第七章 トリスタムとイズー

        1


 


 夜は、漆黒のベールをもって古都イズーを覆いつくし、さながら黒い天球のように見えた。


 その天球の内部に、鐘の音は反響し、陰陰と鳴り響いている。


 「あの鐘が十二回鳴り終わった時……クレリアは完全に女神イズーとなる。そして、セラフィム・ストゥームベルガーはイズーと祝言を交わし、おのれがトリスタムに転生するつもりなのじゃ」


 「なんだって!?」


 リックは思わず叫んでいた。


 老婆は昏い眼で肯いた。


 「城へ―――ディアルムの塔へ早く行くのじゃ! 儀式が始まったら、周囲は結界で覆われる。なまなかなことでは入れんようになるぞ」


 老婆がそう結んだ時、鐘が三たび鳴った。


 リックは走り出そうとした。間に合うかどうかはわからない。だが、動き出さねばいられなかった。


 焦燥感が衝き上げていた。


 「待て! 走って行っても間に合わんぞ!」


 老婆が制止した。


 「わしが塔まで連れて行ってやる」


 老婆は言うが早いか、音字を描く。


 風が舞い立つ。


 「地面ごと飛んで行きたいところだが、時間が惜しい。お若いの、いやでなければ、この婆さんにしがみついておるがよい」


 リックは老婆の言う意味を理解して、一瞬ためらった。


 だが、すぐに逡巡を捨てた。


 低く詫びてから老婆を抱き取った。


 身体の大きさからいって、そうなってしまう。


 「おい、おれは?」


 ダイモン・ザースが訊く。ぽつねんとこんなところに置いていかれては堪らない。なんのためにここまで来たのか。


 「うっさいわね! 走ればいいでしょ!? だいたい一度死んだ者がノコノコと現れないでよ、予定が狂うじゃない!」


 くわ、と振り向いて老婆は毒づいた。


 ダイモンは絶句した。そのしゃべり方やテンポが彼の知るある人物にあまりにも酷似していたのだ。


 「ば、ばーさん、あんた……」


 「行くぞ」


 口調を戻した老婆はダイモンを黙殺し、杖を振るった。


 >%S~<


 描き切った文字はそう読める。


 ウィン・ターフ―――風の駆け足―――風の力で空をゆく。


 老婆の身体が持ち上がった。


 老婆を抱きかかえるようにしているリックごとだ。


 ひゅん。


 風の切る音しか聞こえない。


 瞬間的に空に舞い上がっていた。凄い加速度だ。


 リックは老婆を抱く腕に思わず力をこめた。


 老婆が身体を硬くした。


 その時リックも思い出した。これと似た感触を―――かつてリックは経験したことがある。


 その記憶を探り出すより早く、リックたちは城の上空に到着していた。


 「あれが……ディアルムの塔じゃ」


 老婆は叫んだ。その声は、激しい風の音にかき消されている。だが、身体を通じて伝わる震動で意味はわかる。


 老婆は塔を指差した―――イズーの城でも最も高い塔、ディアルムを。その頂には大きな錫の鐘がある。


 それが打ち鳴らされていた。鐘の打ち手の姿はない。鐘を鳴らす仕掛けがあるのか、それとも魔法で鳴らしているのか―――たぶん後者だろう。


 「いま鳴っておるのは五回目の鐘じゃ。急がねば、な」


 老婆は言い、ディアルムの塔に接近した。


 だが、塔の湾曲した壁面には窓どころか、取り付く起伏すらない。


 表面は極限まで磨き込まれ、積み上げられた石と石の間には毫も隙間はなかった。


 「それどころか、対魔法結界までも張り巡らされておる……! やむを得ぬ、こうなれば強行突破あるのみ!」


 老婆は高度を上げた。


 リックは失神するかと思った。それほどの加速感だ。


 老婆の意志のままに、いま風は吹きつのっている。


 その風に持ち上げられて、ディアルムの塔の最上層にリックたちは向かう。


 不意に、加速感が止んだ。


 静止していた。


 塔の上層部だ。構造上、壁がやや薄くなっている。


 「てっぺんから屋根をぶち破りたいところだが、最上層部にはとんでもない結界が張られておる。このあたりで手を打とう」


 老婆はそう断ると、小さく文字を連ねて始めた。


 完成した。


 「ヘルム・ザン!」


 老婆は風の刃を走らせた。


 塔の表面に真空の牙が噛みつく。


 石の表面が削り取られる。破片が飛び散る。


 老婆の表情が歪む。額に脂汗をかいている。苦痛が全身を苛んでいるようだ。


 風が金属的な音を立てている。空気が焦げる音すら漂ってきそうだ。


 そして、ついに……。


 重い音がして、壁に穴が開く。


 真四角に壁が切り裂かれている。


 「今じゃ!」


 老婆とリックはその穴の中に飛び込んだ。


 


 老婆は悲鳴を上げた。


 リックは床に投げ出され、転がった。


 そこは、塔の内部。廊下らしい石の床の上だ。


 老婆を見た。


 老婆はうずくまり、全身を震わせている。


 フードがはずれ、白髪がこぼれ出ている。白髪は後頭部で高く結い上げられ、まるで仔馬の尻尾のようだ。


 老婆は苦悶している。


 「おばあさん!」


 リックは老婆に駆け寄ろうとした。


 足を止めた。止めさせられた。


 行く手に人影が現れている。


 実在を感じさせないひっそりとした影。


 パペットマスター。


 フードの下に隠れた顔がかすかに動く。老婆を見て、笑ったのだ。


 「わしの施した結界を力ずくで突破するとはたいしたもの。絶対音字の秘儀を得て、一段と進境したようだな。だが、肉体がもはや耐えられまい。おまえの魔法の力は、自分自身の命を削る。それ以上呪文を使うと、生きながら木乃伊ミイラになるぞ」


 老婆は、苦しげに顔を上げた。食いしばる歯が、ぽろりと抜ける。


 「大きな……お世話だよ。わたしゃ、好きでやっているんでね」


 「恋か……? ふ、だが、その男の心はクレリアのもとにあるではないか」


 パペットマスターの嘲弄に、老婆は色をなした。


 よろよろと立ち上がる。


 その背中をリックは抱いた。


 「もういい。おばあさんは下がっていて。これはおれの戦いだ」


 「リック……!?」


 言いつのろうとする老婆を、リックは止めた。


 「あなたはおれの大切な友達に似ている。だから、死んで欲しくない」


 リックは優しい眼で老婆を見詰めた。


 「大切な……友達……」


 「そう、ずっと一緒に旅をしていたいと思えるほどに……大切な人だ」


 老婆の瞳に涙が浮かぶ。


 慌てて老婆は涙を拭った。


 リックは立ち上がった。視線をパペットマスターに向けている。


 「これを最後にしよう、パペットマスター。もう、人形と闘うのは飽きた」


「ほう……言うではないか。アーシェンカの魔法なくば、とうに死んでいたヘボ剣士が」


 フードの下でパペットマスターの両眼が怪しく光る。


 リックは剣の柄に手を掛けた。


 パペットマスターがすっと右手を伸ばす。


 音字を描こうとしている。


 リックは、魔道士との戦いの心得をモス・フェルから教わっていた。


 モス・フェルはリックに言った。


 「魔道士同士の戦いは心理戦だ。どちらが精神的に余裕を持つかで勝敗が決まる。だが、剣士と魔道士の戦いの場合、勝ち負けを分けるのは素早さだ。わしとても、至近距離で手練の剣士に斬りかかられたら為す術はない。問題は、パペットマスターの先手を取るにはどうすればよいか、だ。パペットマスターなる魔道士が、もしもわしが思っている通りの存在なら、手はないこともない」


