いにしえのイズー

琴鳴

第一章 祭の夜


         緒言



 心惑わされし者の言葉を聞け



 我はあまねく混沌界を統治せし


 法の守護者にして調停者、ケルベール


 されど恋に囚われ


 我が眼は闇に覆われたり


 


 イズーよ、美の化身よ


 我は汝をかき抱き、百万の愛の言葉を紡ぎしも


 汝の心は虚空にあり


 汝の想う者の名は戦神いくさがみトリスタム


 


 我が憎しみは胸を焼き


 自ら存する法を破り、トリスタムへと害なせり


 法の護人がみちを外れ


 憎き恋敵を虚空へと追放せり


 


 イズーよ、真なる美よ


 汝は我が手に落ち、我が望みはかなえり


 なれど汝は我が抱擁を拒み


 おのが自身を白銀しろがねへと封じ込めたり


 


 心迷いたる者の嘆きを嗤え


 


 我は自らの誤りを思い知り


 自ら罰し戒め、ここに一遍の詩編を残すものなり


 千年の時を経て恋人たちは再びまみえ


 永劫の時をともに過ごさんことを―




 この混沌界に語られる言葉が尽きるその時まで――



         「根源の書」ウスタクラパ写本 巻の三より抜粋



 

           1


 祭の夜が来る。


 そう思うと、いつもはふさぎがちの心も浮きたつから不思議だ。


 リック・スクリードは一日の仕事を終え、土埃にまみれた服を着替えると町の広場へとでかけた。


 通りにはすでに人があふれていた。


 みな出来るかぎり着かざっている。年に何度と袖を通すこともない晴れ着をまとった娘らがさんざめく。


 (きれいだな)


 リックはぼんやりと考えている。


 (――でもクレリアほどじゃあない)


 リックは脳裏に、銀の髪の少女の姿を想いえがいた。


 抜けるように白いなめらかな肌、髪と同じ色を映す瞳、控えめな微笑みをたたえた口許―――胸が痛くなる。


 神殿にある女神像にそのまま血を通わせたらクレリアになるのではないだろうか。


 (でも、きれいなだけじゃないんだ、クレリアは)


 ふっと遠くを見るときの、クレリアの憂いを含んだ横顔。町の子供たちと遊んでいるときの天真爛漫な笑顔。リックの話を聴いているときの真剣な面差し。それらのすべてがクレリアの魂の清浄さをしめしているように思える。


 (クレリアも祭に来るだろうか……)


 そう思って、あわててリックは頭をふった。


 (だめだ。おれにはやることがある。そのために祭に行くんだ。クレリアに会うためじゃない)


 太陽は西に傾き、あかねいろの空に暗い紺色がしのびよる。


 辺境の町ハッシュに祭の夜が訪れようとしていた。


 


 ハッシュはさほど大きな町ではない。地方領主ダントン侯の統治する七つの町や村のうちのひとつだ。ダントン侯は、普段は郡都ウルスラから動かない。ために、ハッシュの町の行政は基本的に住民の自治によって運営されている。


 町の収益は農業、畜産が主だ。ルーク街道沿いに位置しているので宿屋や酒場などもあるにはあるが、宿場町というには程遠い。ルーク街道自体、人の行き来の稀な道であるためだ。


 他に特に際立った特産品があるわけでもなく、人々はほぼ自給自足に近い生活を送っている。


 町の周りに高い塀を巡らせ、一応防備は為されているが、辺境ということもあり、ダントン侯もここに守備兵を置く必要は感じていないらしい。


 平和な町であった。


 もっとも、最近は穏やかならざる情勢も伝わっている。


 東の強国グルムコクランの動きが不穏だという。


 ゼルクブルグ自治共同体に対する軍事的な挑発を繰り返しているのだった。


 ゼルクブルグ自治共同体とは、大陸の西部地域の国々が作っている国家間協商同盟の謂いである。商・産業の振興によって国家の枠を超えた共栄圏をつくることを目的としている。ダントン候も自分の領地をそっくりこの共同体に組み入れている。


 この自治共同体が生まれてから三十年近くが経っているが、現在に至るまで分裂せずに機能しているのは、東の軍事国家グルムコクランの脅威ゆえだったと言えなくもない。


 グルムコクランは、王が祭司を兼ね絶対の権威を有する独裁国家であり、軍事国家としても貪婪な膨張の意志を持っていた。この国は国是として西への進出を掲げており、ゼルクブルグ自治共同体にとっては天敵とも呼べる存在だった。


 この十数年間というもの静かだったグルムコクランだったが、数ヶ月前からまた蠢き始めているとの観測があった。


 とはいえ、今はまだそれは軽い示威の範疇から抜け出るものではなかった。


 ために、人々はいつもと変わりなく祭に興じていた。


 


 


 町の広場はごった返していた。


 物売りがたくさん集まっている。


 芸を見せる芸人の一団もいる。


 彼らは街道沿いの町や村を訪れ、こうやって日銭を稼ぐ。今の季節は各地で祭が行われるので、彼らにとってはかき入れ時だ。


 リックは人を探していた。


 昨夜、町に入ったことをリックは知っていた。


この時間帯なら、このもっとも人の集まる場所で商っているはずだった。


 ダイモン・ザース。


 旅の商人であった。十数名からなる隊商を率い、街道を行き来する。


 かなり手広く商売しているという評判だった。


 この男と、リックの父親が親しかった。


 昔は一緒に旅していたこともあったという。


 その縁で、リックはダイモンが町に来るたびに会いに行った。ダイモンもリックに土産を準備し、長話に興じるのが常だった。


 そのダイモンが昨年の祭の夜にリックに言った言葉がある。


 「おれたちと一緒に旅に出ないか、リック。若いうちに色々な土地を見ておくのもいい経験になるぞ」


 その時ダイモンはしたたか酔っていた。リックはダイモンに約束した。


 「今年はまだ借金を返しおおせない。だから一緒には行けないけど、来年は必ず連れて行って欲しい」


 リックの父は今は亡い。リックの父の死後には、粗末な家とわずかばかりの農地、そしてばかにならない額の借金が残った。借金は、リックの母の病を直すためにと注ぎ込んだ薬代であった。高価な薬の効き目もむなしくリックの母は七年前に他界した。リックの父が命を断ったのはそれより二年の後であった。


 それから五年間、リックは十八歳になる今日まで一人で生きていた。


 休まず汗水垂らして働いて、その甲斐あってリックの畑は人もうらやむほど立派なものになった。それに目をつけた町の有力者が、畑を譲るかわりに借金を肩代わりしてやってもよいと言ってきた。リックにとっては願ってもない話だった。


 リックはようやく借金から自由になった。


 ダイモン・ザースを探して、一緒に連れていってもらおうと思った。


 リックは商人になりたいわけではない。


 剣の修行をしたいのだった。


 


 


 リックの父は、この町に流れつくまで、漂白の剣士であった。旅の中でひたすらに剣技を極めようとしていた。


 このハッシュにたどり着いたリックの父は、町に襲いかかった魔物―――ディグーたちと戦う羽目になった。なりゆきというものだ。


 ディグーは砂漠に棲む、巨大なアリジゴクだ。普段は自分の巣から出てくることはない。だが、何年かに一度、繁殖のために平地に集まってくる。交尾し、卵を産む。そのために多くの滋養が必要になるのか、大挙して町を襲うのだ。


 ディグーに襲われた町は悲惨であった。建物はディグーの卵の孵化場となり、人は幼虫の餌になってしまう。ディグーの親は麻酔毒を人間に射ち、仮死状態にして幼虫のために保管しておくのだ。


