第四章 サンク・セディンへの道

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 グルムコクラン軍の進撃はとどまるところを知らなかった。


 いっぽう、ズムの港が壊滅したことにより、ゼルクブルグ自治共同体・連合軍の兵站に支障が生じ、一部戦線では撤退を余儀なくされた。


 劣勢になると、連合軍の結束もゆるむ。いくつかの小国がグルムコクランに投降し、自治共同体側から見た戦況は一層悪化した。


 オーンの魔道士ギルドは、全面的に自治共同体を援護することを決議、二百名の精鋭を選りすぐった魔道士部隊を出立させた。


 だが、それは時宜を得たものとはいえず、すでにグルムコクラン軍は大陸北部の要衝サンク・セディンに大要塞を完成させていた。このサンク・セディン要塞の存在によって、ゼルクブルグ自治共同体は南北に勢力を引き裂かれた格好となり、その決戦能力は失われた。このような状況下では、いかに優秀な魔道士部隊が戦線に投入されたとて、それを充分に活用する手だてはもはや失われてしまったと言ってよいだろう。


 オーンの魔道士部隊は、サンク・セディンの南四十覇里にあるエズンの市城に駐留していた。この町は、ズムから百五十覇里ほど北東に進んだ位置にある。


 さほど大きな町ではない。だが、グルコクラン軍の北上に合わせ、急遽防護壁を増築し、その外観はものものしい。


 結局、グルムコクラン軍の進路がここよりも東にずれたおかげで、町は襲撃されることはなかったが、その備えが今となってようやく役に立ったという訳だった。


 それにしても、グルムコクラン軍の進撃には不可解なことが多い。


 その進撃路は、特に陣地が敷かれるでもなく、ほぼ放置されている。領土獲得が目的ならばこんなことはすまい。補給路を確保しながら、要所要所に砦を築き、その周囲を鎮圧した後、新たに伸長を図るものだ。そうしなければ、せっかく切り取った土地もすぐに奪回されてしまい、補給は断たれ、引き返すこともままならない。敵地に孤立することになろう。


 しかし、グルムコクラン軍はそのようなことにまったく頓着していなかった。


 イズーという目的地に向け、一直線に伸び切ってしまった。それ以外の土地には目もくれない。サンク・セディンを得るとそこには砦を築いたが、それは敵軍がイズーに接近することを防ぐという目的にのみ集約しており、そこを起点に新たな軍を起こす気振りは見られない。


 ゼルクブルグ自治共同体の結束にひびが入ったのも、この不可解なグルムコクラン軍の行動の真意を量りかねているがため、といえなくもない。つまり、大陸北部の通商路と直接関係を持たない国は、グルムコクランの軍事行動に脅威を感じなくなり、積極的な参戦の意志を失い始めていたのだ。


 「グルムコクランが欲しいのは、彼らの出自の地であるイズーただひとつなのだろう? あんなさびれ果てた遺跡のひとつやふたつ、くれてやってしまえばよいではないか」


 だが、北部通商路を重視する国々はそうはいかない。イズーそのものは廃墟であるとはいえ、そこを扼されれば、通商路はグルムコクラン軍の勢力下に落ちることになる。死活問題であった。


 実際、グルムコクラン軍の襲来は襲われた側からすれば恐怖以外のなにものでもなかった。


 収奪は当然のこととして行われた。とにかく、補給を考慮していない闇雲な進軍である以上、食料は現地調達するよりなかったのだろう。また、サンク・セディン要塞の建築―――正しくは、放置されていた古い城塞を増改築したものだが―――に当たっては、付近一帯の住民が老若男女を問わずに三万人も集められ、凄まじい労役が課せられたという。そのため、工期わずか一ヵ月にして、大陸に類を見ない大要塞が完成したのだ。もっとも、その作業には強力な魔道士が関っており、魔道の力で工期を大幅に短縮したらしいのだが。


 いずれにせよ、労役から解放された人々の数は、集められた時点の半分になっていたと言われるから凄まじい。


 とまれ、グルムコクラン軍はサンク・セディン要塞の完成を見て、その全軍を要塞に入れたのだった。


 


 ぼんやりと空を見ていた。


 リック・スクリードである。


 身に着けているのは見習い魔道士が着るような短いローブである。フードはかぶらず、黒い髪を露出させている。髪はやや伸び過ぎており、邪魔っけに後ろで束ねられている。


 整った容貌、と表現してもよい顔立ちだが、今は表情から精気が失せている。どこかしら虚脱している。


 狭い路地裏だ。わずかに陽が差し込んでいる。夕刻に近いのか柔らかな日差しだ。その光さえも避けるようにして、リックは庇の下に腰を下ろしていた。


 建物が密集している。宿屋やアパートメントが軒を並べているのだ。開かれた窓から突き出された竿には洗濯ものが掛けられており、ひらひらと揺れている。


 初冬にしては暖かい日が続いていた。例年ならそろそろ木枯らしが立ってもよさそうな頃である。


 ついでに言えば、この気候もグルムコクラン軍にとっては大きな助けになっていた。大陸北部―――その海岸沿いは暖流の影響で比較的温暖だが、内陸部の気候はさすがに厳しい。雪が降ることはあまりないが、気温が下がれば下がるほど、大軍の行軍には大きな支障が出る。


 今年はその寒波がまだ訪れていない。それによって、グルムコクラン軍はこれほどまでの電撃的な行軍が可能だったのだ。


 リックは、しかし、そのようなことを考えているのではなかった。


 ただ、ぼうっとして空を見上げていた。


 不思議な気がする。


 使命に燃えてハッシュの町を出立してからふた月も経ってはいない。なのに、あの時一緒だったダイモン・ザースはいない。オーンで合流したアーシェンカも傷ついてしまった。


 すべて、自分がイズーに行く、と言い出したことから起こったことではないのか、とリックは思っている。


 


 ズムの町を脱出した後、リックは街道を南下した。街道は、ズムから避難する人々の荷車がひしめいていた。リックはそのうちの一台にアーシェンカを乗せてもらった。アーシェンカはひどく衰弱していた。熱が下がらず、肌から水分が失われてゆく。リックは残った金をはたいて水を購い、アーシェンカに与えた。それでも、アーシェンカに作用していた魔法の効果は消えることなく、アーシェンカの生命力を奪っていった。


 街道を北上して来る魔道士の一団に出会わなかったならば、アーシェンカはあのまま命を落としていたに違いない。


 魔道士の一団は、オーンの魔道士ギルドが派遣した魔道士部隊の先遣隊だった。彼らはズムの港への襲撃を知り、避難民の救済のために駆けつけて来たのだった。


 オーンの魔道士によって、アーシェンカにかけられていたパペットマスターの魔法は解除され、危地を脱した。アーシェンカは魔道士部隊に保護され、リックもそれに同行する形でエズンの町に入ったのだった。


 「リック!」


 声がした。


 リックは物憂げに頭を動かした。宿屋の二階の窓から、アーシェンカの顔がリックを見下ろすようにしている。


 大きな瞳は炎の色をしている。圧倒的な美少女と表現するには幼ない目鼻立ちだ。だが、見た目よりもしたたかな女の子である。


 顔の線は、やや細くなった。魔法の効果は除去されたとはいえ、肉体的なダメージはかなり長く尾を引いたのだ。起き上がれるようになったのは、つい二三日前のことだ。


 「そっちに行っていい?」


 「かまわないけど……もう出歩いてもいいのか?」


 「いーの! ずーっと寝て暮らすってのも悪くはないけど、さすがに飽きちゃったよ」


 あんまり答えになっていないが、アーシェンカは首を引っ込めた。とてとてとて、と階段を駆け降りる音が聞こえるのは、宿が安普請のせいだ。


 今、このエズンの町の宿という宿、およびアパートの空き部屋はすべてオーンの魔道士たちが借り切ってしまっている。それでも足りず、下っぱの魔道士たちは広場で天幕を張ってそこで起居しているのだ。本来ならアーシェンカも天幕組だろうが、病人ということで、安宿ながら部屋があてがわれていた。リックも、他の魔道士たちと相部屋でこの宿屋に滞在している。


