第五章 死闘! ザルト・ゼオクローム

     1


 長々と思慮を重ねている暇はなかった。


 アーシェンカはリックの手を引いて、水に入った。水に浮かんでいるランプの容れ物を取り上げ、行く手に光を送る。水路の奥は深い。光は途中で勢いを失ない、闇に屈する。


 「なんか、入水自殺するカップルみたい」


 などと、しゃれにもならない軽口をアーシェンカは飛ばす。


 「ひゃっ、冷たい」


 水路は――― 一時的に視力を失っているリックは見ることができないが―――最初のうちは比較的ゆったりした広さを保っていた。水位も膝くらいまでで、天井は逆に高く、手を上に伸ばしても指先が触れるかどうか。幅も、二人の人間がやや間隔を空けて歩いても窮屈さを感じない程度はあった。


 だが、じきに水路は狭まった。


 水深も増した。水路そのものが軽い傾斜を持っていることと、このあたりの地質が多くの水を含んでいるためだろうが、壁のあちこちから水が染み出してくることで、水位はじきに腰に達し、腹に届き、ついには胸元までに迫った。


 この頃にはリックの眼も回復していたが、視界は戻らなかった。ランプが役に立たなくなっていたのだ。


 やむを得ず、


 }.{ (エルス・ブナ)


 とアーシェンカは呪文を描き、中空に微弱な光を浮かばせた。行く手を照らす光源にするためだ。


 会話はなかった。二人は黙々と歩き続けた。


 水に抗って歩くのは意外に体力を消耗する。しかも、冷たい水に体温は容赦なく奪われ、疲れは倍加する。


 辛いのは、身体を休めるのも立ったままで行わなければならないことだ。どんなに疲労していても、睡眠をとって疲れを癒すことができない。食事も、水浸しになった食料を歩きながら口にしなければならなかった。


 やがて、水位がリックの喉元に達した。


 と、いうことは、アーシェンカは足が届かないということになる。


 リックはアーシェンカを自分の肩に捕まらせた。浮力のおかげで、重さはさほど感じないが、進む速度はどうしても遅くなる。


 そして、水路に入ってから二刻にじかんが経過し、ついに水路は完全に水没した。


 その手前でリックたちは立ち止まった。


 「行き止まりか……」


 リックは、しばし茫然とした。


 これまでの膨大な行程が頭にはある。引き返すにしても、それと同じだけの体力を使わねばならないというのは、考えただけでも暗澹としてしまう。それよりも何よりも、この水路を行くという計画が頓挫した以上、サンク・セディンを突破することは夢物語に終わるのではないか。


 「潜って、先がどうなっているか調べてみる。息が切れるところまで行っても空気がないようだったら、あきらめよう」


 リックは悲痛な声で言った。アーシェンカに対して、すまないという気持ちが湧き起こっていた。自分の都合で振り回して、とてつもない苦労をさせて、なおかつそれに対してリックはあがなう術を持たないのだ。


 「待ちなさいよ、リック。そんなことしたら、あなた、溺れちゃうわよ」


 それはそうだ。息が続く限り潜って進んで、あきらめた場所から引き返し始めていたのでは、帰りつくまでに息が切れるのは理の当然である。


 「こーゆー時のために、昨晩は睡眠時間を削ったのよ」


アーシェンカはリックの背中にくっついた状態のまま、自分の喉に文字呪文を描いた。


 )」%「( (メム・サード)


 それから、アーシェンカはリックの肩から手を放し、水中に姿を消した。


 「お、おい、アーシェ!」


 驚いてリックは少女魔道士の姿を探した。


 アーシェンカが水に潜った瞬間、アーシェンカが灯していた魔法の光が失せてしまい、あたりは闇に飲み込まれてしまった。


 「どこだ!? アーシェ!」


 リックは周囲を手で探ったが、アーシェンカの居所はわからない。


 「アーシェ!」


 声を張り上げて名を呼んだ。


 それに呼応するかのように、がばっとアーシェンカが水面から顔を出す。


 軽く、咳き込む。


 「けほけほ。ちょっと切り替えがスムースじゃないかなっと……七十点だな」


 呟きながら、エルス・ブナの光を蘇らせる。


 「何をしてたんだ、いったい!?」


 リックがやや詰問調で尋ねた。心配した分、声が尖っている。


 それに対してアーシェンカは怪訝そうな顔を一瞬浮かべただけで、あとは至って平穏な口調で次のように説明する。


 「何って、覚えたての文字呪文の実験よ。メム・サードっていって、水の中でも呼吸ができるようになる呪文。もっとも、一夜漬けじゃ完璧ってわけにはいかないけど、窒息しない程度には息ができるわ」


 「本当か?」


 リックは半信半疑だ。


 「ほんとーだってばさ! わたし、自分で試してみたもの。あとはリック、自分で確かめてみれば?」


 「わかった。やってくれ」


 リックは腹を決めた。先程のアーシェンカの行動は、文字どおり人体実験だったのだ。自分の身体を使って、覚えたての魔法の効果を確認したのだ。まことに殊勝な心掛けで、オーンでの彼女をよく知る借金取りたちは仰天するだろうが、ここまでアーシェンカと旅を続けて来たリックには、その行動はこの上なく彼女らしいものに映った。


 アーシェンカの呪文を受けたリックは、思い切って水の中に身体を沈めた。


 水中で息を吸い込もうとしたが、水を肺に導くことに対する本能的な抵抗が起こり、果たせない。リックは改めて先程のアーシェンカの行動に心動かされた。人間、頭では理解していても、自然に反する行動はなかなかにとりにくいものなのだ。それをあえてアーシェンカが行ない、果たせたのは、彼女の責任感の為せる業であろう。


 リックは呼吸を止めたまま水の中を進み続けた。泳ぎを知らないリックは、水の中をもがくようにして進んだ。


 アーシェンカも似たようなものだが、少しはましに手足を掻きつつ、リックの後に続いている。


 リックの肺が臨界に達した。


 リックは少しだけ水を飲み込んだ。


 がふ。


 リックは愁眉を開いた。水が気管に浸入したが、苦痛はなかった。


 思い切って吸ってみた。すんなりと肺は水を受け入れた。


 水は冷たく、肺に重かった。違和感は強かったが、呼吸の苦しさからは解放された。


 リックは水の中で深呼吸した。


 身体が落ち着くと、手足も思ったように動かせるようになった。壁や天井に手を掛け、その反動で前に進んだ。


 時間が経つほどに、リックは全身に虚脱感が広がるのを自覚した。


 どうやら、軽い酸欠状態らしい。水の中に含まれる酸素の量はわずかだ。魔法の力で増幅はしているのだろうが、やはり空気のようにはいかない。特に、現在のように激しい運動をしていればなおのことだ。


 リックは背後に向き直った。


 アーシェンカの動きが鈍くなっている。暗い水路の中、かすかな魔法の光が水中に灯っているものの、少女の表情まではわからない。だが、朦朧としているようなのは、彼女自身の文字呪文が生み出したエルス・ブナ、魔法の光が今にも消えてしまいそうなことでもわかる。


 「アーシェ、しっかりしろ」


 と、リックは発声したが、さすがに吐き出す水の震えでは、声の態を成さない。


 リックはアーシェンカの手首を掴み、引き寄せた。腕の中に抱きかかえるようにし、なおも進む。こうなれば、一分でも早くちゃんとした空気のある場所まで脱出しなければならない。


 リックは水を空いた方の手で掻き、床を靴で蹴った。どうにかして先へ進もうとする。


 アーシェンカはリックの腕の中でぐったりしている。メム・サードの効果は残存しており、すぐには窒息するようなことはなさそうだ。だが、それにしても今日のアーシェンカはかなりの呪文を使っている。呪文を使うことによる精神と肉体の疲弊度には個人差がかなりあるが、アーシェンカくらいの年齢ではすでに限界に近い負荷がかかっているのではないか。


 「アーシェ、死ぬなよ!」


 心の中でそう叫びつつ、リックは水の中を疾走した。少なくとも気持ちは走っていた。


 距離は、しかし、なかなか稼げない。


 だが、ようやくのこと。


 行く手に淡い光が見えた。


 リックは、必要に迫られて上達したドルフィンキックで、アーシェンカを抱えたまま、光に向かって進んだ。


 突然、広い場所に出た。まだ水中だ。もう狭い水路の中ではなかった。床がなかったし、壁もなかった。天井も然り。頭の上には莫大な量の水が横たわっており、なおかつ、おぼろな光がいくつか揺れていた。


 松明の光らしい。


 リックは浮上を開始した。


 ただし、光の輪の中に入るのは避けた。もしも、ここが城塞の内部であるとしたら、人目につきそうな行動はなるべく避ける必要がある。


 リックは水中で進路をわずかに変えると、暗い水面に向かって浮上を継続した。


 水面を破った。


 リックは最後の息を吐いた。水が喉奥から突き上げて来る。水から出た瞬間、魔法の作用が減衰する。メム・サードに慣れていれば、水から出る寸前に肺の中を空にしておく、という心得を実施できるのだが、リックはまったく無知だった。