 リックの父はディグーの大群に立ち向かい、これを撃退した。だが、同時に剣士としては致命的な傷を受けた。リックの父は自らの夢をあきらめ、ハッシュに居着いた。妻をめとり、リックを生した。


 リックは父から剣の手ほどきを受けた。


 子供には過酷な訓練だった。


 だが、父と一緒にいられることは、子供のリックには楽しいことだった。


 その雰囲気に鬼気が潜み始めたのは、母の死後まもなくだった。


 父の態度に苛烈さが増した。


 稽古の時の打ち込みに手加減がなくなった。


 むろん、細いよくしなる木刀で、骨にまで打撃が響くということはなかったが、リックの肌を容赦なく引き裂いた。


 「馬鹿者が! そのような動きで実戦の役に立つか!」


 リックをそう罵った。足蹴にすることもあった。まだ骨柄が細かったリックは容易に蹴り飛ばされた。血まみれの顔でリックは父を見上げた。


 父が鬼にみえた。


 「お前が生まれなければ、おれは、おれの剣技で大国に仕える剣士にもなれていただろう! すべて、お前のせいだ!」


 父はそう喚き、いっそう激しくリックを打ち据えた。


 「せめて、おれの剣技のすべてをお前の体に刻み付けてやる……このようにな!」


 父はリックが昏倒するまで打ち込みをやめなかった。


 そのようにして二年が過ぎ、その間に父は酒のためにさらに廃人に近づいていった。


 そして、酷寒の夜、酒に酔って町をさまよい出て、荒野のただなかで凍死した。


 酒に溺れ、往年の英雄の評判をすっかり失墜させていた父を心から悼む人はいなかった。


 神殿だけが、かろうじて父の亡骸を受け入れてくれた。


 父を弔った朝、リックは父の墓前で物思いに耽っていた。


 (父さんは……おれを憎んでいたんだろうか……)


 墓を訪れる町の人は他にいなかった。かつて、命を賭けてこの町を守った男に対して、人々は冷淡だった。それほどまでに、死に至るまでの数年間、リックの父の行状はひどかったのだ。


 (父さんは強かった。剣士として名をあげるために武者修行をしていた。おれが生まれたせいで、その夢がダメになった……)


 実際は、ディグーとの戦いで得た傷が元で、リックの父は騎士になるのをあきらめたとはわかっているのだが――リックにはそうは思えなかった。


 自分が父の夢を阻んだ、という気がしてならないのだった。


 「あの……」


 背後から声を掛けられた。かすかな震えを帯びたきれいな声だった。


 振り返ったリックは、ひ弱げな少女が一人立っているのを知った。


 少女は長い髪を風にたゆたわせていた。銀色の不思議な髪だ。


 リックは言葉を失った。その可憐さに息を飲んでいた。


 少女は、そっとリックに手紙を差し出した。


 「これ……神殿長さまから」


 リックは手紙を受け取った。


 「神殿長さまが……?」


 ハッシュの町には風の神ヴェルンドの神殿がある。そこの神殿長は唯一、死の直前までリックの父とも交誼があった人物だった。だからこそ、リックの父が行方不明になった時も人を手配して探してくれ、こうして墓も作ってくれた。リック一人では、父を埋葬してやることはできても、墓まではどうしようもなかっただろう。


 「あなたのお父さまが神殿長さまに預けておられた手紙ですって」


 リックは無言で封を切った。確かに筆跡は懐かしい父のものだ。


 文面を目で追った。


 


 


 リックよ、おまえはわたしを怨んでいるだろうか。怨まれてもやむを得まい。わたしはおまえを非道に扱ってきた。許してくれとは言わない。ただ、理解して欲しいのは、わしはおまえに自分の轍を踏んでもらいたくはなかったのだ。


 おまえには剣の天稟がある。このわたしが嫉妬を感じるほどに、だ。だが、その才能を生かそうとすれば、結局戦いに明け暮れる人生を送ることになる。そして、夢破れればわたしのような敗残者になってしまう。


 それをわたしは恐れた。それゆえにわたしはおまえを過酷に扱った。そうすることにより、おまえは剣の道を捨て、平凡な生活にこそ価値を見出すのではないかという期待を抱いた。


 だが、わたしは間違っていた。おまえの人生を決めるのはおまえ自身でなければならない。


 リックよ。もしも、剣士の道を志すというのならば知るがよい。剣の道とはおのれのためにあるのではない。剣とは敵を傷つけ自分の命を守るためだけのものであってはならぬ。剣は捧げるものなのだ。自分が貴いと思うものに、かけがえがないと思えるものに。殉じてなお悔いなし、とするべきものなのだ。


 この町に来るまでのわたしにはそれがわからなかった。この町に偶然たどりつき、魔物と戦い、剣士としての未来を断たれた時にも、わたしは気がつかなかった。ずっと、満たされぬ想いを抱いていた。


 だが、今になって……ようやくわかったのだ。わたしは人生を誤っていたのではなかった。これで正しかったのだ、と。なぜならば、わたしは母さんを得て、おまえを得た。それがわたしの勝利の証しであったのだ、と。


 わたしの体は、しかしもう長くはもたない。このままでは日を置かずして床についてしまうだろう。そうすれば、おまえはまた借金を重ねてでも薬を買おうとするかもしれぬ。それでは、おまえの人生が立ちゆくまい。されば、わたしは自分の体が動くうちに、自分の人生に決着をつけるつもりだ。


 さらばだ、リック。こんな形でしかおまえに道を示すことができなかった父を嗤え。


 


 


 「父さん……」


 リックは茫然として宙を見詰めていた。


 自分は父にとってどういう息子だっただろう。


 ほんとうに父の真意を汲んでいたのか。折檻されていると思ったことはなかったか。ろくに働かぬ父をうとましく思ったことが一度もなかったか。


 自らに恥じるところはないのか、リック・スクリード。


 そう思うと、慟哭が突き上げた。


 リックは地に伏して泣いた。声を上げて泣いた。


 少女の前であることを忘れた。一切の心の備えが弾け飛んでいた。


 子供に戻ってリックは泣きつづけた。


 「リック」


 少女の声がリックのすぐ側で聞こえた。


 冷たい小さな手がリックの髪を撫でた。


 「気を落とさないで、あなたは立派だったわ……あなたのお父さまも充分にそのことをおわかりになっていたはず……」


 リックは少女に取りすがった。


 少女は優しい表情を浮かべていた。すべての存在の母であるかのような暖かさと広さを有していた。リックはその表情の中に確かに母を見ていた。


 少女の名はクレリア・エネス。


 ヴェルンド神殿に暮らす孤児であった。


 クレリアは天涯孤独の身だった。両親の名前すらわからない。十七年前、生まれたばかりの赤ん坊の状態で神殿の前に捨て去られていたのだ。小さな町だから、町の者が捨て子などはできはしない。すぐに露見する。おそらくは旅の者が捨て置いたのに違いない。


 やむなく、神殿で育てることにした。


 名前はクレリアとした。赤ん坊のむつきの中に銀の髪飾りが入っていたためだ。おそらくは、赤ん坊の母親が形見のつもりで持たせたものだろう。それにちなみ、銀を示す古い言葉クレリアを名前として選んだのだ。これに、神殿長の姓であるエネスをくっつけて、クレリア・エネスと呼ぶことにした。