 「リック、お待たせ」


 はあはあ言いながら、アーシェンカが裏口から出て来た。


 草色の毛織のシャツに、赤と濃い緑のチェック模様のスカート、靴は柔らかいなめし皮を使った踵の高いやつで、甲に小さなリボン―――革に上薬を塗ったもので、赤い色がついている―――がワンポイントとして乗っている。


 散歩に出るつもりらしく、しなやかな手触りの薄手のマントを引っ掛けている。


 魔道士らしからぬ格好である。


 リックの視線から、そういう言葉を読み取ったのか、アーシェンカは澄ました。


 「だって、いま町に出たら、魔道士だらけでしょ。いっそ、こーゆー格好でもしないと目立たないじゃない」


 「ふうん」


 リックはうなずくしかない。


そのリックの姿をアーシェンカはしげしげと見た。


 「リック、それって見習い魔道士みたいね。いつもの格好はどうしたの? 胸当てとか、肩当てとか……剣も吊ってないし」


 「この町では必要ないだろ?」


 リックはぞんざいな口調になった。エズンの町の治安は現在、抜群によい。それはそうであろう。二百人からの魔道士たちが駐留しているのだ。どんな些細な事件でも三分以内に解決してしまうに違いない。


 「そ……そうだね」


 アーシェンカは困ったように笑った。リックの表情をそっと窺うような視線を走らせた。


 と、気を取り直したように、


 「ねっ、町に出てみようよ! わたし、ずっと部屋の中で、退屈だったのよね。食事もお粥ばっかでさ。もっとお腹にたまるものが食べたいの!」


 アーシェンカはリックの腕を取って、むりやり引っ張った。


 病み上がりとは思えぬ元気のよさに、ついついリックも腰を浮かす。


「お金なら心配しないでね。ギルドから傷病手当が出たのよ。ほほほ」


 アーシェンカは嬉しそうにポケットから財布を取り出した。結構、重そうである。


 「今日はぜーんぶわたしの奢りね! これって滅多にないことなんだから、感謝しなさいよ!」


 アーシェンカは、どーんと胸を叩いた。


 


 


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 町の食堂はどこも魔道士たちでごった返していた。昼時というわけではなく、夕食にも早いというのに、どういうことだろう。要するに、魔道士の数が多すぎて、時間をずらして食事を取っているために、遅い昼食と早い夕食がぶつかってしまっているのだった。


 まったく、エズンの人々にとってはオーン景気とでも呼ぶべき経済効果だ。


 「うー、入れそうにない」


 アーシェンカは恨めしそうに呻いた。


 仕方ないので、二人は広場に行き、そこで開店していた屋台で食料を調達した。屋台も、魔道士たちをあてこんで、焼肉やらチャパティやら焼きナンやらカレースープやら、デザートのアイスクリーム屋まで出店している賑わいぶりだ。


 「まるでお祭みたいね」


 いろいろ、わさわさ買い込んで、アーシェンカがはしゃいだ。


 「戦争だけどね」


 リックは相変わらず暗い。


 アーシェンカはリックをちろりと睨んだ。


 「仕方ないわね」


 はい、これ、とばかりにリックに食料を手渡すと、アーシェンカはたったかと走り去った。


 「おーい、アーシェ……どうしたんだ?」


 リックは両手にてんこもり食料を持たされて茫然とした。


 しばらくして、アーシェンカが戻って来た。


 腕に茶色い瓶を抱えている。


 口元には怪しい笑み。


 「へっへえ、旦那、仕入れてきやしたぜ」


 作り声でアーシェンカは言う。


 「な……なに?」


 「酒でんがな、酒! これで旦那、ぶわーっといっておくれやす!」


 アーシェンカはリックの肩をばんばんと叩く。


 「いや……おれは酒は……もう」


 言いながら、リックはようやく気付いた。


 アーシェンカはアーシェンカなりにリックに気を使っているのだ。ついでに金も使っている。これはアーシェンカにとっては大変な思い切りのよさだ。


 ありがたい、と正直に思った。と同時に、女の子に気を使わせている自分というものが、いかにも情けなく思えた。


 


 それから、部屋に戻って酒盛りをした。


 リックの部屋は他の魔道士たちと相部屋だから、アーシェンカの部屋でだ。


 アーシェンカはよく食べた。ほんとうによく食べた。


 食べているうちに、見る見る顔色がよくなっていく。


 治療のためとかいって、粥ばかり食べさせていたから治りが遅かったのではないか、とリックは半ば本気で思った。


 酒は、リックは手を出すのを控えていた。


 前回の失敗に懲りていた。もともと酒は好きでも何でもない。その上、どうやら酒癖が悪い、らしい。自覚はないが。


 だが、暗い顔しているのが気に入らん、とアーシェンカに言われ、ちょっとだけ口をつけた。


 「そんなに暗いか? おれ」


 携帯用のマグカップに酒を注ぎ、リックはそれをすすりつつ訊いた。


「暗いよ」


 アーシェンカはにべもなく言う。


 「さっき、この下でぼさあっとしているところなんて、じーさんかと思ったね」


 口調がぞんざいなのは、今回はめずらしくアーシェンカが自分から酒を口にしたからだ。


 病み上がりなのに、と注意をしようとしたリックは、アーシェンカに一蹴されたものだ。


 「おだまり」


 と、言われては黙るしかない。もともとアーシェンカの金で買った酒だ。と考えてしまうあたりがどうにもリックの気弱なところだろう。


 アーシェンカも酒に強い、というわけではなさそうだった。だが、リックよりははるかに酒量があるようで、わりとぐいぐい飲っている。


 「じ、じーさん……」


 リックは絶句した。


 「そう。自分のやるべきことは終わったあ……みたいな顔してさ。やることもなく、ぼけだらりとしちゃって……かっこよくないよ、リック」


 辛辣な意見である。リックは酒を口に含んだ。こくっと飲み込むと、喉から胃にかけて鋭い刺激が伝わってゆく。


 「おれはこういう男なんだよ。かっこ悪いやつなんだ。昔から」


 「ほら、また!」


 アーシェンカが、びしっ、とリックの顔を指差した。焼き鳥の串を持っているもんだから、けっこう危険である。リックは串の先端を見つめながら凝固している。


 「そういうところがよくないのよっ! リックってば、腕はけっこう立つし、見てくれもいいんだから―――これ、一般論だから、気を回さないでよ―――もっと自分を主張したっていいのよ! 自分のやりたいこと、正しいと思ったことなら、まわりの迷惑はとりあえず忘れて、やり通しなさいっ!」


 リックはカクカクと肯く。とにかく、鼻先に鋭い串の先端があるので、姿勢を変えられないのである。


 アーシェンカの意見によると、弱くて不細工な男はまわりに遠慮しながら生きていかねばならないことになるが……。まあ、それはそうかもしれない。


 ようやくアーシェンカが串を下ろしたので、リックはほっとした。


 「で、いつ出発するの?」


 アーシェンカが訊いた。


 「出発って……?」


 リックは聞き返した。


 アーシェンカが眉をぐっと動かした。きりり、という感じではない。柳眉というにはたくましすぎる眉だ。だが、眼も大きいのでバランスはちゃんととれている。


 「まさか、あんた、魔道士部隊が動くまで待つつもりなの!?」


 「だって……ここの部隊はグルムコクラン軍と決戦するために来ているんだろう?」


 「信じられない! 本気なの!?」


 アーシェンカは大袈裟に頭を振り、肩をすくめた。


 「あのね、ここの部隊が動くのは、ゼルクブルグ自治共同体の軍との連動ができるようになってからのことよ。それがいつになるか、わかるもんですか! それまでじっとここで待っているの? クレリアはその間、どうなるのよ!?」


 「どうなるって……」


 リックは顔を伏せた。そのことについて考えない日はなかった。だが、浮かんで来る考えは悲観的なことばかりで、その度に自分の非力を責めて、そこから先へは考えは進まないのが常だった。


