第二章 魔道士の都

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 祭の夜から九日の後。


 ダイモン・ザースとリック・スクリードは、昼下がりに魔道都市オーンに入った。


 オーンはゼルクブルグ自治共同体と友好関係にあるだけに、入城審査は非常に簡素だ。ゼルクブルグ自治共同体の多くの街のように完全に出入自由、というわけではないが、それにほぼ近い。


 加えて、ダイモンは正真正銘の商人であり、オーンの魔道士ギルド発行の入城許可証を持っていた。リックについては、ダイモンが雇った傭兵であるとした。道中の危難を避けるために商人が傭兵を雇うのはごく自然なことだったので、何の支障もなかった。


 リックとダイモンは大通りを歩いていた。


 大通りにはかなりの人出があった。


 リックたちのような来訪者と、オーンに住んでいる人々とが入り混じって歩いているが、オーンの住民たちは多くが黒や鼠色のマントで身体を覆っているので一目でわかる。


 「ま、ここはオーンだからな」


 と、ダイモンがしたり顔で言う。ダイモンは年に一度はここにやって来てマジックアイテムを仕入れたりするので、魔道についてもそれなりの知識はある。それを道々リック相手にひけらかしていた。


 リックも知識を貯えることに否やはない。ふんふんと相槌をうちながら聞いてやることにしている。


 「魔道士の働き口にはいろいろとある。王室づきの宮廷魔道士が、まず出世の筆頭だろうな。王国のまつりごとを魔道をもって補佐する仕事だ。なまじの宰相よりも王に対する影響力があるからな、その魔道士に邪心あらば、自分に都合がよいように国政を歪めてしまうこともたやすい。もっとも、そのためにはとてつもない魔道の実力が必要だが。そこまで行かなくとも、強力な攻撃魔法が使えれば、軍づきの魔道士として高禄が食める。防御系、治癒系の術に長けていても軍に出仕できる。このほか、貴族や豪族のお抱え魔道士というのも割りのいい仕事だ。王室づきのような権勢は望めないが、その分実質的な実入りはいい」


 「ふうん」


 それくらいの知識はリックにもある。あるが、それをわざわざ口に出すこともないと思いつつ、おとなしく耳を傾けている。


 「市井でいえば、魔法医、占卜師、千里眼屋といった、いわゆる魔法売りだな。が、これらにはかなり怪しげなものも含まれている。ギルドに参加していないモグリもけっこう多い」


 魔道士ギルドでは、正規の魔道士―――すなわち、ギルドに上納金を納める者たち―――の利益を守るため、モグリの魔道士の活動を厳しく戒めているのだ。


 「そのほか、魔道士養成塾を開くというのもある。これは、一線を引退した魔道士が余生を後進の指導のために費やしたいとして着手することが多い。名のある魔道士の塾は当然、若い学生にたいそうな人気がある」


 それは、むろんのこと、名のある魔道士の弟子である方が仕官の際に有利であるからに他ならない。


 「このように魔道士には多くの種類がある。その得意とする分野も様々と違う。だが、魔道を学ぶ者がもっとも名誉ある道と考えるのは、魔道を学問として突き詰めて研究することだな」


 オーンのメインストリートを連れ立って歩きながら、ダイモンの話は続いている。


 魔道博士と呼ばれるひと握りの達人たちがいる。彼らは魔道の奥義に通じ、もっとも根源的なる神の文字の字義に精通している。魔道とは、本来は功利を目的とするものではなく、あくまでも世界の本質をとらえるための学問なのだ。


 この世界は創造神が「在る」という文字を描いた時に始まった。神は詩を書き、その言葉、文字によって世界の具象がかたちづくられた。


 そういう世界観がある。


 したがって、神の文字を研究することによって、世界の根源を知ろうとするのが厳密な意味での魔道なのだ。


 精神の火を放ったり、傷を治療したりする技は、あくまでも学問から派生した小手先の技術に過ぎない。


 魔道の本質は学究であると断じることすらできよう。


 ために。


 オーンは魔道都市であると同時に学生の街であるということも可能だ。


 ここには魔道士を養成する学校、塾が大小取り混ぜて幾十とあり、若い魔道士志望者が街にはあふれている。


 この街の雰囲気には、魔道のおどろおどろしさとともに、学生の放つ香気というものも混ざっており、一種独特な味わいがある。


「なるほど、若い顔が多いと思ったら、そういう理由があったのか」


 リックは納得した。


 「さて、と。おしゃべりはこれくらいにして、早速フィネガット婆さんのところへ行くことにしよう」


 ダイモンが足を速める。リックもうなずいて、その後に続く。


 


 


 フィネガット婆さんはオーンでも有数の千里眼屋だ。千里眼屋とは情報を売り買いする商売で、多くは魔導士も兼ねている。魔道を用いて、より広く情報を漁るのだ。一般の魔道士との違いは、魔道士がその魔法そのものを商品とするのに対し、千里眼屋の用いる魔道は情報を収集するのに使われる道具であるという点だ。


 「たいした変わり者という話だが、その地獄耳はオーン随一という噂だ。表立って使うことはないらしいが、魔法の方もかなりの使い手というぞ。ま、魔道都市ならではの名物婆さんだな」


 それほどの情報屋だけに、リックが求めるパペットマスターの情報も掴んでいるかもしれない、というわけだ。薄弱な論拠だが。


 「ダイモンは、フィネガット婆さんと会ったことがあるのか?」


 リックの問いにダイモンは太い首をごきりと鳴らした。


 「いいや。ただ商売仲間がフィネガット婆さんの常連でな、商売がらみの相談を持ち掛けていたんだ。その話を聞いて、なにかの足しになるかもしれないと思って、名前と住所だけは控えておいたわけだ」


 さすがに商売人らしい、とリックは思った。人と人とのつながりが商売人の武器というわけだ。だが、このダイモン・ザースはただの商人ではあるまい。


 リックは、ハッシュの町の祭の夜での、ダイモンの戦いぶりを見ていた。あの動きは間違いなく達人の域に達した戦士のそれだ。


 そのダイモンがリックに協力してくれているのにも、何か理由があるのに違いない。古い友人の息子だから、などという薄っぺらい理由で、こうまで助けてくれるほどダイモンはお人好しではあるまい。


 だが、今はいい。ダイモンの真意はどうあれ、今はクレリアの行方に心を砕くことだ。パペットマスターなる魔道士によって拉致された銀の髪の少女の安否だけが気遣わしい。


 「この建物だ」


 ダイモンが足を止めた。


 そこは狭く薄暗い路地の奥にある古いアパートメントだった。


今にも崩れ落ちそうなほどに痛んでいる。


 ダイモンは扉を開き、ホールに入り込んだ。リックもその後に続いたが、思わず息を呑んだ。


 すごい埃とかび臭さだ。まるで放置されて何年も経っているような荒れようだ。


 「たしか、ここの四階に住んでいるはずだ」


 ダイモンの靴が階段に乗るたび、ギシギシと板が鳴った。ダイモンの巨体だと、下手をすると板を踏み抜いてしまうのではないか。


 リックも慎重に歩を進めた。階段もゴミだらけだ。異臭も漂っている。


 二人はようやくフィネガット婆さんの居室の前に立った。


 ドアの前には空き瓶だの紙屑だの焦げた布切れなどが散乱している。まったく掃除の跡が見られない。


 「ひょっとして、空き家か?」


 ダイモンが首を捻った。


 「あの婆さんもだいぶ歳だったようだからな、死んじまっているかもしれん」


 「もしも、ここが駄目だったとして、他にあては?」


 「ねえな。そうなりゃ飛び込みで千里眼屋を当たるしか手はねえ」


 ダイモンは肩をすくめた。


 「まあ、ここはオーンだ。いくらでも腕のいい千里眼屋は見つかるさ」


 ダイモンはドアを拳で叩いた。念のため、というつもりらしい。


 「おおい、フィネガット婆さん、いないのか!?」


 乱暴にドアを叩いてから、ノブをまわした。


 するりとノブがまわり、ドアが開いた。その瞬間だ。


 