 クレリアは美しい娘に育った。


 美しすぎる娘、といった方がよい。


 その銀の髪、銀の瞳は、もはや尋常ならざる美貌としか表現できないものだった。


 クレリアは神殿で働いていた。神殿長や神官たちの身の回りの世話に始まり、町の子供の世話など、様々な奉仕活動に従事していた。


 リックはクレリアと親しくなった。


 だが、二人とも普段は忙しく、同じ町に住んでいてもろくに顔を合わせることはなかった。


 たまに会うと、話し込んだ。リックは彼女にだけは自分の夢を話した。


 剣士になりたい、そう、語った。


 クレリアは、リックの話を真剣に聴いてくれた。そして、励ましてくれた。それが、リックにはたまらなくうれしかった。


 


 


 祭りは夜に入り、活況を呈していた。誰もが笑いさざめき、楽しげだった。


 リックは町の広場を歩き回り、ダイモン・ザースの姿を捜した。


 ダイモンの店はほどなく見つかった。露店だ。各国のめずらしやかな品物が並べられ、客が群がっている。こういう時でもなければ、買いたくても手に入らない品ばかりだ。


 絹の布地、珊瑚の櫛、真珠の入ったブローチ、毛皮製品、磨きこまれた鏡―――女性が喜びそうな品々だ。


 店番はダイモンの部下の男たちがしていた。リックは彼らとも顔見知りだ。ダイモンの居場所を訊いた。


 「親方なら、渋い顔で町の外れの方へ行ったぜ。なんか、やな予感がするとか言いながらよ」


 男たちは客との応対の合間にそう教えてくれた。


 リックは礼を言ってその場を離れた。


 ダイモンの大柄な身体を人ごみの中に捜しながら歩いた。


 祭りの群集から出た。町外れ……といってもあてはない。人通りの薄い路地を歩いた。


 と。


 リックの足が止まった。


 暗い路地の奥、せまい袋小路で何やら複数のダミ声が聞こえてくる。


 リックは酔っぱらい同士の喧嘩だろうと思った。祭りの夜だ。多少羽目を外したところでどうということもない。


 だが、声に女のものが混ざった。高く細く、それでいて芯に強さを秘めた声。


 リックの心音が跳ねあがった。


 クレリア、ではないのか。


 リックは歩を速めた。


 


        2


 「きれいな顔をして、そうつれないことを言うなよ」


 若者は唇を歪め、酒臭い息を吐き出した。


 袋小路は暗い。だが、真っ暗というわけではない。広場に焚かれている火の明かりがわずかに入っている。闇に馴れた眼ならば充分にあたりの様子は見て取れる。


 「ああ? 神殿の巫女といえば、春をひさぐもまた功徳だろうが?」


 「わたしは、リクスヴァ神殿の巫女ではありません」


 クレリアは毅然とした態度で言った。


 愛と美を司る女神リクスヴァの神殿巫女は、確かに神事として男とも女とも寝る。そうして得た金や品物を神への供物とする。


 だが、ヴェルンド神殿は違う。清貧をむねとし、大地の豊穣を祈る神殿なのだ。


 「たいした違いがあるものか。考えてもみろ、おれの親父が神殿に毎年多額の寄進をしているがゆえに、おまえたちは飢えずに済んでいるんだろうが」


 若者は胸をそびやかせた。


 若者の回りには三人もの男が立っている。取り巻き連中だろう。いずれも普段は平凡な青年だろうに、今夜ばかりは酒と宴の興奮が精神の平衡を砕き去っているらしい。


 「このディレック・ホーン、悪いようにはしないぜ。おまえもおれたちの相手をすれば、もっときれいな服だって着れるんだぜ……なぜ、いやがるふりをする?」


 ディレック・ホーン。ハッシュの町の自治組織の有力者、アラム・ホーンの息子である。


 ディレックは、クレリアの細い手首をつかんだ。


 クレリアの身体を自分の胸元に引き付けた。


 ディレックの目が血走っている。


 「なんとか言ってみろよ、クレリア。おまえはしょせん孤児だ。このきれいな顔と身体を使って楽な生活がしたいと、おまえだって考えなかったわけではあるまい」


 クレリアは表情を押し殺している。その無表情さは、類まれな美貌ゆえに悽愴なものをすら感じさせる。


 ディレックは逆上した。


 クレリアの身体を建物の壁に押し付けた。


 むりやり、上体をかぶせていく。


 「放してっ!」


 クレリアがたまらず悲鳴を放った。


 「おとなしく……しろっ!」


 ディレックは吠えた。クレリアの小さなおとがいをつかみ、固定した。


 クレリアの銀の瞳が、恐怖とそして怒りに震えていた。


 ディレックの顔がクレリアの首筋に埋まった。


 


