第三章 激突! ダークサラマンダー


         1



 リックとダイモン、アーシェンカの三人はオーンを出発した。


 まず、北へ向かう。


 イズーへ出るには、北上し、ズムの港で便船を拾って海路トートに入るのがいい。トートから旧街道を行けばイズーはさほど遠くない。この方が時間的に早いし、グルムコクラン軍の怒涛のような進軍にもぶつからずに済む。


 数日は平穏に過ぎた。


 このあたりにはまだグルムコクランの脅威は届いておらず、行き交う人々の顔つきにも落ち着きが見られた。


 順調に旅は進んだ。


 


 「この分だと明日にはズムに入れるな」


 ダイモンがのんびりとした口調で言う。


 「ズムで便船がつかまれば、もうイズーに着いたも同然だ」


 「このあたりは平和ね。グルムコクランの進撃路はここよりずっともっと東だもんね」


 アーシェンカの声にも緊迫感はまるでない。


 「戦いの状況はどうなっているんだろう?」


 リック一人、グルムコクラン軍の動向を気にしている。クレリアがその軍に囚われているかもしれない、という頼りない推測だけが今のリックの行動を支えているのだ。気にならないはずがない。


 「さあてな。いくつかの宿場町で聞き込んだところじゃあ、ゼルクブルク自治共同体も本腰を入れて防戦を始めているということだが、どうだかな。もともと功利を目当てに合同した自治共同体だ。いざとなれば、内部崩壊するっていう観測もあるぜ」


 ダイモンが気のない様子で言う。ダイモンも商人だから、自治共同体の存亡は大問題のはずだが、口ぶりからはさほどの興味も抱いていないように感じられる。


 「おれのような自由商人にゃな、自治共同体がどうのこうのっていうのは関係ないのさ。たとえ、グルムコクランの世になったって、おれたちには浮かぶ瀬はあるのさ」


 「あら、でも、あたしたちにとって死活問題よ」


 アーシェンカが異を唱えた。


 「オーンの魔道士ギルドはゼルクブルク自治共同体と関係が深いし、それにグルムコクランのような非常識な軍事国家に大陸の指導権を渡したら、あたしたちギルドの権益もはなはだしく損なわれるはずよ」


 「だから、大導師さんはおまえさんをおれたちにつけたっていうわけか? だがな、そんなにグルムコクランの伸長が目障りだってんなら、もっと他に方法があるんじゃねえのか? 魔道士たちをひっかき集めて軍隊をつくり、自治共同体と共同戦線をはるとかよ」


 「そりゃあ、そうだ」


 アーシェンカはあっさりとうなずく。


 「あたしも変だなって思ってはいたんだよね。いきなしモス・フェル大導師が現れるのも普通じゃないし。なんでだろ?」


 「おめえ、自分の借金帳消しとライセンスの再発行のことで頭が一杯になっていたんだろう」


 「うん」


 などという他愛ない会話を続けつつ、一行は進む。ただし、リックだけは暗い。


 それを見かねてダイモンがリックの肩をどつく。


 「元気を出せ、リック。ズムの町はいいぞ。うまいものもあるし、いい女もいる。旅の息抜きには絶好の場所だ。おれの家も―――といっても別荘だがよ―――あるしな」


 「ズムに家があるの? ふーん、いいなー」


 アーシェンカがうらやましそうに言った。


 「家族は、ダイモン? やっぱり、ズムに住んでるの?」


 何気ない質問だったが、ダイモンの表情が一瞬凍った。


 「……おれは独り身だからな。留守番がいるばかりさ」


 ダイモンはすぐに快活さを取り戻した。


 「馴染みの女はたくさんいるがな。そうだ、リックにもいい女を紹介してやろう。クレリアのことを忘れろ、とは言わんが、たまには肩の力を抜くのも必要なことだぞ」


 「あー、なんか、やらしー」


 アーシェンカが眉をひそめた。


 「男って、どうしようもなくすけべな生き物ね」


 「ふん。言ってろ、ガキ」


 ダイモンが毒づく。アーシェンカがそれに鋭く反応する。一日に何度となく繰り返される口喧嘩だ。ほとんど日課であるとさえ言える。


 リックは二人の口喧嘩を聞きながら、別のことを考えていた。


 これからのことである。


 リックにはあせりがある。クレリアを連れ去ったパペットマスターの正体が判明していない。おそらくはグルムコクラン軍の侵攻と関りがあるであろう、という推論をもとにしてイズー行きを決意した。だが、ほんとうに正しいのかどうか、わからない。


 その不確かな旅に、ダイモンとアーシェンカを同行させていることもリックには負担になっていた。ギルドから経費を引き出しているアーシェンカはともかく、ダイモンに至っては無給である上に旅費も自分持ちなのだ。


 ダイモンがリックに同行している理由はなんなのか、リックには窺い知るべくもない。だが、言葉の端々から感じられることは、ダイモンがどうやらグルムコクラン軍になにかしらの因縁を持っていそうなことだけである。


 


 翌日の午後、リックたちはズムの町に入った。


 入るなり、アーシェンカの姿が消えた。


 やむなくリックたちは港へ出て時間を潰すことにした。


 港町は活況を呈していた。


 「軍需景気だな」


 ダイモンが顎を撫でながら呟いた。眼が鋭く光っている。商人の眼だ。


 「各地から集めた物資をここで収束し、東方の戦線に送り出すんだ。まあ、ゼルクブルク自治共同体にとっては補給基地の役割を担っている、というわけだ」


 「だが、軍隊は駐留していないようだな」


 リックが周囲に視線を配りながら言った。


 「そうだな。だが、グルムコクランの本軍の動向はやつらも掴んでいるだろう。警戒が薄いということは、戦線はだいぶん遠いんだろう」


 「みたいね、さっき、ここのマジックギルドに行ってみたんだけど」


 と、いつの間にかアーシェンカが戻ってきている。


 「今のところ、戦線は膠着状態らしいわ。ここより東北200覇里が主戦場というから、ここの人たちからすれば、戦はご飯の種に過ぎないみたいね」


 「なかなか手際がいいじゃねえか」


 ダイモンが笑った。


 「にしても、膠着状態っていうのは朗報だぜ。この分だと、イズーへはおれたちの方が先に着けそうだ」


 ダイモンはリックにウィンクした。


 「さて、では、便船の都合をつけるとするか」


 ダイモンは顔見知りの船将の何人かと会い、船の交渉を始めた。


 交渉はほどなく妥結し、明朝一番の貨物船に乗せてもらえることになった。


 


 首尾よく足をつかまえたリックたちは、夕刻にダイモンの家に荷物を下ろした。


 ダイモンの家は、ズムの市街地にあった。


 港へは徒歩で十五分、歓楽街へはわずか十分ほど。なかなかの立地条件だ。


 建物自体は周囲の家々とさほど変わりはない。やや外壁には痛みが目立つが、内部はよく手入れされていた。


 一階に広い食堂があり、寝室は二階に四部屋ほど。地下室もあり、そこは倉庫として使っているとのことだ。


 食堂がやけに広いのは、ダイモンが使っている人夫たちに飯を食わせるためだろう。そのせいか、雰囲気がなにやら港の酒場めいている。


 この家を守っていたのは、六十過ぎの老夫婦だった。夫の方は昔は船に乗っていたらしく、肌が赤銅色をしている。小柄で闊達な老人だ。妻の方はいかにも働き者といった感じで、立ち居振る舞いがきびきびしている。


 「さあ、落ち着いたら盛り場へ行こうぜ、リック。馴染みの店に案内しよう」


 「ん……ああ」


 リックは気乗りしなさそうだ。


 「わたしも行くよ、いいでしょ」


アーシェンカが言い出した。独りにされるのはまっぴらだ、というわけらしい。


 「おまえもかあ……!?」


 ダイモンがあからさまに嫌な顔をした。


 「おまえが一緒じゃあ、リックが喜ぶような店へは行けんではないか」


 「お、おれは別に……」


 リックが慌てて手を振った。


 「まあ、いい。飯を食いがてら、酒でも飲もう。夜は長いからな」


ダイモンは言い、先に立って家を出た。


 


 ダイモンがリックたちを案内したのは、歓楽街の外れのやや寂しい通りにあるパブだった。店の主人とは顔馴染らしく、店に入ると何も注文しないうちから酒と料理がテーブルに並んだ。