 激しくむせる。肺が焼けそうだ。


 アーシェンカは半ば失神状態だったので、肺の中にほとんど水が残っていなかったらしい。


 リックはむせながら、立ち泳ぎを続けていた。


 薄暗い空間である。


 人気はなさそうだ。リックは少しほっとした。


 石造りの壁と天井で囲まれた、そこは室内だった。窓がまったくないところを見ると、地下室のようでもある。


 「地下の採水場……とでもいうのかな」


 ようやく呼吸を鎮めることができたリックは周囲を見渡した。


 空間は、大きな寺院の大会堂に匹敵する広さがある。周囲には回廊が巡らされ、人が通れるようになっている。その回廊の壁の要所には松明が焚かれ、淡い光を水面に投げ掛けている。


 水はこの部屋全体を満たしており、水面から回廊まではかなりの高さがある。周囲の壁には手掛かりというものがない。


 「どうやって上がればいいんだ?」


 リックは壁の周囲を泳ぎながら考えた。壁には階段の類はまったくない。どうやら水面に降りる必要を、この空間を設計した人物はまったく感じなかったらしい。採水場というわけではなさそうだ。


 「アーシェ、少し休んだ方がいい」


 リックは励ますように声を掛けた。アーシェンカはうっすらと眼を開けて、肯いた。リックはアーシェンカを壁にもたれさせた。壁の石の間に指をかけていれば、少なくとも泳がなくてもよい。体力の回復をこうやって待つしかない。アーシェンカが呪文を使えるまでに回復できれば、ここから脱出することも可能だ。


 その時だ。


 回廊に人の声が響いた。


 「まったく、この仕事だけは厭なもんだな」


 うんざりしたような男の声だ。


 「そうだな、まったく気が滅入る」


 それに応えて、同僚らしき男の声が続いた。


 ずさっ、ずさっ、と重いものを引き摺るような音が、二人分の靴音とともに聞こえている。


 アーシェンカの表情が緊張する。


 リックも息をひそめ、壁に張り付いた。こうしていれば、回廊の上から姿を見られることはない。


 「軍師さまもとんでもないことをお命じになるものだ」


 男は恨めしそうな声で言った。


 慌てて同僚が声をひそめる。


 「おいおい、あまり危ないことを口走るなよ。上に聞かれたらどうするんだ?」


 「だがな、来る日も来る日も死体をこんな地下に運ばされてみろ。愚痴のひとつも出ようってもんだぜ」


 今にも叫びだしそうな男の憤懣に、同僚はなだめるような口調で答える。


 「それはおれだって同じさ。いまは日にせいぜい二、三人運んで来るくらいだが、戦が起これば、それこそ総出でここへ死体を運ぶんだぜ。いっそ近衛兵なんかやめちまって、戦場に出た方がまだましだって思えるくらいだ。だがな、軍師どのは陛下の第一の側近だ。下手なことを口にして、軍師どのの機嫌を損ねたら、今度ここへ運ばれるのはおれたちだってことにもなりかねんぞ」


 「おいおい、おまえこそ怖いことを言うなよ。おれはあんな怪物の腹には収まりたくねえ」


 「おれだってそうさ。だから、さっさと仕事を片付けちまおうぜ」


 「そうだな」


 回廊の上で、ごそごそと音がしている。縄を切るような音がして、布の袋から何か重いものを引きずり出すような気配が伝わって来る。


 「リック……あれって、もしかすると……」


アーシェンカが青い顔をして言う。声は極限まで絞っている。


 「ああ……」


 リックも全身を襲う悪寒に抗いながら、頭上の気配を探っている。


 水音がした。回廊から、何かが投げ落とされたのだ。


 ひとつ、ふたつ、みっつ。


 白い物体だ。人の形をしている。


 裸の人間たちだ。むろん、死んでいる。


 若い女の死体と、中年の男二人の死体だ。男たちの方は兵士か何かだったのだろう。身体に矢傷らしきものがある。戦いで傷つき、息を引きとったらしい。女の方はわからない。身体に傷はないようだ。病死か。


 「あの子は可哀想なことをしたよな。クレリアさまのお気に入りだったんだろ? なにひとつ落ち度はなかったのに、軍師どのは呪文ひとつで殺しちまった」


 「おい! ちょっと今日は口が過ぎるぞ!? このことは軍師どのから口止めされているはずだ。密かに死体を片付けろってな」


 「ほっといてくれ。おれは、あの子が結構好きだったんだ。愛想のいい子でな。偶然、廊下で行き合ったりすると、にっこりと、そりゃあ可愛い顔で微笑んでくれたんだ。あの子がいたおかげで、クレリアさまだって元気を取り戻したんだろ? 陛下との婚儀に応じたのだって、あの子がいたからじゃ……」


 「無駄口は叩かぬがよいぞ。仕事は済んだのか」


 低く重い声が響いた。第三の人物だ。


 兵士二人の動揺が回廊下のリックたちにも伝わった。


 「こ、これは……!」


 「ザルト・ゼオクローム将軍閣下」


 おびえきった声だった。


 ザルト・ゼオクロームは冷徹な声を響かせた。


 「たとえ無人の地下室であろうと、軍機をやすやすと口にするような人間はグルムコクラン軍には無用。せめて我が弟の餌となりて、役に立つがよい」


 悲鳴と苦鳴が続けざまに起こった。その合間には骨が砕ける鈍い音がしている。


 アーシェンカは耳をふさいでいた。


 リックは凝然として身じろぎもしない。たった今、頭上で行われていることに慄然としていた。


 ふたつ、水柱が起こった。


 首をへし折られた兵士二人の死体が浮かび上がる。凄まじい怪力によって破壊されたらしい頭部は、ほとんど原形をとどめていない。


 「我が弟、ゲルグよ。浅き眠りより目覚めよ。おまえのための餌を用意した。痛まぬうちに食すがよい」


 ザルト・ゼオクロームは言い放った。


 靴音が聞こえるのは、ザルト・ゼオクロームがその場を立ち去りつつあるのだろう。


 その靴音が聞こえなくなるのとほとんど同時に。


 水底に大きな影がゆらめきだした。


 


 


      2


 


 影はゆったりと移動していた。


 それは、水面の中央―――死体が浮かんでいるあたり―――の真下で静止した。


 「な、なんだ……いったい……!?」


 リックは背後にアーシェンカをかばいながら唇を噛みしめた。


 アーシェンカは水面に文字を描き始めている。


 ぶつぶつと呟きながら精神を集中させている。


 その時、中央の水面が割れた。


 大きな波が起こり、リックとアーシェンカは壁に激しく打ちつけられた。波に翻弄され、リックもアーシェンカも水を呑んだ。メム・サードの効力は既に消失しているから、二人とも大いにむせる。


 だが、むせてばかりもいられない。


 大波を起こしたものの正体が明らかになっていた。


 それは、巨大な亀だった。


 甲羅の上に人間が五十人くらい乗れそうなくらいの大きさだ。化け物と言っていい。


 巨大亀は、首を伸ばし、人間の死体を器用に咥えた。


 大きな顎で噛み砕いてゆく。


 「うええ」


 アーシェンカは気持ちが悪そうに顔を歪めた。正視できない。文字呪文を描くどころの騒ぎではない。


 亀は次々と餌をたいらげていった。死にたての方がうまいらしく、首を折られた兵士たちを食べる段では、嬉しそうに声を上げたほどだ。普通の亀の鳴き声がどんなものかリックは知らないが、この巨大亀の鳴く声は少し猫に似ていた。むろんのこと、猫ほどに愛らしくはなかったが。


 巨大亀は死体を食し終わった。だが、まだ食べ足りなさそうであるように、リックは感じた。こういう勘は外れないものだ。


 巨大亀―――ザルト・ゼオクロームによれば、ゲルグというらしいが―――は黄色い眼をリックたちに向けた。


 ぎろり、眼が光った。


 ゲルグは水に潜った。


 巨大な影が水面下からリックたちに接近する。


 リックは水の中で剣を引き抜いた。指がかじかんで、握力が充分ではない。冷たい水の中にずっといるためだ。


 「リック、待ってて!」


 アーシェンカが文字呪文を再開している。


 リックはアーシェンカを振り返った。


 「できるのか!?」


 「わからない……」


 アーシェンカの額に汗が浮かんでいる。体温は容赦なく奪われ続けているというのに汗が出る。脂汗だ。それほどまでにアーシェンカは肉体に負担を強いている。


 影はリックたちの真下で静止した。逃げる暇はない。逃げたところで、水中での運動速度は相手の方が上なのだ。無駄というものである。


 アーシェンカは文字呪文を描き切った。


 !>%S~<! (ウィン・ターフ)