 「やめろっ!」


 リックは飛び出していた。


 男たちは驚いて振り返った。


 だが、リックの顔を見て余裕を取り戻した。


 「なんだ、英雄さまのご子息どのではないか」


 「のこのこと祭りに出ていらっしゃったのか」


 言葉遣いに蔑みの色が濃い。


 ディレックが最後に振り返った。


 頬に笑みが立ち上る。


 「おお、リックか。畑を明け渡す準備はできたのか? おれの親父が高く買ってやらなければ、借金を返せないんだろうが?」


 「畑を譲るのはあんたにじゃない。ホーンさんにだ。それに、あの畑は今後数十年にわたって収益を上げるはずだ。ホーンさんにとっても損な取り引きじゃない」


 リックはディレックを睨みつけながら言った。リックも頭に血が上っている。壁に押し付けられたクレリアの姿が網膜に焼き付いている。激しい怒りが渦巻いている。


 ディレックはクレリアの手首をつかんだまま、リックを楽しそうに見遣った。


 「何を言いやがる。親父のものはすべておれが受け継ぐんだ。おまえが丹精こめて作った畑もおれの飲み代になるだけさ。自分の立場というものをもっとよくわきまえるんだな」


 男たちは殺気立っていた。酔いもある。クレリアという美しい獲物もある。血が騒いで当然だ。


 男たちはリックに襲いかかった。


 拳が飛んできた。


 リックは不意を突かれた。いきなり殴りかかって来るとは思っていなかった。


 だが、体が先に反応していた。


 殴りかかってきた拳をかわし、その肘を下から抱え込んだ。


 そのまま、肘関節をきめ、前に体重をかける。


 「ぎゃわわっ!」


 苦痛の悲鳴が男の口をついて出た。


 たまらず自分から腰を落とす。


 あとの二人が一拍遅れて襲って来る。


 両側から同時に蹴り足を飛ばして来た。


 かわせない。リックは両肘で防御した。


 衝撃が肺腑までを震わせる。


 だが、なんとか耐えた。


 次の攻撃が来る。


 また蹴りだ。今度は頭を狙っている。


 リックは身体を沈めた。


 二人の男は、ぶざまに体の均衡を崩した。


 左側の男にリックは突進した。


 軸足の膝のあたりに肩からぶつかった。


 男は背後の壁に後頭部を打ちつけ、失神した。


 もう、一人。


 リックは逆上しながら、とてつもなく心の一部が澄み切っているのを自覚していた。


 どう闘えばよいのか。


 敵の攻撃を見切り、その崩れを打つ。


 どう動けばよいのか。


 敵の意表を突きつつ、無駄な動作は極力排する。


 そういう感覚が肉体のものとして立ち上って来るのだ。


 三人目の男は逃げ腰になっていた。当然だろう。目の前で二人の仲間があっさりとのされてしまったのだ。


 わめきつつ、ディレックの方に逃げ出した。


 ディレックは怒鳴りつけた。


 「馬鹿野郎、うろたえるな!」


 ディレックはクレリアを壁に押しやると、拳を固く握った。


 「リック、自分のやっていることがわかっているんだろうな」


 ディレックは、じりり、土を鳴らして接近した。


 「この町に住めなくなるんだぜ……いいのかよ」


 「もとより、そのつもりだ! こんな町、いつだって出てやる!」


 リックは叫んだ。


 「そうかよっ!」


 ディレックが拳の中に握っていたものをリック目掛けて投げ付けた。


 壁の煉瓦の破片だ。リックが他の男たちと闘っているあいだに、壁から調達したらしい。


 煉瓦の破片は、掌にすっぽりと入るほどの大きさだ。それがまともに額にぶち当たった。


 「うっ!」


 悲鳴を上げざるを得ない。一瞬頭蓋骨が割れたかと思った。


 「いまだっ、やれっ!」


 ディレックがわめき、一人残った男は元気を取り戻してリックに殴りかかった。


 顎にまともに入った。


 リックの意識が白くなる。


 リックは地面にぶっ倒れた。


 額に熱いものを感じた。出血しているらしい。


 顎と脳天も痺れていた。


 動けない。


 「いいざまだぜ、リック!」


 ディレックの哄笑が沸いた。


 靴の爪先がリックの顔面を襲った。


 乱撃だ。リックの顔がでこぼこになる。


 「やめて! お願い!」


 鋭い悲鳴が聞こえた。


 クレリアの叫びだ。こんなに切迫したクレリアの声は初めて聞く、とリックは朦朧と感じていた。


 「お願い……もうそれ以上、リックを傷つけないで……」


 泣いている。クレリアが……。


 「こりゃあ、驚きだ。人形のクレリアが泣いたぞ。おまえ、見たことあったか?」


 ディレックは、仲間の男に声を掛けた。心底驚いているようだ。男も目を丸くしている。


 「いいや、クレリアっていやあ、憎たらしいほど気が強くて、どんな仕打ちをされても表情ひとつ変えないって有名じゃないすか」


 「そうだよな。するってえと、こいつは……」


 ディレックはクレリアに近づいた。


 クレリアの視線はまっすぐリックの方に向けられていた。銀の瞳には心配そうな表情があらわになっている。


 「おまえ、こんな男が好きなのか……?」


 あざ笑うようにディレックは訊いた。


 クレリアの身体がびくり、と震えた。


 「図星か……お笑いだな、これは」


 ディレックは言葉とは裏腹に目を細めた。怒りが脳を焼いている。その憤怒が出所を求めて音を立てている、そのような表情に見えた。


 「ようし、クレリア。リックを助けてやろう。その代わり、これからはおれたちの言うことなら何でもきくんだ。いいか?」


 底意地の悪い声だ。


 クレリアは無言でうなずいた。


 「よし、じゃあ、こっちに来な!」


 ディレックはクレリアを強引に抱き寄せた。


(だめだ……クレリア、逃げるんだ……!)


 リックは必死で叫ぼうとした。だが、声が出ない。


(こんな……こんなやつらに簡単に負けてしまうようなものだったのか……父さんとのあの修行は……)


 悔しさが突き上げた。父の墓の前で泣いた自分を思い出した。あの時以上に今の自分は情けない。こんな自分がいやだからこそ、剣士になろうと誓ったのではないのか……!?


 リックは大きく息を吸い込んだ。血液が燃え上がる。全身が、熱い。額からの出血もまるで気にならない。痛みは怒りで上書きされていた。


 リックは立ち上がった。


 驚いたのは、リックの側で執拗にリック身体を蹴っていた男だった。


 リックは男に拳をぶち込んだ。


 腹に二発。これだけで男はうめき、力が抜けた。体が沈むところをもう一発、今度は下から突き上げた。


 男は悶絶した。


 「て……てめえっ……!」


 ディレックはおびえた声を出した。


 腕の中にクレリアを抱いている。


 指をクレリアの腰に這わせていた。


 クレリアはリックを見詰めていた。安堵したような、同時に危ぶんでいるような、そんな表情だった。


 「クレリアを……放せ」


 リックは低く言った。自分の声ではないようだった。ひしゃげている。血でも吐き出しそうな響きだ。


 「このおっ!」


 ディレックはクレリアの腕をつかんでねじり上げた。


 クレリアは苦悶の表情を浮かべた。


 声は立てない。歯を食いしばっている。


 「おとなしく、していろっ!」


 ディレックはわめきちらし、じりじりと位置を移動した。


 袋小路の出口に向かっているらしい。


 途中、リックにのされた男たちがうんうん唸っているのを邪魔っけに蹴り飛ばしながら、進む。


 リックはそれを目で追っている。ディレックの動きを牽制したくても、クレリアの細い腕が折れそうなほどに絞り上げられている。手出しはできなかった。


 ディレックは袋小路の出口に達すると、だしぬけにクリレアを突き飛ばすと、出口に向かって走り出した。


 「クレリア!」


 リックはクレリアの身体を抱きとめた。


 銀の長い髪がふわりと舞った。


 汗のためか額に髪が貼り付いている。リックはそれを指ですくった。


 「怪我はしていない?」


 「わたしは大丈夫。それより、リック、ひどい傷だわ。すぐに手当をしないと」


 クレリアは、うんうん唸っている男たちに視線を向けた。


 「それにこの人たちも放ってはおけない」


 クレリアは言い、一人一人のところに行って、状態を調べ、手早く止血などの応急措置をおこなう。


 「自力で歩ける人はいないみたい。やっぱり誰か助けを呼ばないと」


 リックは茫然とクレリアを見ていた。自分に乱暴を働こうとしていた男たちに対しても、ごく自然に気遣っている。


 博愛主義者なる人々がいる。だが、クレリアの態度には、声高に主義主張を標榜する人たちにありがちな臭みがまったくない。自然の韻律に沿ってあるがままに振る舞っているように思える。


 「さ、リック、肩を貸すわ。神殿まで行きましょう。神殿の人たちに頼んで、この人たちも手当してもらいましょう」


 「ん……ああ」


 リックとクレリアは袋小路を出た。


 


 二人は並んで歩いていた。クレリアはリックの左側にいた。リックの身体を支えようとしている。リックは苦笑しながらも、クレリアがするのに任せた。クレリアの柔らかな身体を間近に感じているのは、リックにとっても幸福なことだったからだ。


 「リック……ありがとう、助けてくれて。わたし、うれしかった」


 小さな声でクレリアは言った。


 リックは照れた。


 「でも……」


 クレリアの声が昏く落ちた。


 「リックはいいの? ホーンさんに畑を売る約束をしていたんでしょ? もしも、その話がだめになったら……」


 「かまわないよ。借金はこれから働いて返せばいい。畑もあるし、家畜もある。金を返しながらでも、暮らすぶんには困りはしないさ」


 「でも、リックは剣士になるのが夢なんでしょ?」


 クレリアの言葉にリックは詰まった。


 苦い想いが胸に広がる。父の言葉が心の奥底で反響している。


 「大丈夫さ。今まで以上に働いて、借金を返しても、それからでも間に合う。ま、人手が少し不足しているけど」


 リックは笑った。畑を広げ、整備することに心血を注ぎ、なかなかの農園を作るには作ったが、その畑を充分に活用することができないのが悩みの種だった。ホーンに畑を譲る気になったのも、ホーンならばたくさんの農夫を使って、効率的に農地を活用できると思ったからだ。


 「あの……」


 クレリアがおずおずと言った。


 「わたしでよければ……お手伝いさせて」


 「え?」


 「変な意味じゃなくて……わたし畑仕事が好きだし、少しでも役に立ちたくて……」


 リックはクレリアの顔を見た。


 クレリアは顔を伏せていた。


 耳まで赤くなっているのがわかる。


 リックの鼓動が高まった。どんどん速くなっていく。リックにはわかる。クレリアの心臓もいま早鐘を打っている。


 リックは身体が震えた。


 自分が言わねばならない言葉はもうわかっている。クレリアもそれを待っていてくれている。勇気を出してきっかけを作ったのはクレリアの方だった。これ以上、クレリアに恥ずかしい想いをさせてはならない。