 「あんた、本当にクレリアが好きなの?」


 「好きだ」


 思わず顔を上げたリックは、間近にアーシェンカの顔を認めてどきりとした。


 アーシェンカは大人びた顔をしていた。


 「好きって、簡単に言うわね……。言葉だけでは信じられないわ。態度で示してよ」


 「態度……?」


 リックはなぜだか赤くなった。


 「ばかね、クレリアを助けてあげなさいっての!」


 アーシェンカが怒鳴った。


 「イズーへ、行くんでしょ?」


 リックは思わず歯を食いしばっていた。そうだ、そうだ、という声が怒涛のように押し寄せて来る。リックが無意識に封をしていた心の扉が押し開かれていた。この、目の前にいるこまっしゃくれの魔道士の少女によって。


 「おれは、自分の力のなさに絶望していたんだ。おれなんかの力では、何も変わりはしないって……。でも、いいんだ。おれはもっとわがままになってやるよ。自分の本当の気持ちのままに、振る舞ってみる。それで駄目だったとしても、悔いがないように力一杯やってみるよ。ありがとう、アーシェ」


 リックが礼を言い終わるよりも早く、アーシェンカの張り手がリックの頬に炸裂した。


 「そーれでいいのよ! それで、わたしも晴れてライセンス発行を受けられるってもんよ!」


 アーシェンカのはしゃいだ声がリックの耳朶をうつ。


 「え?」


 「だってさあ、あんたがここで旅をやめる、なんて言ったら、わたしのライセンス支給がチャラにされちゃうじゃない。借金の肩代わりだってしてくんないね、きっと。それどころか、治療費や傷病手当だって返せって言ってくるかもしれないもん。ギルドって、そりゃあ金にうるさくってさあ……」


 「は、はあ……」


 「わたしの身体も治ったことだし、さっそく明日にでも出発しようよ、ねえ」


 「え……ええ」


 圧倒されまくるリックであった。


 結局、酒盛りは夜まで続いたのである。


 その頃にはリックもアーシェンカもそうとう出来上がっていた。


 だが、リックはかろうじて理性を喪失することを免れた。今回はアーシェンカと二人である、という緊張感がリックを支えたのかもしれない。


 「そろそろ、寝る」


 リックはふらり、立ち上がった。


 「ここに、泊まっていく?」


 「わはは、おもろい、座布団一枚!」


 リックはアーシェンカを指差して、爆笑した。


 「冗談じゃなかったのに」


 と、アーシェンカは真顔で言う。


 「その方が怖いぞ、アーシェ」


 笑いをおさめ、心底こわそうにリックが言った。


 「ねえねえ、リック、おやすみのおまじないをしてあげよっか」


 アーシェンカも立ち上がり、リックに寄り添った。


 「な……なんな?」


 酔うと呂律が怪しくなるリックである。


 「これ」


 アーシェンカは、リックの胸元にすっと文字呪文を描いた。


 )@( (マ・オーム)


 「ん? これって、確か……クレリアが描いてくれたやつとおんなじだぞ」


 「これ、魔除けの意味もあるし、安眠のまじないでもあるのよ。あと、もうひとつ、意味があるけど……」


 知ってる?


 というようにアーシェンカはリックを見上げた。


 リックは邪気なく笑っている。


 「文字呪文っていろいろな利き目があるんだな。おかげで、今夜はぐっすり眠れそうだ……もっとも、これはまじないじゃなくて酒のせいだろうけど」


 リックはそう言うと、アーシェンカにおやすみを告げて、部屋を去った。


 一人、部屋に残ったアーシェンカは、ふらふらと寝台に近付き、ばたーっと倒れ込んだ。冷たいシーツが心地好い。シーツを探りながら、アーシェンカはむにゃむにゃと呟いている。


 「リックの奥手……ばか……」


 と、言っているように聞こえなくもなかった。


 


 


       3


 


 翌朝、予告通りにアーシェンカは旅支度を済ませていた。


リックは軽い二日酔いに苦しんでいたが、まさか出発を延ばそうと言うわけにもいかない。なにしろ、これは自分の旅なのだ。


 「出発する? イズーへ? どうやって?」


 リックと同室の若い魔道士はリックの正気を疑うような口調で言ったものだ。


 「サンク・セディン要塞は難攻不落、魔法障壁も万全で、モス・フェル大導師ですら、性急な攻撃はやめよと指示されたくらいなのだぞ。だからこそ、ここに我らは足留めをくっておるのではないか。それを、おまえたちだけでどうしようというんだ?」


 「大軍なら通れない道でも、二人でなら通れるかもしれん。ふつうの旅人を装って行けば……」


 そうリックが言うのを、魔道士は一笑に付した。


 「聞いていないのかね? グルムコクラン軍によってあの近辺は無法地帯になっているんだぞ。村という村はぜんぶ荒れ果てて、野盗だの武装団だのがうろつく上に、グルムコクラン軍の収奪もある。そんなところに普通の旅人が訪れるものか。すぐに疑われて、野盗の餌食か、グルムコクラン軍の捕虜になるのは目に見えているさ」


 リックは沈黙するしかない。自分でも無謀は承知の上だ。それでも行かねばならない。その事実の前には、予想される困難などは考慮の外だ。


 また、その魔道士はこんなことも言った。


 「おまえさんの連れは、あのアーシェンカだってな。気をつけな。あいつは変わっているというからな」


 「変わっているのは確かにそうだ」


 と、リックも答えざるを得ない。


 「あいつ、大導師のところの直弟子だったんだ。いわば、生え抜きだな。大導師は滅多に弟子をとらないんだ。とるとすれば、将来のギルドの幹部候補生ってわけよ。アーシェンカの場合、ほとんど赤ん坊の頃から大導師のところにいたから、養子のようなものだな。それが、何をしくじったのか知らんが、突然放逐されてな。フィネガットなんて千里眼屋のところに弟子に出されちまった。もう三年も前のことだがな」


 「大導師の……養子……」


 「いや、別に正式にそうだっていうわけじゃないぜ。むろん、ほんとに養子だったんなら、千里眼屋なんぞには里子には出さないさ。おれたち魔道士は学究の徒だが、千里眼屋や魔法売りは現世利益の徒だからな。心位が違うよ」


 魔道士は胸を反らせてそう言った。魔道士は、市井に混ざって営業している千里眼屋や魔法売り、占師の類を軽蔑する傾向がある。魔道士になるためには、然るべき魔道士の弟子になり、厳しい修行を経て、試験にも合格する必要があるが、千里眼屋や魔法売りはギルド発行のライセンスがあれば比較的自由に開業できるからであろう。


 「でも、フィネガットは力のある千里眼屋だということを聞いたけど」


 アーシェンカの師匠の名誉のためにリックは一言添えた。


 魔導士もそれには不承不承うなずいた。


 「まあ、な。フィネガットには大導師も一目置いておられたようだし、それに話によるとフィネガットは四元素によらない魔法の研究をしていたというしな」


 「四元素によらない……魔法?」


 リックの問いに、魔道士は手を頭に当てた。どう説明したものか、悩んでいるらしい。


 「おまえさんのような素人に説明するのは難しいな……だいたい魔法―――文字呪文っていうのは、} { 《火》、) ( 《水》、>< 《風》、] [ 《土》の四元素の属性が土台になっているんだ。文法の基礎だな。属性・効果・対象っていうのがひと組になって、ひとつの呪文になるわけだ。ここまではわかるか? わからん? そりゃあそうだろ。そんなに簡単にわかられちゃあ、おれたちが青春を勉強に捧げた意味がないもんな……それはさておき、だ。それほど、四元素を示すキャラクタっていうのは重要なんだ。だが、これ以外にも重要な素字がいくつかある」


 神―――という存在を表している(らしい)……\ (サジャ)


 愛―――じゃなかろうか、というのが定説の……H (ヤール)


 時間――を意味するのでは、といわれている……? (トキ)


 空間――であるという解釈が、一般的になりつつある……A (ヒロ)


 「これらを絶対素字って呼んでいるのさ。だけど、これらの文字の用法はまだ知られていなくて、文字呪文も存在していないんだよ。んで、ごく一部の魔道の研究者たちは、これらの文字を使った呪文を開発しようと躍起になっている、というわけ。もっとも、おれたちまともな魔道士から見たら、そんな研究、外道もいいところだけどね」