 「なにしろ海の近くだからな。食い物はうまいぞ」


 ダイモンの言葉通り、料理はたいしたものだった。貝入りシチュー、魚の蒸し料理、海老のロースト、海草スープ……それぞれ、新鮮な素材が活かされていて、うまい。


 「わーいわーい」


 などとはしゃぎつつ、アーシェンカはひたすらに食っている。この小柄な身体のどこにそんなに食べ物が入るのか、見当もつかない。


 リックも食べるには食べるが、さほどには進まない。


 言葉も重い。自分から話題を出すことはなく、ダイモンとアーシェンカのおしゃべりをただ聴いている。


 見かねたかのように、ダイモンがリックに注意した。


 「おいおい、塞ぎすぎだぜ、リック。おめえがそんなだと、こっちの気分まで暗くなっちまわあ」


 「すまん」


 「じゃ、ねえっての!」


 ダイモンの眉が険しくなった。


 「クレリアが心配なのはわかる。先行きも不透明だしな。だがよ、他にどういう手だてがある? こうやって、単なる大飯くらいの役立たずとはいえ、魔道都市オーンのギルドマスターから派遣された魔導士も同行している。トート行きの便船も手配した。打てる手はみんな打ってあるんだよ。あとはイズーを着いてからことだ。今夜くらい、羽目をはずして笑ってみろよな!」


 「ダイモンの言う通りよ。一部不適切な表現があったけどね……」


 アーシェンカも言葉を添える。それから、小声でダイモンに向かって文句を言う。


 「大飯ぐらいって何よ、役立たずってひどいじゃない、ダイモン!」


 「ま、もののたとえだ。気にするな」


 「気にする!」


 と、言いつつ、特大の肉入り饅頭をアーシェンカは頬張る。


 それを横目で見ながら、ダイモンはリックへの言葉を続ける。


 「ま、そんなわけだから、飲め」


 「ああ」


 リックとしても、自分が落ち込んでいても何の解決にはならないことを自覚している。ダイモンが注ぐ酒を器に受けた。


 一気に飲み干す。


 「おおっ、いい飲みっぷりじゃねえか」


 ダイモンははやし立て、さらに注いだ。


 リックはそれも一息で片付ける。


 血が燃える。リックは一瞬おびえを感じた。実はリック、あまり酒の経験がない。自分の酒量を知らない。


 だが、勢いがついてしまった。リックはダイモンと注しつ注されつ、痛飲した。


 


 


        2


 


 「ではははははは」


 甲高い笑い声が店に響く。


 リックである。


 顔が真っ赤になっている。耳まで染まっている。


 「ひゃはははは、ひゃは、はは」


 笑い続けている。何が面白いのか、本人にもよくわからない。でも、可笑しい。


 「笑い上戸だな、おまえ」


 ダイモンもかなり飲んでいる。へろへろと笑っている。


 「酔っ払いたち、やだなあ」


 アーシェンカはデザートのプリンを食べつつ、あきれたように言う。


 「ふおーい、アーシェ」


 これ、リックである。いつの間にか、アーシェンカの名をアーシェと縮めてしまっている。なるほど、この方が呼びやすい。


 「おまえも、のめ、アーシェ」


 アーシェンカの隣に強引に腰掛け、器をつきつけた。


 「やだ。わたし、まだ未成年よ」


 「うるへい」


 「飲めないって言ってるのに」


 「のめのめ、のむのら」


 リックは譲らない。


 「リックって、飲むと性格が破綻するのね」


 アーシェンカはため息をついた。


 プリンの最後のひとかけらを口に入れると、仕方なく器を取り、形ばかり唇を湿した。


 「これでいい?」


 「うん」


 リックはうなずいて、笑った。


 「なあ、リックよ。クレリアって娘だけどよ、その娘とおまえ、どこまでいってたんだ」


 ダイモンがニタニタ笑いながら聞いてくる。


 「どこにも行ってない。おれもクレリアも町を出ることはなかったよ」


 リックは真面目な顔で―――といっても酔っ払っているから唇の端がどうしても笑ってしまっているのだが―――答えた。


 「そういう意味じゃねえよ、男と女のことだ。わかるだろう?」


 「ダイモン、エッチな話題はやめてよ。女の子がいるのに!」


 アーシェンカが苦情を出した。


 「男と……女」


 リックはしばし首を捻っていた。


 「あっ、そうか」


 はたとリックは手を打ち、アーシェンカの肩を抱き寄せた。


 「きゃっ!」


 「こーゆーことのこと?」


 「そーだ、そーだ。そーゆーこととか、もっとすごいことだ」


 「もっとすごいこととゆーと」


 リックはアーシェンカにさらに密着する。


 唇を寄せてくる。


 「こーゆーこと?」


 このまま酔っぱらいの玩具になるわけにはいかぬ、とばかりにアーシェンカは抵抗したが、リックは普段からは考えられないような強引さでアーシェンカを抱きしめた。


 「や、やだ、ちょっと、へんなとこさわんないでよっ! ひゃっ!」


 リックとアーシェンカを見ながら、ダイモンは唸った。


 「うーむ。おれでもそこまではせんな。人前では」


 「なに落ち着いてぶつくさ言ってんのよ!? リックをなんとか止めてよ!」


 アーシェンカはリックの手から逃れ出ようと必死になりながら訴える。


 「そんなに嫌ならアーシェ、得意の文字呪文とかを繰り出せばいいじゃねえかよ」


 ダイモンは意地悪く言う。


 「あのねっ! 文字呪文を描くには、それなりの精神集中が……っ! いやん! もう、やだあ!」


 泣きそうになりながら、アーシェンカは悲鳴を上げた。


 「やめなさい、リック! 怒るわよ!」


 「アーシェ、いやか?」


 真顔でリックが囁いた。酔っ払って抱きついておいて図々しいにも程があるが、リックの顔立ちはこういう台詞には似合っている。


 アーシェンカは絶句した。互いの息がかかるほど接近している。リックの腕がアーシェンカの胴をからめ取っているのだから、当然といえばそうだが、やはりどきりとする。


 ようやく口をついて出た言葉はしどろもどろになった。


 「えっ、でも、なんとゆーか、その。嫌とか嫌じゃないとかとよりも、酔っ払ってそーゆーことをするのって、よくないと思うし、えと」


 「なにを赤くなっておるか、アーシェ」


 ダイモンが不満気に言う。


 「触られても文句を言わんのなら、おれにもやらせろ」


 「絶対だめ」


 きっぱりとアーシェンカは拒絶した。


 「なぜだあああーっ!」


 ダイモンは頭を抱えて絶叫した。


 


 などと三人が愉快な騒ぎを繰り広げている間に、他の客はそれぞれ引き上げて行った。


 ついには、客は彼らだけになった。


 「悪いな、ダイモン。そろそろ看板だ」


 店の主人に言われて、ようやく三人は重い腰を上げた。


 もうすっかり夜中だ。


 すっかり正体を失ったリックをダイモンが背負って運ぶことにした。


 「あーあ、すっかり寝ちゃってるよ、リックてば」


 アーシェンカはダイモンの背後にまわって、リックの寝顔を確かめてそう言った。


 家に戻る道をたどる途上だ。石畳の道を踏む靴の音だけが響いている。


 「ちっと飲ませ過ぎたかな」


 「ちょっとどころじゃないよ。二人で店の酒樽を空にしちゃったんじゃない? ま、おごってもらった手前、わたしは文句は言わないけどさ」


 「ふん。酒は薬さ。特にリックのように重い荷物を負っている男にはな」


 「触られる身にもなってほしいわね」


 「なにを。結構喜んでいたくせによ」


 「喜んでなんか、ない!」


 「少なくとも嫌がってはいなかったぞ」


 自分には触らせてくれなかったことをまだ根に持っているのか、ダイモンが唇を尖らせた。


 「違うっ。ただ、リックの変わりようが極端だったから……」


 アーシェンカは言葉の後半をくぐもらせた。


 「……どういう女のひとだったか知っている? クレリアというひと」


 「嫉妬か? おいおい、もともとリックとクレリアは好き合っていたんだぞ。かわいそうだが、おまえにつけいる隙はないと思うがな」


 「違うって! わたしが気になるのは、クレリアというひとがどういう女性だったのかということ。わたしでさえ解明できない高レベルの文字呪文を、リックの胸に施した女性よ。もしかしたら、とんでもない魔道の才能があったのかもしれないわ」


 「ふん、どうだかな?」


 ダイモンは意地悪い目をアーシェンカに向けた。それから少しばかり考えるように顔を上げる。


 「クレリアか……。あの町には年に一度くらいしか行かなかったからな。まあ、神殿には何度も品物を納めたから、顔を合わせたことはある。きれいで親切な娘だったな―――それぐらいだ」