「ドゥーム・ホタン!」


 鋭い叫びが走り、開いたドアの向こうがまばゆく発光した。


 突き刺すような光だ。


 リックとダイモンは目を閉じた。閉じても光は容赦なく瞳を刺す。腕で目を覆う。それでも視界は真っ白なままだ。


 リックとダイモンは呻きながら、床にへたりこんだ。その頭上に、女の声が降ってくる。


 「どう、思い知った? 借金取りの用心棒さんたち」


 リックは顔を上げた。そろそろとまぶたを開く。先程の光は失せていた。だが、まだ視力は完全には戻っていない。様々な色のパターンが踊っている。


 だが、開いた戸口の向こうに立っている人影は見て取れた。小柄な体格だ。


 若い女らしい。


 女は不審げな声をリックに浴びせた。


 「あら、あなた、もう視力が戻ったの? たいしたものね、普通なら一刻いちじかんはまともに眼は開かないわよ。よっぽど強力な護符でも身に着けているのかな」


 「……おまえは、誰だ!? なぜ、おれたちにこんなことをする!?」


 リックは怒りを抑えた声で問うた。


 相手の女は首を傾げた。子供っぽい仕草だ。表情まではわからない。窓から差し込むわずかな光が逆光になって、女の姿をシルエットにしているからだ。


 「あったしまえじゃない、用心棒さんたち。あんたたちが、うちに押し掛けて来るのがいけないのよ。何度も言うようだけれども、うちにはお金なんてないんですからね!」


「おれたちは用心棒じゃねえぜ、ねえちゃん……」


 ダイモンが唸るように言った。まだ、腕で目を覆っている。頬に涙が垂れている。激しい痛みが両眼を襲っているのだろう。リックよりもはるかにひどい状態らしい。


 「フィネガット婆さんから情報を買おうとしてやって来た客だぜ」


 「うっそー!」


 素っ頓狂な声を娘は出した。両手を頬に押し当てている。


 「うそでしょ、ねえねえ、ほんとうは用心棒で、美人なわたしのことを置屋に売り払うつもりで来たんでしょ、白状しなさいったら!」


 「ちがう。ダイモンの言った通りだ。おれたちは、君の言う借金取りの用心棒なんかじゃない」


 リックはきっぱりと言った。感情を抑制するように努めてはいた。みだりに感情を激させないのが剣士の心得だからだ。感情は太刀筋にもろにあらわれる。それは剣の道を志す者にとって忌むべきこととされていた。


 静かなリックの声に、かえって女はひるんだようだった。それから、肩を落とした。


 「あああ、また失敗しちゃった。お客さんの目を焼いちゃったことがギルドに知られたら、また免許再交付がボツっちゃう」


 暗い声で言った。


 しばし落ち込んでいる、かと思うと、女はさっと顔を上げた。


 「でも、まあ、過ぎちゃったことだし。ささ、お客さん、中へどうぞ。目の治療をして差し上げますわ。これは無料サービスとさせていただきますので」


 「たりめーだ。ばかたれ!」


 ダイモンが毒づいた。


 


 


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 「わたくし、アーシェンカ・ウィザードスプーンと申します」


 お茶の匂いが漂っている。アーシェンカと名乗る少女がリックたちのために入れたものだ。薬草が混ざっているらしく、変わった匂いがする。


 「これを飲めば本当に目が治るのか?」


 ダイモンはカップを手渡されると、疑うように匂いを嗅いだ。


 「もちろん。だいたい、さっきのドゥーム・ホタンは威力を弱めてあったものだし、その薬草の成分が身体に入れば、ものの五分ほどで回復するわ」


 アーシェンカが自信たっぷりに断言した。


 ダイモンは首を捻りながら、カップに口をつけた。


 「ぬげ、苦い……」


 「ほほほ、がまん、がまん」


 アーシェンカは口に手を当てて笑っている。


 リックはカップに手を触れない。


 それにアーシェンカは気付いたようだ。


 「あなたはいいの? もう目は治ったのかな」


 リックはうなずいた。既に完全に視界は正常に戻っている。


 「不思議ね、さっきも思ったんだけれども。あなた、どういう護符を持っているの? 第二魔法位階以上のマジックアイテムでもなければ、ドゥーム・ホタンの影響から簡単には逃れられないはずなんだけど」


 「ドゥーム・ホタンというのは?」


 リックは訊いた。


 「これよ」


 アーシェンカは指先で宙に字を書いた。 


すると、その宙に書いた文字が、アーシェンカの指の軌跡通りに発光した。


 }+{


その文字は、発光しつづけ、小さな光球にまで成長した。


「ドゥーム・ホタン」


 アーシェンカの唇がそう動くと、光球が弾かれたように飛び出した。光球は壁に当たって四散した。光の粒が飛び散ってゆく。


 「さっきのはこれのもっと強力なやつだったの。それでも、熱は出させないようにしたけどね。用心棒だって、丸焼けにしちゃ、可哀想じゃない?」


 「いつもああやって、用心棒を追い払っているわけか」


 リックはあきれた。見ると、アーシェンカはまだほんの少女だ。リックよりも二つ三つは年下だろう。長い髪を頭のてっぺん近くでくくって、背中にふっさり垂らしている。身に着けているのは、いかにも魔道士らしい黒いマントではなく、草色のシャツにピンクのカーディガン、下はグレーの半ズボンだ。だぶだぶの半ズボンからは細い足が伸びだして、先の尖った革靴にもぐりこんでいる。


 普通の女の子のいでたち、と言い切るには抵抗があるが、特に目をそばだてるほどのことはない。


 幼げな印象を与える、やや吊りぎみの大きな赤い瞳を持った少女に過ぎない。


 「さて、わたしの質問に戻らせてもらうわ。あなたの護符って、なに?」


 アーシェンカは大人びた口調で言った。


 「護符など持っていない」


 リックは困惑しつつ答えた。事実だ。マジックアイテムは高価なものだ。しかも、第二魔法位階の品ともなれば、ちょっとした宝物だ。おいそれと手に入るものではない。


 「うそよ」


 アーシェンカは立ち上がり、リックの側に近づいた。


 指を伸ばし、リックの胸元にそっと触れる。


 「なんの真似だ?」


 リックは上体を逃がした。子供っぽい少女とはいえ、若い女に身体を触れられることにリックは慣れていない。


 「動かないで……あなたの身を守っているのは、これね」


 アーシェンカの赤い瞳が、リックの胸元に注ぎ込まれている。


 少女の白い指が、なにものかを引き出すかのように、ゆっくりと動く。


 リックは自分の胸元を見た。目を見開いた。


 リックは古い革製の胸甲を着けていた。ダイモンが格安で譲ってくれたものだ。ちなみに剣や防具一切は、ダイモンから買った。ダイモンはやはり商人だ。くれてやるのは簡単だが、それではおまえも心地悪かろう、と言って、リックに買わせたのだ。