 何も起こらない。


 アーシェンカの悲鳴がリックの耳朶を打った。


 「だめだよ! 風の力が弱くて、呪文が実体化しない!」


 「アーシェ、壁に張り付いていろ! 波が来るぞ!」


 リックは叫びながら、アーシェンカを壁に押しやった。


 自分もアーシェンカに覆い被さるように、壁に身体を寄せる。


 剣を壁石の間に突き入れた。しっかりと固定する。


 水面が盛り上がった。リックとアーシェンカの身体が水に持ち上げられる。


 壁から引き剥がそうという、凄まじい力が襲って来る。


 これに屈して、水面に投げ出されたら、ゲルグの顎に落ちるしかない。


「耐えろ! 耐えるんだ!」


 リックはアーシェンカの身体を片腕で抱きしめた。もう一方の手は、剣の柄を握り締めている。


 リックとアーシェンカの身体が壁から剥がされた。


 剣一本だけで、かろうじて繋ぎ止めている。


 浮上したゲルグが口を開いた。巨大な牙が見える。肉食性を植え付けられているためか、牙も発達している。


 リックとアーシェンカの足が、ゲルグの口元に近づいた。


 ゲルグは壁に鼻先をぶつけるくらいに接近した。


 リックたちを咥え取ろうとする。


 「このぉっ!」


 リックは渾身の力をこめて、ゲルグの口唇部を蹴った。


 ゲルグには何の痛痒も与えない一撃だ。だが、反作用で、リックとアーシェンカは壁に戻った。


 「アーシェ、潜ってろ!」


 リックは乱暴にアーシェンカの頭を押し付け、自分は石壁の隙間に足を掛けて、跳躍した。剣は引き抜いて、手の中にある。


 「リック!」


 アーシェンカが水面に顔半分を沈めながら懸命に叫んだ。


 リックは宙を飛んでいた。


 ゲルグは首を振り上げた。長い首だ。


 空中でリックを咥えようとしている。


 タイミングはばっちりだ。リックは自らゲルグの口の中に飛び込む格好になる。


 「馬鹿あ!」


 アーシェンカが怒鳴った。


 無意識に素字を切った。


 ? (トキ)


 文字呪文ではない。こんな呪文はまだ誰も使用していないし、それに関する文献も存在しない。今のところは。


 神・時間・空間・愛などの絶対素字の研究はまだまだ未開拓の分野なのだ。


 アーシェンカは、自分がイメージした文字が脳裏で白熱するのを感じた。


 これって……この認識って……!


 アーシェンカは驚愕した。無意識に描いた素字の持つ意味が鮮明なイメージを持って、アーシェンカの意識野に流れ込んで来たのだ。


 「リック! 飛んで!」


 アーシェンカは叫んでいた。


 ゲルグの顎の動きが止まった。一瞬だが確かに静止した。


 その間もリックの移動は続いている。


 ゲルグの顎の動きが再開した瞬間、リックはゲルグの鼻先をかすめて通過していた。


 リックの動きとゲルグの動き、それぞれの属する時間がずれた。そのわずかな時間差がリックを救ったのだ。


 リックはゲルグの甲羅のへりに激突した。


 片手で甲羅にしがみついた。


 ゲルグが喚きつつ、リックを捜して首をねじ曲げる。


 リックは甲羅の上に身体を伏せて、それを逃れた。


 ゲルグが首を元に戻した瞬間、リックは起き上がり、剣の切っ先をゲルグの首の根元目掛け、突き下ろした。


 ゲルグが絶叫した。


 血潮が噴き出す。


 ゲルグは首を縮めた。甲羅の中に首を収納しようとする。


 リックは渾身の力をこめ、剣を沈める。


 ごりゅごりゅ、といういやな感触とともに、剣は大亀の首を抉ってゆく。


 柄まで刺し込んだ。リックの長剣は、ゲルグの首を刺し貫いた。


 ごるん、という反動が柄に伝わった。


 縮めようとしている頭が、リックの剣によってつっかい棒されたような形になっていた。


 剣がたわんでいるのがわかる。凄まじい力でゲルグは首を縮めようとしていた。


 「この……っ!」


 リックは剣にしがみつきながら、ふんばった。ゲルグは激しく暴れていた。水に潜り、手足を伸縮させ、懸命にリックを振り落とし剣を抜き取ろうとしていた。


 だが、それを許せばリックの方が危ない。リックも必死だ。


 ゲルグが水面を跳ねた。跳ねて、壁に激突した。


 激痛に自暴自棄になった挙げ句の行動だった。


 剣を握ったままリックは弾き飛ばされた。


 背中から水面に落下する。呼吸が停まるほどの衝撃だ。


 「リック! 大丈夫!?」


 アーシェンカが抜き手を切って、リックに近付く。


 疲労の余り沈みそうになるリックを水中で支えた。


 「や……やつは……!?」


 一瞬、意識が暗くなり、状況を失念しかけたリックは、慌ててゲルグの方を見遣った。


 ゲルグは、石壁に頭を打ち付けて絶命していた。頚部は半ば切断されている。壁にぶつかった衝撃でリックが跳ね飛ばされた時、剣にも強い遠心力がかかり、ゲルグの首の筋肉を切断したのだろう。


 加えて、石壁によってゲルグの頭部もぐしゃぐしゃになっていた。頭蓋骨も砕けてしまっているようだ。


 濃厚な血が水面に広がりつつあった。


 「あいつ、パペットマスターが作った魔法生物だよ、きっと。強い水系の波動を内蔵していたもの。だから、わたしのウィン・ターフが使えなかったのよ。四大元素の素字はそれぞれに干渉しあう性質があるから。たとえば水の力が強い場では、他の元素の素字は効力を削がれてしまうのよ」


 アーシェンカはそう説明すると、再び文字呪文を描いた。


 !>%S~<! (ウィン・ターフ)


 今度は風が巻き起こった。リックとアーシェンカの身体を包み込んで、風は二人を水から引き離した。


 「大丈夫か、アーシェ」


 リックは少女の体力が気掛かりだった。何しろ、つい一月前に瀕死の重傷を負ったのだ。その後の旅程も疲労を蓄積させるものだったし、つい今までは冷たい水の中をずっと行動していた。リックでさえ、疲労の極である。アーシェンカの肉体はもう限界を越えているのではないのか。


「平気よ。でも、上がったら少し休憩しようね」


 アーシェンカはへろへろと笑い、片目をつむった。


 


 回廊に着床した。


 上に続く階段を探し当て、昇り始める。


 周囲に敵の気配はない。そうとうにやかましく暴れたはずだが、亀は餌時には普段から騒々しいのかもしれない。


 幾つかの扉があったが、いずれも内部から解錠できたのは助かった。


 ようやく、階段を登り終えると、そこは暗い廊下だった。


 どこもかしこも石造りで、湿り気を帯びている。


 アーシェンカの歯が鳴っている。寒いらしい。リックもそうだ。身体の芯まで冷え切っている。


 人気のない廊下をしばらく行くと、両側に扉が並んでいる箇所に行き当たった。


 地下牢であるらしい。


 だが、どうやら現在は使用されていないようだ。どの扉も鍵が下りていない。


 牢の中は寝台があり、牢によっては毛布が放置されているところもあった。


 「この中で休もう」


 牢に自ら入るのは気が引けたが、人目を避けて休むためには仕方がない。


 リックは何枚か毛布をかき集め、先にアーシェンカが入った牢にそれを運び込む。


 外から閉じ込められる愚を避けるためか、錠が壊れている牢をアーシェンカは選んでいた。


 アーシェンカは寝台に横たわっていた。はや、寝息をたてている。


 だが、とても安らかそうな寝息ではない。荒い息をしていた。


 リックはアーシェンカの額に手を当てた。熱がある。


 アーシェンカは濡れた服をそのまま身に着けている。


 リックは厳しい表情でアーシェンカに囁きかけた。


 「悪いが、身体を拭かせてもらうぞ」


 言い置いて、アーシェンカの衣服をぎごちなく脱がしていった。


 牢の中は暗いので、どうせ見えないのだが、リックは律義に眼をかたく閉じていた。


 最後の一枚までを取り去り、リックはアーシェンカの身体を乾いた毛布で包む。


 それからアーシェンカの身体から水気を拭き取り、肌を擦った。


 それをしばらく続けると、アーシェンカの肌にようやく温かさが宿った。リックは、ほうと息をつき、アーシェンカの側を離れた。


 アーシェンカの服を絞り、渇きやすいように、広げて壁の段差にひっかけた。


 リックは自分の防具と服を脱ぎ、手早く水気を絞り出すと、再び身に着けた。恥ずかしいからでもなんでもなく、これは不意を突かれても闘えるようにするためだ。


 毛布を一枚身にまとい、残った毛布はすべてアーシェンカにかけてやった。この場でできる、なけなしの手当であった。


 「リック……」


 アーシェンカが呟いた。


 リックはアーシェンカの側に腰を下ろした。


 アーシェンカは尚も呟きを洩らしていた。どうやら、寝言らしい。


 「死なないで、死んじゃ……いや」


 口の中で言葉を紡ぎ続けている。


 リックは微笑み、アーシェンカの手を握ってやった。


 「大丈夫だ。おれは生きている。アーシェが何度も助けてくれたから」


 囁くように言った。


 アーシェンカはほっとしたようだ。


 「よかった……」


 それから、深い眠りに落ちたようだ。


 リックは手を外そうとしたが、アーシェンカがしっかり握っており、外せない。


 リックは苦笑して、そのままにしておくことにした。姿勢的には少し辛いが、寝台の側に膝を立てて座ったまま、休むことにした。


 眠るつもりはなかった。ここは敵の要塞の中なのだ。一瞬たりとも気を休めることはできない。


 だが、疲労はリックの意識の糸を断ち切った。


 リックも眠りに沈んでいった。


 