 「ふぅん……」


 わかったのかわかっていないのか、リックはとりあえず肯いていた。


 この会話はそれで終わり、リックは魔道士に別れを告げた。


 魔導士も根は善人だったらしく、魔除けのまじないを餞別代わりにかけて送り出してくれた。


 


 リックとアーシェンカは再び旅に出た。


 道行き、情報を収集した。このあたりは、フィネガット婆さんのもとで三年間暮らしていたアーシェンカの得意な分野だ。在所の千里眼屋を訪ね、その情報ネットワークを使って、最新の情報を入手した。


 それによると、陸路イズーへ向かうためには、どうしてもサンク・セディン要塞を抜けなければならないことがわかった。また、グルムコクラン軍の中枢は、イズーに向けての最後の進軍を前にサンク・セディンで休息している、と。


 もしも、クレリアがグルムコクラン軍に囚われているとするなら、彼女は今サンク・セディンにいるはずだった。


 途中の町でアーシェンカは馬車を調達した。家財道具を運び出すのに使った馬車だったが、持ち主が戦火で死に、その遺族から格安で譲り受けたのだ。当然、馬つきだ。


 北上するごとに、戦火のひどさが肌に伝わって来る。のんきに宿屋に泊まって、酒盛り、なんてことはすぐにできなくなった。


 無人の村を通過することが多くなるたび、グルムコクラン軍に接近していることを実感した。


 旅の途中、リックは、ダイモンがいたらと幾度となく思った。アーシェンカと二人だけの旅は、なぜだかひどく気疲れする。


 アーシェンカが嫌いなわけではない。むしろ逆だ。一緒に過ごす時間が長くなるにつれ、この少女の魂の素直さがわかった。少しひねていて可愛げがないが、思いやりもあるし親切だ。


 でも、一緒に旅をし、野宿が多くなると、リックは不眠ぎみになった。ダイモンがいれば、交替で不寝番をすることで安心して眠れたのだが、アーシェンカと二人だとそういうわけにはいかない。常に緊張を強いられた。


 いつ野盗が襲って来るのかわからない。その緊張感が不眠の原因なのだろう、とリックは漠然と考えていた。アーシェンカと二人だけで過ごす夜が異常に長く感じられることに、それ以外の答えが見つけられるほどにはリックは大人ではない。


 だから、最近のリックはあくびが多い。昼間、馬の手綱を取りながら、ついうとうととしてしまうこともある。


 旅そのものは順調で、心配していた野盗の襲撃もなく、グルムコクラン軍の徘徊も鳴りをひそめていた。おかげで、サンク・セディンが間近に迫っても、道行きそのものは平穏だった。少なくとも昼の間は。


 その時もそうだった。


 リックはつい寝入ってしまっていた。そうでなくとも馬車が快適に走っている時の震動は眠りを誘うのだ。道は一本、どこまでもまっすぐ伸びているし、天気は依然として晴天が続いている。眠くならない方がおかしい。


 心地好く夢の世界に漂っていたリックの意識が現実に引き戻されたのは、アーシェンカの叱責の声によってだった。


 「リック、危ないっ! 止めなさい!」


 次の瞬間、後頭部に激痛が走る。アーシェンカがリックの髪を掴んで引っ張っているらしい。


 リックは目を開いた。


 行く手に子供が一人、茫然と立っていた。


 六、七歳くらいの大きな目をした痩せた子供だ。このあたりの農夫の子供か。ぼろと言うしかなさそうなくたびれた服を着ている。


 子供は不意を突かれたのか、逃げることもせず、道の真ん中に突っ立っている。


 「はい、どう、どう」


 リックは馬に止まるように指示を与えた。馬はそれに応え、足をゆるめた。


 「ああ、よかった、間に合った」


 アーシェンカはリックの髪を掴んだままだ。


 「頼むから、放してくれ」


 リックは訴えた。


 


 子供はティムという名前だった。


 人形のように可愛らしい顔立ちをしているが、男の子である。


 ここからやや離れた場所にティムが両親と暮らしている町があるという。人のいる町は久しぶりだったので、リックたちは今夜はそこに泊めてもらおうと考えた。そろそろ、サンク・セディン要塞の防衛圏に入ることになる。その潜入のために、その町の位置条件は最適だったのだ。


 「いいよ、ぼく、父さんに頼んであげる。うちに泊まるといいよ」


 ティムはリックとアーシェンカが気に入ったらしく、そう請け負ってくれた。


 見れば見るほど愛らしい子供だった。


 この子には人見知りというものがないようだ。まったく行きずりのリックたちにも何の抵抗もなく心を開いている。


 馬車はティムの導くままに、小さな町に入った。


 古くから続いているような古色蒼然とした町だった。


 大きなアーチをくぐって町に入ると、そこは石畳の広場になっていて、老人たちが固まって談笑をしている。彼らは、リックたちの馬車を見ても目立った反応は示さなかった。


 こういう辺境の町では旅人は珍しいはずだ。特にこういう時勢だけに流れ者には排他的にもなろう。リックたちは手荒い歓迎を受けるのではないかと内心戦々恐々としていた。だが、その予想は裏切られた。


 ティムの家に馬車を進めた。時折、道行く人々とすれ違ったが、住人たちは特にリックたちに興味を向けるでもなく通り過ぎてゆく。


 「旅人がめずらしくないようだな」


 リックはほっとしたように言った。不審がられて、どこかに通報でもされては堪らない、というおびえがある。少なくともそのような心配はなさそうだった。


 だが、アーシェンカはさっきから難しい顔をしている。なんとなく、気になることがあるらしい。


 「どうした、アーシェ?」


 「ちょっとね。あんまり体調がよくなくて」


 アーシェンカの顔色は確かに悪い。比較的楽な旅路でも、病み上がりの身体には負担を強いていたのだろうとリックは解釈した。


 「もう少しの辛抱だ。ティムの家で納屋にでも泊めてもらおう。ゆっくり身体を休めることだ」


 だが、ティムの家では、リックたちは予想以上の歓待を受けた。


 ティムの父親―――ロゼルははまだ三十代前半で、実直そうな人柄が表情からにじみ出ている。いかにも百姓然とした風貌だ。一方、ティムの母親はカタリナといい、少しやつれてはいるが、かなりの美人だった。どうやらティムは母親の容貌を受け継いでいるようだ。


 ティムの家はさほど立派でも大きくもなかったが、リックたちのために寝室のひとつを提供してくれた。それどころか、何日でも滞在してくれ、と下にもおかぬもてなしようだった。


 どうやら、一人で町を離れたティムをリックたちが保護してくれだのだと理解しているようだった。そうではない、むしろ馬車で轢きかけたんだ、と正直にリックが告白しても、ティムの両親の厚遇は変わらなかった。


 「いえ、このあたりは野盗の類が出没してたいへん危険なのです。それをティムにも言って聞かせていたのですが、落ち着きのない子でつい町の外まで出歩いてしまいます。今日もたいへん心配していたのです。お二方が連れ返ってくださらなかったら、どんなに危険なことになっていたかわかりません」


 ロゼルは、深々とお辞儀をして言った。


 「なにもない貧しい町ですが、よかったら何日でも逗留してください」


 「ありがとうございます」


 リックは頭を下げた。


 


 


      4


 


 アーシェンカを部屋で休ませて、リックはロゼルと話をしていた。


 「この町はそうとうに歴史がありそうですね」


 町のどの建物も古い石造りのものばかりで、それなりに立派なたたずまいだ。ただし、空き家も多いように思われた。


 そのことをリックが指摘すると、ロゼルは寂しそうな微笑みを浮かべた。


 「そうなのです。このサロの町は忘れられた町なのです」


 ロゼルは説明を始めた。カタリナは部屋の隅でティムを遊ばせながら繕いものをしている。その様子を眺めながらロゼルは語った。


 「もう百年も昔のことですが―――この辺り一帯はある領主によって治められていました。このサロは、その領主のお膝元だったのです。町の規模もはるかに大きく、商人もたくさん集まって来て、市も賑々しかったといいます。あの大路を、無数の馬車と人が行き来していた時代があったのです」