 その、胸甲の表面に文字が浮かび上がっている。


 )@( (マ・オーム)


 クレリアがあの夜、リックの胸に刻んだおまじないだ。だが、指で書いただけの魔法文字がどうして形になるのか。しかも、あの夜はこの胸甲は身に着けてはいなかったのである。


 「すごい力を感じるわ。正しい手順で描かれてさえいないのに、この強さ……。これを書いた人はとてつもない魔道士ね」


 アーシェンカはそう断じた。


 リックは軽く首をひねった。クレリアが魔道を修めていたという話は知らない。むしろ、クレリアに魔道のおどろおどろしさはまったく似つかわしくない。


 そのことを言おうとして顔を上げたリックは、思いがけないほど近い場所にアーシェンカの顔があることを実感し、顔に血が昇るのを自覚した。


 アーシェンカはリックの胸甲に浮かんだ文字呪文に見入っている。実に興味深そうな表情を浮かべている。


 リックは声を掛けるきっかけを失った。


 しばらくそのままでいた。


 それから、はっとアーシェンカはリックを見上げた。


 動揺した表情が少女の顔に浮かび、太目の眉がひくりと動いた。


 「失礼、わたしの悪いくせで、魔道がらみになるとすぐ我を忘れちゃうのよ」


 アーシェンカは自分の席に戻り、表情を引き締めた。


 「で、ご依頼の件というのは……? どうやらその魔法文字を書いた女性と関係ありそうだけど」


 「よくわかるな」


 リックは驚いて少女を見返した。まだ子供だが、魔法も使えるようだし、千里眼屋の助手か何かも兼ねているのだろう。人の心も読めるのかもしれない。


 「そりゃあね、マ・オームを男の胸に書くのは、女に決まってるじゃない」


 うふふ、とアーシェンカは笑いを漏らした。頬がわずかに上気している。


 「ちょい、待ってもらおうか、お嬢ちゃん」


 ようやく目が開いたらしいダイモンが不満そうに言い出した。


 「おれたちはフィネガット婆さんに会いに来たんだ。婆さんはどこだ? 出かけているのか?」


 「先生なら亡くなっちゃった」


 けろりとした顔でアーシェンカは答えた。先生、というからにはこの少女はフィネガットの弟子であったと見える。


 「ふた月くらい前かな? ぽっくりと逝っちゃって。ちゃんとお葬式も出してあげたし、感心な弟子でしょ?」


 「死んじまっていたか……やはりな。年寄りだったというからな」


 ダイモンはため息をついた。


 それに対し、少女は真面目な表情で言った。


 「あら、先生は五十前だったわよ。ちょっと老け顔で、百歳より若くは見えなかったけど。死因は老衰だったし」


 「なんじゃい、そりゃ」


 ダイモンはやや興ざめした顔つきになった。少女が自分の師匠の死をちゃかしたと思ったらしい。不機嫌な表情のまま、話柄を変えた。


 「で、借金取りというのは、なんなんだ」


 「あは、先生が晩年に使いまくった延命剤や若返りの薬やなんかでね、すごい額になっちゃって、千里眼屋の営業権は質に入れて流しちゃうし、ギルドの低金利貸し付けは使えないわで、しょうことなしに町の金貸しにまで手を出しちゃったのよね。先生が死んじゃって、返済のあてがなくなったんで、やけでオーンじゅうの金貸しから借りまくって、盛大に葬式をぶちかましてやったってわけよ」


 「とんでもない娘だな。あげくに借金取りが来たら、魔法で追い返すわけか。むしろ、金貸しの方におれは同情するね」


 ダイモンは呆れ果てたかのような口調で言った。


 「だが、師匠想いなのは間違いない」


 リックは口を添えた。少女の言動にはもうひとつ底意が読めないあざとさは感じるが、といって積極的な悪意というものは認められない。そうリックには思われた。


 アーシェンカは嬉しそうにリックを見た。かばってくれてありがとう、というつもりかはにかんだように笑っている。笑うと子供っぽい表情になる女の子だ。


 だが、ダイモンはそうは思わなかったらしい。ずい、と立ち上がった。


 「いくぞ、リック。もうここには用はねえ。別の千里眼屋を当たろう」


 アーシェンカが慌ててそれを制した。


 「ちょっと待ってよ! わたしも魔道士の端くれよ。フィネガット先生のところのアーシェンカっていったら、オーンでも若手の筆頭株って呼ばれていたんだから!」


 「だがな、おまえさん、さっき言ってたよな、千里眼屋の営業権を質草にして流しちまったと……。つーことは、ここは魔道士ギルドに加盟していないモグリの千里眼屋ということになる。そんなところ、危なっかしくて仕事は頼めないな」


 「うっ」


 アーシェンカは詰まった。


 目が寄っている。必死で考えているらしい。


 「ううと、ここの家賃はもうしばらく踏み倒せるからよしとして……でも食事代があんだけかかるし、油が切れたら夜恐くてトイレに行けなくて困るし……ええい、ままよ!」


 決心したらしい。


 「お安くしときまーす! だから、どうかご依頼を!」


 揉み手をして媚を売り始めた。


 ダイモンは顎をさすっている。どうするかな、といった気色である。


 「じゃあ、情報提供一件につき五ザンクぽっきりでどうだ」


 「ひっどーい! あんまりだわ! ……じゃなくて、あんまりですぅ、せめて、十ザンクはいただかないと、生活できません」


 「話にならんな、リック、行くぞ」


 ダイモンはリックの肩を抱いて、戸口に進みかける。


 「ダイモン、可哀想じゃないか」


 リックが小声で言いかけるのを、ダイモンはリックの肩を掴んで止めさせた。


 「言っておくが、あの娘っ子を甘くみるな。吹っ掛けられるぞ」


 低い声でそう囁く。囁きながら、ダイモンの顔は笑っている。彼なりに、アーシェンカとの駆け引きを楽しんでいるらしい。そういうことか、とリックは口を出すのをやめた。


 出て行こうとする二人に、アーシェンカは必死な声をかけた。


 「あーっ、この哀れな少女を見捨てて行くというの!? ひどい、ひどいわ! 借金取りに追われ、仕事もなく、明日食べるパンもないこの薄幸の少女を! このままでは、明日には身を売らねばならないかもしれないのにぃぃ」


 ダイモンはくるりと首を巡らせた。


 「じゃ、五ザンクを飲むんだな」


 「八ザンクならいい」


 「―――明日、通りに立っていな。気が向いたら買ってやるぜ」


 「七ザンク半」


 むっつりとアーシェンカは言った。


 ダイモンは腕組みをしている。


 「五ザンクだ」


 「ひーん、じゃあ六ザンク! もう、これで勘弁してよぉ」


 「飯をおごってやる。その代わり、おまえに払うのは一件につき五ザンクだ。いいな」


 きっぱりとダイモンは言った。


 がっくし、アーシェンカは首を折った。観念したらしい。


 


 


       3


 