 ふと気がつくと、リックの膝の上にアーシェンカがいた。


 身体のぬくみでそうと知れた。


 アーシェンカは身体を丸め、すやすやと寝息を立てている。


 なぜだろう、とリックはぼんやりと考えた。


 アーシェンカは寝台で眠っていたはずだ。


 でも、今の方がいい。あたたかい。


 リックの朦朧とした意識では、現在の状況にやましさを感じることはなかった。


 アーシェンカという、彼にとって好ましい、あたたかで柔らかな生き物と同衾していることは、肉体的にも精神的にも彼を満たしていた。


 それは同時にアーシェンカが自ら望んだことでもある。自分で寝台を下りて、リックの懐にもぐりこんだのだ。


 寒さを克服するのに、互いの体温を利用しない手はない。生き延びるための動物の本能的な行動だった。


 リックは毛布越しにアーシェンカを抱きしめた。


 二人はそのまま、とろけるように眠り込んだ。


 


 


      3


 


 アーシェンカがリックより先に起きられたのは、彼女にとって幸いなことだった。


 毛布に幾重にも包まれていたとはいえ、全裸であることには変わりがなかったし、目覚めた時にはリックに抱きすくめられており、自分もリックの胸に顔を埋めていた。


 先にリックが目覚めて、寝顔でも見られたりしていたら、さすがにアーシェンカも冷静ではいられなかったろう。


 先に眼が醒めたのを幸い、リックに眠りを継続させる呪文を軽くかけ、リックの腕から抜け出したのだ。


 服はまだ湿っていたが、これはエルス・ブナで軽くあぶって乾かした。


 エルス・ブナの光の届く範囲を慎重に設定してあるので、牢の外から怪しまれることはないはずだ。


 持っていた荷物は諸々の騒ぎで全部失っていたから、着替えもない。ゲルグの血にも若干浸ってしまって、あんまり身に着けたくない服だが、裸でいるわけにもいかないので泣く泣く袖に腕を通す。


 「紺色でよかった。グレーとかパープルとかだと、もっと汚れが目立っていたわ」


 などと呟きつつ、アーシェンカは乱れた髪に手をやった。


 「あうー。熱いお風呂に入って、髪を洗いたいよぉ」


 鏡も見たいものだ。今、どんなひどい顔をしているか、わかったものではない。敵地にあろうが戦いの最中であろうが、女の子は清潔でいたいものだ。


 現在の状況下では最善と思われる身だしなみを整えて、アーシェンカはリックに視線を向けた。


 頬がややこけ、無精髭が伸び始めているが、不思議と不潔には見えない。


 むしろ、少年のようなあどけなさを感じる。アーシェンカよりもむろん年上なのだが、どうもアーシェンカはリックが時に弟のように感じられることがある。要領がめちゃくちゃ悪いからだ。そればかりではない。


 「どうでもいいけど、奥手よねえ、この人」


 アーシェンカは腕を組んで首を捻った。


 「それとも、わたしに徹底的に魅力がないのかしらん。うーむ」


 胸は確かに小さいぞ、でも、まあ、無理をすれば子供を産めなくもない年齢だ。


 それでも、リックから見れば物足りないのか。


 きっと、クレリアは違うのだろう。身体も成熟しているに違いない。


 アーシェンカはなぜだか腹が立って来た。


 リックの頭をはたいた。


 ぺちっという音がした。


 「起きなよ、リック。寝坊だよ」


 いちおう周囲に注意しながら、リックを起こす。


 「ん。ああ、しまった。寝入ってしまったか」


 リックは慌てて立ち上がった。


 「アーシェ、身体はどうだ?」


 「完璧よ。ちょっと、お腹が減ってるけど」


 「食事か……むずかしいな。うまく砦の厨房に入れればいいんだが」


 「いーよ、別に。それよりも、これから砦を探索しなけりゃ。クレリアを捜すんでしょ」


 「ああ……」


 リックの顔が暗くなった。


 「あの兵士たちの口ぶりからも、この砦にクレリアがいることは間違いなさそうだ」


 あの兵士たちの……でリックの口調のトーンが落ちる。


 アーシェンカは太い眉を跳ね上げた。


 「あーっ、もしかして、リック、気にしてるの? あいつらの言ったこと」


 「クレリアが……陛下との婚儀を応諾した……ってやつかい? まさか!」


 リックは先回りをして言った。やや自嘲するような響きが声には含まれている。


 陛下、というのはグルムコクラン国王セラフィム・ストゥームベルガーのことであろう。クレリアを連れ去った際のパペットマスターの言葉「わが主のために、花嫁を貰い受けに参った」ということとも、それは符合する。


 クレリアがグルムコクランの国王の妻にと望まれていることは、もはや疑うべくもない。


 「やっぱり、気にしているんだ」


 アーシェンカは非難するような眼をリックに向けた。


 「クレリアって可哀想。こーんな情けないイジケ男を好きになるなんて、さ」


 「アーシェ」


 リックは固い表情を浮かべている。


 「おれはクレリアを信じている。グルムコクランのやつらが何を企んでクレリアをさらったかはわからないけれど、それがクレリアの意志を無視して行われたことには違いないんだ」


 アーシェンカはじいっとリックの顔を見詰めている。リックが息苦しさを感じる一歩手前まで、視線を動かさない。


 「だから」


 リックが先に視線を外した。


 「行くぞ、アーシェ」


 最後は慌ただしく言葉を結び、立ち上がった。


 


 サンク・セディンの要塞は、旧要塞を補強した部分と、新たに建設された部分を繋ぎ合わせた形になっている。リックたちが潜入したのは旧要塞の方で、こちらはどうやら普段はあまり使われていないらしい。したがって、衛兵の数もまばらで、リックたちはさほど苦労せずに進むことができた。


 だが、さすがに新要塞の方はそういうわけにもいかない。


 衛兵が要所要所に詰めており、うかつには動けない。


 リックとアーシェンカは息をひそめ、物陰を選んでじりじりと移動していた。


 「クレリアはどこにいるんだ……?」


 リックはやや焦りを声ににじませていた。


 「クレリアがいるとしたら、やっぱり要塞の中枢でしょうね。昨日の近衛兵の言葉からも……」


 アーシェンカは言葉をいったん切った。それから軽く提案する。


 「強行突破、する?」


 文字呪文を使って要塞内部に混乱を作り、それに乗じて中枢部分に進む、という作戦だ。安直だが、アーシェンカが派手な呪文を連発すれば成功する確率は高い。


「そうだな……」


 リックも考え込んだ。しばらく熟考してから、リックは口を開いた。


 「いや……やめておこう。派手な呪文をたくさん使えば、それだけ消耗するだろ。狡いかもしれないけど、アーシェの力は後のためにとっておきたいんだ」


 リックはそう言って、アーシェンカの案を採らなかった。


 アーシェンカとしては、リックが自分を頼りにしていてくれているようで、少し嬉しかった。


 だが、そうなると、なんとかしてサンク・セディン要塞の内部を密かに探索せねばならないわけだが、それがなかなかに難しい。


 しかし、思わぬ情勢の変化が現れた。


 


 突然、激しい鐘が打ち鳴らされたのだ。


 警報であるらしい。


 物陰に隠れていたリックたちはいっそう身を縮こませた。


 廊下をどやどやと兵士たちが走っている。


 緊迫している。


 「敵襲だ! 速やかに非常体制に移行せよ!」


 「各部署長は点呼終了後、報告を行え!」


 叫び声が発せられている。


 その中に混じって、兵士たちの声も聞こえている。


 「オーンの魔道士たちが攻めて来たってよ!」


 「けけえっ! じゃあ魔道士たちにお任せだな。おれたちの出る幕はねえ」


 「だといいがな」


 兵士たちは勝手なことを言い合っては、上官の叱責を受けて口をつぐむ。


 リックとアーシェンカは顔を見合わせた。


 「オーンの魔道士部隊が来たのか……」


 「意外に素早く動いたわね」


 アーシェンカも驚いている。


 「まさか、わたしたちを当てにしているんじゃないでしょうね」


 「どうかな……でも、これは好都合だ。うまく兵士たちが移動したぞ」


 リックの見た通り、兵士たちは要塞の外壁部分の防御拠点に集まりつつある。となれば、中枢部分ほど兵の密度が薄いということになろう。


 「行こう、アーシェ」


 周囲に兵の気配がなくなったことを確認して、リックは言った。


 アーシェンカも肯いた。


 