 「どれくらい、きれい?」


 アーシェンカは気になるふうだ。


 「髪と瞳が銀色で、ちょっと言い様がないな。尋常じゃない。女神像に血が通ったような感じかな。といって、冷たい印象はなかった」


 「ふうん……銀の髪かあ」


 アーシェンカは興味深そうに呟いた。


 呟きつつ、自分の髪を払った。赤みががった栗色の髪だ。もっとも、夜道だから、髪の細かな色までは見て取れない。


 と、アーシェンカは歩みを止めた。


 ダイモンは気付かず歩き続けていた。それを、低い鋭い声でアーシェンカが止める。


 「待って、ダイモン。変な気配がする」


 「変な気配……? なにがだ」


 「……リュウの気配が濃厚に漂っている。この近くに火の属性を大量に蔵しているなにものかがいる」


 アーシェンカの口調は切迫している。よほどの異常事態らしい。


 「火の属性ってな……なんだ」


 「黙って! あっち!」


 アーシェンカが指差した。その瞬間、アーシェンカが示した方向から巨大な火柱が吹き上げた。建物の密集地だ。炎に屋根が持ち上げられ飛ばされている。


 轟音が耳に届いた。その音は連鎖的に続き、耳をつんざく。


 火柱がいくつも続けざまに伸び上がっている。赤い光が闇を裂く。


 「なんだ、あれは!」


 ダイモンは凝然として声を放った。


 「近い! ダイモン、伏せて!」


 アーシェンカの声が鋭く鳴った。ダイモンは反射的に身体を沈めた。アーシェンカをかばうように身体をずらす。


 ダイモンたちの側にある家並みが一瞬にして燃え上がった。


 火の粉が飛び散る。


 「なんだぁ……いったい……」


 ダイモンはうめいた。


 と、その表情が凍りついた。


 燃え盛る家並みから、巨大な影が飛び出したのだ。


 「あれは……!」


 絶句した。


 かわりに有意の言葉を口にしたのはアーシェンカだった。


 「竜騎兵!」


 それは一騎の竜騎兵、それも火竜騎兵であった。火竜騎兵とは、火の属性を持つ竜を飼い慣らし乗騎とした騎兵のことである。火竜は鉄をも溶かす高熱の炎を武器とし、強力な後ろ脚によって馬をはるかに超える高機動性を備えている。比肩するものを捜すのが困難なくらいに強力な兵種である。


 ただし、その運用は極端に難しい。成長した竜は人に慣れぬため、雛の状態から飼育しなければならない。


 竜を繋ぐに足る鎖はどこにも存在しない。ただひとつあるのは、竜一匹一匹に与えられた名前だけである。それも、卵が孵った瞬間に命名しなければならない。


 つまり、竜騎兵を持つためには、竜の卵を採取し、それを孵化させねばならないのだ。卵を入手すること自体、命懸けの仕事だ。人の手による孵化も至極むずかしい。したがって、竜騎兵はどの国でも喉から手が出るほどに欲しい兵種であるが、なかなかに数を揃えることができない。ただ一国だけの例外がグルムコクランである。グルムコクランは国内に原生種の竜の群れを有しており、その原生種の住む地域をそっくり牧場として、大量の竜を家畜化しているのだ。


 グルムコクラン軍の誇る竜騎兵は、火竜騎兵、飛竜騎兵、水竜騎兵の三種類ある。その中でも最強の攻撃力を誇る火竜騎兵の大半を取りまとめているのが―――


 「ダーク・サラマンダー隊……か!」


 ダイモンの瞳が壮絶な光を帯びた。


 ダーク・サラマンダー隊はグルムコクラン軍の奇襲遊撃部隊だ。隊長はガッシュ・ベルトラン。火竜騎兵の機動力を最大限に活かし、戦線から遠く離れた敵拠点を叩くのが主任務だ。今回は、ゼルクブルク自治共同体の補給線を断ち切るために、このズムを狙ったのだろう。


 火竜騎兵は、ダイモンたちに気付いたらしい。火竜の手綱を統御し、馬首ならぬ竜首を巡らせる。火竜の大きさは、馬を竿立ちにさせてもう一回り大きくしたくらいだ。まだ、生後十数年といった若い竜なのだろう。もとより、成長した巨竜はとてものこと人間の手には負えない。


 「リックを看てやってくれ」


 ダイモンはアーシェンカに呟き、立ち上がった。


 アーシェンカはすばやくリックの側に行き、上体を抱え上げた。


 「……なにが……起こった……?」


 リックが弱々しい声を出した。炎の光に照らされた顔色さえ青く見える。気持ちが悪いらしい。


 「しっかりしてよ、リック!」


 「う……」


 「使えない男ねー」


 アーシェンカが毒づいた。そうしながらも、指で文字呪文を手早く描く。


 )%X(


 「――メム・マム」


 人間の体液をコントロールする文字呪文だ。リックの血液中の酒精を抜き、毒を浄化する。リックの意識が澄みわたり、嘔吐感が軽減する。


 「これに懲りて、飲み過ぎないようにしてよ!」


 「……すまん」


 リックは自分の体調の激変に驚きながらもアーシェンカにわびた。


 


 「おう、戦列復帰か。便利なもんだな、魔道ってな」


 ダイモンが横目でリックを見ながら言った。


 「ダイモン、こいつらは……?」


 リックは目前の火竜騎兵たちを睨みながら訊いた。


 「ダーク・サラマンダー……グルムコクランのゲス野郎どもよ。弱い者いじめが専門の奇襲部隊だ」


 ダイモンが吐き捨てるように言った。


 その声は当の火竜騎兵にも届いたらしい。


 騎兵は笑った。


 「ゴミどもが、言うわ! 減らず口が叩けぬように、すぐに焼き殺してやる!」


 火竜に指示を送った。火竜は息を吸った。喉の奥から出る特殊な分泌液と酸素を反応させて高熱の炎にするのだ。喉の内部は分厚い粘液層があり、炎から体組織を守っている。ちなみに、この粘液層はドラゴ・ゼリーと呼ばれ、王侯貴族たちにとって最高の珍味であるという。


 「おれは左だ」


 ダイモンが短く言った。


 リックはうなずく。


 火竜が首を振りたくり、炎を吐いた。


 空気が焦げるような高熱が襲いかかる。


 リックは右に跳んだ。左半身に焼けつくような痛撃が走る。だが、火傷には至らない。


 空中でリックは剣を抜き放つ。アーシェンカのおかげで身体の調子はかなり戻っている。


 ダイモンを見た。ダイモンも炎をかわし得ている。だが、ダイモンは丸腰だ。武器を持っていないのはつらい。


 アーシェは……?


 思いつつ、首を後方に向けると、炎が届かない距離まで下がっている少女の姿が視界に入った。これならば安心だ。リックは火竜騎兵に神経を集中した。


 リックは一気に距離を詰めた。火竜騎兵は、炎があっさりとかわされたことに一瞬動転した。さらに目標が左右に分かれたことで、どちらを追うべきかを逡巡した。


 好機である。


 リックは火竜の後ろ脚に剣を打ちつけた。


 苦鳴が竜のくちばしから漏れた。だが、竜の全身を覆う鱗は剣の刃の侵入を阻んでいた。痛みは与えたが、それだけだ。


 「リック! 竜の鱗は剣では破れんぞ!」


 ダイモンが声を枯らして叫んでいる。


 リックには、しかし、その声に応えている暇はなかった。


 痛みのために火竜は激怒していた。リックに襲いかかる。


 くちばしを開き、炎を吹きつけてくる。


 リックは身体を地面に投げ出し、転がった。


 火竜は地面に向けて炎を吹く。石畳すら燃え上がる。凄まじい炎熱だ。


 「くそぉっ!」


 リックは舌打ちをした。全身汗みずくになっている。汗が酒精くさい。アーシェンカの文字呪文で最低の状態から抜け出してはいるものの、完調というわけにはいかない。力が思うように入らないし、平衡感覚にも狂いがある。そういう状態で火竜などという強力な生き物と闘わねばならぬというのは、正直いって厳しい。


 「鱗のない場所を狙え、リック!」


 「ばかめ。火竜に弱点などないわ! きさまたち二人、今すぐに焼き溶かしてくれる!」


騎兵がせせら笑った。火竜の鱗はいかなる刃も通さない。のみならず、火にも水にも強い。最強の生命力を持っているのだ。


 リックは剣を握り締め、精神を宙に飛ばしていた。気を引き締めていなければ恐怖に圧し潰されそうな気がする。


 騎兵は火竜の怒りに任せて、自分で火竜を統御することをあえて放棄している。それでも、たったの二人の人間を屠るには充分であると考えているのであろう。


 火竜があえぐように小さく吠えた。鱗のない白い喉を見せた。ちろちろと炎がくちばしから漏れる。溜めている。次の一吹きに備えて力をたくわえている。そのようにリックには思えた。


 右へ跳ぶか、それとも左か。リックに与えられた選択肢は、逃げる方法だけだ。もしも、次の火炎が左右に薙いで余りあるほどにたくわえられていては、どちらに跳んでも結果は同じだ。火炎に包まれて、リックは骨すら残るまい。


 火竜はそれを知っているのだ。だから、火炎を極限まで蓄えようとしているのだろう。


 ニタリと火竜が笑った―――ように見えた。百歳以下の若い竜は人語を話すことはないが、人間にして十歳程度の子供の知能はあるといわれる。とすれば、笑いという感情表現を持っていたとしてもおかしくはない。


 火竜が炎を吐いた。


 猛烈な火炎だ。火炎は長く伸び、リックの頭上を焼いた。


 リックは身体を沈めていた。そのまま、一気に竜の方に向かって転がった。


 火竜はわずかに慌てた。リックが左右に跳ぶものとばかり思っていたのだ。このあたりが子供っぽいといえばそうだ。


 リックは火竜の間近ですっくと立ち上がった。


 立ち上がりながら、刃を振り上げる。神速の技だ。


 刃は竜の白い喉に食い入った。


 