 リックは、モス・フェルの言葉を反芻していた。


 チャンスは一度、それも一瞬だけだ。


 リックは一歩踏み出した。


 パペットマスターとの間合いはおよそ五メルム。リックの足ならば二歩の踏み込みで剣は届く。


 逆にパペットマスターは、リックが一歩距離を詰めるうちに呪文を完成させる自信があるのだ。だからこそ、この距離に自ら身を置いた。


 パペットマスターが音字を描き始める。流れるような指の動きだ。


 >0%< (フルム・タイ)


 ハッシュの町の神殿長を口だけ残して消滅させた文字呪文だ。


 「消えよ!」


 パペットマスターが勝利を確信してそう宣した時だ。


 リックの左手が動いた。


 何物かを投げた。


 それは、パペットマスターの目前に飛んだ。


 「なにっ!」


 ちいさなガラス瓶だ。


 ガラス瓶の中には、羽虫がたくさん入っている。


 瓶には文字呪文が描かれている。


 9(バギ)―――受け入れるもの―――を意味する音字だ。


 瓶の中の虫が瞬時に消滅した。


 老婆はうめき声を漏らした。


 「避雷針―――か!」


 パペットマスターの呪文は常に最小限の言葉で形作られている。いわば、呪文の対象が明確には限定されていないのだ。ならば、より呪文の影響を受けやすい状態の生き物を目前に放ってやれば、呪文は目前の対象に向かって発動する―――それが、モス・フェルが授けた秘策だったのだ。むろん、9(バギ)の音字もモス・フェルの手になるものだ。


 リックは二歩目を蹴っていた。


 柄に掛けた手に、力をこめる。


 パペットマスターは動かなかった。かわすことはできないと悟ったのか、リックの接近を黙って見詰めていた。


 「さすがだな」


 パペットマスターは言い、ふっと笑った。そのように口元が動いた。


 リックは剣を抜いた。


 抜き放った時には既にパペットマスターの身体に刃を当てている。


 フードを切り裂く。


 リックの顔が歪む。空気を斬ったような手応えが残る。


「やはり……大導師の看破した通り……!」


 リックの剣がパペットマスターの胴体を両断する軌道を走り抜けた。だが、パペットマスターは静止したままだ。


 リックは、振り上げた剣を真っ向から振り下ろした。


 パペットマスターの頭頂部から股間までを一気に斬り下げる。


 脳漿と血が飛び―――散らない。


 乾いた音をたてて、パペットマスターは床に転がった。


 真新しい切り口を見せたパペットマスターの頭部には、綿と呪符、色とりどりの糸と紙が詰まっていた。いろいろな人間から採取されたらしい髪もぐろぐろとはみ出している。


 リックはフードを取り去った。


 胴体に当たる部分はなく、頭と首、鎖骨と両腕だけが部位として存在していた。常にフードに身を包んでいたパペットマスターだったが、実は、フードに包むべき胴体を持ってはいなかったのだ。


 「これは……」


 老婆は茫然として声を放った。


 「パペットマスター自身、パペットだった……。じゃあ、こいつを操っていたのは……」


 老婆は思い当たって、戦慄した。


 弾かれたようにリックを見る。


 リックはうなずいた。剣を鞘に収め、暗い目をしている。


 「大導師が怖れていた通りだ。大導師はそのことを予見しながらも、そうでないことを祈っていたようだが……」


 「ブラーム……!」


 老婆がその名前を口にした時だ。


 鐘が鳴り響いた。


 一際長い音だ。


 それは、十回目の鐘の音を意味していた。


 「急いで!」


 老婆が叫ぶよりも早く、リックは走り出していた。


 


 


       2


 


 ディアルムの塔の最上階に設けられた聖堂に、ほのかな燈火が揺れていた。


 影が長く伸びる。


 影は二つ。


 セラフィム・ストゥームベルガーとクレリアである。


 荘厳なミサ曲が流れている。


 その曲は生身ならざる者たちによって奏でられている。


 人形たちの楽団だ。


 二人は手に手を取り、聖堂の奥へと進む。


 神像の前で二人は立ち止まった。


 雄々しい戦神、トリスタム。


 そして麗しのイズー。


 その二つの神像が並んで立てられている。


 その後ろにも像があるらしいが、それには厚い布が被せられている。恐らく、この聖堂にもともと祭られていた神像であろう。


 イズーの像は、神殿から運ばれて来たらしい。トリスタムの像は、急遽作ったのか、まだ新しい。


 鐘が鳴っていた。


 「あと、二つ」


 セラフィムが感に堪えないように呟いた。


 「ついに、時が来たのだ」


 そう言いながら、花嫁の顔を覗きこむ。


 クレリアは純白のドレスに身をまとい、レースのヴェールで顔を覆っている。


 無表情だった。


 ヴェールの下の銀の瞳には精彩がなく、まるで霧がかかっているように見える。


 セラフィムの言葉にもまったく反応しない。


 鐘の音が消え、凄いほどの静寂が降りる。


 「おお……!」


 セラフィムは激しく歓喜に燃え立つ双眸を神像に向けた。


 神像の間に小さな人影が現れていた。


 「ブラーム! おまえだな、ブラーム!」


 人影は灯明に姿を晒した。


 それは、車椅子に乗った小さなしわだらけの物体だった。


 「お久しぶりです、殿下……いや、もう陛下でしたな。ご立派に成長されました」


 老人は―――ブラームは歯が一本もない口をしぼませて、そう言った。


 セラフィムは、老人を懐かしそうに見た。ほとんど崇拝に近い視線だ。


 「おまえの言う通りに―――正確にはおまえの操る人形の指示する通り、イズーの街を押さえた。そして、女神イズーの依りしろもこうして手に入れた。これで、われらの積年の夢がかなうな」


 セラフィムは興奮していた。頬が上気し、瞳も怪しげだ。


 「その通り。長い道のりでしたな。わしと陛下の共通の夢―――陛下の望みは生きながらにして神になること、神の力と知識、そして時間を超える命を得ること。そしてわしの夢は、人の手で、人の知識と能力をもって、神を現世に縛り付けること―――すなわち、人として神を陵駕すること―――」


 ブラームは、かつてグルムコクランの軍師の地位にあった時、セラフィムの師父として彼に学問を教えていた。その時に、ブラームが少年だったセラフィムに神になる望みを吹き込んだのだ。


 洗脳―――といってもよい。ブラームはセラフィムをして自分の野望を実現する道具に仕立て上げたのだ。大陸最大の軍事力を自由に行使できる恐るべき道具として。


 


 ブラームはオーンの魔道士ギルドから追放されて後、各地を流浪した。その時、イズーの伝説を知り、その実現の時が迫っていることを知った。


 ブラームの研究主題のひとつに、神の実在を魔道から導き出すことがあった。


 魔道―――呪文の効力は、文字を最初に描いた神の実在に帰納する。つまり、神があり、その実在から魔道の存立が説明されるのだ。神なくば、魔道も成り立たぬ。それが、従来の魔道の立場だ。魔道は科学でありながら、突き詰めていけば、そこに必ず神がある。神が用いた言葉にぶち当たる。そこからは掘り進めない。


 それがブラームには不満であった。ブラームにとって魔道とは、世界のすべてを解き明かせる完全なものでなくてはならなかったからだ。


 ブラームは、魔道が、神に優越することを示そうと考えた。


 すなわち、文字呪文によって、神を現世に呼び出すことが可能であるか否か。


 世に巫女があり、憑依術を使う道士がいるのをブラームは知っているし、ブラーム自身降霊術は研究もし、一定の成果も得ている。だが、世界中のいかなる巫女も道士も、完全な肉体を有する神を現出せしめたという例はない。せいぜいが、神から言葉を授かったり、おぼろな姿を幻のように見せることができるだけだ。