 サンク・セディン要塞に活気が漲っていた。それも不健全な、禍禍しい殺気だ。


 戦いを目前にして、要塞自体が血に飢えてざわめき立っているようだ。


 リックとアーシェンカは要塞の中央階段にたどり着き、そこから上層へと登った。


 こうなれば、姿を潜ませることにさほどの意味はない。


 まばらになった警備陣ならば、リックの剣技で突破もできよう。


 だが、拍子抜けするほどに、中央部に人影はなかった。


 「みんな出払ったのかな」


 訝しげにリックは呟いた。


 アーシェンカも首を捻る。


 「近衛隊くらいはいそうなものだけれどね」


 リックとアーシェンカは一層ごと、部屋を調べて回った。


 要塞中央部には、大広間、大食堂、休憩室の他に、上層部の士官が滞在するらしい寝室や、会議室らしいものがあった。だが、それらはすべて無人であった。


 さらに上層に登り、階段が尽きた時、リックたちは異質な雰囲気を嗅いだ。


 それまでは剥き出しの石造りであったのに、この層だけ赤い敷布が敷かれ、壁には大理石の板が填め込まれている。天井からの光も、獣脂ランプではなく、高価な蝋燭をふんだんに使ったシャンデリアだ。


 まるで王宮のような豪華さだ。


 「ここね」


 アーシェンカが鼻をぴくりと動かした。


 「セラフィム・ストゥームベルガー陛下の居まし処」


 「じゃあ、ここにクレリアが……?」


 「たぶん……」


 アーシェンカは周囲に注意を払っていた。


 王がいるにしては余りに不用心だ。廊下に兵士の一人も見えない。


 それとも、戦いが始まるために、どこかに避難したか。ありそうな話だ。大要塞の中心部とはいえ、戦闘になれば、より安全なのは塔などの拠点だ。兵力を集中させやすく、それだけに守りやすい。ここよりは安全であろう。


 「アーシェ、行くぞ」


 リックは先に立って進む。期待に顔を輝かせている。


 (罠じゃないか、とか考えないのか、こいつ)


 アーシェンカは呆れつつ、その後を追う。この男がこの先、誰とどういう人生を歩むかは知らないが、そのパートナーはさぞかし気苦労が多くなるだろうと思った。


 (わたしなら、なんとかやれると思うけど)


 などと思ってしまうのは、心の底でクレリアと張り合う気持ちが働いているせいなのだが、アーシェンカ自身、そういう感情の動きを自覚していない。


 嫉妬とか、横恋慕とか、そういうのは好きではないのだ。


 今のアーシェンカの望みは、リックを無事クレリアに逢わせてやることだけだ。


 扉を次々と開いて行く。


 豪奢な部屋ばかりだ。だが、どれもが無人である。


 徐々にリックの表情から余裕がなくなっていく。


 残りの扉はあと一つだ。


 ここまで来ればアーシェンカにはこの先の予測はつく。


 もはやこの層は放棄されているのだ。セラフィム王もクレリアもいないに違いない。


 どうやってリックを慰めてやろうか、とアーシェンカは思案した。


 その台詞を考えていた時、リックの鋭い叫びを聴いた。


 「クレリア!」


 「そう、クレリアはいないの……んん!?」


 アーシェンカは言いかけた言葉を止めて、眼を見開いた。


 「いたのお!?」


 思わず素っ頓狂な叫びをあげた。


 


 


      4


 


 その部屋は一際広く、一際立派な部屋だった。


 部屋じゅう、毛脚の長い臙脂色の絨毯が敷き詰められ、壁は大理石と黒曜石がふんだんに使われている。設置された大きなテーブルの上の燭台はすべて黄金造りで、きらきらと照り輝いている。


 部屋の奥は一段高くなっており、その向こうは分厚そうな天幕が垂れ下がっている。その天幕の手前に椅子がふたつ並んでおり、その一方にほっそりとした女性が座っている。


 女性は意識を失っているらしい。ぐったりと背もたれに身体を預けている。


 アーシェンカはその女性の髪を見た。


 息を呑んだ。


 銀の光が奔流を形作っている。まるで月の光が地上に注ぐような。


 (なんて……きれいなの……)


 アーシェンカは身動きもならなかった。


 その面差しといい、ほっそりとした肢体のなよやかさといい、肌のなめらかさといい、アーシェンカの予想をはるかに上回っていた。


 美人であろうとは思っていた。だが、ここまで美しいと、うそ寒さを感じてしまう。人ならざるものを想起させる。


 そう、まるで女神。


 リックは駆け出していた。


 クレリアを抱き起こし、肩を揺さぶった。


 「クレリア! クレリア!」


 恐る恐るアーシェンカも近づいて行く。


 クレリアの肌は雪のように白く輝いていた。生気がまるで感じられない。


 長いまつげがかすかに震えた。


 そうっとまぶたが開かれる。


 銀の瞳だ。広がっていた瞳孔がすうっと縮小し、瞳に理性の光が宿る。


 「リ……リック……」


 「クレリア、よかった。無事だったんだね」


 リックはクレリアを抱きしめていた。


 「リック……」


 クレリアは瞳を大きく開き、リックの顔を一心に見詰めている。


 ようやく会えた、感極まった、そのような感動的な情景であるように見える。


 だが、じきにクレリアは視線をリックから外した。


 その視線はすうっと横移動し、アーシェンカを捉えた。アーシェンカは所在なげに側に佇んでいたのだが。


 「リック、こちらの人は?」


 「あ、ああ。この子はアーシェンカ。オーンの魔道士で、おれに力を貸してくれている、恩人だ」


 「恩人……? そう」


 クレリアは無機的な口調で言い、アーシェンカをじっと見つめた。


 銀色の瞳だ。アーシェンカの背筋に悪寒が走った。


 (まさか……これって……)


 アーシェンカは思わず後退った。


 クレリアの唇が開き、薄桃色の舌が覗いた。


 「リック……わたしの声が聞こえている……?」


 「ああ……」


 リックの声は霞がかっている。


 身の危険を感じてアーシェンカは跳び上がった。


 「いけない、リック! そいつもパペットよ!」


 リックは顔をアーシェンカに向けた。


 不思議そうに首を捻っている。


 「なにを……言っているんだ……アーシェ……」


 「リック、わたしの命令が聞けるわね」


 クレリアは椅子の中でまっすぐに背筋を伸ばした。人形じみた動きだった。アーシェンカは無意識に、クレリアの頭上に糸を探した。パペットマスターの操る人形は物理的な糸で操作されているのではない。それはわかってはいるのだが。


 「ああ……きみの言うことなら……なんだって……」


 「アーシェンカを殺しなさい」


 クレリアの人形が命じた。


 朦朧としたリックの表情にかすかな曇りが浮かんだ。


 「な……なぜ?」


 「理由が必要?」


 クレリアの人形はやや驚いたような表情を浮かべた。人形自体が驚いたのではなく、これはパペットマスターの驚きが糸を通じて人形に移ったのだろう。


 「そうね……こういうのはどう? この子はわたしのリックを奪おうとしている。わたしとリックの間に割って入って、わたしたちの仲を引き裂こうとしている……っていうのは?」


 クレリアの言葉にアーシェンカは激怒した。頬が熱くなり、つい自制心を失った。


 「な、なんてことを言うのよ!」


 アーシェンカはパペットに詰め寄った。


 「今の言葉、取り消しなさい! わたしはねぇ、リックとクレリアを幸せにしてあげたいって、純粋に思っているんだからね!」


 「図星だったみたいね、ちんくしゃの魔道士さん」


 クレリアの形をしたパペットがころころと笑った。


 「このぉーっ!」


 アーシェンカは逆上して、パペットに掴みかかった。引っ掻こうと手を振り上げた。


 パペットの指の爪が伸びた。鋭い鋼鉄の爪だ。にゅうっと伸びて、接近するアーシェンカの胸板を貫く。


 かと見えた一瞬間前に、リックが動いていた。


 クレリアを庇うように前に飛び出したリックの脇腹を爪が引き裂く。


 「うっ!」


 リックは苦鳴を漏らしつつも、アーシェンカを突き飛ばした。


 アーシェンカは後方に吹き飛んだ。


 尻餅を付いた次の瞬間、リックの安否に心が飛ぶ。


 リックは脇腹を押さえながら、もんどりうって倒れ込んだ。


 転がりながら、アーシェンカの側にたどり着く。


 「リック!」


 「アーシェ、怪我はないか?」


 リックはまず、そう訊いた。


 「ばか! あんな人形の言いなりになって、ばかもん!」


 アーシェンカはリックをなじった。だが、言葉とは裏腹に、心は今にも泣き出したいほどに動揺している。


 「面目ない。おかしい、とは思ったんだけど、眼を見ているうちに心が封じられていたみたいだ。さっきので完全に醒めたけど」


 リックは恥じ入って答えた。そう言う間にも、掌で押さえた傷口からは血が噴き出している。


 放置すればほどなく出血多量死する深手だ。内臓も傷ついているかもしれない。


 (リックはあの時……クレリアを庇おうとしたの?……それとも……)