 血飛沫が舞う。リックの身体に降り注ぐ。熱湯のように高温の血潮だ。紅というよりも黒色のねばつく液体だ。


 刃は肉を裂き骨を砕いた後、背中側の鱗に内側から当たり、そこで止まった。


 火竜は琥珀色の瞳を見開いて、宙を見詰めていた。首は背中側の皮一枚だけで胴とつながっている。


 火竜の全身が弛緩した。


 騎兵は地面に投げ出された。なにか喚きながら立ち上がり、逃げ出した。


 「逃がすかっ!」


 噛みつくような怒声が響いた。


 ダイモンだ。


 素手で騎兵に掴みかかる。


 騎兵はうろたえつつも、剣を抜いた。やけくそじみた動きで振り下ろした。


 ダイモンはその一撃を肩で受けた。革製の肩当てに刃は当たり、外側に流れた。


 ダイモンの拳が唸る。


 騎兵の顎に炸裂した。


 人形のように騎兵の身体が舞った。地面に叩きつけられる。


 ダイモンは平然として立っている。リックは舌を巻いた。すさまじい胆力だ。


 騎兵の剣をかわさず、肩で受けた。肩当てをしているとはいえ、刃はどちらに跳ねるかわからない。外に流れずに、首に食い込む可能性もあったのだ。


 むろん、騎兵の攻撃をかわすことはできた。しかし、そうしていれば、騎兵は闇の中に逃げおおせていただろう。そうさせぬために、自ら剣を受ける思い切りを顔色ひとつ変えずにやってのけたダイモンは尋常な肝の太さではない。


 ダイモンは厳しい表情で、騎兵の側に歩み寄った。


 胸倉を掴んで引き起こした。


 騎兵の唇からは血が流れている。顎が砕けようかというほどの一撃だった。歯が何本か折れたのだろう。


 ダイモンは騎兵を無理矢理に立たせた。騎兵には抵抗の意志はない。茫然としていた。そうであろう。無敵をうたわれた火竜騎兵がたった二人の人間によって撃破されたのだ。竜を屠ったのは、それもたった一人の剣士だ。信じられるものではない。


 「ここは騒がしい。もう少し静かなところで話を聞かせてもらうぜ」


 ダイモンは低い声で言った。


 


 


        3


 


 ダイモンの形相が変わっていた。


 「ダイモン、変よ。怖い」


 アーシェンカがおびえた。


 路地に火竜騎兵の男を連れ込んだ後、ダイモンの態度が一変したのだ。


 リックが顔をそむけたほどの苛烈な拷問を騎兵に加え始めた。アーシェンカに至っては、悲鳴を上げてその場から逃げてしまったほどだ。


 数分の間に騎兵は凄惨な姿になった。


 「喋る気になったか?」


 ダイモンは剥ぎ取った騎兵の爪を弄びながら残忍な口調で訊いた。この爪は、ダイモンがその頑丈な歯で噛んで、引き剥がしたのだ。


 「わ……わかった……なんでもいうから……もうやめてくれ……」


 かすれた声で騎兵は懇願した。顔も口の中も血まみれだ。指の骨も何本もへし折られている。


 「おまえたちはダーク・サラマンダーだな」


 「……そうだ」


 「この町を襲ったのはゼルクブルク自治共同体軍の補給線を断つためだな」


 「……その通りだ」


 「おまえたちの指揮者は誰だ」


 「……ベルトラン将軍だ」


 ダイモンの双眸が底光りした。


 「ガッシュ・ベルトランはどこにいる?」


 初めて騎兵が言いよどんだ。


 「それは……」


 「どこだ?」


 「しらん」


 ダイモンは無言で騎兵の指を踏んだ。


 騎兵は絶叫した。折れた骨が皮膚を突き破って露出している。そこにダイモンの体重が乗ったのだ。


 「どこにいるのか、言え」


 「言う、言う、言うから、足をどけてくれ!」


 「早く言え」


 「ズムの東南にある高台だ……そこで軍師とともに宿営を張っている……!」


 騎兵の言葉に、今度はリックも激しく反応した。


 「軍師……だと!? そいつの名はなんという!?」


 「ひっ……!」


 騎兵の表情の上におびえの電撃が走った。拷問役が増えたのか、と思ったのだろう。


 「やめてくれ、もう……! 死んじまうよ……!」


 「軍師の名を言え!」


 リックは怒鳴った。


 騎兵は痺れたように硬直した。


 「名前は知らん。だが、ベルトラン将軍はパペットマスターと呼んでいた……」


 「パペットマスター……!」


 リックは虚空を凝視した。パペットマスター……ようやくつながった。クレリアをさらったパペットマスターは、やはりグルムコクランの軍師であったのだ。


 「クレリアという娘は知らないか? 銀の髪の娘だ。パペットマスターが連れていなかったか?」


 重ねてリックは問うた。期待が凄まじく膨らんでいる。


 だが、騎兵は首を横に振った。


 「女はいない。軍師は常に一人で行動している……らしい。神出鬼没なんだ。おれは顔すら見たことがない。それくらいしか知らないんだ!」


 「ここまでだな、リック。だが、収穫はあった」


 ダイモンが言った。


 「ああ」


 リックは短く答える。


 そこに。


 「ちょっと、ちょっと、大変よ!」


 逃げ出していたアーシェンカが血相を変えて飛び込んで来る。


 と、傷まみれで呻いている騎兵を見て、ぎょっとなる。


 「どうした? アーシェ」


 ダイモンがアーシェンカを促した。


 はっとして、アーシェンカは顔を上げた。


 「港がもうすっごい火事なの! 火竜騎兵がめちゃくちゃに暴れて、倉庫も船も火だるまよ! これじゃあ、港は全滅だわ!」


 「けっ……! これじゃあ、明日の船ですんなりイズーへ、というわけにゃあいかなくなったな」


 「それに、寄るところもできた」


 リックが重い声で言う。


 「寄るところ?」


 アーシェンカは眼を丸くした。


 「東南の丘陵に、ダーク・サラマンダーの本営がある。火竜騎兵が港を荒らしている間にそこを突き、ガッシュ・ベルトランを討つ」


 ダイモンがさらりと言ってのけた。


 今度こそアーシェンカは仰天してしまう。


 「ちょっとぉ! 正気なのお!?」


 主力の火竜騎兵が出撃しているとはいえ、常識的に考えれば、本営になにがしかの予備隊を残しているはずである。いわんや、隊を率いるガッシュ・ベルトランがいる以上、火竜もいるはずだ。それも、大陸第一といわれる巨竜という噂だ。それを、たった三人で攻めようというのか。


 「正気だ。酔いも醒めている」


 リックが言う。


 「時間がない。すぐに行こう」


 「その前に」


 ダイモンが口元に残忍な笑みを浮かべ、騎兵を見下ろした。


 「こいつの始末をつけなければな」


 「ひぃっ!?」


 騎兵はおびえきった瞳をダイモンに向けた。


 「しゃべったじゃねえかよ! 助けてくれよ!」


 「おれたちが丘陵に向かったことが知れるとまずいのでな」


 ダイモンは陰惨な視線で騎兵を刺し貫いた。


 「ちょっと、ダイモン、まさか……」


 アーシェンカは怪物を見るような目でダイモンと、そしてリックを探った。


 「死人に口なし、というからな」


 ダイモンは言い、騎兵から取り上げた剣をすらりと抜く。


 「ひえええっ!」


 騎兵の口から悲痛な叫びが漏れた。


 「リック、やめてさせてよぉっ!」


 アーシェンカが叫ぶ。


 リックは動かない。


 ダイモンは剣を振り下ろした。


 


 馬が疾走していた。


 ズムは大混乱に陥っていた。家財道具を持ち出す人々、燃え盛る家の前で泣き叫ぶ人々、道端で放心したようにたたずんでいる人々。理性的に振る舞える者はどこにも残っていないようだった。


 リックたちはこの混乱に乗じて馬を奪い、いちはやく裏道を取ってズムの町を脱出していた。


 リックは後ろにアーシェンカを乗せている。アーシェンカは一人では馬に乗れない。ダイモンは見事な手綱さばきを見せつつ、リックたちに先行している。


 「さっきの騎兵さん、死んでいないよね」


 アーシェンカがリックの背中に向かって言った。というより、怒鳴った。そうでもしないと、疾走する馬上で会話などは成り立たない。


 「ああ。失神しただけだ。その後、縄で手足を縛ったから気がついても身動きはできまい。あのあたりはどうやら火の心配もなさそうだったし、大丈夫だろう」


 その上、アーシェンカはダイモンが止めるのを無視して、騎兵の傷の治療までしてやっている。文字呪文によって痛みを消し、消毒と止血を行った。さすがに折れた骨をくっつけることまではできなかったが、曲がっていた骨をまっすぐに矯正し、今後の治療次第では指が元どおりになるようにまで、処置を行った。