 と、思った時に。


 二人は路地を出て、広場に戻っていた。


 あっ、と思った。


 広場の光景が変わっていた。


 祭りは終わっていた。熱狂は去っていた。


 そこにあるのは、ただ、恐怖の沈黙


 ――だけだった。


 


 


        3


 


 ディグー―――アリジゴクの怪物の大軍が、広場に押し寄せてきていた。


 人々はしばらく硬直していた。


 それから、絶叫が沸いた。


 我先にと逃げ出し始めた。


 子供が転んだその上を、何十人もの大人たちが踏みつけて行く。


 クレリアが顔を覆った。


 混乱が広場にぶちまけられていた。


 屋台が倒れ、品物がばらまかれた。


 ディグーが鋭い擦過音を立てながらなだれ込んで来る。


 灰褐色の平べったい体に小さな頭、そして不釣り合いなほどにばかでかい顎。この顎の先端に無数の毒針が生えている。


 一匹の大きさは四人家族が座れるテーブルを低くした程度。それが、数十匹も折り重なって襲って来るのだ。


 ディグーの顎が人間の身体を捉えると、人間はすぐに力を失ってしまう。毒が身体に入ると、神経が麻痺する。最低限の神経は機能し生命維持は行われるが、意識は二度と取り戻さない。


 「どうして、あんなものが……」


 リックは茫然として呟いた。


 「今は……繁殖期ではないはず」


 ディグーが群れを作るのは繁殖期だけに限られている。この時期は町の人々も警戒を怠らない。町の周囲に見張り小屋を設け、ディグーの群れを発見すればすぐさま防衛手段を取る。


 ディグーは水気に弱い。群れが狂暴化する前に水を大量に浴びせかけてやると、群れはばらばらになり、脅威は去る。


 だが、今のようになってしまえばもう水をかけたところでどうしようもない。ディグーは完全に狂乱状態であった。


 「リック、あれ!」


 クレリアが指差した。


 リックはその方向に目をやった。


 幼い子供たちの集団が逃げ遅れていた。ディグーたちに取り囲まれようとしている。


 子供たちは泣き叫んでいた。


 だが、大人たちは手をこまねいているだけだ。彼らも自分が逃げるので精一杯なのだ。


 クレリアが、子供たちの方へ走り出そうとしたのを、リックは慌てて止めた。


 「行かせて、リック! なんとか、助けてあげたいの!」


 「おれが行く」


 リックは言った。


 「クレリアは神殿へ逃げるんだ。いいね、ここに残っていたらいけないよ」


 「リック……!」


 クレリアはリックにしがみついた。強く。


 リックの胸に頬を押し付けた。


 魔除けの言葉を囁きながら、リックの胸に指で文様を刻む。


 )@( 


 子供がよくやるまじないの一種だ。


 魔道士がやるのならともかく、クレリアが描くだけでは何の意味もない。


 それでも、リックの胸に勇気が充ちてゆく。素晴らしい効き目があった。


 リックはクレリアをその場に残し、ディグーの群れの中に飛び込んでいった。


 


 リックの姿に気付いて、数匹のディグーがこちらに向かってきた。


しゃっ、しゃっ、という擦過音をたてながら、ディグーは地面をすばやく這う。


 八本の足を忙しく動かしている。


 リックはディグーの顎に気をつけながら、何匹かをかわして走った。


 地面に転がっていた露店の残骸――一壊れた支柱を拾い上げると、それを棍棒代わりにした。


 甲高い悲鳴が耳に届いた。


 子供たちを囲んでいるディグーの群れが見えた。


 十数匹いる。子供たちも何人かすでに襲われたようだ。だが、五、六人の子供は、露店の残骸を盾にして頑張っているようだ。


 「今行くぞ! 負けるな!」


 リックは棍棒で手近なディグーの頭を叩き潰した。


 ぐしゅっといういやな手応えとともに、青臭い匂いが充満する。


 シャギャギャギャギャ!


 ディグーたちがおめきながら、リックの方に向き直った。


 小さな目が真っ赤になっている。攻撃色だ。こういう時のディグーは敵味方が全滅するまで戦いをやめないという。滅びの色だ。


 リックは棍棒を振るった。


 何匹かを殺した。


 だが、ディグーたちは仲間の死体を乗り越えて襲ってきた。きりがない。


 そうこうするうちに、リックも息が切れてきた。


 広場を襲ったディグーたちの大半が集まってきているようだった。


 いつの間にか、リックも包囲されていた。


 あたり一面、灰褐色の平べったい虫で覆われている。


 「くそっ……」


 リックは舌打ちをした。


 手にした棍棒はディグーの体液で緑色に染まっていた。リックの身体も体液まみれだ。


棍棒を持つ手も滑りやすくなっている。


 「このっ……!」


 リックは、飛び掛かってきた一匹を叩き落とした。次の瞬間、別の方向から顎が迫る。


 それをあやうくかわして、着地したディグーの尻を渾身の力で踏みつける。靴の下で、ディグーの腹が潰れるのがわかる。だが、これだけではディグーは死なない。放っておくと、ずるずると動きだし、足元を狙って来る。


 なんとか子供たちを脱出させたい。だが、子供たちの反応も弱まっていた。


 「しまっ……」


 リックは一瞬子供たちの方に気を取られ、ディグーの接近を許した。


 ディグーの顎の毒針がリックの右腕をかすめた。


 激痛が走る。


 棍棒を取り落とした。


 ディグーが一気に接近して来る。棍棒を拾い上げる暇はなかった。


 リックはディグーの顎が大きく開くのを見詰めていた。


 「リック! これを使え!」


 鋭い声がリックの意識を叩いた。


 リックは、光るものが投げ付けられたのを見た。


 それは、抜き身の剣だった。剣は、露店の残骸に突き立った。リックの左手がすぐ届く位置だ。


 リックは左腕一本で剣を引き抜いた。そのまま、最接近していたディグーの体を両断する。


 リックは右腕を持ち上げた。ディグーの毒を受けたはずだが、痺れは残っていなかった。


 「そこはもうあきらめろ! どうしようもないぞ!」


 声が再び届いた。


 リックは声がした方に目を向けた。


 「ダイモン! あなたなのか!?」


 「おうよ、坊主。やはり血は争えねえな! 親父さんそっくりの面構えになっているぜ」


 言いつつ、ざりざり地面を鳴らして歩み寄るのは大柄の中年男だ。


 口髭をたくわえ、丸眼鏡をかけているところはいかにも実直そうな商人ふうだが、身体には無駄な肉がついていない。その体格もあり、かなりな迫力だ。


 ダイモン・ザースである。手には巨大な戦斧を持っている。その戦斧もディグーの血にまみれている。


 「ここには、まだ子供が生き残っている。それを助ける!」


 リックは叫び、露店の残骸に飛び込んだ。


 邪魔をするディグーを五匹、瞬く間に切り伏せた。剣を持ったリックの動きは際立っていた。


 子供たちの白い身体が転がっていた。リックは唇を噛んだ。自分がもっと強ければ助かったかもしれない命だった。


 「助けて……」


 か細い声が聞こえた。見ると、隅にたった一人だけ、小さな男の子が生き残っている。その子のまわりには十匹ものディグーが群がっていた。


 「こっちを向け! この化け物!」


 リックは叫びながら、ディグーに切りかかった。


 ディグーも、新たな敵に攻撃の矛先を変えた。


 いっせいに飛び掛かった。


 赤い小さな目が燃えている。すさまじい憎悪を燃やしている。


 リックはこの時、ようやく気付いた。


 ディグーたちの腹に見慣れぬ紋様が描かれているのを。


 }W{ 


 これは、いったい……?


