、がちりという音。鞘走りする太刀を抑えもせず、「何か」は足速に動き、遂に部屋の前までやって来た。

 月明かりで、襖に薄ぼんやりと、浮かびあがる、何かの姿。背の高さは、まるで子供のようであった。しかしその腕は、子供には不釣り合いなほど、太く、長い。そして、大きな腕とは明らかに釣り合わないほど細い足。そこには確実に、何か、歪みとでも言うようなものが、感ぜられるのである。

 不意に、物の怪の口から言葉が発せられた。

「おれは、生きるのだ。おれは、飢え死にをしないため必要のないことは、せぬ。」

 木々がそよぐような、かすれた、低い声であった。腹の底からうねる、地鳴りのような物の怪の声を聴いて、だれか正気でいられよう。女人は既に恐怖にのまれ、引きつけを起こしたかのように、震えている。物の怪は、なおも声を発する。

「おれは、生きるのだ。きっと、生きるのだ。」

 おもむろに、襖に手をかけ、そのままゆっくりと、その丸太のような腕を引き、錆付いたような声で言う。

「生きるのだ。生きるのだ。」

 開いた襖を額のようにして、物の怪が立っていた。その髪は、まるで猿のように顔を覆っていたのであるが、その双眸の、どす黒さを兼ね備えたような、ぎらぎらとした光を隠すことは出来なかった。

「おれは、居切るのだ。」

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猩猩 無価値な存在。 @wisteriaflowers1231

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