 『おいおい、こいつにそんなことをしてやっても無駄さ。どうせ、朝になって町の住人に見つかったら、ただでは済まん。吊るし首になるかもしれんのだぞ』


 ダイモンはそう言ってからかったが、アーシェンカはそれに対しては無言だった。何もいわず、応急処置を続けていた。


 その時のアーシェンカの横顔がリックに強烈な印象を残していた。


(この子に、こういう表情があるのか)


 アーシェンカがなぜだか今まで以上に心近しく感じられるようになった。


 馬に乗せる時も、ごく自然に手を取れた。アーシェンカの方がかえってどきまぎしていたようだ。


 それでも、走り出すとアーシェンカはいつもの調子を取り戻していた。


 アーシェンカは怒鳴りつづけている。


 「やだよねえ、戦争なんて! あたし、大っ嫌い! お偉いさんってのは、ほんと、ろくなことをしやしない! まわりの迷惑をもっと考えればいいのに……!」


 アーシェンカは憤然と言い放つと、やや間を置いてぽつりと付け加えた。


 「ほんとうに、いや」


 それきりアーシェンカは黙り込んだ。


 リックは馬に鞭をくれた。


 馬は脚を早め、のぼり坂に立ち向かってゆく。


 


 「これ以上は馬はまずいな。歩いて行こう」


 ダイモンが先に馬を止め、そうリックたちに告げた。


 「このちょっと先に兵隊がうろちょろしていそうだ。どうする?」


 「あたしに任せて」


 アーシェンカが胸を張った。


 「どうする気だ?」


 リックが訊く。


 「空にまでは見張りはいないはずよ。だから、空から行きましょ」


 アーシェンカの言葉にダイモンが眉をひそめる。


 「空からっていったってよお。どうするんだ?」


 「こうするの」


 アーシェンカは手頃な石を拾い、三人が立っている周辺にへろへろと文字を書き始めた。


 「あーっと、暗いから間違えそう……でも明かりはつけられないしなあ」


 などとぶつぶつ言いながら作業をしている。


 リックとダイモンはアーシェンカの邪魔にならないようにじっと立っているしかない。


 じばらくして、アーシェンカが腰を伸ばした。


 「できた! これで飛べるわよ」


 「どういうことだ?」


 「ふふっ! それは飛んでみてのお楽しみ」


 アーシェンカは笑い、すっと人差し指を虚空に差し出す。


 !>%s~<!


 「ウィン・ターフ!」


 地面に書いた文字を虚空になぞり、アーシェンカは文字呪文を完成させる。


 不意に風が周囲に舞い始めた。


 強い風だ。


 地面にあるものを根こそぎ持って行ってしまいそうだ。


 と、その時だ。


 リックは足元が激しく振動するのを感じた。


 地面が光っている!


 アーシェンカが描いた文字が燐光を帯びて浮かび上がっている。


 「風をコントロールして物体を運ぶ文字呪文よ。限られた範囲なら、地面ごと運んで行ってくれるのよ」


 アーシェンカが自慢そうに言う。


 「ま、まじかよ」


 「ほんとなら、こんなまどろっこしいことはせずに、身体だけで風に乗るんだけど、あんたたちを連れて行ったげなきゃいけないからね」


 アーシェンカは言い、指をパチリと鳴らした。


 リックたちを乗せた地面が大地を離れて浮遊した。


 その瞬間、激しい震動が襲い、リックは倒れそうになった。が、空気の壁に阻まれて跳ね返された。


 「ほら、これなら飛び上がっても安心できるでしょ」


 「風がまわりに壁を作っているのか」


 「転落防止というわけだな」


 ダイモンが感心した。


 風に持ち上げられた地面の塊は、リックたち三人を乗せてぐんぐん高度を上げていった。


 「本営のど真ん中に降りるわよ。いい?」


 「おう!」


 「いいぞ」


 ダイモンとリックが交互にうなずく。


 


 


      4


 


 「では、クレリアさまは本隊に同行しておられるというわけだな」


 ガッシュ・ベルトランは酒の入った杯を傾けながら言った。


 「王はイズー侵攻をお急ぎになられている。祝言を挙げるべき日が迫っているためだ。したがって、ベルトラン将軍の働き如何によっては、一週間後に総攻撃を始められよう、というご意向だ」


 無気味なマントとフードに全身を覆った長身の男が言った。


 ベルトランは不興げに眉をひそめた。


 外見は文官であるような線の細い男である。年齢は四十代後半だろう。せまい額と突き出した鼻梁、鼻の下には大きな髭をたくわえている。全体的に小狡そうな印象を与える容貌だ。腕力よりも奸知によってのしあがってきた男であるように見える。


 「そんなことを言いに来たのかね、軍師どの。いや、パペットマスター閣下とお呼びした方がよいか」


 「どちらでもよいこと」


 パペットマスターは感情のない声でベルトランの悪意の矛先をかわす。


 だが、ベルトランはやめない。ねちねちとした口調で言葉を続ける。


 「確かにズムの港攻略の作戦を立案されたのは軍師どのだ。だが、実行を陛下より命じられたのはこのわし。わがダーク・サラマンダー隊には軍師も参謀も無用だ」


 ベルトランの言葉には明らかな険が含まれている。


 ベルトランは、この無気味な魔道士が好きではなかった。ベルトランのような力の信奉者にしてみれば、魔道の力で立身したパペットマスターは唾棄すべき存在だった。しょせん魔道士など、呪文を使わねばものの役に立たぬ軟弱者だ、という頭がある。穿った見方をすれば、頭脳労働者に対する肉体労働者の劣等感の裏返しの感情である、といえなくもない。


 だが、パペットマスターし超然としている。まったく感情を外に現さない。表情もフードの奥に隠されて読み取ることができない。


 「確かに作戦は見事に成功したように思う。これで、イズーはわれらが手に落ちたも同然。陛下もお喜びになろう」


 パペットマスターの言葉にベルトランは自尊心を満足させた。パペットマスターは絶対に阿諛追従の類は口にしない。そのパペットマスターが成功といった以上、作戦の成否に関する限りベルトランの心配はなくなったといっていい。そういう部分では、ベルトランもパペットマスターの超常の力を信頼していた。


 「軍師どのもお疲れであろう。さすれば天幕を用意するゆえ、ごゆるりと骨休めをされるがよい」


 ベルトランはそう言って、この気詰まりな会話を終わらせようとした。それを、パペットマスターが止めた。


 「待て。上空に妙な気配がする……魔道士だな。風を使って、上空から奇襲をかけようとしているらしい」


 「なんだと……?」


 ベルトランが立ち上がった。


 「一体、何者だ!? 数は!?」


 「たいした戦力ではない。わずか三人だ。だが、そのうちの一人はなかなかに使える魔道士であるようだ。こやつはわしが引き受けようぞ」


 パペットマスターは言い、するりと天幕から抜け出て行った。


 ベルトランは慌ててその後を追った。


 外へ出た。


 風が激しく巻いていた。異常な風だ。天幕の周囲を守っている兵士たちも戸惑い、口々に叫びながら、風の渦から逃れようとしている。


 その風の渦の中になにものかが現れた。


 人影だ。


 みっつ。


 飛び出して来る。


 ベルトランは笑った。馬鹿が。


 「わしの竜を曳いてまいれ!」


 ベルトランは叫んだ。


 そしても周囲には聞こえないほどの声でそっと呟く。


 「わしの可愛いイフラージャを、な」


 


 リックは、浮遊する大地のかけらから飛び降りた。


 ダイモンもほぼ同時に跳躍している。


 やや遅れてアーシェンカも続く。


 「気をつけて! ものすごい魔力を感じる。パペットマスターと正面切って闘うのは避けてよ」


 「そういうわけにも」


 いかない、とリックは思っている。


 とにかく、パペットマスターと話すことだ。クレリアの行方を知らねばならない。


 ダイモンは無言だ。火竜騎兵から奪った剣をすでに抜いている。


 走り出している。


 彼らが降り立ったのは本営の天幕の側の空き地だった。護衛の兵士たちが十数名いるばかりで、火竜騎兵の姿はない。どうやら、ズム襲撃にほとんどの戦力を投入していたようだ。ついている。


 「アーシェ、援護を!」


 「ドゥーム・ホタン!」


 リックの要請にすばやくアーシェンカは応じた。


 侵入者の突然の登場に混乱している兵士たちの機先を制して、アーシェンカの文字呪文が発せられた。


 まばゆい光が兵士たちの視界を潰す。


 リックとダイモンの姿を光がかき消している。逆にリックたちからすれば、敵の姿がくっきりと浮かび上がっている。願ってもないシチュエーションだ。


 リックは拳を固め、進路に立っている兵士を殴り飛ばした。


 ダイモンは蹴りまくっている。


 敵はいきなりのことに無抵抗状態だ。こういう相手を斬るのは気分的にもよくないし、時間の無駄であるともいえる。


 「ガーッシュ! どこだ!」


 ダイモンが叫んだ。


 声が震えている。極度の興奮状態にある。


 