 考える間もなく、リックは迫り来るディグーたちを薙いだ。


 次の瞬間、リックは身体を沈めて地面を転がり、子供を抱き上げた。


 子供は、五歳くらいの男の子だ。リックの胴にしがみついた。よほど恐かったのだろう。


 「もう、大丈夫だぞ」


 そう力強く言い、子供を左腕に抱え、駆け出した。


 ディグーたちがその進路を塞ごうとするのをリックは剣先で切り開き、広場に飛び出した。


 そこには、ダイモンがいた。


 ダイモンはリックと子供を見て、あきれたように言った。


 「まったく、命知らずの男だ。そんな傷だらけでよく身体が動いているな。ディグーの毒に対する抵抗薬でも飲んでいるのか?」


 「いいや……でもなぜだろう。一度は完全に毒針を受けたのに、すぐに痺れが引いた」


 「ま、生きているんならいいやな」


 ダイモンはリックの肩を叩いた。


 「ダイモン、これは一体どういうことなんだ? なぜ、ディグーが繁殖期でもないのに群れを作って襲ってきたんだ?」


 「おいおい、そんなことをおれに訊いたってわからんさ」


 ダイモンは肩をすくめた。


 「ただ、グルムコクランの軍隊がどうやら東の国境を越えたらしい。これもそれと関係があるかもしれんな」


 「グルムコクラン……東の強国が、ついに……」


 「おれはそれを街道仲間から聞いたんだ。それで気になって町の周辺を歩き回っていたら、虫けらどもを見つけたのさ。急いで知らせようとしたが、このざまだ。虫けらどもは一方向からだけじゃなく、あちこちから襲って来たらしいな」


 「そのディグーのことだけど、あの紋様は何だと思う?」


 リックは近くに転がっていた、ディグーの死体を指差した。腹の部分に大きく描かれている文字呪文。


 「ああ、あれは魔道士が使う、文字呪文ってやつだな」


 「文字呪文……?」


 ダイモンは渋い顔でうなずいた。


 「おれも詳しくはないんだが、魔道士たちは『力ある文字』を組み合わせて、いろいろな奇跡を起こすって話だ。それが文字呪文って言われている……らしいぜ」


 「じゃあ、あれの意味は……?」


 }W{


 ダイモンは困ったような顔になった。


「よせよ、おれが知るわけないだろう? そういうことは、あれを書いた魔道士に聞きな」


 リックは周囲を見渡した。


 リックとダイモンが倒したディグーの死骸が散乱している。


 だが、それにしてもディグーの姿が消えている。まだ、半数以上は生き残っているはずなのに。


 「ダイモン、ディグーがいない」


 「む。確かに、妙だな」


 ダイモンは眉をひそめた。


 ふと、リックは、自分にしがみついている子供の異常に気付いた。


 ぐったりとしている。


 「まずいな……ディグーの毒をわずかだが受けていたらしい。麻痺を始めているぞ」


 子供をその場に寝かせ、ダイモンが手早く診た。


 「んむ?」


 ダイモンの片眉がはね上がった。


 「なんだ、この紋様は……!?」


 リックも見た。


 子供の額に何やら文字が浮かび上がっている。血の色の文字だ。


 }W{


 「こ……これは……!?」


 「ディグーの腹にあったものと同じだ……」


 リックが呟いた瞬間だ。


 子供の目が見開かれた!


 



 「な、なんだあああ!?」


 ダイモンが飛び退いた。


 子供の目が真っ赤に光っていた。まるでディグーの眼そのままだ。


 子供の口が開いた。鋭い牙がびっしり生えている。


 「しぎゃああっ!」


 恐ろしい声を張り上げつつ、子供はリックに襲いかかった。


 リックは紙一重で避けた。


 避けつつ、剣を構えるかどうかでためらった。


 「リック、手加減すると、死ぬぞ!」


 ダイモンが一喝した。


 リックは、なおも襲って来る子供に前蹴りを放った。


 辛い。


 子供は背中から地面に叩きつけられ、動かなくなった。


 「みんな、起き上がって来るぞ……」


 ダイモンが震え声を出した。


 確かに。


 広場に散乱していた犠牲者たちが、むっくりと起き上がり始めていた。


 みな、額には }W{ という文様を浮かび上がらせている。


 すさまじい殺気が渦巻いている。


 人々はゆらゆらとした足取りで、リックとダイモンに向かって歩み寄る。


 「なにが……起こったんだ?」


 「毒の仕業じゃねえのかよ!? あの魔法がかかったディグーの毒を受けて……っつーことはっ!?」


 ダイモンは気味悪そうにリックを見た。


 リックは慌てて手を振った。


 「おれは平気だよ……だと思うけど」


 「とか何とか言ってるうちに、文字呪文が……浮かんできたぞ」


 ダイモンが白い眼を向けた。


 「えっ!?」


 リックは額を擦った。ついているのは乾きかけの血だけだ。額の出血はいつの間にか止まっていた。


 「ちがう、胸だ……なんだ、そりゃ」


 ダイモンが指さしている。リックは自分の胸元を見た。


 洗濯だけはこまめにしているので、こざっぱりした上着だったが、今は、ディグーの血で緑色に染まっている。その、胸元。


 )@(


 クレリアが描いた文様だ。それが浮き上がっている。


 正確には、その文様が描かれている部分だけ、ディグーの血を吸っていない。弾き返している。


 「魔除けのまじないか……どうやら、それが効いたようだな。ディグーの毒からおまえを守ってくれたんだ」


 「クレリアが……」


 リックは呟いた。クレリアが魔道に通じているという話は聞いたことがなかった。魔道を使うには、長い時間の学習と生まれついての才能が必要だという。そんなに簡単に身につくものではないのだ。