 とめどなく湧き上がる想念をアーシェンカは追い払った。考えても詮無いことだ。今はこの出血を何とかしなければ。


 アーシェンカは大急ぎで、ありったけの治癒呪文をリックの傷口に描いた。


 動揺のためか、普段よりも効き方が鈍い。いや、傷が大きすぎるのだ。これほどの傷であれば、通常は治癒魔法の専門家が数名がかりで取り組むところだ。それを、一人で助けようとしているのだ。無理がある。


 だが、アーシェンカは必死だった。知りうる限りの治癒系の文字呪文を描き、呪文の効果を高める文字を付加する。複数の文字呪文を一箇所で使う場合、それぞれの作用が打ち消しあったり、まったく意図しない効果を発揮してしまう危険がある。そのような事態を防ぐために、文法上間違いが起きないよう言葉を選んでゆかねばならない。しかも、ひとつひとつ文字を書く度に、激しい精神消耗を伴うのだ。


 アーシェンカの額に脂汗が浮かんでいた。


 「それでもモス・フェルが選んだオーン随一の使い手か……?」


 クレリアの形をしているパペットが嘲笑した。その精神は、今や紛れもなくパペットマスターのものである。


 アーシェンカは鋭い眼光をパペットに向けた。


 リックへの処置は一応終えていた。というより、アーシェンカにはそれ以上できることがなかったのだ。アーシェンカの現在の知識と精神力のすべてを凝縮して、リックの傷に注入した。


 リックは意識を失っていた。唇は紫色だ。大量の出血と内臓へのダメージのため、ショック状態に陥っているのだ。アーシェンカの呪文が効果を現せば、じきに危地は脱するはずだが、しばらくは身動きもなるまい。


 アーシェンカはリックを部屋の隅に横たえると、広間の中央に歩いた。


 パペットを真っ向から見据えた。


 「あんたはわたしがぶっ潰すからね!」


 人差し指を突きつけた。


 パペットはゆっくりと肩をすくめた。クレリアの姿をしているだけに、それはとてつもなく優美な仕草に見えた。


 だが、声はしわがれたパペットマスターのそれになっている。


 「人形ではおまえさんには勝てないことはすでに学んだ。あの水路の入り口でな」


 クレリア人形は背筋が凍りつくような凄絶な笑みを浮かべた。


 「だから、今度は別の闘士を用意した。わたしは高みの見物をさせてもらう……」


 ふっと天幕が開き、巨大な手が繰り出された。


 その拳が、クレリアの頭部を粉砕した。


 クレリアと同じ顔をした人形の頭が破裂し、部品が飛び散った。


 銀の髪が生えた頭部の部品が足元に転がって来た時、さすがのアーシェンカも悲鳴を上げて飛び退いた。


 リックがこの光景を見たら、いくら人形だとわかっていても卒倒してしまうだろう。それほどのむごたらしさだった。


 「よけいな口出しが多いな、軍師どの」


 部屋そのものを震わせるような声量だった。


 この声には覚えがある。


 アーシェンカの視線は天幕に釘付けになった。


 天幕が開いて姿を現したのは、牛を思わせる角を二本生やした巨漢であった。


 双眸が赤く光っている。口からは巨大な牙が生えだしている。


 二の腕の太さなど、アーシェンカの胴体よりも太い。


 身に着けているのは武人らしい甲冑だが、そのすべてが特別製であることは一目で見て取れる。胸当てひとつを運ぶのに、大の男が四人は必要であろう。


 「あ……あんたは……!」


 アーシェンカは腰が引けてしまうのをどうしようもない。


 なぜならば、この男―――こいつが人間の範疇に入るかどうかは自信がないのだが―――この相手こそ、グルムコクラン侵略軍の指揮を取る大将軍であることに思い至ったからである。


 ザルト・ゼオクローム。


 最強の魔法生物であった。


 


 


        5


 


 「ひどいことをする……」


 パペットマスターの呆れたような声が響いた。声の底には、それでも余裕の笑いが含まれている。


 「軍師どのは舞台配置にこだわり過ぎている。わしは役者ではない。舞台袖で待たされるのは不愉快だ」


 ザルト・ゼオクロームが吐き捨てるように言った。顔は人間と牛を混ぜたような奇妙な形状だ。だが、機嫌が悪そうなのは見て取れるから妙なものだ。


 「まあ、そう言うな……人形で始末がつけば将軍どのも楽であろうと思ったまでのこと。他意はない」


 「人形などに始末されてたまるものか。こやつらは、わが弟ゲルグを殺したのだ。この手で復讐せねば気が済まん」


 ザルト・ゼオクロームの声に感情が迸った。


「ゲルグって……あの大きな亀が……弟?」


 アーシェンカはしげしげとザルト・ゼオクロームの姿を眺めた。


 元は人間であったらしい。それを様々な魔法を組み合わせ、他の動物の組織を移植するなどして、今の姿になったのであろう。


 それでも亀とひとつの腹から生まれ出たようには見えない。第一、亀は卵生である。


 「弟だったら、悪いか」


 ザルトは眉をしかめて言った。


 「いや、別に悪くはないですけど……」


 と、アーシェンカは答えざるを得ない。答えながら、アーシェンカは我ながらぼけた会話をしているものだと反省する。


 「まず、おまえから殺す」


 ザルト・ゼオクロームはアーシェンカの顔に人差し指をつきつけた。


 指先には鋭い鉤爪がついている。


 「本気ね?」


 念を押すまでもない。


 ザルト・ゼオクロームは剣を引き抜いた。アーシェンカの上背の二倍近くありそうな長大な剣だ。刀身が黒い。


 対魔法処置が施されている、とアーシェンカは見て取った。


 いかなる魔法攻撃をも無力化するという不敗将軍ザルト・ゼオクローム。


 強敵すぎる。


 アーシェンカはザルトが動く前から後退った。


 想念を集中する。


 リックの治療に精神力を使い過ぎた気はするが、後悔はしていない。


 試しに小さな文字を虚空に描く。


 光り輝く炎の塊を文字の形にする。それは天空より降りかかる炎の槍だ。炎によって形作られた槍の先端には小さな竜の顎がついている。


 そういう、意味。


 「サラマンデル・スフィア!」


 アーシェンカは文字の意味する内容を音にして、想念を物質界に放った。


 小さな創造が行われる。


 言葉が物質を誘導する。


 虚空に炎の玉が出現する。それが尖った槍に変ずる。


 一本ではない。


 五本同時に降り注ぐ。


 ザルト・ゼオクロームはかわしもしない。


 炎の槍がザルト・ゼオクロームの頭頂といわず肩といわず、次々と突き刺さる、かに見えた一瞬。


 ザルト・ゼオクロームの肉体が光った。


 光の中に炎の槍が凍りつく。


 炎が、そのまま氷塊になったのだ。


 凍った炎の槍は、ザルトの身体に当たる寸前に、粉々に砕け散った。


 自らの内圧に耐えかね弾けたようだった。


 「すごおい」


 などと感心している場合ではない。


 「ジーク・ザラー!」


 覚えたての文字呪文だ。だが、文字解釈を熟成させている暇はない。


 有り難いことにこの部屋の天井は高い。ために雲を作りやすい。


 雷鳴が轟き、青白い雷撃がザルトを襲う。


 「無駄!」


 ザルトは豪語した。その全身を電撃が覆い尽くす。


 ビヂッ!


 と鋭い音をたてて電撃は消失した。


 ザルトの全身を覆ったかに見えた電撃は、次の一瞬にザルトの体内に吸収されていったのだ。


 「大地―――ガラテア系の対抗呪符か……そりゃあ、雷は地面に吸われちゃうわよね」


 「その通り」


 ザルトは、にたり、と笑った。


 「自らを大地に同化させれば、雷撃など無力」


 「ヘルム・ザン!」


 アーシェンカは風系の攻撃呪文を放った。


 風を重ね合わせてその接点に真空を作り、風を刃にする文字呪文だ。


 「無価値!」


 ザルトは掌を突き出した。


 その掌が灼熱の赤に変じる。


 凄まじい熱に空気が歪む。


 アーシェンカの放った真空の刃も、歪んだ大気の中に消失した。


 「やっぱり……だめか」


 アーシェンカは唇を突き出した。


 「あきらめよ。わしにはどんな攻撃魔法も無力」


 ザルトは傲然と言い放った。


 「知ってるわよ。四元素の特質を逆手に取った四すくみでしょ」


 アーシェンカは面倒くさそうに言った。


 ザルト・ゼオクロームの表情が一瞬固まる。


 「火系には水系、水系には地系、風系には火系で対抗されれば読めるわよ。次にわたしが地系の攻撃呪文を出せば、風系で対抗するんでしょ。つまり、あんたの肉体は四元素の魔法文字を埋め込んで、どんな攻撃呪文でも、その属性を瞬時に読み取り対抗呪文を繰り出せるようになっているのよね。それも無意識のうちに」