 その時だ。


 ずろり、巨大な影がにじり寄った。


 火竜だ。それもかなりの巨体だ。百歳をはるかに越えている、のではないか。百歳を超えた火竜は急激に知性を増す。人間の手には負えない神獣になるのだ。その能力も格段に上昇し、飛翔能力、言語能力、そして竜玉を産み出す能力を獲得する。


 竜玉というのは、卵に似て非なるものだ。


 竜は十歳を過ぎると卵を産むことができるようになる。だが、これは他の生き物の繁殖となんら変わるところはない。


 これに対し竜玉とは、自分自身を産み出す卵なのだ。つまり、自らの肉体が大きく損傷したりあるいは年老いたりした場合に、自分の経験、知識のすべてを移し込んだ新しい若い自分自身をこの竜玉から世に産み出す。いわば、竜玉とは竜の無限の生命の源であるといえる。


 それほどまでに霊力を高めた竜が人間ごときの膝下に屈し続けるはずがない。だがら、火竜騎兵に使用できる竜は若年のものと決まっている。


 それが。


 今、ダイモンとリックの目前に現れた竜は、見上げるほどの巨体であった。背には身体の割には小さめの羽が見える。火竜で羽があるのは成体のしるしだ。


 通常では考えられぬことである。成体に達している竜が人間の命令をきくなどということは。だが、今、目前にその事実がある。


 「確かに、わずかな数だ。まったく、度胸がよいにも程がある」


 竜の背には、椅子のついた台が取り付けられ、その椅子には男が一人乗っている。


細身の男だ。年齢は四十前後か。いやみな髭を鼻下にたくわえている。


 「おまえ……ガッシュ!」


 ダイモンが呼ばわった。


 「わしの名前を知っておるのか……?」


 ガッシュ・ベルトランは怪訝そうな顔をした。


 「おれはダイモン・ザースだ! シストア・ザースの父親だ! おまえが竜を奪うために殺した子供のな!」


 ダイモンは絶叫していた。全身から紅蓮の炎が立ち上っているかのように見える。


 リックは言葉を失っていた。ダイモンに子供がいたことなど、聞いたこともなかった。


 ガッシュ・ベルトランはしばし、視線を宙に漂わせていた。


 ふっ、と理解の光が目に浮かぶ。


 「おう、そうであったな。思い出した。わが竜の竜玉を拾った子供か」


 「わが竜……だとお……!?」


 ダイモンのこめかみに血管が浮かび上がっていく。今にも破裂しそうだ。


 「あの子供の家族は全員殺したつもりだったが……そういえば父親は旅の商人で、ちょうど家を空けていた、という話だったな……そうか、おまえがあの家の主人か」


 口元に嘲笑が浮かんでいる。


 「子供には過ぎたるものだった。だいたいにして、子供には竜なぞ扱いきれまい。それも、齢五百歳にも達しようかという成体をだ。わしならばこのように扱える。そして、グルムコクラン軍に最強の部隊を作り上げることができた。どちらが有効に竜を使っているかは一目瞭然であろう」


 「だから、騙して殺したのか!? たった五つの子供を……! そして、身重の妻を、年老いたおれの両親までも……!」


 ダイモンは叫んだ。喉が張り裂けるような声だった。


 「邪魔だったからな。竜玉は宝物としてもたいした値打ちがある。しかも、孵化の兆しがある竜玉なぞ、過去の文献を調べてもそうは見つからぬ希有なものだ。その所在が知れれば、各国の軍隊が押し寄せかねない。孵化をすませ、主人の言葉を刻み込むまでは、邪魔をされたくなかったのだ。だから、竜玉の存在を知る者を消した」


 ベルトランはあくまでも余裕のある笑みを絶やさない。


 ダイモンは蒼白になっている。ベルトランをまばたきもせずに凝視している。声は別人のようにしわがれている。


 「無害な旅人を装い、子供の心につけ込み、その挙げ句に殺したのか……! ガッシュ・ベルトラン、おれが家に戻った時、ただ一人おれのおふくろにはかすかに息があったのだ。おふくろ以外は……親父も、妻も、おれの息子シストアも……全員墓の中だった。おふくろはおれに真相を伝えたい一心で生きながらえていたのだ。おれは聞いた。ガッシュ、おまえのことを! 旅人としてうちを訪れ、シストアを手懐けた。シストアはおまえを信じた。そして、宝物を見せた。それが竜玉だった……。おまえの正体は流れ者の盗賊だ。旅人のふりをして金品を巻き上げるチンケな泥棒だ。だが、竜玉のことは商売柄知っていた。それで、シストアをはじめ、おれの家族を……!」


 ベルトランは弾けるように笑った。


 「よく調べたな。話の後ろ半分はおまえが自分で調べたんだろう。なるほど、盗賊ギルドにも籍を置いたな? おれの前歴を知っているとなると、なおのこと生かしてはおけぬ」


 ガッシュは竜に低く何事かささやいた。


 竜は、低く喉を馴らしつつ、恭順の仕草をして見せる。


 巨大な顎の奥に白熱する光が見えていた。


 竜白熱光ドラゴン・ブラスト


 通常の若い火竜の吐くそれよりもはるかに高熱の白い炎だ。耐熱の文字呪文を施した第一魔道位階のマジックアイテムでさえ、その前には無力であるという。


 「ダイモン!」


 リックはダイモンの側に駆け寄り、肩を掴んだ。


 「逃げろ! さもなきゃやられるぞ!」


 「リックよ」


 ダイモンはリックを目だけで振り返った。


 「離れていろ。下手にちょろちょろしていると、命を落とすぞ」


 「ダイモン……!?」


 「リックよ、人にはそれぞれ旅の目的というものがある。おまえさんがクレリアを助けだそうとしているのも、それさ。あのこまっしゃくれた魔導士にだって、きっと何かしら抱え込んでいるものがあると思うぜ」


 ダイモンは、ふっと笑いをこぼした。


 「おまえとアーシェンカと、もっと旅を続けたかったがなあ……おれの旅はここで終わりだ」


 ダイモンの笑顔は透き通って見えた。そのことにリックは不吉なものを感じた。


 「よせ、死ぬ気なのか!?」


 「ばかたれ。死ぬ気がなくて、火竜の成体と闘えるかよ」


 ダイモンは笑顔のまま、歩を進めた。


 前方には竜が巨体をうねらせている。


 「やめろ! ダイモン!」


 リックはダイモンを引き戻そうとした。


 「うるせえっ!」


 ダイモンの形相が変わった。目にも止まらぬ素早さで剣を引き抜くと、リックの鼻先をかすめるように剣を横に薙いだ。


 リックがひるむところに、ダイモンの前蹴りが胸板に炸裂する。


 リックは吹き飛ばされた。背中から地面に落ち、ごろごろと転がる。


 その隙に、ダイモンは走り出していた。


 「いくぞ、ガッシュ!」


 喚いていた。獣のような声だ。


 「愚か者めが」


 ガッシュ・ベルトランは口元を歪めて呟いた。


 双眸が陰惨に底光りする。


 「やれ、イフラージャ」


 小さな声でガッシュは命じた。竜の聴覚の鋭さにすれば、それで充分な声量であった。


 巨竜は、声を張り上げて駆け寄って来る小さな生き物に対して、火炎のひと吹きを見舞うべく、顎を小さく広げた。


 白熱が喉の奥にきらめきを増す。


 満足そうな微笑みをガッシュは浮かべた。次の瞬間に、復讐に猛った愚かな父親はこの世から消滅する。その次は、もう一人の若造だ。パペットマスターによれば、あと一人、魔導士がいるということだったが、そやつはパペットマスターが始末してくれているだろう。


 竜がドラゴン・ブラストを放った。


 「やった……むう!?」


 ガッシュは訝しげな表情を浮かべた。


 竜は突然、顎を上に向け、何もない空間に向けてドラゴン・ブラストを撃ったのだ。


 まるで、標的を間違っていることに気付いて、慌ててあらぬ方に逸らしたかのように見えた。


 「どういうことだ……!?」


 ガッシュは目を見開いた。


 ダイモン・ザースが竜の後ろ脚に取り付いていた。よじ登ろうとしている。


 「イフラージャ、どうしたのだ。あやつを振り落とし、踏み殺してしまえ!」


 ダイモンは泡を食って、竜に声高に命じた。


 しかし、竜は戸惑っているかのような表情を―――困惑の色を琥珀色の瞳に浮かべていた。


 その理由は、すぐにわかった。そしてそれはガッシュを驚愕させた。


 ダイモンが叫んでいる。


 「イフラージャ、おれはおまえに命ずる! そなたの名を知りし我を汝が主となせ! 聞こえるか、イフラージャ! 拒めはすまい! もしも拒むのなら、おまえの背中にいるやつも、もはやおまえの主ではない!」