 <愚か者の顔>という名のパブに入った。


 アーシェンカは料理を次々と注文した。結構、飢えていたらしい。


 「こりゃあ、飯なしで六ザンクの方が安くあがったかもしれんな」


 ダイモンは苦い顔をした。アーシェンカはといえば、ほくほく顔だ。


 ダイモンはエールとつまみを注文した。リックは定食を頼む。


 魔道都市オーンとはいえ、食べるもの飲むものに他の町とそう大きな違いはない。ただ、薬味としてテーブルに薬草の粉末類が並んでいたり、客に黒っぽい服装の者が多かったりするくらいだ。


 「はぐはぐ、それれ聞きたいことって? はぐはぐはぐはぐ」


 「おまえな。口の中を空っぽにしてから喋るようにしろ。千里眼屋はもう少し雰囲気を大切にするもんだぞ」


 ダイモンが注意した。


 「だって、はぐはぐ、お腹が、はぐはぐ、減っていたんだもん、はむはむはむ」


 「まあ、こういう雰囲気の方がおれは助かる」


 リックはぽつりと言った。


 「あんまり、思い出して気分のいいことじゃないからな」


 まず、事情を語らねばなるまい。


 リックはハッシュの町で起こったことをぽつりぽつり語り始めた。


 ダイモンも口を挟まなかった。リックの語るのに任せた。


 アーシェンカは聞いているのかいないのか、ひたすらに食っている。


 「―――とまあ、そんなことで、このオーンに来たんだ。手掛かりと呼べるかどうかわからないが、クレリアをさらったやつは魔道士であるらしい。やつはいくつもの文字呪文を使っている」


 まず、巨大なアリジゴクであるディグーを操った文字呪文―――


 }W{  (ル・キバ)


 


 次に神官長の肉体を消滅させた文字呪文―――


 >0%< (フルム・タイ)


  


 そして、クレリアをともなって、そいつは次の文字呪文を使ってその場から消え去ったという―――


 >+S< (ファルシンド)


 


 その魔道士は神官長にこう言ったという。


 (魔道博士にしてパペット・マスターが、我が主のために花嫁を貰い受けに参った……)


 「なるほろ。魔道博士と名乗ったのね、よほろ腕に自信があると見ら」


 ぐちょぐちょ噛みながら、アーシェンカはうなずく。冷やした薬草茶で食べ物を喉に流し込んで、発音がようやくまともになる。


 「使っている文字呪文も割と特殊なものだし、結構、強力な敵みたいね」


 「ところで、文字呪文とはなんなんだ? どうして文字を書くだけで、あんなことができるんだ?」


 リックは疑問に思っていたことをふっと口にした。


 アーシェンカの目が点になった。


 「あーと、うーと。文字呪文とは何か、ですってえ? いっきなし、魔道の本質的な命題を聞いてくれるわね。それこそ、オーンの魔道博士たちが頭をひねり続けていることよ」


 困りつつも、言葉を続ける。


 「まあ、簡単な解釈をすれば、この世界は神が言葉をつかって形作ったもの。だから、その真言を人間が書き移すだけでも、なにがしかの効果は得られるってこと……本当は、もっと複雑な理論があるけど……。ただ、ふつうの人間が考えもなく文字を書いても駄目。ちゃんとその文字の意味するところを理解しながら書かないとね。だいたい、魔法の力の個人差っていうのは、文字に対する理解度の深さに比例するものなのよね」


 「理解の……深さ」


 「それって、ただ本を読んだとか、知識が蓄えているとか、そういうのではないのが大変なところなの。なんとゆーか、心位マインド・クラスって呼んだりもするけど、心の力を高めて、人の域を越えた心を持たないと駄目らしいのね。神との一体感のなかで、どーやら文字の本当の意味がわかるんだって。その域に達するためには、知識だけではなく、心と身体も鍛えないといけないのよ」


 「神との一体感……」


 リックは呟いた。パペットマスターは、クレリアを女神と呼んだという。そのことを思っていた。


 「もしかしたら、クレリアって女の人にはそういう心位が生まれつき備わっていたのかもしれないね。クレリアが書いた魔法文字が、すごい力を持っていたというのは」


 アーシェンカが、リックの心を見透かしたように言った。


 そこに、ダイモンが痺れを切らして口を出した。


 「おいおい、もうよかろう。さて、嬢ちゃん、お仕事の時間だ。おれたちが知りたいのは次のことだ。まず、パペットマスターの正体、その居場所、そしてそいつの倒し方だ!」


 「うーん、そんな雲をつかむような話で一件五ザンク……やっすいわあ」


 アーシェンカは渋い顔をした。


 フォークを肉に突き刺して、物憂げに口を運ぶ。


 「あのね、わかんない」


 「なんだとぉ!?」


 ダイモンの顔が引きつった。


 アーシェンカが目を上げた。鋭い眼差しだ。


 「知らない方が身のためよ。いっとくけど、パペットマスターとやらが使った文字呪文はどれもめちゃくちゃ強力なものよ。}W{(ル・キバ)は炎系絶対素字}{(リュウ)に野獣を表すW(キバ)という素字を加えたもの。構成は単純だけど、それなのにディグーの大軍を操り、あまつさえ、その毒液に倒れた人間にすら影響を与えた。いい? 文字呪文というのはね、構成が単純であればあるほど威力が強いの。ただし、その文字に対する理解度が深くないと、ものの役に立たないのよ。文字の解釈が少しでも誤っていると、単純な構成だけに、すぐに無力になってしまうというわけよ。それを考えれば、パペットマスターの魔道の深度はそうとうなものね。魔道博士という名乗りもまんざら嘘じゃないかもしれない」


 「むむむ」


 先程までとはうってかわったアーシェンカの毅然とした態度に、さしものダイモンも気おされている。


 「>0%<(フルム・タイ)は風系絶対素字 ><(ヘム)に、無を意味する0(ム)、肉体を示す%(タイ)を組み合わせ、空気の中に人間の肉体そのものを溶かしてしまう文字呪文に仕上げている。これはたぶんパペットマスターの創作ね。すでにある文字呪文を学ぶのではなく、字義を完璧に把握した上で自分で短い詩を書いちゃっているのよ。ま、>+S<(ファルシンド)は、よく知られている文字呪文だけどね。これも解釈してあげると、さっきと同様、風系素字><と、精神を表す+(シン)という素字、動きを意味するS(ドウ)を組み合わせてあるわけ。つまり、瞬間移動の呪文なんだけど、使いこなすのはよほど心位が高くないとね」


 「強いのか、そいつ」


 リックが訊いた。


 うん、とアーシェンカは首肯した。


 「もう、めちゃくちゃにね。たぶん、大国の軍師クラスの実力者だわ。このオーンにもそう何人もいないでしょうね。それに、そういう高位の者は、たいてい魔道研究に没頭しまくっちゃって、世事には興味を持たないおじいちゃんたちばっかだし」


 「助っ人も頼めないっていうわけか」


 ダイモンも唇を噛んだ。


 「十ザンク分はもう教えたわよ」


 アーシェンカは澄まして手を出した。


 「五ザンクだっつーたろうが」


 「呪文について教えてあげたじゃない。それにパペットマスターの実力についても。これでもサービスしてあげてるんだからね」


 ダイモンはぶつぶつ言いながら、貨幣をアーシェンカに渡した。


 「今、大国の軍師クラスといったな。教えてほしい。グルムコクランの軍師―――最強の魔道士とは誰だ」


 リックが訊いた。


 「追加注文ありがとうございます」


 アーシェンカはぺこりと頭を下げる。


「そういうのって、基本的には軍事機密なの。なぜって、魔導士も人間でしょ。いくら個人的には強くったって、家族とかを人質にとられちゃ苦しいわよね。だから、各国とも自国の魔道士の素性は機密扱いにしているのよ。もっとも、それだからこそオーンの千里眼屋の商売が成り立つんだけど……。でもね、残念なことにグルムコクランの情報って滅多なことでは入って来ないの。ほんの断片的な情報しかね。でも、たったの五ザンク分だから、それでも文句はないわよね」