 若いくせに、なんとも懐かしげな口調と表情をロゼルは浮かべた。


 「ですが、戦いが起こり、領主が立てこもっていたサンク・セディンは陥落し、領主のみ命からがら落ち延びたものの、戦いで受けた傷がもとでこの地で落命しました。それ以来、このサロは見捨てられたのです」


 「サンク・セディン……」


 「今のような大要塞ではなく、当時はもっと簡素な城塞でした。大軍に包囲され、為す術もなく陥落してしまったのです」


 「城塞を包囲されていて、よくこのサロまで逃げて来られたものですね。よほど腕に覚えのある人だったんですね」


 リックが感心したように言うと、ロゼルは軽く笑って打ち消した。


 「言い伝えによれば、秘密の抜け穴を通って逃げて来たのだ、ということですよ」


 「抜け穴!?」


 リックは思わず叫んでいた。


 「サンク・セディンとこの町はつながっているんですか!?」


 ロゼルはびっくりしたような表情を浮かべた。


 「言い伝えですよ。そんなものが実際にあるということはわたしも知りません。百年も昔の話ですから、もう埋もれていると考えた方が自然でしょう」


 「そうですか……」


 リックは一瞬にして萎れた。


 「リックさん」


 それまで口をつぐんでいたカタリナが、不意に声を掛けた。


 「わたしの父ならもっと詳しいことを知っているかもしれませんわ」


 「えっ!?」


 弾かれたようにリックはカタリナを見た。


 ロゼルが笑いながら説明する。


 「妻の父親は、この町の長老なのです。この町の歴史をすべてそらんじている人ですから、もしかすると……」


 「ぜひ、紹介してください!」


 リックは勢い込んだ。


 ロゼル夫婦は軽くうなずいた。


 カタリナはティムを側に呼び寄せた。


 「ティム、おじいちゃんのところにリックさんを連れて行ってあげて。リックさんはおじいちゃんとお話したいんだって」


 ティムは元気よく言う。


 「いいよ! お兄ちゃん、行こう!」


 リックの手を引っ張って、先に立って行く。


 


 ティムの祖父の家は、ロゼルの家と数軒を隔てた距離しかなかった。これならば、ティムの案内だけで事足りる。


 コルドは、ティムが連れて来たリックを一も二もなく信用した。孫可愛さというのもあるのだろうが、もう少し色々な事情などを訊かれるか、と思っていたリックは拍子抜けした。そういえば、ロゼルたちも、リックたちの旅の目的やこれまでの経緯などを尋ねようとしなかった。


 よほど人が好いのか、単に人馴れしていないだけなのか、リックには判断がつかない。


 コドルはティムに菓子を与え、目を細めて孫の仕草を見守った。リックには熱い茶を入れてくれた。それから、話を聞く体勢を取る。


 「で、あんたの知りたいことというのは、どういうことじゃな」


 「サンク・セディンからこの町に続いているという抜け穴について教えてください」


 リックは寄り道をしなかった。老人の目を見つめながら、知りたいことをまっすぐに訊いた。


 「抜け穴……か。そういうものはないの」


 あっさりとコルドは言った。


 リックは失望した。表情が弛緩するのを自覚した。


 コルドは一拍おいて、言葉を続けた。


 「が……百年前、時の領主どのがこの町に逃れて来たのは事実じゃ。砦は囲まれており、ふつうの手段では逃れなかったことも確かなことじゃ。とすれば、領主どのは、どのようにしてこのサロにまでやって来ることができたのか」


 老人は、悪戯っぽい、と表現してもよさそうな微笑を浮かべた。老人はリックの焦燥を知っていて、あえてじらしているようにも感じられる。


 リックは身を乗り出しかえた時、コルドは話を継いだ。あまりじらすのも可哀想だと思ったのか。


 「これは、この町でもわしの他はあまり知らぬことだがな、昔、サンク・セディンは水がなかったのじゃ。で、この町の井戸から水を汲み上げて、砦まで送っていた時期があったのじゃよ。今では、固い岩盤を刳り抜いて、砦内に井戸を作ったということだが……。しかし、まだ地下水路は埋めてはおるまいて。今でも水が流れているようだから、の」


 「地下水路……! では、百年前に領主が逃げて来たというのも」


 「うむ。そこを通って来たのじゃよ」


 「水路は歩いて来れるのですか?」


 リックの問いに、コドルは苦笑した。


 「それはわからぬ。地下水路が忘れられて、もう随分と経つ。今ではそこは祠として、たまに年寄りが詣でるような場所になっておる。いわば、町の聖所じゃな」


 だが、リックは大いに希望を持った。領主が通れたというのだから、まったく空気がないというわけではあるまい。その水路を行けば、サンク・セディンに潜入することも可能なのではないか。


 リックは水路の入り口の場所を聞き、コドルの手を握って礼を言った。


 コドルは微笑しつつ、リックの手を握り返した。しわだらけの細い指は冷たく、固かった。


 「こんな老いぼれの知識が役に立ったんなら嬉しいことじゃ」


 と、老人は最後まで、リックが水路のことを聞きたがる理由については質問を発しなかった。


 


 リックはティムと手をつないでコドルの家を出た。陽は西に傾いていた。


 ロゼルの家の煙突からは黒っぽい煙が出ていた。夕餉の支度をしているらしい。だが、立ち並ぶ家々の中で、煙が出ているのはロゼルの家だけだった。


 よほど空き家が多いのか。確かに、明らかに空き家とわかる建物がよく目につく。


 「寂しい町だね。ティムには遊び友達はいないの?」


 リックが訊くと、ティムは不思議そうにリックを見上げた。


 「友達って……?」


 「ええと、たとえば、ティムと同じくらいの歳の子供だよ。一緒に遊んだり、勉強したりする仲間さ」


 リックの言葉に、ティムは愛らしい顔を曇らせた。よく理解できないらしい。


 「リックの言うこと、よくわからない……でも、遊び相手ならいるよ」


 ティムは次々と名前を挙げた。


 どうやら、近所の老人たちがほとんどのようだ。名前の後に「じいちゃん」とか「ばあちゃん」がついているからだ。ティムが異常に人懐っこいのも、老人たちからよってたかって可愛がられているからかもしれない。


 おそらく、とリックは推測した。


 この町もサンク・セディン要塞の改築に人力を供出させられたのではないか。それで、多くの家族が流出し、老人ばかりが残った。若夫婦と子供がいるロゼル一家というのは、この町では例外的な存在なのかもしれない。


 ロゼルの家に戻ると、家中にシチューの豊かな香りが広がっていた。


 リックはアーシェンカを起こしに行った。


 アーシェンカは毛布にくるまって、身体を丸めていた。


 リックはアーシェンカの頬に手を触れてみた。熱はないようだ。


 やわらかい頬に、小さな頤(おとがい)だ。アーシェンカは髪が豊かだから、ふだんはそうとは気付かないが、こうしてみると頭が小さい。


 リックはふと、クレリアのことを思い出した。クレリアも、溶けてしまいそうなほどに繊細な肢体を持っていた。顔も手も小さかった。それでいながら、脚はしなやかに伸び、腰は細く、胸元への美しいスロープを描き出していた。


 逢いたい、とリックは思った。切ない気持ちが喉元まで押し上げて来る。


 「リック……帰ってたの?」


 アーシェンカがリックを見上げていた。頬を触れられて、目覚めたらしい。


 「ああ。食事だって。起きられるか?」


 「ごはん? 起きる、起きる」


 アーシェンカは慌てて起き直る。髪の毛を手で撫で付ける。


 「ねえ、寝癖ついてない?」


 と、まず気にするところはやはり女の子だ。


 


 食事はうまかった。


 シチューの具はやや貧弱だったが、それを感じさせないほど巧みな味付けがなされていた。アーシェンカはかなり苦労して食欲を抑えていた。というのも、彼女は三杯しかおかわりしなかったからだ。そんなに豊かとも思えないロゼル家の家計を、不意の客の食費のために圧迫してはならない、という常識を彼女も有していたのである。