 ブラームは、神自身が残した伝説を利用することで、神を捕獲しようと考えたのだ。


 伝説が事実になるとすれば、世界は依りしろをこの世に送っているはずである。ふつうなら、一瞬だけ神が人間の肉体に宿り、予言を果たしてそれでおしまいであろう。だが、その依りしろに呪文を施し、神の魂を閉じ込めるようにしておけば、神を現世に縛り付けることが可能になる。つまり、依りしろは神にとっては牢獄となるのだ。


 神の実在によって証明されるべき魔道によって、当の神が捕らえられたとしたら、どうであろう。これこそ、魔道の自立性の証しになるではないか。


 しかも、神の魂を宿した人間を自在に操ることができれば、なんということだ、人が神を使役できるのである。


 ブラームはこの考えに夢中になり、その実現を宿望とした。


 それから、ブラームは精力的に活動した。


 イズーへの回帰を国是とする東の強国グルムコクランに赴き、その魔道士としての力量でもって、易々と高い地位にのぼった。国政をも左右できる権力を持ちながら、ブラームは自ら権勢を振るうことはせず、あえて王太子の教育役を買って出た。それは、この王太子が王になった暁にこそ、グルムコクランの国力が必要になる予定だったからだ。自らが権力を求めず、王太子の信頼を勝ち得ることに専心したのも、将来を見越してのことだった。トリスタムとイズーの伝説が成就する日にこそ、グルムコクランの軍事力が意味を持つ。


 そして、同時にブラームはパペット呪操の術を磨いた。パペット呪操は、無生物、生者、死者を問わずして、物であれば物霊、生者であれば生き霊、死者であれば怨霊を、呪文を施した人形に封ずることによって、その姿と能力を人形に持たせる技術であった。それをブラームは磨き抜き、ついに自らをしてパペットマスターと呼称するまでに至った。


 むろん、ブラームの最終的な目的は、神の魂を宿した人間を操ることである。もはやそれは、パペット呪操のレベルを超えた技であった。だが、ブラームはあきらめなかった。ついには、生ける人間をもパペット同様に操り動かす術を開発した。


 今のクレリアには、その呪文が施してある。ために、ブラームの意志に従順なのだ。


 セラフィムに至っては、すでに幼少の頃から時間をかけてしつけてある。パペット以上に操りやすい傀儡だ。



 パペットの技術以上に問題だったのは依りしろであった。


 ブラームの計画には、ケルベールが詩で予言した依りしろの存在が不可欠であった。だが、都合よく依りしろが見つかるとも思えない。


 この頃、ブラームはすでにグルムコクランを離れ、イズーに入っていた。グルムコクランには、自分の代理としてパペットを置き、セラフィムをして、西征の準備を怠りなく進めさせていた。


 イズーでブラームがやっていたのは―――実は子育てだった。


 ブラームは近くの村や町から資質を持つ子供を見つけ出してはそれをさらい、依りしろとしての適性を調べた。適性なし、と判断した子供たちは、パペット呪操の練習台とした。十数名もの乳児や幼児と暮らしながら、一片の愛情すら抱かなかった。


 その中で、ただ一人、銀色の髪をした女児が残った。


 結果は満足いくものだった。ブラームは、この女児を他の人間の手で育てさせるべく、イズーから遠く離れた町ハッシュに捨て去った。この女児のイズーの依りしろたる資質を見極めるに、イズーの伝説とは無縁の土地で成長させる必要があったからで、それ以上の理由はない。ハッシュの町にせよ、無作為に選び出したのだ。


 だが、一方のトリスタムについては、どうにも満足のいく結果が出なかった。


 それについてはブラームはそう心配はしなかった。要は、イズーが自分の夫と認めればよいのであって、依りしろの資質はこの際さほど問題ではない、と。


 それに、セラフィムに西征を焚き付けるためにも、トリスタムにはセラフィムをあてがうのが都合よかった。この計画を知ったセラフィムは狂喜した。歴史好きのセラフィムは、特に自国の建国神話とも呼べるトリスタムとイズー伝説には深い愛着を抱いており、自分がその主人公になれることに凄まじい陶酔感を抱いたのだ。


 国を傾けるような大遠征を立案し、あらゆる反対を押し切って決裁したのは、セラフィム自身だった。己を神とするために、それを断行した。


 思えば、凄まじく遠大な計画だった。


 だが、大陸全土に戦火をばら撒き、無数の死を生み出しながら、神を捕獲するという目的は今や達せられようとしている。


 

 ブラームは目を細めた。眼球は白濁している。恐らく視力はかなり衰えているはずだ。だが、光なくとも周囲のすべてを感知できる能力をブラームは持っているようだった。


 「さて、儀式を始めるとしよう。その娘はわしの施した呪文によって、陛下の心に応えるようになっておる。十二度目の鐘が鳴りおわる時、その娘が愛する者こそトリスタムの魂は降りるのだ」


 「確かなのだな、ブラームよ。いや、おまえがわたしをたばかるはずはないが……ただ気になるのは、このトリスタムの神像、このわたしに似ておらぬのはなぜだ」


 セラフィムはかすかな不安を声に乗せた。


 セラフィムが指摘する通り、戦神トリスタムの顔貌は彫り深く男性らしい。その両眼から火を吹かんばかりの勇壮さだ。対してセラフィムは東方人らしいなめらかな顔立ちで、知性の豊かさは感じられるが、野生味はない。


 ブラームは首を軽く曲げた。


 「それはやむを得ますまい。クレリアはイズーの似姿として生まれついておりますが、陛下は自らの意志で神になろうとする者。それが、神像と同じ顔形ではかえって理にあいませぬ。神像は所詮、神の魂を一時的に留めるだけのもの。顔の相似はさほどの意味を持ちませぬ」


 ブラームはそう言って、セラフィムを安心させた。だが、内心かすかな不安は彼自身にもある。八方手を尽くして古くいわれのある神像を漁り、セラフィムに似た像があればと思っていたのだが、ついにみつからなかったのだ。


 「そ、そうか……。そうだな」


 セラフィムは、気弱な微笑を浮かべた。汗をせわしなく拭う。極度の興奮と緊張に落ち着きを失っていた。不意に気付いたように首を巡らせた。


 「鐘は、まだか、まだなのか!?」


 セラフィムは焦れていた。


 鐘は鳴らない。


 「ブラーム!?」


 セラフィムはすがるような声で、最も信頼する魔道士を呼んだ。


 だが、ブラームは慌ててはいない。すべての呪文は描き終え、役者も二人揃った。結界を破った邪魔者がいるようだが、あと数秒で終わることにどんな手出しができようものか。


 「始まりますぞ、ついに……!」


 ブラームは叫んだ。


 「魔道の歴史が変わる一瞬が―――ボッシュ界に新たなことわりが刻まれる一瞬が!」


 そして、最後の鐘が鳴る。


 


 


        3


 


 最後の鐘が空気を揺るがした。壁が揺れた。床が軋んだ。


 リックはよろめきながら階段の最後の一段を蹴った。


 石造りの床を踏み、巨大な扉に肩からぶつかる。


 扉は砕け散り、その代償として骨が砕けたかと思える激痛が走る。


 リックは床を転がり、次の瞬間膝立ちになっていた。


 そこは聖堂だった。


 列席者はいない。椅子はすべて空いている。


 そして、その奥には―――


 花婿と花嫁がいた。


 その花婿たる男は今しも花嫁をかき抱き、くちづけを行おうとしていた。


 花嫁のヴェールをそっと取り去る。


 露になる横顔。


 それは、見紛うことなき白磁の肌、銀の瞳、桜色の唇。


 「クレリア!」


 絶叫していた。


 鐘の音がその声をかき消す。


 クレリアは陶然としてセラフィムを見上げ、その愛撫を受け入れている。


 セラフィムは切なる歓喜をその表情に湛え、花嫁の頬に手を添えている。


 唇と唇が近づく。


 「やめろぉーっ!」


 叫ぶ声は鐘の音に阻まれて消え失せる。


 リックは走る。


 足がもつれる。


 身体が自由にならない。


 邪悪な意志がリックの身体を縛っている。結界だ。空気そのものが粘り気を持ちはじめ、リックの動きを封じ込める。


 見物していろ、とでもいうのか。


 見えない手がリックを床に押さえつける。


 歯噛みする。


 なぜだ。なぜ、こうなる。


 両足が痺れている。自分の意志に従わない。


 リックは自由になる両の腕を使って、床を這う。


 ぶざまな姿だが、それを厭う余裕はない。


 セラフィムがクレリアの唇をむさぼっている。


 傲岸な表情がその横顔には浮かんでいる。


 クレリアはただそれを受け入れている。愛情はないが嫌悪もない。海のようにただ受け入れていた。


 (クレリア……)