 と、前置きをして、アーシェンカは説明を始めた。


 話の順番として、まずはグルムコクランについてだ。


 グルムコクランは、東方の軍事国家だ。王を中心とする強力な中央集権国家体制を持ち、王は宗教を主宰する教王でもある。その権威は地上の神にたとえられる。グルムコクランの神は戦神トリスタムである。


 トリスタムは大いなる神ケルベールと戦い、敗れた。その敗因は最愛の妻イズーをケルベールに奪われたためであった。トリスタムは戦意を失い、ケルベールによって亡き者にされてしまった。美しきイズーはケルベールの妻になったが、トリスタムへの愛を忘れられず、自らを銀の彫像に変えてしまった。それを嘆いたケルベールは己の非を認め、千年の後にトリスタムとイズーが再び結ばれるという詩編を残し、天界に去った。


 トリスタムの家来たちは、主なる神の復活を信じ、その封印されし場所にイズーの彫像を祭り、その地をイズーと名付けた。


 イズーが都として栄えた時期もあった。


 だが、地震や大火などの天災に度々見舞われ、ついに人の住まぬ廃墟となった。そのイズーを出た一群の人々が東の地に建国したのがグルムコクランであった。


 グルムコクランの悲願は、この古都イズーを再び都とすることだった。だが、イズーの廃墟のある地域は、現在はゼルクブルグ自治共同体の勢力範囲内だ。イズーについてゼルクブルグ共同体は何の価値も見出してはおらず、まったくの放置状態だが、その近くを大きな街道が走っているために、手放すことは絶対にできない。このイズーをグルムコクラン軍に扼されれば、自治共同体の交易は多大な被害を被ってしまうのだ。


 「グルムコクランの現在の王は、セラフィム・ストゥームベルガー。若いわよ。まだ三十になっていないはずよ。男前で独身だって。性格的には軍事国家グルムコクランを宰領するには脆弱すぎるという評判があったわ。読書家で、もしかしたらグルムコクランの体質を変えるかもしれないって諸外国からは期待されていたけど……どうやら猫をかぶっていたようね」


 グルムコクラン軍が国境を破り、ゼルクブルグ自治共同体領内に侵入したことはすでに知れ渡っていた。ハッシュの町が襲われたのも、その一環であったかもしれない。ただし、一般には、ハッシュの町の災難はディグーの季節外れの大発生による天災であると認識されていた。パペットマスターの存在は、神官長から話を聞いたリックとダイモンしか知らないことだった。


 「グルムコクラン軍の司令官は、ザルト・ゼオクローム。もとは普通の人間だったらしいけど、今はどうやらとんでもない怪物になっているという噂よ。たぶん、魔法をつかって、身体を改造したんだと思うけど。こいつがものすごい猛将で、グルムコクラン軍は負け知らずなんだって。ああっと、でもこいつじゃないよ。こいつは魔法は自分では使えないらしいから」


 「もったいぶらずに、はよ言え」


 「まあまあ、これも料金分に入ってるのよ」


 ダイモンがいらいらして文句を言うのを、鷹揚にアーシェンカは受け流した。


 「次に、ガッシュ・ベルトラン」


 と、アーシェンカが言った瞬間、ダイモンの表情が凍った。


 アーシェンカは気付かず言葉を続けている。リックはダイモンの異変に気付いたが、次の瞬間、ダイモンはもとの表情に戻っている。どうした、と声をかける暇もない。


 「ガッシュ・ベルトランは、グルムコクラン軍の精鋭を集めたダーク・サラマンダー隊を率いているの。ダーク・サラマンダー隊は、奇襲専門の機動部隊で、ドラゴンライダーが半数を占めているわ。ドラゴン・ライダーの恐ろしさは知ってるでしょ? 特にダークサラマンダー隊は火竜ばかりを集めているからね。その火力はもう猛烈の一言で、こいつらに襲われたら、町のひとつやふたつは地上から根こそぎ消え去っちゃうでしょうね」


 「ほうお、そりゃあすごい」


 ダイモンがおもしろそうに茶々を入れる。だが、その視線には力がこもっていない。なぜだか、遠くを見ているようにリックには思えた。


 「ベルトランという男はグルムコクランでも比較的新参者でね。七年ほど昔かな。ものすごく大きな竜を手土産にグルムコクラン軍に仕官したっていう話よ。軍もその功績を高く評価して、彼にダークサラマンダー隊を与えたというわけ。ま、生え抜きでない人間が、軍の高官に昇りつめるためには、それくらいはしなくちゃね、っていうお話」


 アーシェンカは茶を飲み干した。ぺろりと舌で唇をなめる。


 「あと、一人ね」


 アーシェンカは悪戯っぽい表情でリックを見つめた。


 「肝心の宮廷魔道士さまなんだけど……これがデータなし。ごめんね」


 「なんだと、こりゃ!」


 ぼうっとしていたダイモンが我にかえって怒鳴りつけた。


 アーシェンカは頭を抱えて首をすくませた。


 「あーん、ごめんしてぇ! だから、グルムコクランのこと、いろいろ教えたげたじゃない」


 「あほか! 肝心要のパペットマスターかもしれない宮廷魔道士の情報がないんじゃ、金は払えんぞ!」


 「あっ、それひどーい! 払ってよ、払え!」


 アーシェンカが女の子にしてはやや太目な眉を逆立てて、ダイモンに食って掛かった。


 「払わないと、丸焼けにしちゃうぞ」


 「へへん、できるものならやってみな。おまえの指が動く前に、おれの戦斧がおまえの手首をもってっちまうわ」


 「なんて野蛮なの!? 信じられない! だっから男っていやなのよね!」


 「頼みがあるんだ、アーシェンカ」


 リックはアーシェンカに呼び掛けた。


 「へ?」


 アーシェンカは不意を衝かれ、ぼうっと振り返った。


 そのアーシェンカに、リックは頼み込んだ。


 「グルムコクランの魔道士について、何でもいい、手掛かりが欲しい。そいつがクレリアをさらったやつなのかどうかだけでもわかれば、それでいい」


リックはアーシェンカに頭を下げた。


 よるべき糸はパペットマスターという魔道士の存在だ。その正体がわずかなりとも判明すれば、クレリアの行方を調べることもできよう。そのためにも、アーシェンカの魔道に関する知識は重要であった。


 アーシェンカは腰を椅子に落とした。きまりわるげにダイモンもそれに倣う。


 「えっとぉ……グルムコクランって、もともとあまり魔道士を雇わない国だったの。そりゃあ、軍隊にはある程度の魔道士はいたけど、国政を左右出来るような重要なポストには、けっして魔道士を就けてはならないという不文律があったのよね。それが、セラフィム王の代になって変わったらしいの。ある魔道士が現れて、セラフィム王の摂政の立場で権勢を振るったのね。そいつって魔道士ギルドに登録していたから、データはあるんだけど……その魔道士が引退してから、後釜に座った魔道士が今の宮廷魔道士――軍師らしいんだけど、そいつは魔道士ギルドには一度も接触すらしたことがないようなの。だから、名前も何もわからないのよ。でも、前後の経緯から言って、前任の魔道士が手ずから育てた魔道士だろうとは推測できるけど」