 ティムは昼間はしゃぎすぎたためか、食事の途中からもはや眠たげであった。食事が終わると、すぐに彼は寝床に行った。


 リックたちもロゼルたちに断って、自分たちにあてがわれた寝室に戻った。今後のことを相談するためで、別に色っぽい理由があるわけではない。


 「ふぅん……地下水路ねえ」


 リックの報告を聞き終え、アーシェンカは腕を組んだ。


 アーシェンカはベッドに腰掛け、リックはそれに正対する位置に椅子を運んで座っている。


 「なんか、できすぎた話じゃない?」


 「そうかなあ?」


 「ま、他に方法がないんじゃ、やってみるしかないけど」


 アーシェンカは荷物から古い本を取り出した。


 「なに、それ?」


 「教科書よ。水の中を行かなきゃいけないんでしょ? いくら歩いて行けるったって、水も冷たいし、体力を消耗しちゃうわ」


 「そう言われれば、そうだな」


 リックは、水の中をじゃぶじゃぶ歩いて行く自分を想像した。現在の気候を考えると、水温はそうとうに低いだろう。


 「でも……わたし、水系の文字呪文ってあんまり知らないのよね」


 アーシェンカは浮かない顔で言った。


 「オーンで通っていた学校でも、火と風が得意だったけど、水が苦手で、地はズタボロだったわ。水系だと、リックの悪酔いを治す時に使ったメム・マムくらいしか自信がないのよね」


 文字呪文を構成する最小単位であるキャラクタ(素字)のうち、四元素を示す四つの文字、火・水・風・地は、文字呪文の効力を決める非常に重要な要素である。魔道士を目指す者たちは、この四元素の文字の理解を深めることに大部分の時間を割くのだ。魔道に関する授業も、この四つの文字に基づき、火系・風系・水系・地系に分割され、それぞれに専門の教師がいるほどだ。


 魔道士は、四つの系統すべてに通じていなければならない、とされてはいるが、実際はそういうわけにもいかず、火系が得意であれは水系には弱い、というような得手不得手があるらしい。


 まあ、雰囲気としては、算術が得意な者は書き取りが弱い、といった感じなのだ。


 「うーむ」


 アーシェンカは、各所にアンダーラインが引かれ、書き込みがなされている教科書を睨みつけている。リックは、アーシェンカの手元を覗きこんだが、文字すら読めない。魔道士が使う特別な文字で本は書かれている。


 「役に立ちそうな呪文は、あるか?」


 「ちょっと、待って。調べているから……ところで、リック」


 アーシェンカは本から目を離さずに、言い出した。


 「ん?」


 「変じゃない? ここの家……。町全体も変だけど」


 「変って?」


 「生気がないでしょ? 普通の町ならもっと人臭さがあるものよ。いくら人が少ないからって、なんか引っ掛かるのよね。


 「確かに不思議な町だな。みんな、どうやって暮らしているんだろう?」


 周囲は荒地ばかりで農業や牧畜業が営まれているようには見えない。むろん、人通りの果てた旧街道沿いにひっそりとあるようでは、通商で栄えるということもできまい。


 「ロゼルさんもカタリナさんもずっと家にいたし、いつ仕事をしているんだろう」


 リックは考え込みながら呟いた。


 アーシェンカが、ふっと視線を上げた。


 「ロゼルさんたちが家にいた? うそ」


 「いたはずだよ。おれがティムとコドルおじいさんのところに行っている間」


 「本当……? 夕方、わたし目を覚まして、お手洗いを借りたんだけど、家の中はもぬけの空だったわよ。人の気配もなかったもの」


 アーシェンカの言葉にリックは首を捻った。


 「変だな……出掛けるようなことは、言ってなかったのに」


 アーシェンカのことを頼んでおいたのに、夫婦揃って家を空けるのは変なことをする、とリックは思ったが、なにも非難するほどのことではない。


 すぐにリックはそのことを忘れたし、アーシェンカも文字呪文の勉強にのめりこんだ。


 


 


      5


 


 翌日の昼頃、リックとアーシェンカはロゼルの家を発った。


 ロゼルとカタリナは引き止めようとしたし、ティムは泣いてむずかった。リックは、ティムを抱き上げてしまいたい衝動に駆られたが、アーシェンカに睨まれて、また、自分のやるべきことを胸に描いて、かろうじて衝動を抑えた。


 一度抱き上げてしまえば、今夜もロゼル家に泊まり込んでしまうのは目に見えていた。


 ロゼル一家は町の出口までリックたちを見送ってくれた。


 リックとアーシェンカは馬車上から手を振って、それに答えた。


 じきにサロの町は見えなくなった。


 「こんなものでいいか」


 リックは手綱をたゆたす手を止めた。


 「そうね。馬車を隠しましょう」


 アーシェンカが答えた。


 リックは馬車を街道から外し、潅木の中に入れた。


「まだ、陽が高いな」


 暗くなってから、密かに町に戻り、水路に入ろう、というのがリックたちの作戦だった。


 むろん、町の住民の無用の詮索を避けるためのことだ。


 念のため、リックは早朝に起きだして、前夜にコルドから教わった水路への入り口の下調べを済ませていた。


 二人は時が過ぎるのを待った。


 アーシェンカは珍しくおしゃべりをしなかった。昨夜から熱心に教科書を読みつづけている。文字呪文はただ暗記しただけでは何の役にも立たない。文字の意味を理解し、その用法に習熟していなければならない。神が言霊を扱うように、魔導士も文字を扱わねばならないのだ。


 ようやくと、陽が傾いた。


 リックは頃合と見て、馬を放した。繋いでいては、人通りの稀な旧街道のこと、餓死する恐れが強い。せめて自由を与えてやって、生き延びる機会を与えたかった。


 リックとアーシェカは手回りの荷物だけをまとめ、来た道を徒歩で引き返し始めた。サロの町に着く頃には夜も更けているはずだ。


 誰にも見咎められずに、リックたちはサロの町に入った。


 人気の少ない町は、こういう時にはありがたい。


 リックとアーシェンカは、目的の場所にたどり着いた。


 町の外れにある、地下水路への入り口だ。


 そこは、古い祠として祭られていた。もはや、水路としての役割は忘れ去られ、コドルのような古老以外には顧みられることのない歴史的な遺構となっていた。


 地下水路への入り口は、石造りの建造物になっていて、鉄格子の扉をくぐると地下へ潜る階段が続いていた。階段の下部はすでにひたひたと迫る水に濡れていて、行く手にはぽっかりと黒い穴が開いていた。それが水路であるらしい。


水位はせいぜい膝上くらいなものらしい。リックはそんなに奥まで調べたわけではなかったが、どうやら歩いて渡れそうだ、という感触を持っていた。


 リックは扉を開き、先に立って中に入った。


 ランプをリックはかざしていた。ランプといっても、油を染み込ませた綿糸の縄を仕込んだだけの簡単なものだ。だが、アーシェンカが炎系の文字呪文を描き込んでいるので、光量は充分にあるし、寿命も長い。


 「うー、夜の地下水路なんて、無気味だわ」


 アーシェンカが背後でぶつくさ言っている。


 リックにしても、闇の中、水に浸かりながら歩いて行くのが快適であろうとは思っていない。だが、この道がまっすぐにサンク・セディンに向かって伸びているとしたら、これに勝る近道はないはずなのだ。労せずして大要塞の懐の中に飛び込めるのだから。


 「昼でも夜でも、地下に潜れば一緒さ」


 リックはアーシェンカを励ますつもりでそう言った。


 「そんな、慰めにも何にもならないことっ……!」


 愚痴りかけたアーシェンカの言葉が途中で詰まった。


 リックも言葉を失っている。


 リックが投げかけているランプの光の輪の中に、小さな人影が浮かび上がっていたのだ。


 「な、なぜ……」


 ようやくと、リックは声を出した。かすれて張りを失った声だった。


 「……ティム」


 名を呼んだアーシェンカの奥歯がかちりと鳴った。


 人影は、ティムだった。


 腰まで水に浸かりながら、人形のように美しい少年は微笑を浮かべていたのだ。


 