 リックは泣き出したくなるほどに胸を絞られていた。


 もっとも大事なものが、目前で打ち砕かれていた。


 クレリアを想ってここまで来た自分が道化師のように思えた。


 (アーシェ)


 なぜだか、赤い瞳の少女のことが胸に浮かんだ。


 (アーシェがここにいたら……なんて言うだろう)


 「ばか! 女が好きな男にキスされて、あんな冷めた顔しているもんかね! 女を知らないのにもほどがあるよ!」


 背後から叱咤された。


 リックは、戸口に老婆の姿を認めた。老婆は、壁に手をついて身体を支えながら、やっとのことで立っている。どうやら、老婆はそれ以上入って来れないらしい。凄まじい結界なのだ。だが、口だけは衰えていない。


 リックの心に炎が蘇った。吹き消され、ほとんど死滅しかけていたほむらだった。それが、いま赤々と燃え盛った。


 下肢に力が戻った。


 鐘の音が小さくなってゆく。


 響きが薄れてゆく。


 リックは立ち上がり、駆け出しながら叫んだ。


 愛しい女の名を叫んだ。


 


 イズーの像とトリスタムの像が光を発していた。


 ブラームは満足そうに笑みを浮かべた。笑みは拡大し、白濁した目をいっぱいに見開き、口の端を高く吊り上げる。


 光源がさらに増える。


 クレリアとセラフィムの肉体が光を発し始めていた。


 神像たちと同調するかのような光であった。


 「神が宿るぞ。人の手にいざなわれ、神が降臨する。これぞ、我、ブラームが神々に立ち優った証左となろう!」


 ブラームが作った壮大な文字呪文。


 目前で繰り広げられている人間模様こそが、大いなる音字であった。


 花嫁にくちづける夫。


 二人とも、神像さながらに照り輝いている。肉体そのものが発光している。


 神が降りようとしているのだ。


 花嫁は女神イズー。


 そして、夫は―――夫たる神は―――


 「わしはついにやったのだ……」


 ブラームは満足そうに肯いた。


 その時だ。


 ブラームの視界に、必死の形相のリック・スクリードが飛び込んで来た時、その笑みは凍りついた。


 「なぜ、動ける!? わしの結界を破るとは―――! ま、まさか……!?」


 ブラームは驚愕をその顔貌に刻み付けた。


 リックの顔を凝視した。衰えた視力と、それを補う超常の感知能力を併用して―――


「その……顔は……!」


 ブラームの側にあるトリスタムの像とリックの今の形相―――それらはまさに、うりふたつだったのだ。


 


 「クレリア!」


 鐘が鳴り終わろうとしていた。


 その残響の中で、リックの声はクレリアの耳に届いた。


 クレリアの瞳が動く。


 霧が晴れてゆく。


 セラフィムは、腕の中にある娘の身体が違和感を持ち始めているのを感じ取った。


 クレリアの銀の瞳が輝いた。


 クレリアはセラフィムに与えていた唇を突然引いた。嫌悪感に全身を震わせる。


 銀の瞳には、走り来る若者を映していた。


 リックだ。


 何を考えるということもない。その暇もない。


 ただ、目頭が熱くなった。涙が盛り上がった。


 「リック!」


 声を張り上げた。


 セラフィムの抱擁から逃れようと、必死でもがく。


 驚いたのはセラフィムだ。なんとかクレリアを押し止めようとするが、クレリアの反抗は激しい。


 「どういうことだ、ブラーム! 鐘は鳴り終わった。なぜに何も起こらぬ!?」


 セラフィムはブラームに問いを投げかけた。声には怒りはなく、ただひたすらに狼狽と恐怖のみがある。


 ブラームは硬直から立ち直っていた。彼の鋭敏な知性は、自分の計画のわずかな狂いを感じ取っていた。その狂いとは―――致命的なミス・キャストであった。


 「陛下―――事はすでに起こっております。見事、陛下は生きながらにして神となられました」


 ブラームは恭しく一礼して言った。


 セラフィムは目を見開いた。


 「なんだと、どういうことだ!?」


 「それは、こういうことでございます」


 ブラームは言うなり、背後の神像にかぶせてあった布を取り払った。


 もともと、この聖堂にしつらえてあった神像だ。特に何という考えも持たずに、ブラームはそれを設置したままにしておいた。どうせ、儀式には不用と軽く考えていたのだ。


 だが、そうではなかったのだ。ブラームは笑いたくなった。その笑いを、どうせならセラフィムと共有したい。


 ブラームが取り去った布の下からは、苦悶の表情を浮かべた大いなる神ケルベールの似姿が現れた。その像も光を放っている。まばゆい七色の光を。


 ケルベール―――イズーに横恋慕をし、トリスタムを封印し、その後深く慚愧の念にとらわれた神である。以来、この神は女性を愛することをしなくなったという。


 その顔は、知性的で思慮深い。そう、まるでセラフィム・ストゥームベルガーのように……。


 「これは……!」


 「伝説はこうして成就されるのでありますよ、陛下。ケルベール、イズー、トリスタム。この三者の構図が神々の復活には必要だったのです。かつて、この構図にあってケルベールはトリスタムを封じ、イズーをおのれのものとした。だが、今度は千年前とは結末が違う。それはケルベール自身が予言したとおり、トリスタムとイズーはケルベールを廃して結ばれるのです―――陛下、伝説とはおもしろうございますな」


 ブラームは乾いた笑い声をたてた。だが、セラフィムはつられなかった。


 笑うどころではなかったのだ。


 飛び込んで来たリックの剣先が、セラフィムの首から上を宙に舞わせていたからであった。


 


 


        4


 


 時が停まった。


 トリスタムは剣を振るい、イズーは恋人の帰還に胸を震わせ、ケルベールは自身の過ちを永遠に悔悟しながら、静止していた。


 三つの神像と三人の肉体が同期しながら、それぞれ輝きを放った。


 怒涛のような光の奔流が周囲を満たした。


 リックは茫然とその光景を見詰めていた。


 何が起こっているのか、自分でもわからない。


 一面、白の世界だ。その中に、自分とクレリアとセラフィム・ストゥームベルガーがいる。


 不意にリックは、自分の中に巨大な炎の塊が燃え盛っているのを悟った。


 熱い塊だ。体内を焦がしそうなほどに。


 「これは……!?」


 リックは自分の姿を見た。


 革をなめした簡素な胸甲が黄金の輝きを放っている。


 手で触れてみた。硬質な金属の感触がある。軽く、すさまじく硬い。また、装飾も変わっている。まるで宝物のようなきらびやかさがある。


 剣を見た。重みが減じていた。減じていながら、造りがより荘重になっている。以前は実用本位の剣だった。無銘の既製品だ。だが、いま手にしている剣は違う。柄には宝石が象眼され、華麗な細工が施してある。まるで第一級の工芸品を見るようだ。それでいながら、その刀身は、目にしただけで震えがきそうなほどの業物だ。