「なにを物思いに耽っているかは知らねえが、かなり厳しい状況だぞ」


 ダイモンの声にリックは我に返った。


 今や、リックとダイモンの周囲には、殺意に表情を歪ませた町の人たちがひしめいている。


 もはや、逃げ場はない。血路を切り開いて進むしかないのは、誰の眼にも明らかだ。


 「覚悟を決めな、リック。おまえにとっちゃ知り合いも多いだろうが、やつらはもう人間じゃねえ。情を捨てろ。こんなところで落としてもいいっていう命なら別だがな」


 「斬るのか……?」


 リックはかすれ声を出した。取り囲んでいる人々の大半は、リックが子供の頃からよく知っている人たちだった。


 「じゃあ、ここで死にな」


 ダイモンは言い、ぽん、と歩を進めた。


 町の人たちがその行く手を阻もうとする。


 ダイモンの戦斧が一閃した。


 通せんぼをした男の首が直角に曲がった。首の根元が折れ、血が噴出した。仮死状態になっても心臓は動いている。だから、出血は激しい。


 「ついてこい、リック!」


 ダイモンは走り出した。リックは夢中でその後を追った。


 ダイモンは斧を振り回した。町の人々の頭蓋が砕け、絶叫が沸いた。


 リックは眼と耳を塞ぎたい衝動に駆られた。酸っぱいものが喉奥から突き上げて来る。


 よく買い物に行くパン屋の主人がリックに抱きついてきた。


 リックは悲鳴をあげて、主人を振り払った。その後ろから、布地屋の娘が飛び付いてきた。眼が赤い。血の色をしていた。


 娘はリックの肩口に牙を立てた。


 激痛が走る。


 リックは必死で娘を振りほどいた。皮膚と肉がもぎ取られた。リックはうめきながら走った。


 人ごみをようやく脱出した。


 人気のない通りでリックとダイモンは大きく息をついた。


 「大丈夫なのか、その傷」


 ダイモンが心配そうに、半ば不安げに覗きこんだ。戦斧を持ち直す。リックの様子の変化があれば、ためらいなく叩き込んでくるだろう。


 「平気だよ。クレリアのまじないのおかげかな、すぐに血も止まったし」


 「それにしても、とんでもねえ祭りになったな」


 ダイモンが首をこきこき鳴らしながら、苦笑した。


 「どうすればいいんだろう、これから」


 リックは茫然として呟いた。冷静になって考えるととんでもないことだった。ハッシュの町は滅ぶ。


 「にしても、町が静かだな。あんな大事があったっていうのによ……」


 「たぶん、こんな時はみんな神殿に集まっているはずだ。あそこなら石造りで丈夫だからディグーを防げるし、神殿長さまには医術の心得もあるから、怪我人を連れて……」


 リックはそこまで言って、金縛りにあった。


 「そこだな、修羅場は……」


 ダイモンがうなずいた。


 「おい、おれはここから出るぞ。夜通し進んで一番近い屯所に駆け込む。グルムコクランの撹乱作戦ということもあるからな。ダントン侯の耳に入るようにせにゃならん。おまえも、一緒に来いや」


 リックは激しくかぶりを振った。


 「行かなきゃ……神殿へ!」


 言うなり、走り出した。


 ダイモンはあきれた。


 「ばかか、てめえ、自分から死にに行くなんて……あーあ、行っちまいやんの」


 ダイモンはリックの後ろ姿を眺めて、それでも破顔した。


 「なりゆき任せのところも、親父そっくりだな……!」


  


       4


 人々が狂い出したのは、つい先程だった。


 ヴェルンドの神殿。


 ディグーの襲撃におびえた人々が、我先にと飛び込んできた。


 すでにディグーに噛まれた者もいた。家族が背負ったり引きずったりしながら、運び込んだのである。


 彼らが狂い出した。


 まず、心配そうに看病していた家族を襲った。


 噛みつき、毒液を注ぎ込んだ。


 すると、その家族も怪物のように殺気立つ。


 あっという間に神殿内は地獄に変わった。


 


 乱れた足音がふたつ、聞こえている。


「お前だけでも逃げよ、クレリア……」


 神殿長エネスが苦しげに言った。


 小柄な老人だ。髪は薄く、白い髭ばかりが長い。ふだんはにこにこと優しげな笑みを浮かべている好々爺だが、今は苦悶に顔を引きつらせている。


「神殿長さま……しっかり」


 クレリアが、その肩を支えている。神殿長はクレリアと同じくらいの背丈だ。二人、よろばうようにして、歩いている。


 そこは神殿の裏手、町のもっとも深まった場所だ。その先は未開拓の森が広がっている。


 「森に逃げるのだ……森には恐ろしい魔物もいるが……背に腹はかえられまい。森を抜け、街道から人里に出て、このことをみなに伝えてくれい……」


 エネスは辛そうにクレリアを押しやった。


 「神殿長さま……わたし一人逃げることはできません……!」


 クレリアは神殿長の肩を支えながら言った。


 「せめて、神殿長さまも……」


 「ならぬ。わしも魔物の毒を受けてしもうたよ。もう半身が動かぬ。全身に毒が回った時……わしもやつらと同じになろう。それよりも早く、ここを去るのだ。おまえはここに長く居過ぎた」


 そう言うと、神殿長のやせた身体から、どっと力が抜けた。


 「しっかり……!」


 クレリアは必死の声を上げた。眼の端に涙が浮かんでいる。


 「クレリア……おまえは不思議な子だ。姿形のみならず、その魂……どうすれば、そんなにも清浄でいられるのか……神職にあるわしにも見当がつかぬよ。そうさな……女神であるならば、そのような心を持てるかもしれぬな……」


 「わたしは、ただの孤児です。神殿長さまにお名前をいただき、育てていただいたクレリア・エネスです」


 「いいや、違うな……」


 神殿長はふふと笑った。


 「おまえは女神だよ……クレリア」


 神殿長の瞳が赤く塗りこめられた。


 額には、}W{ の文様が浮かんでいる。


 口が大きく裂ける。牙がびっしりと並んでいる。


 「神殿長さま……!?」


 クレリアは絶望の表情を浮かべた。まぶたをそっと閉じた。


 神殿長は、クレリアの白い胸元に口をつけた。


 「なんといい匂いがするんだ……ああああ、たまらん、たまらんのぉ……」


 神殿長は長く尖った舌をクレリアの胸元、首筋に這わせた。


 「わしがこのような老人でなければ、放ってはおかなかったものを……ええい、口惜しい!」


 神殿長は叫び、クレリアの喉笛に食らいついた。


 「ぎゃうわっ!」


 神殿長は、弾かれたようにクレリアから飛び退いた。


 もはや獣じみている神殿長は、四つん這いになっていた。力なく崩折れたクレリアの側を用心深く歩き回っている。


 「なぜじゃ、なぜじゃ、牙が弾かれたわ。不思議よ、のう」


 クレリアはゆっくりと身体を起こした。


 泣いていた。頬を涙が伝っていた。


 神殿長はその涙を見て高い声を放った。


 「なぜ、泣く? 哀しいのか? 親同然と思うておったわしがこんな姿になったからか……? ばかな。これはわしの本性よ。むろん、毒のせいじゃ。毒のせいではあるが、この姿も紛れない神殿長エネスの姿よ。人間という生き物は誰しも、このような獣の部分を持っているのじゃ。この毒はな、生き物の野生の暗い衝動を引き出すものなのだ。わしは心の底ではおまえを抱きたいと熱望しておった。神職にあり、かつ年寄りであったわしは、そんな欲望をおくびにも出さず、ずっとおまえに接してきていたがな。この毒を受けた途端に、それが、激しく燃え盛ったのだ。見よ、クレリア、この醜さが人間の本質なのだ!」


 クレリアは顔を覆った。弱々しく首を左右に振った。


 「まあ、よい。おまえにもこの毒を注ぎ込んでやろう。わしはおまえの欲望の形を見たい。女神のように清浄で美しいおまえという女が、腹の底ではいったいどんな欲望を煮立たせているかをな」


 神殿長は、クレリアに覆い被さった。今度は慎重に、一番柔らかそうな首筋を狙う。


 牙を打ち込んだ。


 クレリアは悲鳴すらあげない。じっと目を閉じている。


 「ふ、はあああーっ」


 神殿長は顔を上げた。顔が上気していた。若やいでいる。長い舌でべろうりと唇を舐める。


 「打ち込んでやったぞ。ふははははは、どうだ、クレリア。どんな衝動が突き上げて来る? 教えておくれ、おい」


 クレリアは顔を上げた。首筋にぽつりと開いたふたつの傷からは、わずかに出血している。


 神殿長は凝視した。


 クレリアの表情は変わらなかった。哀しげに、神殿長を見ていた。


 神殿長は、うろたえた。


 「な、なぜじゃ、毒が効かぬのか……? この、徳を積んだ聖職者のわしでさえ、抗うこともできなんだのに……なにゆえじゃ!?」


 「神殿長の看破したとおり、その娘が女神だからだ。女神であれば、魂に汚れはない。ゆえに}W{(ル・キバ)の毒も効かぬが道理よ」


 闇の中から、静かな声が響いた。


 「だっ誰じゃ!?」


 神殿長はわめいた。


 すうっと闇が割れた。一人の長身の男が現れていた。


 初老の男だ。黒いフードとマントに痩せた肉体を包んでいる。鼻が高く、眼が落ち窪んでいる。肌は、夜目にも青白く生気に乏しいことがわかる。


 「魔道博士にしてパペット・マスターが、我が主のために、花嫁を貰い受けに参った……」


 男は低い声でそう言った。


 「おまえは……! もしや、あの時の……」


 神殿長は絶句した。ちらり、クレリアの顔を見る。


 「礼を言うぞ、エネス神殿長。おかげで、花嫁の資格試験を手ずからやらずとも済んだ。先程、おまえが試験をしてくれたのだからな―――もう、おまえの用は済んだ」


 男は、細い指で宙に文字を描いた。


 >0%<


 描きつつ、詠唱する。


 「フルム・タイ―――汚れた肉体よ、滅せよ!」


 神殿長は口をあんぐりと開けた。


 その開いた口だけを残して―――


 神殿長の肉体が消え去っていた。服だけが、形を失って地面に落ちた。


 口は―――まだ残っていた。牙が覗いている。


 クレリアは失神した。くたり、と崩折れた。


 その肢体を男は無造作に抱え上げた。


 >+S< (ファルシンド)