 「だめだよ、リックおにいちゃん。それに、アーシェおねえちゃん。ここは、立ち入ってはいけないところなんだよ」


 ティムは軽く首を傾げて言った。普段ならたまらないほど愛らしい仕草だが、闇の中にぽっかりと浮かび上がった現在の情景の中では、それは底知れぬ無気味さをはらんでいた。


 「誰もそうは教えてくれなかった? コドルおじいちゃんは意地が悪いから、教えてはくれなかったんだね?」


 くすくすくすと、ティムは忍び笑った。無邪気さの極み、純粋な混じりけのない真正の邪気を両の頬にみなぎらせている。


 「この先には、サンク・セディンの要塞があるんだよ。グルムコクラン軍がたくさんいるんだ。そんなところへ、どうして行きたがるのさ?」


 「ティム……! おまえは!?」


 リックが悲痛な声を出した。


 「リック! その子、人間じゃない!」


 驚愕に彩られながら、アーシェンカが叫び声を上げた。


 「どうして、どうして、今まで気がつかなかったの!? こいつは……!」


 アーシェンカの叫びをティムのけたたましい笑いがかき消した。笑いながら、ティムは言った。


 「それはねえ、ぼくのご主人さまが、強い魔力の結界をこの町全体に張っていたからさ。だから、わからなかったんだろうねえ」


 笑うティムの顎が、ぱかっ、と音を立てて開いた。


 真っ赤な舌が見えた。白い歯並びが見えた。顎の両端には、まっすぐな線が走っていた。


 くるり、ティムの眼球が回転した。黒目がなくなった。


 まるで、人形師が使うからくり人形の頭のようだ。いや、からくり人形、そのものなのだ。


「パペット……!」


 アーシェンカが叫び、慌てて文字呪文を空に描いた。


 「遅いよ! 何もかもね!」


 ティムは叫んだ。


 両腕を振り上げた。腕の先に手がない。手があるべき部位には、鋭くて薄い剃刀が取り付けられていた。


 ティムは腕を振った。


 ぬるる、とティムの腕が伸び出た。まるで、体内に隠れていた槍が、突き出されたような格好だ。


 リックの喉に剃刀が迫る。


 剣を抜くどころではない。


 リックはのけぞった。


 剃刀が喉の皮膚を切り裂いた。


 痛感がリックの脳を叩く。それとともに、第二撃に対する恐怖感が戦慄となって背筋を駆け上がる。


 「サラマンデル・スフィア!」


 アーシェンカが文字呪文を完成させた。


 アーシェンカの手元に炎の球が浮かび上が……らない。


 「うそっ!?」


 「愚かだね、アーシェンカ。ぼくのご主人様は、二度と同じ呪文は受けないのさ。ぼくの身体には、おまえが使える呪文に対する対抗呪文が刻み込まれているんだ」


 きくきくきく、と堪らない笑いをティムは発した。


 今では、すっかり人形の正体をさらしている。関節には球がはめ込まれ、動きはぎくしゃくしている。


 「パペットマスター……! これが、やつの本当の力なの!?」


 アーシェンカは表情を歪ませた。


 操り人形を人間そっくりに変貌させ、なおかつそれを遠隔操作する魔術。それを極めた者をパペットマスターと呼ぶ。そのことはアーシェンカも本での知識としては持っていたが、実際を知らなかった。


 オーンでは隠されるべき術とされ、学ぶことさえ許されない呪法なのだ。当然、アーシェンカも、その術を目の当たりにしたのは初めてのことだ。


 本の知識によれば、パペットマスターは自分が操る人形の目でものを見、耳で音を聞くことができるという。それに、ある程度の減衰は伴うが、操り人形を媒体に、遠く離れた場所に魔法をかけることもできるという。


 「死ね! 血を一杯流すんだよ! ぼくの遊び友達はみんなそうやって、ぼくを楽しませてくれるんだ!」


 ティムは色のない目を大きく見開いて、はしゃぎ声を上げた。


 長く伸びた手を振り回し、一歩ずつ近づいて来る。


 リックの頬を剃刀が裂き、頬骨に刃が当たった。


 それでも、リックはアーシェンカを背中にかばって、逃げようとしない。


 「退却よ、リック! 文字呪文が使えなきゃ勝負にならないわ!」


 「ああ……その方がいいな……!」


 この水路は、当然、グルムコクラン軍も気付いていたのだ。そのサロの町を、大軍で守ることをせず、あえてこのような罠を張り巡らせたのは、ゼルクブルグ連合軍の注意を引くことを警戒したためだろう。忘れられた町として放置したように見せかけ、その実、パペットを配しておき、侵入を画策する敵への備えとしていたのだ。


 リックとアーシェンカは階段を駆け上がった。


 と、その行く手に鉄の格子が立ち塞がっている。扉だ。今は外から鍵が掛けられている。


 扉の外には、ロゼル、カタリナ、コドル、そして町の人々がうっそりと立っている。


 こいつらも、パペットだ。だが、ティムのような表情は浮かべていない。まったくの人形だった。


 「パペットマスターが完全に操作できる人形は一体だけ。それ以外の人形は、操られているパペットが二次的に操作しているの。つまり、この町がいつもひっそりとしていたのは、ティムのいる周囲にしか、町の人が現れることがなかったからよ! ロゼルもカタリナも、ティムがいる場所にしか存在できなかったんだわ!」


 アーシェンカはようやく真実を洞察し得たのだが、何分にも悟るのが遅かった。悔やんでも、もう間に合わない。


 「そうだよ、もうおしまいにするよ」


 舌なめずりしながら、ティムが階段を昇り始めている。


 顔立ちの優美さはそのままだ。だが、瞳がなく、顎がかくかくと動いている。それでいながら、笑いの表情が頬に貼りついている。今では肌にうっすらと木目が見える。


 「殺すよ。切り刻むよ。肌を裂いて、筋を剥がして、骨を削いで、うふふ、歯も一本一本抜いてあげる。内臓はひとまとまりにして捨ててしまうよ。だって、内臓をそのままにしておくと、すぐに腐って、遊べなくなってしまうからね」


 パペットは子供のきいきい声でそう言った。


 「あの性格は……いったい、何なんだ?」


 リックは嫌悪感に耐えかねたように呟いた。


 アーシェンカは昏い目をしていた。


 「はっきりとしたこと言えないけど……あのパペットのモデルは確かに存在していたんだと思うわ。ティムという名の少年。きっと、この町で最後まで生き残っていた一人だったんじゃないかな……想像だけど」


 「いい勘をしているね……アーシェ」


 ティムはわずかに首を傾げた。恐らく、生前のティム少年の癖をそのまま踏襲しているのだ。


 「この町は、サンク・セディンの増築のために、町中の人たちが徴用されたのさ。町の若い大人たちがいなくなってしまった上に、この水路の秘密を守るために、年寄りたちも殺されていった……そして、子供が一人、最後に残された……」


 それが、ティム少年だったのだ。死体の中で、ティム少年は数日を生き続け、そして衰弱死した。パペットマスターは、そのティムを象った人形を作り、さまよえるティムの魂魄を人形に封じたのだ。より強力なパペットを産み出すために。


 「禍禍しい、呪法……! そんなの魔道なんかじゃない!」


 アーシェンカは吐き捨てた。


 ティムは目を見開いた。瞳のない、白い眼球を。


 「まだ言うか、アーシェンカ。オーンの偽りの魔道に囚われた愚か者が……!」


 ティムは口を開いた。


 黄色い液体を激しくほとばしらせた。


 アーシェンカは飛び退いた。リックがアーシェンカを背中にかばう。


 リックの二の腕に液体がかかった。


 「ぐっ……!」


 リックの顔が激痛にひきつった。


 皮膚が焼けつく。激しい酸性の液体だった。


 「子供の姿を騙るとは卑劣な! いわんや、本来安らかなるべき死者の霊をも冒涜するとは……!」


 リックの形相が変わっていた。


 ランプを投げ棄て、剣を鞘走らせている。


 階段から跳躍している。アーシェンカが止める間もあらばこそ。


 上段から真っ向に振り下ろす。


 ティムは冷笑を浮かべて、よける素振りすらみせない。


 リックの剛剣がティムの頭蓋に吸い込まれてゆく。


 ティムの左眼がぐるりと回転した。新たに露出した部位には文字呪文が描かれている。


 }T{ (ル・テイル)