 まるで―――そうだ、まるで、戦神が手にしているような代物ではないか。


 リックは肉体の奥底から凄まじい力が湧きあがってくるのを感じていた。


 今なら竜の成体を相手にしても、まったく引けをとらないだろうと断言できる。


 大軍を相手に、一人で、何日でもぶっ通しで闘えそうだ。


 根拠のない自信―――だが、その肉体から横溢する精気と闘気がなによりも雄弁にその真なることを示していた。


 なぜ、こんな変化が自分に訪れたのか―――ということをリックは考える余裕を持たなかった。


 思い出したのだ。自分の使命を。もっとも大切なことを。


 「クレリア!」


 リックは立ちすくむ礼装の女性を見詰めた。


 クレリアは、リックの視線に応えた。


 弾けるように動いた。


 銀の髪がなびく。


 「リック!」


 叫んだ。まるで幼子が離れていた親を見出したかのように。


 リックの胸の中に飛び込んだ。


 その愛しい存在をリックは抱きしめた。


 安堵感が胸を満たす。


 自分の心の欠けていた部位が戻って来たような、そんな感覚。


 「クレリア……」


 愛しい人の眼を見詰める。


 「リック……」


 クレリアもリックをただ見上げている。


 言葉はなかった。また、要りもしない。


 炎と氷が―――金と銀が―――太陽と月とが絡みあい、結びあい、睦みあう。


 そこには時を超えた二組の恋人同士が存在していた。


 トリスタムとイズー。


 リックとクレリア。


 二組の恋人たちは、ただひとつのかたちになった。


 


 「そこまでにしてもらおうかな」


 不意に、乾ききった声が空気を汚した。


 リックとクレリアは、そこで初めてその人影を認識した。


 車椅子に身体を納めた老人である。


 眼光だけが鋭いが、肉体はかなり衰えているようだ。


 「おまえは……」


 リックは誰何しようとして、やめた。リックはこの人物を知っている。何度か闘ったこともある。もっとも、その時の相手は人形であったが。


 「おまえがブラーム……真のパペットマスターか」


 「その通りだ。リック・スクリード。まさか、おまえがトリスタムの依りしろであったとはな。さすがのわしも見落としていた。トリスタムの依りしろは最初からそうようにしてあるのではない。戦神トリスタムの依りしろとふさわしくあるべく、成長するのだ。そのことを失念したがゆえに、このざまだ」


 ブラームの口調には、しかし敗残者の悔やみはない。むしろさばさばしている。


 「トリスタム―――そうか、確かに感じる。おれの中に、とてつもない炎が渦巻いている。これが、そうか」


 リックはクレリアを傍らにそっと押しやった。クレリアに剣を手渡し、空いた右手を握り締めた。拳から、赤い火柱が噴き上がる。熱い。だが、いっこうに火傷をしそうにない。苦痛そのものがないのだ。


 「そんなものは、戦神の力としてはごくごく一部のものに過ぎぬ。おまえは生きながらにして、ボッシュ界最強の力を手にしたのだ。本来ならば、その力はわしの魔道の真理探求のために用いるはずだったのだが―――」


 ブラームは微笑した。


 「おまえは、よもやわしに協力してはくれぬだろうのう?」


 「当然だ。おまえは無用な戦乱を地上に起こし、無数の人を殺した。おまえは罰せられねばならぬ」


 リックは―――トリスタムかもしれないが―――言った。


 それに対し、ブラームは爆笑した。


 「な、なるほど、そうであろうな」


 笑いつつ、ようやく言った。涙が出るほどに笑っている。


 「なにを笑う、ブラーム!?」


 リックは頬を締め、詰問した。このあたり、トリスタムの意志が強く反映しているのだろう、いつになく毅然としている。


 「おのれの愚かさに少々唖然としておりましてな。神を捕らえるつもりが、うまうまとケルベールの策略トリックに引っ掛かったわけですな。ああまでして苦労してお膳立てをして、最後の一瞬に自分の仕掛けを逆手に取られて予言を成就されてしまった。まさに神は偉大なものでありますなぁ」


 ブラームはひくひく笑いを続けている。横隔膜の痙攣を止められないようだ。


 「だが、わしは往生際が悪うござってな。神を捕らえられぬのであれば、滅ぼしてみたくなりました―――」


 そう言い放つと、ブラームは宙に文字を描く。


 文字呪文。


 パペット呪操の文字だ。


 特殊な文字と文法を持っている。おそらくは、ブラーム自身の創作だろう。


 突然、殺気が湧いた。


 リックは、鋭い痛みを肩に感じた。


 振り返った。信じられぬものをそこに見た。


 柳眉を逆立て、狂乱の表情をたたえたクレリアが、血に濡れた剣を手にしていた。


 


 「クレリアには特に念入りに呪文を仕込んでおきましたのでな。表面的な術は破れても、潜在下の呪縛はどうにもなりますまい。なんといっても、クレリアは赤ん坊の頃からしつけておるのですから」


 ブラームは楽しそうに笑った。


 神を縛る。そのために、特定の人間に神を降ろす。降ろした神を逃がさぬように秘術者の肉体そのものを呪文によって牢獄に変える。思いのままに操る。


 クレリアは―――イズーは今やブラームの手中にあるのだった。


 「きさま……!」


 憎悪の炎をリックはブラームに叩きつけた。


 感情のままに、炎の塊がブラーム目掛けて飛ぶ。


 ブラームは自分の周囲に結界を張り巡らせていた。


 その結界が一撃で砕け散った。


 ブラームは慌てて退き、結界を再構築する。


 「クレリア! リックの足を止めろ! わしが呪文を描く時間を稼ぐのじゃ!」


 クレリアはリックを凝視しながら、慎重に歩を進める。手にはリックが託した剣がある。リックの血を吸った刀身はてらてらと濡れている。


 リックは肩を押さえつつ、クレリアと距離を取った。


 肩の傷はさほど深くはないが、肩当てが紙のように裂かれていた。以前の安物の肩当てならいざ知らず、いま身に着けているのは神の鎧である。凄まじい強度を誇るはずだが、武器も神の剣であるのならばやむを得まい。


 「クレリア……かわいそうに」


 クレリアも本意ではないのだ。だが、呪文が自分の肉体を操っている。その糸を断ち切れぬ以上、クレリアには為す術はないのだ。


 リックは掌の中で暴れる炎を握り締めていた。


 クレリアを傷つけずに剣を奪う方法はない。神を宿しているとはいえ、肉体は人間のそれだ。リックの放つ力には一瞬とて耐えられまい。


 リック自身、とてつもない能力を手には入れているが、やはり元は生身の人間だ。


 リックとクレリアの違いは、その宿した神の違いと言うべきだろう。戦神のトリスタムには闘うための能力が備わっているが、美の化身たるイズーにはブラームの施した呪文を打ち破るに足りるパワーはないのであろう。


 「やれ! クレリア!」


 ブラームは文字を書き連ねながら叫んだ。大掛かりな呪文だ。さしものブラームとて、神を屠るに足りる威力を呪文に持たせるためには、多くの文字を使わねばならぬ。


 「モータル・メトフェン―――死せる乙女」


 ブラームが描き出す主題は、死。


 とはいえ、神なる魂を併せ持つリックの場合、ただ殺してしまったのでは駄目なのだ。トリスタムにとって檻であるところのリックの肉体が死ねば、トリスタムは魂となって逃れ出てしまう。必要なのは永遠に緩慢なる死―――死に近い眠りである。茨の城に護られて、永劫の時を眠り暮らす姫君を表す文字が「死せる乙女」であり、今ブラームはこれを呪文化しようとしているのだ。