 「ば……ばかな、ばかな、なぜ、その名を……!?」


 ガッシュはうろたえた。


 ダイモンは、竜の鱗を手掛かり足掛かりとして、竜の後ろ脚に張り付いている。


 「ガッシュ! 卵とは違い、竜玉はすでに完成した竜の精神と肉体を宿している! 竜玉の状態で与えられた名前がそのまま孵化後も通用する。竜玉には名前が与えられていたのだ、おれの息子シストアによってな! おまえはその名前を孵化後の竜に与え、自分が主であると竜に思い込ませたんだ!」


 「それを……なぜ!?」


 ガッシュは額に脂汗を浮かべていた。つい先程まで磐石と思えた竜の背中が、突然に頼りないものに感じられた。


 竜の喉奥から異音が発せられている。不機嫌そうな声だ。


 ダイモンは、ほぼ竜の腰のあたりにまで登りつめていた。


 その口元に刻み込まれた笑いは、凄絶なものすらを感じさせる。


 「おれが旅に出る前の日のことだ。シストアが汚い玉を拾って来た。それをシストアは自分の弟だと呼んだ。そして、イフラージャと名付けたのだ。イフラージャとは、シストアの弟に与えられるはずの名前だった。おまえが殺したおれの妻のお腹の中にいた子にな……!」


 ガッシュは血走った目を見開いた。歯を剥き出した。痙攣するように歯を噛み鳴らす。?


 「くそっ! やはりあのガキの身内は残らず探し出し、ぶち殺しておくべきだった! 畜生っ! 」


 ガッシュは金切り声をあげた。


 


 竜の様子が変わった。


 名前の呪縛から解放されたのだ。巨大な聖獣は、自分の身体に張り付いている二人の人間を胡乱げに見た。


 その気配が見る見る怒りへと変じていく。誇り高きかれら竜族を家畜同然に扱った人間ども。呪縛から放たれた竜の知性は人間と同等かあるいはそれを陵駕する。ならば、不当に扱われたことに対する感情も、また人間に似るのか。


 ガッシュは慌てて龍の背で立ち上がった。逃げるしかない。竜は完全に自我を取り戻している。もはや、ガッシュの命令を聞く可能性はない。


 ガッシュは竜の主人であり続けることをもはや断念した。


 たとえイフラージャを失っても、火竜騎兵を取りまとめ、ダーク・サラマンダーの指揮権を掌握している限り、ガッシュ・ベルトランはグルムコクランの将軍なのだ。


 ガッシュは思い切って竜の背中から飛び降りようとした。下手をすれば脚を折りかねない高さだが、ここは賭けるしかない。


 だが。


 「逃がさねえ!」


 喚きつつ、ダイモンが斬りかかる。竜の広い背中をひと跳びで踏み込んでくる。


 ガッシュは振り向きざま、剣を抜き打ちに一閃する。


 ガッシュは、もともと流れ者の盗賊として生きるために剣技には習熟していた。それに加え、グルムコクランの将軍として恥をかかぬようにと剣術の鍛練はずっと続けていたのだ。


 ダイモンの得意な戦斧でならともかく、不慣れな剣ではその力量の違いは明らかだった。


 ダイモンの胸が裂けた。血飛沫が舞う。


 「邪魔をするな!」


 ガッシュは一喝し、膝を曲げて、跳躍に移ろうとした。


 その首に太い腕が巻き付いた。


 ダイモンだ。


 致命傷に近い傷を受けながら、突進は止めなかったのだ。


 「くそっ……! 死にぞこないめ、離せ!」


 ガッシュはもがいた。


 だが、ダイモンは腕に渾身の力をこめていた。


 離さない。


 どんなことがあっても。


 ダイモンの太い腕がガッシュ・ベルトランの喉を圧迫する。


 「ぐうるるるう」


 ガッシュは呻き、死に物狂いで剣を振り回した。


 刃がダイモンの頬を裂き、太股をえぐった。


 それでも力を緩めることはしない。


 ガッシュの顔が紫色に変じた。唇の端からよだれが垂れ落ちる。


 だが、ダイモンの顔色も激変している。


 蒼白だ。


 体液を大量に失い、肺も傷ついている。


 呼吸そのものが成り立たない。胸郭はもはや膨張せず、血流は急速に汚濁する。


 死が目前にある。


 だが、ガッシュを捕らえる腕からは毫も力が失われることはない。


 どこから湧いて出るのか、もはや判別しがたい力であった。ダイモン自身にもわからない。もはや、自分の意志の在処すら判別できないダイモンであった。


 ガッシュの首の骨が鳴った。


 鈍い、くぐもった音だ。


 その瞬間、ガッシュの全身から力が失われた。熱が放散した。魂が抜け落ちた。


 ガッシュ・ベルトランは、死んだ。


 そのことを自覚した時、ダイモンは色のない唇でそっと呟いた。


 「シストア……やったよ……父さんは……」


 もはやダイモンは虚空を見ていた。


 ゆっくりと崩折れた。


 


 その時だ―――竜が激しく身震いした。


 人間たちの死闘の終わりを感じ取ったのか。


 竜は軽く身体を揺すった。


 ガッシュの肉体がするりとすべり落ちる。


 ガッシュの肉体は地面に激突して砕けた。


 竜は一声鳴いた。かつて、自分の主人と称していた人間の死を論評するかのような口調だった。それも、好意的な意見ではありえない。竜は言ったのだ、「愚か者めが」と。


 竜は、邪魔な青銅の台を固定している鎖をひきちぎった。


 飴細工のように柔らかな縛めだった。心理的な呪縛なくば、なにほどの効力を呼ぼう。


 竜は羽をふわりと広げた。


 普段はたたまれて小さくなっているが、広げると巨体にふさわしい雄大な羽になる。


竜は、自分の背中の鱗にかろうじて引っ掛かっているもうひとつの肉体に注意を向けた。


 かすかに目を細めて、愚かしく脆弱な生物の顔を見る。


 その顔貌に懐かしさを感じた。自分が竜玉であった時に、自分を暗闇から救い出してくれた人間の子供―――その面影が宿っていた。


 竜玉はそれ自身では身動きできない。通常であれば、竜が衰えて自らを竜玉に封ずる時、孵化するためのエネルギーを蓄積しておく。そうしなければ竜玉の状態で仮死状態となり、自力では竜として転生することはかなわない。


 その竜が寿命を迎え、おのれを竜玉にする時、不幸なことに彼の住居であった神殿が瓦解した。不本意ながら、孵化のためのエネルギーを身の保全のために使わねばならなくなった。


 数百年の後、竜玉を廃墟の瓦礫の中から人間の少年が拾い上げてくれるまで、竜玉はずっと眠り続けていたのだ。


 その眠りを破ったのが、少年が竜玉に授けた名前―――イフラージャ―――であった。


 竜玉は少年のぬくもりや優しい心に感応し、急速に覚醒した。いわば、少年はイフラージャの揺籃であった。もっとも、イフラージャが孵化するより先に、少年はガッシュ・ベルトランに害されてしまったのだが。


 イフラージャは、哀しげに小さく唸った。少年の死を悼むかのように。


 気を取り直すように竜は軽く首を巡らせ、そのくちばしにダイモン・ザースの肉体をくわえた。


 羽が優美に上下した。


 傲然と風が起こる。風塵が舞い狂う。


 イフラージャの巨体はあっさりと浮き上がった。


 そのまま、飛翔し去る。


 


 リックは竜の飛翔を見ていた。地面に伏せて、突風に耐えていた。


 竜の飛翔によって激烈な風が起こり、天幕がいくつも吹き飛ばされた。ガッシュの死体も吹き飛ばされた。まるでぼろくずのように、それは舞っていた。


 ようやく風が過ぎ、リックはふらつきながら立ち上がった。


 ダイモンはどうなったのか。


 リックは、ダイモンが致命的な一撃を受けたのを目撃していた。


 死んだ、のか。


 だが、確認するすべはない。竜が空に消えた以上、それを追うことは不可能だ。


 リックの胸に苦渋が満ち、思わず苦鳴を漏らそうとした時だ。


 やや離れた場所に見慣れた光球の輝くのが見えた。


 アーシェンカのサラマンデル・スフィアに違いない。


 アーシェンカが戦闘に巻き込まれている。そのことに思い至った。


 次の刹那には、光球が見えた方角に向かって走り始めている。


 心の中でダイモンに詫びていた。


 すまぬ、と。


  


     5


 「竜が行き、将軍も散ったと見ゆる」


 パペットマスターがかすかに首の角度を変えて、そう言った。この人物の場合、そんな仕草以外には、どんな些細な感情表現をも見出すことはできない。


 「こーゆー旦那を持つと、きっと家庭は崩壊ね。会話が成り立たないもん」


 アーシェンカはふざけるでもなく呟いた。


 精神は限界まで張り詰めている。へろへろと笑っている余裕はない。


 対峙しつつ、相手の予想以上の力量に恐怖すら覚えていた。


 ちょうど、モス・フェル大導師に攻撃魔法を打ち込んだ時のようだ。まったく歯が立たない。相手はアーシェンカに文字呪文を好きに撃たせている。それを涼しい顔で―――顔自体は隠れていて見えやしないのだが―――はねのけてしまうのだ。