 軽く、男はそう描いた。


 男のまわりに風が吹き立った。風は激しさを増したかと思うと、突然に消え去った。


 その後には、もはや何者も残ってはいなかった。


 


 「クレリア!」


 リックは剣を握り締めて、神殿の裏手に飛び出した。


 神殿の中はくまなく捜し回った。クレリアの姿はなかった。


 神殿の中では、怪物と化した町の人々と心ならずも闘わねばならなかった。


 リックの心は砕け散りそうだった。それを唯一つなぎとめているのは、クレリアの安否を気遣う心だけである。


 だが、そこにも誰一人としていない。


 リックは力を失って座り込んだ。


 「だめだったのか……?」


 背後から声が掛けられた。リックはぼんやりと振り返った。ダイモン・ザースがいた。


 「そろそろ夜が明ける。たいていの魔法なら効力が消えるぜ……でも、この町はもうだめだな。住民の半分以上が化け物になっちまってはな」


 「ダントン侯には……?」


 リックは訊いた。だが、特に知りたいというのでもなさそうな、おざなりな聞き方だ。


 「おれの手下が連絡をつけに出た。おれの手下も何人かはやられたが……まあ、やむを得んな」


 ダイモンは腕組みをして唸るように言った。戦斧は足元に置いてある。


そんなダイモンをリックは見上げた。


 「あんた……ただの商人じゃないな。今までもそう思っていたけど、今夜の闘いぶりを見ていてはっきりした。あんたは剣士だ。闘いが身に染みついている」


 「剣士なんていう高潔な身の上じゃねえよ。ま、おいおい教えてやろう。それよか、いいのか、探し物は?」


 リックはうなだれた。


 「クレリアはどこにもいない……殺されたか、それとも……」


 リックはクレリアが怪物たちに襲われて、苦悶の表情を浮かべているさまを思い描いた。考えたくもない、いやな想像だ。だが、この状況下ではそう考えざるを得まい。


 「ん……? ありゃあ、なんだぁ?」


 素っ頓狂な声をダイモンはあげた。


 リックはのろのろとダイモンの声がした方に目を向けた。


 森の彼方の空が明るくなりつつある。


 夜明け前のぼんやりとした視界の中で、ダイモンの大きな背中が動いているのが見える。


 ダイモンは笑っていた。


 「なんだ、こりゃあ……口が浮かんでいるぞ」


 恐怖よりもおかしみを感じたようだ。げらげらと笑っている。


 リックは立ち上がり、ダイモンの側までやって来た。


 「おい、見ろよ。世にもへんてこな見世物だ。何にもないところに口だけがあるぜ」


 ダイモンが指差すとおり、そこには口がぽっかりと浮かんでいた。


 かなり低い位置だ。ダイモンの腰よりも下だ。


 「へへ、おもしれえ」


 ダイモンは人差し指を口元に近づけた。


 口が開き、猛然と噛み合わされる。ダイモンは当然、指を引いて無事だ。


 「惜しいね、惜しいね、残念だったね」


 ダイモンはへろへろと笑っている。


 いかにも悔しそうに口は動いた。


 「口惜しや、口惜しや……」


 「おおっ、しゃべるぞ、この口。うーん、なんとかこれを運ぶ方法はないかな。見世物にすりゃ、ひと儲けできるぜ」


 ダイモン・ザースは商人らしく、頭をひねり始めた。


 だが、リックはそれどころではない。


 「その声は……神殿長さま……!」


 「そういうおまえは……リック・スクリードじゃな。おまえは毒を受けなんだのか?」


 神殿長の口が動いた。その上にも下にも、裏側にも何もない。口だけだ。


 「神殿長さまこそ、どうしてこのような姿に……」


 「やられたのだよ。ここで、クレリアのやつをやってしまおうと思うておったのが、逆に魔道博士だのパペット・マスターだのいうやつに、な」


 憎々しげに神殿長は言った。


 「まったく……わしも他の馬鹿者どもと同じく、毒にやられた時点で理性のすべてを失っておればよかったものを、なまじ修行を積んで欲望を制御する術をしておったものだから、}W{《ル・キバ》の毒にやられても、ものを考えることができてしまう。因果なものよな」


 べらべらと神殿長の口はよく動いた。他のすべての器官を失ったためだろう、いったん動きだした口はとどまるところを知らなかった。


 おかげでリックとダイモンは、パペット・マスターという魔道博士がクレリアを「主の花嫁」として連れ去ったことを知った。


 神殿長の口は、聞き手がいなくなってもえんえんと喋り続けていたが、曙光を浴びるとともに溶けるように消えた。


 

 


 「行くのか……」


 ダイモン・ザースは訊いた。訊いてはみたが、これほど答えがはっきりしている問いもない。


 「ああ」


 わずかな荷物をまとめながらリック・スクリードはうなずいた。逡巡もためらいも何もない。まっすぐな肯定だった。


 朝が来て、人々はようやく恐慌から立ち直った。魔法にかけられていた者たちが、朝が来るとともに死体になったからだ。つまり、}W{《ル・キバ》の魔法にかかった時点で、人間としては死んでしまっていた、ということだろう。

 人々は、死体が二度と起き上がらないように念入りに焼き、かれらを納める墓を作り始めている。


 リックはホーンのもとに行き、町を出ることを告げた。ホーンも反対はしなかった。こんなことが起こった以上、ハッシュの町は呪われた町として、しばらくは立ち直れないだろう。すでに、何家族かが町を捨てている。ホーン自身、息子や妻を失っていた。


 リックは自分の畑をそっくりホーンに譲った。借金も、貸し手が死んでしまっており、返す必要がなくなっていた。代わりに、ホーンから当座の路銀を受け取った。

 

 リックはホーンのところから戻ると、すぐさま旅支度を始めたのだ。


 ダイモンはそれを側で眺めながら話し掛けている。


 「手掛かりは、パペット・マスター、それと文字呪文だな。神殿長の口の話を信じれば、かなりすごい魔道士らしいな―――で、どこへ行く?」


 「魔道都市オーンへ」


 リックの答えはここでも淀みがない。


 ダイモンはうなずいた。


 「だろうな。魔道のことを調べるには、そこをおいて他になかろう」


 「で―――ダイモンはどうする?」


 ここで初めてリックが問う方にまわった。


 ダイモンは澄まして答えた。


 「なに、偶然、次の仕入先はオーンと決まっていたんだ。旅は道連れというからな」


 それから、ダイモンは大笑いした。


 リックもつられて頬をゆるめた。


 二人は旅立った。


 オーンへと。

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