 アーシェンカの指摘は的を射ているようだ。ザルトは殺気を今は押し込め、アーシェンカの言葉を黙って聴いている。


 「それも良し悪し。あまりにもバランスよく四元素を取り込んでいるものだから、あなた自身は魔法を使うことができない。使おうとすれば、自分自身の中の別の元素によって魔法の効果が打ち消されてしまう」


 「その通り。あれだけのやり取りでよくそこまで見抜いた」


 ザルトは口を開いた。獣の顎だ。だが、吐き出される言葉は紛れもなく人間のそれだ。


 「だからこそ、わしはこの肉体を求めたのだ。人を超えた強靭な肉体をな。魔法に対して圧倒的な耐久性を得た今、剣を弾く鋼の肉体を得れば、もはや地上に恐れるものはない。あらゆる獣の肉を、骨を、内臓を使い、わしの肉体は完成されたのだ」


 「そんな、愚かなこと!」


 アーシェンカは吐き捨てた。強さを手に入れるために人間であることを捨てるなど、愚である。魔道を学んだアーシェンカにはその愚かしさが身につまされて理解できる。アーシェンカの知る者の中にも魔道の暗黒の横顔に魅入られて、身を滅ぼした者たちが数多いるのだ。


 「問答は無用だ。もとよりわしには学がないのでな。強くなれる、という軍師どのの言葉に疑義は入れぬ」


 ずい、とザルト・ゼオクロームは歩を進めた。


 アーシェンカは後退った。


 壁が背中に当たる。戸口は反対だ。そこまで走るうちに確実に殺される。


 「せめてもの情けだ。一撃であの世に送ってやる」


 刃が光を吸う。


 アーシェンカは引きつりながら、ヘム・ガルデ( >L゚%。< )を描く。


 風が湧き起こり、刃を跳ね返そうとする。


 「効かぬ、と言った!」


 ザルト・ゼオクロームは高らかに吠え上げた。


 ザルトの一撃はヘム・ガルデを完璧に無力化しつつ、アーシェの顔面に吸い込まれる。


 鋭い金属音が鳴った。


 アーシェンカは腰を落とし、眼を丸くしている。


 目前に、黒い刃が静止している。


 支えている。


 細い銀光が。


 飛び込んで来たリックがザルトの一撃を辛うじて受け止めたのだ。


 「リック!?」


 アーシェンカは叫んだ。


 喜びと怯えがないまぜになっている。


 治療をしたアーシェンカにはわかる。リックはとても戦える状態にはないことを。それどころか、少しの衝撃が致命的なダメージにつながるほどの危険な状態なのだ。


 リックは横顔をアーシェンカは見た。蒼白だ。だが、力感にあふれている。


 「こいつには魔法は効かないんだろ。なら、おれの出番だ」


 唇の端を歪めて笑う。


 いつものリックには似ないふてぶてしさだ。


 「やるな……わしの撃ち込みを止めるとは……いずれ名のある剣士であろう」


 「ところがどっこい……無名の剣士さ。いまだ名をあげる機会に恵まれなくてね」


 リックが冗談を言った。


 アーシェンカは突っ込むどころか、心を鷲づかみにされたような恐怖を覚えていた。


 リックが軽口を叩くということは……死期が近いのではないか?


 と本気で思った。


 だが、リック本人は至って平静だ。


 ザルトの剣を受け止めたまま、微動だにしない。


 アーシェンカに視線を流すことなく、鋭く叱咤する。


 「離れていろ、アーシェ!」


 はひはひ、と呟きつつ、アーシェンカは刃の下から転げ出る。


 やや離れて、二人の剣士の対峙を凝視した。


 「少しは歯ごたえがありそうだな。ゲルグの首を切断したのはおまえの仕業か」


 「そうだ……怪我の功名だがな」


 「そうか……」


 ザルトの顔が引き歪んだ。


 真の仇敵を発見した者のいびつな笑みだった。


 ザルトの腕の筋肉が膨らんだ。


 猛烈な腕力が剣に送られる。


 リックが保っていた二つの剣の均衡など、あっさりと吹き飛ばされた。


 リックの身体が後方に飛んだ。


 壁に激突する。


 その衝突地点に向けて、ザルトは大剣を振り下ろしている。


 無造作な片手の撃ち込みだ。にもかかわらず、その速度は神速といっていい。


 リックは壁に背中からぶつかり、その瞬間に踵で壁を蹴っている。


 ザルトの剣を紙一重でかわし、逆襲の一撃を見舞う。


 かわす時の反動も含めて、平時をはるかに超える瞬発力がリックの身体を前に押し出す。


 身体は低く沈めている。


 ザルトの振り下ろす黒い刃をかいくぐる。


 見切った、というのではない。意表を突く動きをしたことで、ザルトの打ち込む剣の軌道から辛うじて逃れ得たというべきだ。


 リックは低い姿勢から突きを放つ。


 ザルトの胸甲の合わせ目に切っ先は吸い込まれる。


 だが、リックの剣はザルトの身体を貫くことはできなかった。


 ザルトは不敵な笑みを浮かべている。


 リックの剣は胸甲は突破している。


 だがザルトの筋肉の層を突き破ることはかなわなかったのだ。


 「その程度の撃ち込みでは、痛くもかゆくもないぞ」


 あざけるようにザルトは言い、すかさず逆襲に転じる。


 その巨体が猛烈な闘気に包まれる。


 剛剣が唸りをあげる。


 リックは跳びすさってかわす。逃げる。


 ザルトは弄うようにリックを追い詰めてゆく。


 リックはかわすのが精一杯で、反撃の糸口を掴むこともできない。


 「リック……!」


 アーシェンカはリックの動きに精彩がないことに気付いていた。


 無理がありすぎるのだ。


 リックの肉体は、とても戦いに耐える状態ではないはずだ。


 すでに、傷は再び開いている。血が噴き出している。


 血流はリックの太股を伝い、床に血溜りを作っている。


 顔面は蒼白だ。


 表情は硬直している。


 アーシェンカも手をこまねいているわけではなかった。


 ザルトの動きを少しでも妨げるべく、何種類もの呪文を試みていた。だが、ザルトの対魔法防御は完璧で、アーシェンカの努力は徒労に終わった。


 リックを援護する呪文も、ザルトの存在によって効力を著しく削がれている。


 八方塞がりだ。


 ザルトが横に薙いだ剣がリックの腹を裂いた。


 一瞬、臓物がこぼれ出すような幻視をアーシェンカは見る。


 だが、リックはかろうじて後方に難を逃れていた。


 それでも無傷というわけにはいかず、一文字に血がしぶく。


 「かわすのだけは上手だな。撃っては来ぬのか」


 ザルトは喜悦の歪みを異形の顔に浮かべている。


 「左腕」


 短く、ザルトは宣した。


 黒い刃が弧を描く。


 「うがっ!」


 リックは苦鳴を発した。


 左肩に切っ先が食い込んでいた。


 リックは身体を沈め、ひねりながら斜め後方に身体を引く。


 ザルトの剣先はリックの肩をかすめ、絨毯の下の床石を砕いた。


 リックは左肩をかばって後退る。


 切断には至らないが、凄まじい裂傷だ。もはや腕は使えまい。


 「右脚」


 ザルトは残忍に呟く。


 剣を無造作に振り上げ、リックの動きを追う。


 もはや技巧も何もない、余裕に充ちた動きだ。


 刃をリックの右の腿に撃ち込み、軽く捻る。


 肉が削げる。


 リックは絶叫を発しそうになるのを堪え、右脚を引きずりながら距離を取る。


 ふっとアーシェンカをかえりみた。


 死者のように白い顔だった。だが、その顔は寂しく笑っている。


 「アーシェ、ひどいことに巻き込んでしまった。すまん」


 「リック!」


 「お前だけでも逃げ延びてくれ。そして……立派な魔道士になれ」


 「ばか、リック! あんたはどうするのよ!?」


 「おれはここで時間を稼ぐ。今のうちに行け!」


 「ばかばか、リックがここで死んじゃったら、何にもならないでしょっ!?」


 アーシェンカは走り出した。魔道士は長剣を持たない。仕込み杖を持つ者もいるが、アーシェンカは重いものは苦手だ。だから、持っている武器といえば護身用の短剣だけだ。


 それを握って、ザルトとリックの間に割って入ろうとする。


 我を忘れての行動だった。


 ザルトの眼が光る。


 剣先をすうっと動かした。


 アーシェンカの動きに対応したのだ。


 リックも動いた。


 アーシェンカを庇うようにザルトの剣の軌道の真下に移動した。


 


 アーシェンカは時間が突然ゆっくり流れ出したように思った。


 自分の動きもそうだ。思うようにならない。身体と頭が別の時間流に属しているようだ。


 リックは絶望的な行動に出ていた。


 アーシェンカの針路を自らの肉体で塞ぎ、ザルトの必殺の剣にわが身を晒した。


 ザルトの巨剣が落ちて来る。


 リックは剣でそれを受けようとする。


 黒い光と銀の光が交差する。


 銀の光が砕け散った。


 リックの剣がザルトの一撃によって粉砕されたのだ。


 ザルトの剣の軌道は変わらない。


 リックの頭部に吸い込まれる。


 (ばか!)