 クレリアが飛び込んで来る。剣を構えている。


 リックはよけるか、それともクレリアを滅ぼすかの選択を迫られた。


 その時、呪文が完成した。


 降る。


 深い眠りが。緩慢なる死が。


 黒い霧がリックの頭上にかかる。


 クレリアをかわせば、霧はクレリアを包もう。そう、悟った。


 リックはクレリアを受け入れた。


 灼熱が腹部を抉った。


 剣の切っ先が背中まで突き抜ける。


 リックはうめき声を上げた。完全に腹部を貫通している。


 失神しそうな重みがある。


 だが、リックはそれを堪え、クレリアの肩を掴んで押した。


 クレリアが押し戻されるにともない、剣が抜ける。


 血がしぶく。鮮血だ。腹腔を走る動脈から噴出している。


 返り血がクレリアの純白の衣装を濡らし、白い顔にもはねる。


 血が、クレリアの額に描かれた印を塗り込めた。


 理性が、クレリアの瞳に蘇る。


 その顔が引き歪んだ。


 驚愕、悔恨、そして絶望。


 目前のリックは腹部から噴水のように血を流していた。臓物すら、見える。


 クレリアの手には、リックの体内を貫通した剣が―――ある。


 絶叫した。


  


 リックは周囲に霧がヴェールのように降りて来るのを感じていた。


 霧はリックを穏やかに包み、その身体を横たえさせた。


 柔らかい闇だ。甘い匂いがする。


 無性に眠い。苦痛よりも何よりも、眠気が先に立つ。


 意識が遠のく。うつろになっていく。


 陶酔の世界にリックは彷徨した。


 光が遠ざかる。


 


 


        5


 


 アーシェンカは目前の光景を茫然と見詰めていた。中に入れないのだから、手をこまねいているしかない。


 だが、ブラームが呪文を描き出した時に、結界が弱まった。さしものブラームも、最大の呪文を描くに当たり、結界に注ぐ魔力の共有を止めざるを得なくなったのだろう。


 今をおいて機会はない。


 アーシェンカは踏み込もうとした。


 だが、足が言うことをきかない。衰えた肉体は、すでにアーシェンカの意志に反して稼動不能になっていたのだ。


 「なんということ!? 身体がいうことをきかないなんて!」


 アーシェンカは毒づいた。若々しい肉体を存分に使ってきた彼女は、突然に弱々しくなった自分の肉体をうまくコントロールする術がわかっていない。だから、すぐに限界を越えてしまうのだ。


 「お困りのようだな、ばあさん」


 声がした。


 アーシェンカは振り返りもせず怒鳴った。


 「時間がない! おんぶをせい!」


 声の主は―――ダイモン・ザースは充分に時の切迫しているのを理解していた。反問もせずに老婆をつまみあげ、背中に乗せる。


 「走れ! 内部は結界の作用がまだ残っておる! 一気に突っ切るのじゃ!」


 「おう!」


 ダイモンはダッシュした。


 力強い足腰だ。床が抜けるのではないかと思えるほどの勢いで、蹴りつける。


 それでも、結界はダイモンの侵入を阻もうとする。だが、ドラゴン・ガーディアンとなったダイモンは並みの人間とは違う。あっさりと結界を引きちぎった。


 アーシェンカはダイモンの背中で呪文を描いている。


 もはや遠慮もへったくれもない。ブラームに対抗するためには、彼女としても最強最大の呪文を繰り出さねばならない。


 「ワ・トキ・シン・キラシム!―――わが時間を光に!」


 アーシェンカは呪文を完成させた。


 白光が膨れ上がる。真っ白な球だ。それがアーシェンカを中心に膨張していく。


 「うおおっ、これは……!?」


 ダイモンも目を見開き、茫然とする。


 


 霧が薄れた。


 リックは心地好い眠りを妨げられてやや不快になった。


 なんだ、なぜ、邪魔をする……。


 光は、天井から降っていた。薄く目を開くと、小さな球が闇の中に光を投げかけているのがわかる。


 懐かしい光だ。なぜだろう。


 リックは不思議に思った。光の正体が、わからない。ただ、どうやら自分にとって不快な存在と断言するわけにもいかないようだ。そのことだけはわかった。


 その時、光球が拡大した。


 光はリックを照らしだし、周囲の霧を駆逐した。


 


 「なんだ……とぉ!?」


 ブラームは驚愕した。


 自分の渾身の文字呪文が無力化させられた。


 除去されてしまったのだ。相反する効力を持つ呪文がぶつかった場合、より世界の本質を捉えた文字を使っている方が勝つ。すなわち、ブラームは文字解釈において、敗れたのだ。


 「ばかな……」


 絶句した。


 自分を上回る魔道士など存在しない。オーンの現ギルドマスター、モス・フェルにしたところで、ブラームからみればひよっ子のようなものだ。


 魔道の真髄を極め、人間の達しうる最高の境地を会得したと自負していた。


 その自負が打ち砕かれた。


 ブラームは、突然飛び込んで来た大男を凝視した。こいつか。こいつがやったのか。


 だが、そうではないことがすぐに知れた。大男の背中にひからびた干物のような老婆がへばりついていることに気付いたからだ。


 「おまえか……そうか、そうであったか」


 ブラームは歯噛みした。だが、すぐに余裕を取り戻す。


 「さすがはオーンの秘蔵っ子だ。ついにわしの領域を踏み越えるとはな。だが、おまえの呪文はおまえ自身の時間を削る。もはや生ける屍となったであろう」


 確かに、アーシェンカはもはや言葉を発することもできないほどに衰えていた。老化はさらに進み、もはやミイラのようになり果てている。


 ダイモンもこの変化には驚いて、老婆を胸に抱き、軽くゆすぶった。


 「お、おい、ばあさん! 死んじまったのか……?」


 しわだらけの小さな顔をわずかに歪めて、老婆は笑った。


 「生きておるよ……少々無理をしておるがな。それよりも、ダイモン、リックとクレリアを頼む……守ってやっておくれ……」


 「ああ、わかった。だから、もう喋るな!」


 ダイモンはそう命令口調で言うと、老婆を床に横たえた。


 「ぶっとばしてやるぜ」


 ダイモンは竜牙剣を抜き、ブラームを睨んだ。


 ブラームは薄い笑みを浮かべている。横目でリックの様子を窺う。


 リックの側にはクレリアがすがっている。リックの名前を呼んでいる。だが、リックは昏睡しているらしい。


 「リックが死ねば、トリスタムは逃げる。残念だが、モータル・メトフェンをもう一度描き出す暇はなさそうだな」


 コレクションを失う程度の気安さで、ブラームは言った。


 神すらブラームにとっては研究対象に過ぎないのだ。


 「ル・ダーイ―――大いなる炎よ!」


 ブラームの掌から火柱が立ちのぼった。


 火柱は生き物のように成長し、高く伸びた。


 「燃やし尽くせ!」


 ブラームの命に応じ、火柱は猛り、リックとクレリア目掛けて襲いかかった。


 「させるか!」


 ダイモンは竜牙剣を振りかぶって突進した。


 火柱の攻撃を身をもって止める。


 火柱は、ダイモンの鎧に激突しては四散する。


 「ほう……! それは火竜の鱗から作った鎧だな」


 ブラームは驚いたように目を丸めた。


 「これは面白い。長生きはするものだ。時の魔法を操る魔道士にドラゴン・ガーディアン。こんな珍しい者たちが集まって来るとは……! さすがは戦神トリスタム、顔が広い……」


 「感心してる場合かよっ!」


 ダイモンはブラームに斬りかかった。


 その剛剣がブラームを両断するかに見えた一瞬。


 ブラームの顔が変貌した。


 「なにっ!?」


 ダイモンの顔が凍った。


 そこにある顔は、殺された息子シストアのものであった。


 「くそっ!」


 術だ、とわかっていても身体が反応していた。


 剣の軌道を変え、空をあえて切る。


 剣は床の石を砕いた。


 ブラームは既に後方に退いている。車椅子が浮いているところをみると、呪文を使って飛行しているようだ。


 「たとえドラゴン・ガーディアンであろうと、しょせんは人間。心は弱いものだな」


 ブラームはそのように言い、嘲笑する。


 「さて、お返しじゃ……ヘルム・ハンマ!」


 風系の音字が宙を舞う。


 空気が重量感を増し、ダイモンを頭上から押し潰そうとする。


 「くっ!」


 空間に満ちる分子エーテルの密度を一時的に大きくし、目標を圧殺する呪文だ。これを受けた者の死体が、まるで巨大な槌で殴打されたように破壊されるため、風の大槌ヘルム・ハンマの名がある。