 「その前任の魔道士の名前は? 今どこにいる?」


 リックは重ねて問うた。


 「えーと、そのー」


 「知っているなら教えてくれ、アーシェンカ」


 リックはアーシェンカの瞳を凝視した。


 アーシェンカは顔を伏せた。店の中をちろちろと見ては周囲を気にしている。


 「これって、この町ではタブーの話題なのよね……悪いけど……」


 「割り増しを払うぜ」


 「特別に話してあげるわ」


 豹変してアーシェンカは背筋を伸ばした。それでも、店の中をもう一度見渡して、周囲の客がそれぞれの会話に没頭していることを確認した。


 「……わたし、その頃まだ生まれていなかったから、聞いた話なんだけど……今から三十年ほど前のこと、このオーンの魔道士ギルドは最盛期にあったの。優秀な魔道士が数多くいて、学問も盛んだった。この時代にたくさんの呪文が発見され、実用に耐えるまでに磨かれたというわ。その時期、オーンのギルドマスターに就いていたのは、ブラームという名の魔道士。オーンの歴代のギルドマスターの中でも隔絶した力量の持ち主だったというわ。このブラームのもとでオーンは揺るぎない地位をこの大陸の中で得たのだけれど……」


 アーシェンカは声をいっそう低くした。リックもダイモンも思わず身を乗り出した。


 「ある時、突然にブラームが切れてしまったのよ。ギルドを閉鎖し、新しい秩序を構築するとかいって、暴れ始めた」


 「暴れた……?」


 「魔道書の発禁に焚書。異端思想の駆逐と称して有力魔道士を投獄したり、あやしげな神像を建てようとしたり、もうめちゃくちゃ。ついには、魔道士帝国を建設すると吹き上げて、魔道士たちに甲冑を着せて戦争を始めようとした」


 「ううむ」


 「それに反対して立ち上がったのが、当時はまだ中堅だった青年たちの集団。その指導者が現在のギルドマスターのモス・フェル大導師よ。オーン中の魔道士が真っ二つに分かれて殺し合った。とにかく、強力な魔道士が揃っていたから、それはもう凄惨な戦いになって、オーンの人口は三分の一になっちゃったってことよ。まだ、その時の記憶が残っている人たちにとっては嫌な話よね。だから、この話題がオーンの人々の間で出ることはないわけ」


 「おいおい、肝心な話の続きはどうしたよ」


 「続きはこうよ……。戦いはモス・フェル大導師側の――当時はただのモス・フェルくんだったけど――勝利に終わったわ。ブラームはオーンから逃げ落ちた。そして、彼が転がり込んだのが……」


 「グルムコクランというわけか。なるほど、それでわかった。オーンの魔道士ギルドがゼルクブルグ自治共同体にやけに肩入れしているわけがな。オーン魔道士ギルドにとってグルムコクランは、仇敵を受け入れた憎い国というわけだ」


 「まあそんなところね」


 アーシェンカは肩をすくめた。


 「で、パペットマスターってのは、そのブラームの弟子というわけなんだな。で、そのブラームは今どうしているんだ」


 ダイモンは性急に訊く。


 アーシェンカは持て余したように軽くため息をつく。


 「ブラームその人かどうかはわからないけど、十八年前、ちょうどブラームがグルムコクランからも姿を消した頃、一人の魔道士がイズーという町に入ったという話があるの。イズーについてはさっき説明したわよね。当時、イズーは廃墟として完全に放置されていたし、ゼルクブルグ自治共同体とグルムコクランの対立も今ほどじゃなかったから、たいした問題にはならなかったみたいなんだけど。一応、監視のためにオーンの魔道士ギルドに自治共同体から依頼があったらしいのよ。で、イズーに魔道士ギルドから派遣された魔道士が入ったんだけど、何者も発見できなかったという報告書が提出されているわ。それ以来、ブラームの消息もふっつり途切れているのよね」


 「イズーか……」


 リックは呟いた。


 「おいおい、もしかして、次の目的地はイズーだと言うんじゃなかろうな? イズーっていえば、そこに向けて今グルムコクランの大軍が押し寄せつつあるんだぞ。おれたちが着いた頃には、戦場になっているぜ」


 「グルムコクラン軍を追う。グルムコクラン軍の動きとハッシュの町への襲撃は無関係ではないと思う。それならば、パペットマスターがグルムコクランの軍師であるという推理は外れていないはずだ。だから、おれは行く。グルムコクラン軍が行くというなら、おれもイズーへ行く」


 リックは立ち上がった。財布から貨幣をひと握りつかみ出した。それをアーシェンカの小さな掌に乗せた。三十ザンクはあるだろう。リックの持ち金のかなりな部分を占める額だ。それを惜し気もなく渡した。


 「ありがとう、アーシェ。きみのおかげで、自分の進むべき道が見えたよ」


 「はあ、どういたしまして……」


 茫然としてアーシェンカは呟いた。


  


 「おい、アーシェンカ・ウィザードスプーンじゃねえか」


 突然、だみ声がした。


 アーシェンカはその声に激しく反応した。まずい、という表情が満面に広がる。


 声を掛けてきたのは、目つきの悪い若い男だった。その男は五人くらいの仲間を引き連れている。いずれも風体からならず者であることがわかる。


 「たいした景気じゃねえか、ああ? おててに金をじゃらじゃら乗っけてよお。これなら今月分の利息だけは何とかなりそうだなあ」


 借金取りらしい。いや、正確にはその用心棒のご一行だ。


 「あや、いや、これはわたしの食費にしようかなって」


 アーシェンカはうろたえつつ、金を服のポケットに突っ込もうとした。


 「待ちな。借りたものを返さないというのは、悪いことだぞ」


 用心棒の若者は、恐い顔をしてアーシェンカを睨みつけた。


 「そりゃそうですけど、ね」


 アーシェンカは頭をかいた。ならず者の用心棒に説教されても反論できない情けなさが仕草にあらわれていた。


 「とにかく、世の中の決まりには従わねえとな。金を渡してもらおう」


 「やだ」


 アーシェンカは拒絶した。そうだろう。今日はお腹一杯になったからいいが、明日からのことを考えると、この金は貴重だ。


 「渡さんか、こら!」


 「いやだ、いやだ、いやだ!」


 用心棒の若者とアーシェンカは揉み合った。用心棒はアーシェンカの手に握られた貨幣をもぎとろうとしている。


 「おいおい、どうする?」


 ダイモンがあきれ顔でリックに訊いた。


 リックは無言で立ち上がった。


 若者は振り返った。狂暴な表情だ。


 「なんだ、てめえは!」


 「女の子相手にみっともない真似はよせ」


 仕方なくリックは言った。どちらかというと、用心棒の行動の方が正しいような気もしないではないが、行きがかり上、アーシェンカをかばわねばならないだろう。


 「てめえはっ! そういう甘いことをいうやつがいるから、この踏み倒し魔が増長するんでい! まったく、魔法を取立人の駆逐に使いやがって……なんちゅーやつだ!」


 確かにあれはたまらないものがある、と内心リックはうなずいている。


 「だが、力ずくというのは感心しない。後日、改めて彼女の部屋を訪ねるがいい。それで、金を返してくれるよう交渉するがいい」


 「それで返してくれると思うか、このガキが?」


 「ちっとも」


 と言ったのはアーシェンカである。反省の色はさらにない。


 「こいつぅぅぅーっ!」


 若者はアーシェンカの手首をきつく握り締めた。


 「いた、いた、いたーい! リック、助けて!」


 「よせっ!」


 女の子の苦痛の声を聞いてはやむを得ない。リックは男の肩を掴んだ。


 やれやれ、というようにダイモンがゆっくりと立ち上がった。自分の荷物とリックの荷物をさりげなく取り上げている。


 乱闘が始まった。


 