 「さて、もう知っている文字はないのかね?」


 まるで魔道士養成塾の講師のように、パペットマスターは促した。


 「最近は骨のある魔道士がおらぬゆえ、もっと楽しみたいのだが」


 「あらら、残念きわまりますぅ。わたし、いま時間がなくってえ」


 アーシェンカは、にじり、後退を始めている。


 幸い、パペットマスターには文字呪文を描く素振りはない。


 隙を突いて、風を起こし、戦闘区域から離脱する。ここは逃げるのが最良の策であった。


 だが、パペットマスターに隙はない。まずは、その隙を作らねばならない。


 「ねえねえ、あなた、パペットマスターさんよね」


 世間話を始めた。


 「すっごく魔道の勉強を積んだんでしょ? すごいわあ。尊敬しちゃう」


 両の拳をきゅっと握って、口元に当てる。似合わない。


 「誰に教わったの? ねえ、どんな修行をしたの? 教えてよぉ」


 「魔道は学ぶものではない。自ら産み出すものだ」


 パペットマスターは言う。


 「おまえたちが考えている魔道なぞ、しょせんは学問ごっこに過ぎぬ。くだらぬ文字崇拝よ。魔道とは本来ひとが世界を支配するための手段たるべきだ。真なる言葉は、神をすら鎖に繋ぎうる。言葉は学ぶものではなく、われらによって創られるものなのだ」


 パペットマスターがめずらしく多弁になった。


 「へええー」


 アーシェンカは目を丸くする。魔道の精神は先人の思想に学ぶというところにある。そして、その真髄はまさに神の模倣であるとされている。この世界を創造した神が描いた文字―――素字をもとに自然の文意を解釈し、学ぶことこそが学問の本質であるとされているのだ。したがって、本来の魔道に創作はありえない。文解釈のみが主題であった。


 それに反して、パペットマスターは魔道に創作を容認するどころか、創作こそが魔道の本質であると断言しているのである。極言すれば、パペットマスターの言葉は魔道の本質をも否定している。


 「すごいわねぇ。自信家ぁ!」


 それでもアーシェンカは感心した。アーシェンカはわりと、こういう世界をひっくりかえしてみせるような大胆な理屈が好きである。


 「ところで、なんでクレリアをさらったの?」


 あっさりと話題を転じた。このことはリックのためにも聞いといてやらねばなるまい。


 「おまえはあの娘の知り合いか……?」


 パペットマスターは、またもとの感情のこもらぬ声に戻った。


「まあね……会ったことはないけど……。で、質問に答えてよ」


 アーシェンカは重ねて尋ねる。


 「そんなことを知ってどうする?」


 「女の子を誘拐するなんていい趣味じゃないよ。放してあげなさいよ」


 「クレリアの存在の意味も知らぬ者に……」


 パペットマスターはすっと腕を伸ばした。


 来る! アーシェンカは緊張した。


 「言っても無駄だろう」


 パペットマスターは指でローブのしわをすっと伸ばす。


 あらら、アーシェンカは一瞬崩れかけた。


 「びっくりするじゃないっ! もう!」


 だが、パペットマスターはアーシェンカの抗議など聞いてはいない。


 「そろそろ潮時だな。死ね」


 パペットマスターが指を虚空に向けて、動かしはじめる。


 アーシェンカの血が冷える。隙を作るどころか、逆にこちらの虚を突かれてしまった。


 魔道士どうしの闘いでは、相手の虚に乗じて先に呪文を完成させた方が勝つ。今回のように、他愛ない動きや会話で相手の集中力を逸らすのもひとつの手だ。もっとも、パペットマスターに、アーシェンカの気をそらす意図があったとは思えない。偶然であろう。


 パペットマスターには、アーシェンカの隙を突かねばならない理由はないからだ。それほどまでに二人の魔道士の力量の差は明らかなのだ。


 もう逃げられない。今から移動の呪文や魔法障壁の呪文を形作るのは時間的に無理だ。精神集中の暇もないし、たとえ文字を描いたとしても、その効果が現れる前にパペットマスターの攻撃呪文がアーシェンカを倒しているはずだ。


 だが、アーシェンカは目を閉じなかった。パペットマスターがどんな文字を描くのか興味があった。


 炎で来るか、水か、大地か、それとも風か。はたまた、この四元素以外の素字を使った文字呪文か……?


 自分の死が目前というのに、たいした好奇心である。


「自らの非力を怨んで死ぬがよい」


 パペットマスターは細く長い指で文字を描く。


 }%{ (ドゥーラー)


 「えええっ! そんなシンプルな文字でいいのぉ!?」


 アーシェンカは驚く。パペットマスターってすごい、と半分感心している。自分が同じ呪文を完成させるためには、もっとずっとたくさんの文字を連ねる必要があろう。


 次の瞬間、アーシェンカは自分の体内から凄まじい熱がこみあげてくるのを自覚した。


 ドゥーラーは対象者を体内から焼き尽くす呪文なのだ。


 その被術者は、全身の水分を蒸発させ、内部から焦げてしまい、それはもう悲惨な死にざまをさらす。


 「でもっ、こんな死に方ってやだあ……!」


 アーシェンカはうずくまった。体温はあっさりと四十度を突破している。脳が沸騰しそうだ。まもなく、脳細胞が死滅しはじめるだろう。


 「アーシェ!!」


 声が響いた。


 アーシェンカはぽんやりとした視線を声の方角に向けた。


 リックが駆けている。


 すさまじい勢いだ。パペットマスターに接近する。


 パペットマスターはまだ文字呪文を完成させていない。効果を定着させるキーワードをまだ発声していないのだ。


 そのため、リックへの対処が一瞬遅れた。


 リックはパペットマスターの黒のローブに刃をぶち込んだ。


 


 「なにっ!?」


 リックは斬りつけた刃の手応えのなさに驚愕した。刃はパペットマスターの肉体を通過し、ローブだけを斬り裂いた。


 「おまえは!?」


 ローブの奥の声がかすかに笑いを帯びた。


 「邪魔が入ったようだな……」


 「……リック……そいつが、パペットマスター……よ」


 死にそうな声でアーシェンカがようやく言う。


 アーシェンカの顔は真っ赤だ。苦しそうにあえいでいる。


 「アーシェ、しっかりしろ! すぐに助けてやる!」


 リックはそう叫ぶと、パペットマスターに迫った。第二撃を与えようとする。


 魔道士は体力的には虚弱な場合が多い。魔道の学問は長時間の読書と実験が必要だからだ。アーシェンカのようなタイプは例外のうちに入る。


 剣士が魔道士と闘う場合、懐に飛び込めばもはや勝ったも同然であると言われるのはそのためだ。


 だから、リックの打ち込みをそうはかわせないはずだ。


 「だめっ……! そいつを殺したら、クレリアの行方が……!」


 アーシェンカが叫んだ。


 リックはぎょっとなった。思わず、太刀筋が乱れた。


 パペットマスターはその隙を逃さない。


 >+S< (ファルシンド)


 風がパペットマスターの身体を覆い、その像を薄めてゆく。


 「くそうっ!」


 リックは必死で剣を振った。消えようとする魔道士の姿を両断する。


 「クレリアを求める者たちか……おもしろい。われらがもとにクレリアはある。返してほしくば、イズーを目指すがよい」


 パペットマスターの口元がカクカクと動いた。


 魔道士の像は次の瞬間に消え去った。


 


 リックは茫然と立ち尽くしていた。


 逃した。あれほどまでに求めていた相手なのに。


 リックは剣を鞘に戻した。


 アーシェンカの側に駆け寄る。


 ぐったりとしている少女の身体を抱き起こした。


 凄まじい高熱だ。


 「しっかりしろ、アーシェ!」


 アーシェンカはかすかに目を開いた。


 ドゥーラーの呪文の効果が中途半端に残存していた。四十度を超える高熱がアーシェンカの体内にくすぶっている。


 「リック……パペットマスター……は……?」


 「逃げられた……だが、そんなことはいい。アーシェ、動けるか?」


 アーシェンカは首を横に振った。


 リックはアーシェンカを抱き上げた。


 「……ダイモンは?」


 アーシェンカは熱に浮かされた瞳で周囲を見渡した。


 リックは暗い顔になった。


 「ダイモンは……」


 続けられなかった。


 ガッシュ・ベルトランにしがみついたまま、暴風に飲み込まれた姿が目に焼き付いている。


 「……行こう。敵が集まって来る前に」


 散り散りになっていたダークサラマンダー隊の兵士たちがあちこちで終結しつつある。まだ混乱の余韻が残っている今のうちしか、脱出の機会はない。


リックはアーシェンカを抱きかかえたまま、夜明け近い敵陣から落ち延びた。


 


          (第三章 了)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る