 鈍い金属音が響く。鉛の大きな塊同士をぶつけたかような重い音だ。


 ダイモンは絶叫した。


 頭を覆っていたヘルメットが砕けた。


 竜の鱗と爪を使ったヘルメットだ。普通なら、ひびすら入るはずがない。


 それが砕け散ったのだ。


 ダイモンは頭部を真紅に染めて崩折れた。


 ブラームは痛快そうに笑った。声に狂気がある。


 「まだまだよな、ドラゴン・ガーディアンよ。アイテムの使い方くらい覚えてから戦いに臨めばよかったものを」


 ひとしきり笑った後、ブラームは表情を消した。


 「邪魔者はもはやおらぬ」


 視線はリックと、それにすがるクレリアに注がれている。


 その表情が凝固した。


 リックとクレリアの姿がまばゆい光に覆われている。


 光は刃を持っている。


 それは乱舞し、床を、壁を抉った。


 光の矢が一筋、ブラームの頬をかすめた。


 黒い血液が流出した。


 「おお……これが……」


 ブラームは目を見開いた。


 目前に奇跡が起ころうしていた。


 


 


        6


 


 リックはおぼろな道を歩いていた。


 半ば闇であり、半ばほの明るい。


 黎明のようであり黄昏のようであった。


 ともかくも、リックは歩き続けている。


 いつからそうしているのか、思い出せない。


 どこへ向かっているのか、なんのためにそうせねばならないのかも、見当がつかない。


 過去は塗り潰され、未来の手掛かりさえない。


 ただ、今があるばかりだ。


 リックは死につつある、のかもしれない。


 というのも、道はますますあやふやになり、闇はわずかずつその領域を広げつつあるからだ。


 リックはひたすらに道を急ぎたい。その先に何があるかは判然としないが、ただ、深い安らぎが得られるだろうことについては疑いをいれなかった。


 ただ、気になることがひとつある。


 リックの耳に、かすかな声が届いているのだ。


 リックを呼んでいる、らしい。それも、泣いているようだ。


 (誰が、呼んでいるのか。なぜに、泣いているのか)


 胸がしめつけられる。


 忘れてはいけない、大事なことが抜け落ちている。


 リックは確信した。


 おれを呼ぶ人を―――守らなければ。


 自分はこんなところで夢を貪っていてはならぬのだ。


 リックは全身に力を送った。胸の奥の炎の塊がその活力をくれた。


 腹には穴があいている。


 リックは自分の体内の血管をどうにも扱うことはできない。貴重な血液を一瞬一瞬に喪失し続けていることに対して、有効な手段をとることができない。


 リックは声を上げた。


 誰だ!? おれを呼んでいるのは―――?


 銀の光が舞った。


 闇夜に燐光を放つ無数の蝶を見た。


 蝶はそれぞれ気侭に飛んでいるようで、それでいてある秩序だった動きをしていた。


 人の形を作り出す。


 それは―――。


 (クレリア)


 (イズー)


 リックの喉は一度動き、ふた色の声を紡ぎ出した。


 銀の少女を一心に見詰めた。


 そうだ。


 この人と添うためにおれは生まれて来た。


 もう二度と、離れていたくない。


 だから。


 このまま眠りに就くことは、できぬ。


 


 リックはクレリアに近付いた。


 大きな銀の瞳に涙が溜まっている。


 「あなた……」


 「ああ……ようやく巡り合えた」


 遠い旅路であった気がする。長く分かたれていた。その二人がようやくひとつところにいる。


 泣き声が聞こえた。


 リックが振り返ると、リックが行こうとしていた道のはるか先に、セラフィムがうずくまっているのが見えた。


 セラフィムは泣いていた。その声は、遠い距離を隔てても、明瞭に聞こえた。


 「なぜだ、なぜ、こうなる。わたしはグルムコクランの王だ。なぜ、イズーはわたしを選ばなかった? どうして、わたしがトリスタムになってはいけないのか」


 繰り言を呟き、半透明の背中を震わせていた。


 リックとクレリアに恨みの視線を向ける元気すらないようだった。


「悲しいよぉ、悲しいよぉ」


 ただ、幼児のように泣いているだけだ。


 「かわいそうな人……」


 クレリアはそっと呟いた。その声音に嘲弄の響きはない。突き放したような冷たさもない。といって、べたつくような同情のあざとさもない。


 天から降る優しい雨のような、混ざりけのない言葉だった。


 「かわいそう……?」


 リックは不思議を感じて聞き返す。セラフィムはくだらぬ戦争を起こし、数限りない人々を死に追いやったではないか。


 クレリアはリックの瞳をのぞき込み、ゆっくりと肯いた。クレリアは言葉を継ぎ、足りない意味を補う。


 「人の身で神になろうと夢見て、それが半ば叶えられ半ば潰えた……だからかわいそうなのだわ」


 セラフィムは、神たるケルベールの現し身として一瞬地上に存在した。


 十二度目の鐘が鳴り終わった瞬間から、リックの剣がその首を両断するまでの、ほんの短い間だけだったが。


 セラフィムの、生きながらにして神になりたいという夢はかなったのだ。


 だが、皮肉なことに彼がなり得た神は、存在を始めた瞬間に滅ぼされる役回りだったのだ。しかも、そのように定めたのもその神自身。ケルベールは自ら残した詩編に従い、トリスタムの剣によって現世の肉体を滅ぼされた。


 セラフィムは、これより先、無限の時間を「かつて神であったなにものか」として過ごさねばならぬのだ。恐るべき孤独である。


 それを知るからこそクレリアは「かわいそう」と言ったのだ。


 リックもそのことをおぼろに理解した。


「おれも……そうなるのかな」


 リックは知っている。


 自分の肉体はまもなく死ぬ。肉体が死ねば、神は冥界に去り、リックの魂もそれに付随して闇に還るだろう。


 クレリアは首を横に振った。


 「いいえ。リック・スクリード、あなたは死にません」


 その口調はクレリアのものではなかった。イズーが、クレリアの口を借りて喋っているのだ。


 「なぜなら、あなたが死に、トリスタムが去れば、わたしはまた地上に残されることになります。それでは、予言は成就されないことになります。神の言葉は絶対です。必ず実現されます。だから、あなたは助かる」


 「イズー」


 リックの口からその名前が突いて出た。


 リックは、自分の肉体がより巨大な何者かに支配されるのを感じた。


 トリスタムであろう。


 「もはや、われらは離れぬ。分かちがたく結ばれる。トリスタムとイズーが結びし結晶―――それこそがこの世界を全きものとするであろう――そしてわれらの願いは成就する」


「願い―――ボッシュ界の永遠なる封鎖―――前世においてケルベールがそれを肯じなかったのは、ボッシュ界がまだ充分に成熟していなかったため。今ならば理解できる」


 「あの頃のボッシュ界は未完成だった。世界の涯には空白がまだ残っていた。時間と空間、神と愛―――これらの字義がまだ定着していなかった。創造者すら、それらの定義ができなかった。神々が愛しあうことは、だから許されなかった。時間と空間に鍵をかけ、この世界をひとつの球にして封じることも、まだ早いとされた」


 「トリスタムとイズー―――あなたとわたし―――は、ボッシュ界の詩編のエンドマークたるべき存在。二人が結ばれることにより、ボッシュ界の物語の主題は閉じる。だけど、あまりに早く出会い過ぎた。物語の世界が骨格を持ち、肉を持ち、魂を宿らせるまで、この結実は先延ばしにされた」