 アーシェンカは叫んでいた。


 (ばかリック! 強くもないくせに! 他人を庇うしか能がないの?)


 泣き出したい感情の爆発があった。


 その感情の爆発が、アーシェンカの心の封印を弾けさせた。


 熱い想い。


 胸を焼き尽くすほどの恋情。


 決して口には出すまいと誓った。感情の表層に立ち上らせることをさえ禁じた。


 リックはクレリアを愛している。自分の立ち入る隙間はない。また、隙間に自分を立たせることにアーシェンカ自身耐えられない。


 だから、封じた。


 意識してのことではない。無意識のうちにそうしていた。


 その想いのすべてが。


 この一瞬に放出されたのだ。


 


 


     6


 


 言葉ではない。


 詩歌ではない。


 計算された韻律には適合し得ない。


 そんな叫び。


 


 \|+!/゚%?。=:*T!!! 


 


  \|+! ―――神様、お願い!


  /゚%?。―――わたしの命を、わたしの時間を


  =: ――――あげるから、そのかわり


  *T!!!―――力を! 強い力を!


 


 アーシェンカは白熱する精神の文字を世界そのものに叩きつけたのだ。


 それは、祈りと呼べるだろう。


 それは長すぎて、感情に流されて過ぎて、もはや文字とも呼べぬイメージだ。


 鮮烈な感情の形象だ。


 だが、世界を作り出したのも創造神の熱情パッションだ。世界を作り出したいという激しい欲求がボッシュ界を言葉のうちから紡ぎだした。


 だとするなら。


 アーシェンカの叫びは聞き届けられねばなるまい。


 アーシェンカは自分の肉体が突然質量を消失したのを自覚した。


 周囲に光がある。


 とてつもない光量だ。真夏の日差しに全身をさらす、などという例えでは不十分だ。光の波動が海になり、すべての空間を埋め尽くしたとして、そのただなかに放り出されたようなものだ。


 まぶたを閉じても周囲は白一色だ。


 肉体そのものが焼き尽くされてしまいそうだ。熱はないのに。


 凄まじい快感が脊髄を戦慄させた。


 身体中の臓物が身体から流れ出し、断末魔の苦痛に苛まれているかもしれないのに、叫びを堪えることができないほどの快感がある。


 アーシェンカは昇りつめる。


 どうしようもない感覚に全身を焼かれている。


 とてつもないエネルギーが生じていた。


 計算するほども馬鹿馬鹿しいほどの熱量。


 それを発生させるために、一体どれほどの油田が必要であろうか。薪を燃やすとするならば、どれほどの国が不毛の地になるであろうか。


 想像すらできぬ。


 そのエネルギーが集中した……させられたザルト・ゼオクロームは、事態をまったく掴むことができなかった。


 全身の対魔法防御機構が作動するのがわかった。


 (適合せず)


 (適合せず)


 (対処不能)


 (全呪文検索終了……対応策皆無)


 立て続けにエラーメッセージが発せられる。


 そのことも体感としてわかった。


 全身の皮膚が泡立つ。


 かつてこれほどの攻撃魔法がボッシュ界において発せられたことはなかった。


 その力が今、目前にある。


 


 ザルト・ゼオクロームは光に包まれた。


 その余波でリックは吹き飛ばされた。


 リックの身体が壁に激突する。そのまま意識を失う。


 ザルト・ゼオクロームは……。


 次の瞬間、天井に向かって突き上げられた。


 ものすごいスピードだ。


 天井を突き破った。


 この階は要塞の最上層だ。


 ザルト・ゼオクロームの強靭な肉体は、サンク・セディン要塞の屋根を突き破ってもなお、原形をとどめていた。


 そればかりでなく、意識さえも。


 痛みに対する耐性を極限まで高められたザルトには、死を目前にしてもさえ失神する自由を与えられなかった。


 ザルトの意識は炸裂した。


 肉体とともに四散した。


 サンク・セディンの上空100メルムで。


  


 凄まじい爆発であった。


 その爆発は後世の魔道書にこう記述された。


 「その時、もうひとつの太陽がサンク・セディンの上空に輝いた。その光は、古の太陽神フィン・クルム・フ・リュウをも凌ぎ、うつつ世の太陽を心胆寒からしめるものだった。おりしもサンク・セディンをめぐって繰り広げられていた両軍の戦いにおいて劣勢にあったオーンの魔道士たちは、これこそ至高の魔法の輝きであるとし、大いに勇をふるった」


 ―――と。


 その熱量は、上空はるかで発せられたのにもかかわらず、サンク・セディンの城塞を炎上させた。たちまちのうちに業火に包まれた要塞を背後に、出撃していたグルムコクラン軍の士気は著しく低下した。


 その隙に乗じ、オーンの魔道士たちは一気呵成に攻め込んだ。


 呪文が炸裂し、大地が震え、大気は火炎と雷撃、降り注ぐ雹に覆われた。


 オーンの魔道士と合流したゼルクブルグ連合軍の中には、グルムコクラン軍の侵攻により村を焼かれ、あるいは収奪と強制就労のために家族や住む家を失った男たちも多く含まれていた。


 ゼルクブルグ連合軍は鬨の声をあげつつ、要塞へと殺到した。


 彼らを呪文で守護する魔道士たちがすぐ後に続く。


 


 「今のは……」


 アーシェンカは茫然と立ち尽くしていた。


 自分がやったこととは思えない。


 開けてはならぬ禁断の扉を開いてしまったことを自覚した。


 後悔はしていない。


 していないが、しかし……。


 「フィネガット先生が言っていた禁じ手……」


 アーシェンカは呟いた。


 フィネガットが自分の命を、寿命を削ってまで編み出した、禁断の文字呪文―――光真キラシム


 フィネガットは老いさらばえて死んだ。晩年は、目の玉が飛び出るほど高価な延命薬を常用していた。ふつうなら、百歳はおろか二百歳まで生きてもおかしくない。だが、フィネガットは五十歳にならぬうちに死んだ。


 「先生は言ってた……あの呪文だけは教えてやらない……と。おまえが不幸になるから……と」


 アーシェンカは呟きつつ、自分の身体に変化が訪れつつあることを知った。


 全身から力が抜けてゆく。皮膚が乾いてゆく。たるんでゆく。


 「う……うん」


 リックが呻いた。


 意識を取り戻そうとしている。


 アーシェンカはリックの傷のことを思った。


 幸い、アーシェンカが施した呪文が、リックが失神している間に出血だけは止めてくれたようだ。


 アーシェンカはためらった。


 リックの側に行きたい。でも。


 アーシェンカは自分の顔を手で触ってみた。


 絶望が意識を暗澹とした。


 そこにいる自分は自分ではなかった。


 少なくとも……あるべき自分ではなかった。


 「ア……アーシェ……大丈夫……か?」


 リックがうわごとのように呟いている。


 薄く眼を開きつつあるのは覚醒の一歩手前にある証左であろう。


 アーシェンカは弾かれたように走り出した。


 リックが倒れているのとは逆、出口の方へと。


 アーシェンカの足が止まった。


 「ザルト・ゼオクロームを倒したようだな……」


 静かな声が聞こえた。


 アーシェンカの目前に、黒いローブに全身をまとった男が立っていた。


 「大導師……」


 アーシェンカの瞳に涙が盛り上がる。


 「アーシェンカ……たいへんだったな」


 そう言ったのは、モス・フェルであった。魔道都市オーンの魔道士ギルドマスターである。


 痛ましげにアーシェンカの姿を見つめた。


 アーシェンカは顔を伏せた。誰にも見られたくない今の姿であった。


 「それが……時の魔法の副作用か……」


 モス・フェルは声に血をにじませた。


 「フィネガットも……そうだ。わしよりも若いはずだったのに、老衰で死んだ」


 モス・フェルは首を垂れた。ギルド・マスターは打ちひしがれていた。


 「わしはおまえに詫びる言葉がない。おまえをこんなことに巻き込んだのは、すべてわしの不明のゆえだ……すまぬ」


 アーシェンカは首を横に振った。


 「おやめください、大導師。フィネガット先生の研究は、誰かの手によって引き継がれなければならなかった―――わたしも同感です。まさか、こんな形でわたし自身が引き継ぐことになるとは思わなかったけど」


 ふっとアーシェンカは笑った。勝ち気な赤い瞳だけは変わっていなかった。


 「大導師……リックを頼みます。彼の傷は深くて、わたしの手には負えません。それに……」


 言いかけて、アーシェンカは言葉を飲み込んだ。


 モス・フェルはうなずいた。


 アーシェンカは微笑んだ。


 さみしげな笑顔だった。


 微笑みの余韻だけを残して、アーシェンカは立ち去った。


 その背中は小さく、丸まっていた。


 モス・フェルは双眸を閉じた。


 深い。とてつもなく深いため息をひとつ吐いた。


 こうして―― 


 十五歳のアーシェンカは、ただ一度の呪文で五十年の若さを失った。

 


                            (第5章 了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る