 


       4


 


 リックとダイモン、そしてアーシェンカは道を急いでいた。


 ひどい格好になっている。


 リックの髪の毛はちりちり、ダイモンの服の袖も焦げている。


 アーシェンカだけは無傷のようだが、それでも髪は乱れ、頬が煤けている。


 「まったく、あんなせまい店で炎系の魔法なんぞ使いおって!」


 ダイモンが足を急がせつつ、毒づいた。


 「だって、あいつらが先に剣を抜いたんだよ! 刺されたらどうすんのさ!」


 アーシェンカが抗議するように言う。


 ならず者たちとの喧嘩でアーシェンカが使った魔法がつい暴走した。ドゥーム・ホタンに熱を持たせたものが四方八方に飛び散り、アーシェンカの制御を逸脱して飛び回ったのだ。


 「文字呪文は術者の心位が威力に影響するから、身の危険を感じるとついつい暴走しちゃうのよね」


アーシェンカは言い訳がましく言う。


 そこに。


 「店を全焼させたのはまずかったな」


 と、ぽつりとリックが言う。


 そのぽつりがアーシェンカには堪えたらしい。声が弱くなった。


 「わざとじゃないのよ。ほんとなんだから」


 「信じるけど」


 リックはアーシェンカを見やった。


 「店が焼けたのは事実だ。で、オーンの警察機構はどうなっている?」


 奇跡的にも死者も重傷者も出なかったのは幸いだったが、それでも店を焼かれた店主は黙ってはいまい。しかるべき筋に訴えでることは間違いない。


 「治安維持も魔道士ギルドが受け持っているから……魔道士による治安維持組織があるの。それが警察権も持ってるわ」


 アーシェンカの声には元気がない。静かすぎるリックの言葉に、少しずつ自分がしでかした事の重大さがわかってきたようだ。


 「冗談じゃない。お縄はごめんだぜ。店を弁償することもできんしな。トンズラだ」


 ダイモンが吠えるように言った。


 「じゃ、わたしも」


 アーシェンカが言いかけるのを、ダイモンは制した。


 「だめだ。おまえはここで、ちゃんと罪の償いをしな。可哀想じゃねえかよ、あの店の店主が」


 「わたしだって弁償なんかできないわ! それに、あの店も魔道士ギルドの保険組合に入っているはずだから、店の再建は無償でできるわ!」


 アーシェンカは言い張った。


 「それは本当か?」


 リックが訊いた。もしも、そうなら少しは罪悪感は減る。


 「本当よ。その再建費用は魔道士ギルドの予算から出るわけ。もしもわたしが捕まっちゃったら、その分はわたしが負担しなけりゃならなくなっちゃうけど……」


 「ま、当然だ。善良な魔道士たちが納めた上納金を、こんな不良娘のために浪費していちゃ、無駄遣いが過ぎるってもんだ」


 ダイモンが吐き捨てた。


 アーシェンカは顔をぷいとそむけた。肩が震えている。


 泣いているのでは、とリックは思った。


 「おい、言い過ぎだぞ、ダイモン」


 「気をつけろよ、リック。あの娘っ子、また指で字を書いているぞ」


 ダイモンが腰を落として用心しながら、囁く。


 リックの顔から血の気が引く。


 }*{


 アーシェンカの指が文字呪文を描き出す。


 その瞬間、巨大な炎の球体が空中に出現した。


 「目撃者であるおれたちを消す気かぁぁぁ!?」 


 「ま……まさか!」


 ダイモンとリックはうろたえた。


 魔道士と闘う場合は、呪文が完成する前に攻撃を仕掛けねばならない。アーシェンカがリックたちに害意を持ったとするなら、その難から逃れるためにはたった今、アーシェンカを斬らねばなるまい。


 「信じられない……!」


 「甘いぞ、リック!」


 なじるダイモンだが、彼も戦斧を取り出すことをためらっている。


 「サラマンデル・スフィア!」


 アーシェンカの声が響いた。


 炎の球が宙を猛烈な速度で疾走した。


 リックとダイモンに向かって来る。


 「頭を下げなさい!」


 アーシェンカの声にリックとダイモンは鋭く反応した。身体を沈めた。


 その頭上すれすれを炎が通過する。


 じゅっと音をたてて、リックの髪の先端が蒸発する。凄まじい高温の炎だ。ドゥーム・ホタンなどは問題にならない。


 炎の球は、まっすぐに道の行く手に突き進んでいる。


 だれもいない。


 いや。


 ふっ、と人影が現れた。


 その人影は、すっと右の手を上げた。


 炎の球がその手の前で砕け散る。


 「うそっ!?」


 叫んだのはアーシェンカだ。


 自信満々で放った術を跳ね返されたのだ。


 「先制するに、まずもって己の持てる最強の文字呪文を使うとは……よい心掛けだ」


 人影が、褒めた。枯れた、いい声だ。老人らしい。


 「その声は……モス・フェル大導師ですね」


 アーシェンカが気落ちしたような声で言った。術を破られた動揺はもはやない。破られて当然の実力差を自覚しているらしい。


 「モス・フェル……大導師?」


 ダイモンの声が跳ね上がった。


 「そういや、さっきの話にも出て来たような……?」


 呟きながら、行く手に立っているちいさな人影を見ている。


 人影がゆっくりと歩を進めるにつれ、そのシルエットがはっきりする。


 暗い灰色のフードつきマント。フードの下からのぞく顔は柔らかく微笑んでいる。


 年齢は五十になるかならぬかであろう。人間としての年輪を感じさせる深い縦皺が眉間を貫いている。それでいて剣呑さを感じさせない、春の風のような豊かさを備えている。


 右手は、本人の身長をはるかに超える長い杖を握って地面を支えている。やや、右脚を引きずるようにしている。


 男は眼を細めてアーシェンカを見た。


 「久方振りだな、アーシェンカ。前に会ったのは、フィネガットの葬儀の時であったな。あれから、ふた月にもなるか……」


 「その節は香典ありがとうございました、ギルド・マスター」


 アーシェンカはぺこりと頭を下げた。


 「ギルド・マスターだぁ!?」


 ダイモンは素っ頓狂な声を出した。


 リックも茫然としている。


 名高い魔道都市オーンのギルド・マスターといえば、大陸全土でも一二を争う大魔道士である。そのような人物と、白昼―――といっても、そろそろ陽は傾こうとしているが―――町中で出くわそうとは、まったく驚くべきことであった。


 いわんや、彼らにとって魔道士ギルドとは追手たるべき存在ではないか。


 思わず逃げ腰になるダイモンとリックを、モル大導師は見遣った。といって、目はフードの下にある。だが、そのフードを突き破るほどの強い視線をこの偉大な魔道士は発していた。