 その瞬間、炎の槍がティムの口から噴き出された。


 視界を炎で塞がれ、リックは慌てて間合いを外した。


 「うまくかわしたねえ。てっきり、貫いたかなと思ったのに」


 悔しそうな、というよりも楽しみが先に伸びたのを喜ぶようなティムの声だ。


 リックは、顔面を火傷していた。眼の表面もあぶってしまったらしく、まぶたが開かない。めちゃくちゃに涙が出て来る。このまま放置すれば、リックは永久に視力を喪失するだろう。


 「さて、首をちょん切って、片付けようか」


 ティムは剃刀のついた両腕を大きく振りかぶった。


 リックは激痛のあまり身動きもできない状態だ。


 「せえの」


 ティムが腕を振り下ろす。


 その両の腕が交差する一点にリックの首があった。


 「リック! よけて!」


 叫びとともに闇の中に光の航跡が走った。


 光の発生源は、ティムの顔面を襲った。


 リックが棄てたランプだ。アーシェンカが拾い上げて、とっさに投げつけたのだ。


 ティムは首をすっと後ろに流してランプの直撃を避けた。


 ランプは着水したが、呪文の力か、火は消えずに燃え続けている。


 その隙に、リックは身体を石の床に投げ出して、難を逃れている。


 「わたしが相手よ!」


 アーシェンカが一喝した。


 「一夜漬けの天才、アーシェンカねえさんの呪文をお受けなさい!」


 アーシェンカは指を二本揃え、大きく文字を描く。


 「くく……無駄なことをする娘だ。何度やっても、結果は変わるまいに」


 ティムは余裕しゃくしゃくだ。だが、アーシェンカが描き出す文字の形を読み取ると、その冷徹な表情に動揺が広がった。


 「まさか、その素字は……!」


 アーシェンカは呪文を構築する文字を描き終えた。


 )~*_(/A (ジーク・ザラー・スラス・ヒロ)


 ジーク・ザラー  )~*_(  は水系では珍しい攻撃呪文だ。空気中の水分を集めて雷雲を作り、大地との間に巨大な静電気を発生させて、それを相手に叩きつけるという壮大な呪文である。


 ふつう、その文字呪文は、屋外の、しかも湿度が高いところでないと効果が薄い。


 それをアーシェンカは天井の低い地下室で行ったのだ。


 /A というオプションをつけて、術者が想定した限られた空間の中にジーク・ザラーの効果を封じ込めた。独創的な技巧だった。


 A(ヒロ)という文字は、正統派魔道では研究されることの薄い文字で、文字呪文に使われることは稀なのだ。


 地下室の湿度は高い。しかも、床には水が湛えられている。その水分がたちまち凝集した。


 青白い閃光がひらめいた。


 半瞬遅れて、空気が引き裂かれるような轟音が轟いた。


 ティムの身体が真二つに裂かれていた。


 まさしく木製の人形だ。操り糸が切れたかのように、ティムはよろめき、水音を立てて倒れ込んだ。


 リックは茫然とその光景を見詰めていた。


 ティムの裂けたふたつの身体は、内部が焦げていた。瞬間的に凄まじい高熱が走ったのだろう。いやな匂いをたてて、煙を上げていた。


 扉の外で、かしゃらん、という音がいくつも響いた。


 それは、町の人々の人形だった。ティムが打ち倒されたことにより、人形たちは彼らの直接の操り手を失ったのだ。


 「くく……アーシェンカ……」


 二つに裂けたティムの人形が、かすかに声を立てた。


 リックは腰を落として不意の襲撃に備え、アーシェンカは、びくっとした表情を浮かべる。


 ティムの二つに分かれた顔貌が、規則正しく対称に動いている。


 「まさか、おまえが絶対素字の秘儀を受け継いでいたとはな……。A(ヒロ)を使いこなすとは恐れ入った。おまえを差し向けたモス・フェルの魂胆、読めたぞ」


 「その喋り方は……パペットマスターだな」


 リックの視界は塞がっている。涙が後から後から湧き上がってくるが、痛みは和らがない。それでも気配から、ティムが戦闘力をもはや失ったことと、ティムを喋らせている存在が先ほどとは異なっていることに気づいていた。


 「そうだ。わたしは人形の目を通じてものを見ることができる。人形の口を借りるのも同様にたやすいこと」


 ティムは……いや、ティムの姿をしていたその「物」は、めちゃくちゃに破壊されながらもそのように言葉を綴った。


 「アーシェンカよ。おまえが絶対素字の秘儀を受け継ぐとあらば、おまえはサンク・セディンへ来ねばならぬ。サンク・セディンにはザルト・ゼオクロームがいる。あらゆる攻撃呪文を無力化する最強の魔法生物たるザルト・ゼオクロームがな。モス・フェルの秘蔵っ子があの怪物とどう戦うか、これは大いに興味のあることだ。せいぜい、オーンの秘術を尽くすがよい」


 けくけくけく、とティムの残骸は笑声を上げた。


 笑いが消えた時には、それは完全に物体に戻った。


 木と布とガラスと樹脂で作られた人形だった。


 アーシェンカはリックの側に駆け寄った。


 リックは膝を突き、腕を目許に押し当てていた。


 「待って、今、治療するから」


 アーシェンカは小さく文字呪文を描いた。


 )%X( (メム・マム)


 リックの悪酔いを軽減させるのに使った呪文と同じだ。だが、これは被術者の体液の流れをコントロールする呪文なので、応用範囲は広い。火傷にも有効だ。


 だが、この呪文だけでは痛みは軽減できないので、


 )+X( (メム・パルシー)


 も併用する。こちらは主に精神に作用する。沈静・鎮痛効果が高い。


 だいたい、このふたつで、骨折や内臓破裂のような重傷を除く、たいていの怪我や病気の応急処置はできる。これらの呪文に習熟していれば、それだけで魔道士としては食いはぐれがないとされているほどだ。


 アーシェンカは、けっして非力な魔道士ではないのだ。


 「かなり楽になった。ありがとう、アーシェ」


 リックは礼を言った。だが、まだ眼を開くことはできない。


 「しばらくは眼を閉じたままでいた方がいいわ。それより、どうする? パペットマスターに、わたしたちの計画は知られてしまったわ」


 アーシェンカが気忙しげに言った。


 リックはしばらく無言だった。まぶたを下ろしたまま、固く唇を引き締めていた。


 ややあって、リックは口を開いた。


 「このまま、行くべきだと思う。この水路が本当にサンク・セディンにつながっているかどうかは、わからない。罠かもしれない」


 罠である確率は高いだろう。水路は暗く、せまい。場所によっては完全に水没している場所もありそうだ。通ること自体が困難な上に、もしもトラップが仕掛けられていたら、それを解除することはほとんど不可能に近い。


 「だけど、要塞にこもる者からすれば、こういう抜け穴は逆に必要なはずだ。サンク・セディンがいかに大要塞であるといっても、補給が不十分なグルムコクラン軍は長期の篭城には耐えられない。ゼルクブルグ連合軍に包囲された時の備えとして、昔からある水路をそのまま活用しようと考える方が自然な気がする」


 そして、その出口を守るに当たり、砦を築き軍隊を置くのは、いかにも敵の注意を引いてうまくない。とすれば、見捨てられた町を装い、魔道で動く操り人形を守備兵として配置する、というようにはならないだろうか。


 「とすれば、この水路はやはりサンク・セディンにつながっているし、トラップもないんじゃないかな」


 リックはそう結論した。なるほど、と大きくアーシェンカは肯いた。


 「そりゃあ、そうよね。もしも守りを固めたいんなら、水路なんか埋めちゃえばいいんだもんね。それをわざわざ残しているっていうのは、確かにリックの言う通りかもね」


 言うなり、アーシェンカは唇をリックのまぶたに押し当てて、音を鳴らした。


 「ん? なんだ、今のは」


 状況を把握できずに、リックはのんびりとした声を出す。


 アーシェンカは、悪戯っぽい笑顔を浮かべた頬にやや朱を昇らせつつ、すうっと立ち上がる。


 「治療の仕上げよ。あと一刻(じかん)も我慢すれば、眼を開いてもいいわ」


 「そうか、すまない」


 リックは本気で気付いていない。こういう方面には度し難いほど、気が回らない性格なのだ。


 


                      (第四章 了)

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