 「それなる御仁たちは、何やらわたしと会ってはまずいと思うておられるようだな。アーシェンカや、おまえ、また何か騒ぎを巻き起こしたと見ゆるな」


 アーシェンカはすねたように鼻を鳴らした。


 「大導師さまは、すべてご存じなんでしょう。とぼけなくても、いいです」


 「店を一軒焼いたそうだな」


 あっさりとモル大導師は言い当てた。


 「これでは、フィネガットの跡目を継がせるわけには参らぬなあ」


 「えーえー、そーでしょーとも」


 あきらめきった表情でアーシェンカは腕組みをした。


 モス・フェル大導師の穏やかな声が続く。


 「それに、その一刻いちじかん前には、客として訪のうた二人の男の目を光で焼いておるし」


 腕組みしたままアーシェンカはずっこけかかる。


 「おれたちのことか」


 ダイモンが目を丸くした。リックも、魔道士ギルドの情報収集力には舌を巻いた。この分では、アーシェンカと交わした会話もすべて筒抜けであったと考えられる。


 「おい、この魔道士、ギルドマスターといったな、本物か?」


 ダイモンが声をひそめてアーシェンカの耳元で囁いた。


 「モス・フェル大導師。魔道都市オーンを実質的に治めている魔道士ギルドを束ねるギルドマスター。んで、わたしの元のお師匠さま。フィネガット先生のところに来たのは、大導師の口利きがあったからよ」


 アーシェンカは声を低めることはなく、素の声で淡々と答えた。ひそひそ話をしても何の効果もないことをアーシェンカは知っているのだ。


 モス大導師は、アーシェンカたちの会話を黙殺して、言葉を発した。


 「アーシェンカよ。わたしはフィネガットの葬儀の夜、おまえに言ったはずだな。よく修行に励み、やる気を見せれば、営業許可も出そう、ギルドへの復帰も認めよう、とな。だが、それからのおまえの行状はけっして褒められたものではない」


 モス大導師の声には説教じみた響きが混ざっている。


 「ギルドが命じた謹慎処分を守らず、あちこちで愚にもつかぬ魔法売りをやり、口先三寸を弄して借金を重ねるとは……」


 「すべて貧窮に責任があります」


 アーシェンカはきっぱりと言った。


 「それで話が済めばよいのだが、店を焼かれた者、借金を踏み倒された者たちはそうは思うまい」


 「う」


 アーシェンカは詰まった。どうにも分の悪い問答である。


 たたみかけるように―――といって口調はいたって穏やかなのだが―――モス大導師は言葉を続ける。


 「われわれ魔道士ギルドは、このオーンの治安を守らねばならぬ。となれば、おまえたち―――三人ともだぞ―――を捕縛せねばならぬ」


 「えっ!?」


 「おれたちもかぁ!?」


 リックとダイモンは顔を見合わせた。


 アーシェンカは力強くうなずく。


 「当然じゃない。元はといえば、あんたたちがあのパブにわたしを連れて行ったからこそ、あんなことになったんでしょ」


 「あのな! どういう神経をしているのだ、おまえは」


 ダイモンがアーシェンカを睨む。負けじとアーシェンカも睨み返す。


 「こーゆー神経よ、悪い!?」


 「悪い! 最悪だぞ、おまえ!」


 「路上であまり口論せぬように。今はわたしの張った結界の中にいるゆえ余人の目には触れんが、普通だとけっこう失笑を買う会話であるぞ」


 モス大導師がたしなめた。


 「さて……話を戻そう。すなわち、おまえたちはオーンの治安を乱した浮浪人として処断せねばならぬ。ならぬところだが、そうはせぬ」


 と、話の方向が転がった。


 三人は目を瞬いた。


 「おまえたちをこのまま放免しようというのがわたしの主旨である」


 「ありがとうございます、大導師さま!」


 すばやくアーシェンカはお辞儀をし、リックとダイモンを促した。


 「じゃ、行きましょ!」


 「これ、理由を聞かぬか」


 モス大導師が声を少し高くした。


 「どうせ、とんでもない交換条件をだす気なんでしょうが!?」


 アーシェンカが首を横に激しく振って言う。


 「ばれたか」


 へろり、モス大導師は舌を出した。びっくりするほど長い舌だ。


 「いやなに、その若い方がされた話がおもしろうてのう。ぜひとも、イズーへと行ってもらいたいと思ったのだよ。ついては、アーシェンカよ、おまえは彼らと行動をともにし、イズー行きを助けるのだ」


 「えーっ!?」


 あからさまにいやそうな表情をアーシェンカはした。


 「不満か、アーシェンカ」


 「だって、大導師、相手の魔道士は魔道博士を自称しているんですよ。それに目的地が、ブラームが消息を絶ったというイズーであるっていうのが気になるし……わたしには荷が勝ちすぎると思うんですけど」


 悪びれることなく、アーシェンカは理由を述べた。


 「イズーへ彼らを送り届けるだけの仕事だ。ブラームにまつわる二十年来の問題を解決せよ、などとは一言もいってはおらぬ。それに、フィネガットから奥義を伝授されたおまえだ。充分な力量を持っていると思うがのう?」


 モス大導師は涼しい顔で受け流す。アーシェンカの表情が曇った。


 「……パブの弁償金はギルドが支払ってくれます?」


 「よかろう」


 「千里眼屋のライセンスを再発行してくださいます? あ、名義はわたしでですよ」


 「ま、そうしてやってもよいぞ」


 「借金もチャラにしてくださいますよね? ギルド命令で」


 「そうはいかぬ。借金は、町の金融業者相手にしたものだろう。ギルドがとやかく言える問題ではない」


 モス大導師は口元に苦々しい歪みを含ませた。


 アーシェンカはそんなモス大導師の不機嫌を完璧に無視して言う。


 「なら、さしあたってはギルドが金融業者に返済してくださいな。そうすれば、債権はギルドに移動するわけですから、その上でチャラにしていただければ結構です」


 「調子に乗るではない。パブでの一件を見逃してやるだけでも十分な見返りだぞ。その上にライセンスに借金の肩代わりだと? いいかげんにせよ」


 モス大導師は声にわずかに怒気を含ませた。


 だが、アーシェンカは譲らない。


 「イズーへ向かうとなれば、その道行きはグルムコクラン軍によってすでに制圧された敵地です。命を賭けた旅になるはずです。その代償にこの程度のことは決して理不尽なものとは思いません。なんでしたら、わたしはここで大導師さまに捕縛されてもかまいませんよ。それで大導師さまがお困りにならないのであれば」


 「……へんなところばかりフィネガットに似よってからに……」


 モス大導師は負けを認めたらしい。


 「お約束していただけますね、大導師」


 アーシェンカが駄目押しをする。


 モス大導師はしぶしぶ首肯した。


 この会話の途中、リックとダイモンは完全に埒外に置かれていた。


 二人の会話が終わった時には仲間がひとり増えていた。


 ギルドマスターのじきじきに人選した魔道士である。同道を拒むことはできなかった。だいいち、そうすれば一行はパブ荒らしの咎で、捕らえられてしまう。


 「そういうわけだから、ついて行ってあげるわ」


 アーシェンカが恩着せ顔で言う。


 リックとダイモンは顔を見合わせて嘆息した。


 


                          (第二章 了)

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