 「だが、時は充ちた。世界の空白はすべて言葉によって埋められた。ボッシュ界は、世界として成熟し、これからは無数の伝説を自律的に生み出すであろう。人が生まれ、魔物が徘徊し、それを斃すあまたの英雄が立ち上がるだろう」


 「一人の言霊使いが発した言葉によって生まれたこの世界は、今ここに、確かに血肉を持って存立している。わたしたち二人の神による、創世神話を今、持つことになるのだから――マ・オーム」


 )@(


 イズーが描いた文字呪文は、かつて、クレリアがリックの胸に描いてくれたものと同じだ。


 その文字呪文は、虚空に白熱した。


 @(オーム)の文字から、凄まじい光がほとばしったのだ。


 光は拡大した。


 


 


 光が聖堂を飲み込んだ。


 ブラームの身体が浮いた。


 光が渦を作り出している。


 ゆっくりと、渦は流れている。


 中心部にリックとクリレアがいる。二人は抱き合っている。


 その中心部にむかって、ゆったりと光は動いていた。


 それはまるで―――星雲が誕生するのに似ていた。


 ブラームは呪文でそれに対抗しようとした。


 だが、何も効果がなかった。


 より巨大な言葉によって、周囲の空間すべてが満たされているのだった。


 いまさら、一脇役に過ぎぬブラームの言葉によって、世界が動揺するはずがないのだ。


 そのことをブラームは悟った。


 「なるほど……な。これがわしに与えられた役割か」


 ブラームは呟き、やや満足そうに目を閉じた。


 ブラームの肉体は白い光の中に飲み込まれてゆく。


 何も、残らない。


 苦痛も、悔恨も、憎悪も―――


 光がすべて浄化し去ったから。


 


 アーシェンカも、光の中を漂っていた。


 身体がやけに軽い。


 暖かい波動が身体に染み込んで来る。


 いい気持ちだった。


 まるで、好きな人に抱きしめられているような、そんな感覚だ。


 歪められていた脊椎が伸びてゆく。


 皮膚に潤いが戻ってゆく。


 色あせた白髪が、若々しい栗毛に戻っていく。


 わかる。


 これは、キラシム―――時間をエネルギーに変える呪文―――の裏返しなのだ。凄まじい量のエネルギーが、アーシェンカに時間を遡らせているのだ。


 アーシェンカは、心地好い眠りに沈んでゆく。光はまるでゆりかごのようだった。


 


 ダイモンは光の中で意識を取り戻した。


 目の前に懐かしい顔が並んでいた。


 両親、妻、そして子供たち。


 シストアは、一人の赤ん坊を抱いている。お兄さんらしく保護者然とした表情を浮かべている。


 イフラージャ。まだ見ぬ我が子。


 ダイモンは双眸を涙で濡らした。


 シストアをイフラージャごと抱き取った。


 頬をすり寄せた。


 シストアは嬌声を上げ、イフラージャも楽しげに目を細めた。


 妻はそっとダイモンの肩に手を触れ、両親は静かに微笑んでいる。


 幸せだった。なにひとつ欠けていない。


 いや―――ただひとつ、足りない。それは―――。


 「ありがとう」


 ダイモンは礼を言った。シストアが不思議そうにダイモンを見上げた。


 ダイモンは虚空を見詰めていた。


 「おれが一番欲しかったもの―――家族とのやすらぎ―――をくれるというのだろう。だが、おれには現実の世界でやることが残っている。竜との約束だ。それを果たすまでは、このやすらぎに浸り切ることはできないんだ。それまで……あと少し待っていてくれないか?」


 ダイモンの言葉に対し、光はうなずきかえした……ように思えた。


 ダイモンの家族たちは姿を薄れさせた。


 遠ざかりながら、手を振る。


 ダイモンも手を振った。


 そして……消えた。


 


 


 光は―――


 


 光はどんどん広がった。


 ディアルムの塔を包み、城を包み、イズーの街を包んだ。


 なおも広がる。


 光は野を染め、川を光らせ、山々を貫いた。


 海を走り、大陸を駆け抜け、あまねく行き渡った。


 ボッシュ界のすべてを、一瞬にして走破した。


 一瞬だ。


 人はそれを光としては感じまい。


 無意識の領域に閃いた波動のようにしか感じられまい。


 それほどの短時間。


 だが、確かにボッシュ界は光に包まれた。


 言葉のない無音の海に浮かぶ、この世界が。


 いま、祝福されたのだ。


 


 リックは肉体の自由を取り戻した。


 そばにクレリアがいた。強く抱きしめた。


 クレリアはリックの胸に顔をうずめた。


 もう、何もいらないと思った。


 二人、同時にそう思った。


 


        エピローグ

 


 奇妙なほど晴れわたった空の下―――


 一行は旅立ちの時を迎えていた。


 鉄と石と硝子の廃墟。


 古都の町並みはあくまでも静かである。


 イズーが解放されたのは、今から三日前であるに過ぎない。


 オーン魔道士部隊によるイズーへの奇襲は、ちょうど婚礼の夜の払暁に行われた。


 グルムコクラン軍主力はゼルクブルグ連合軍と対峙しており、別働隊の存在に対しあまりに無頓着であった。


 イズーの防衛の要、飛竜騎兵隊がすでに全滅していたこともオーン魔道士部隊に幸いした。


 オーン魔道士たちの襲撃に、イズーに残っていた兵士たちはたちまち壊乱した。


 指示を出すべき人間がいなかったためだ。


 王も軍師もいない状態で、兵士たちは烏合の衆と化した。


 一日ももたずイズーは陥落し、グルムコクラン軍は壊滅したのだった。。


 



 かつてはメイン・ストリートだったはずの通りに、三つの人影が立っていた。


 アーシェンカ・ウィザードスプーン、ダイモン・ザース、そして、ひっそりと佇む黒衣の男はモス・フェルだ。


 彼ら、生きながらにして伝説の演じ手となった人々は、しばしイズーの町の景観に心を奪われていた。


 見渡す限りを埋め尽くす石造りの建物に、規則正しく並ぶ鉄製の街灯。街路には色煉瓦と硝子が埋め込まれ、太古の轍の跡が今も残っている。


 まるで、昨日の夜まで数万の人々が住んでいたような錯覚すら覚える。


 いにしえのイズー。


 この街では時間が停まっていたのだ。トリスタムとイズーが、最初の悲しい別れをした時から、ずっと。


 「いい天気だ」


 ダイモン・ザースがぽつりと言った。


 そのような他愛のない話柄から入らねばどうしようもないほどに、人々を包む空気には重苦しさがあった。


 「雪もすっかり溶けたな」


 モス・フェルが応じた。


 「この地方では、こういう天気を<小さな春>と呼ぶらしい。まったく、そうだ。明日にはまた空を鉛色の雲が多い、湿っぽい雪を降らせるのだからな」


 「ふん。旅立ちには絶好、というわけかい」


 ダイモンは鼻を鳴らした。


 ちろり、アーシェンカを見る。


 アーシェンカは静かに物思いにふけっていた。


 容姿は元に戻っている。十五歳の姿にだ。あの莫大な光に包まれた時、時間をエネルギーに変える呪文が逆に作用した。つまり、膨大なエネルギーが時間に変換されてアーシェンカに注ぎ込まれたのだ。


 だが、表情は暗い。


 元に戻った、とはいえすべてが元の通りであるとは限らない。アーシェンカの内面は変わった。変わらざるを得ない体験をした。


 人を愛した。激しく愛した。初めての感情だった。


 だが、その想いが報われることはなかった。


 それはいい。仕方がないことでもある。だが。


 「どこに行ったのかな……」


 アーシェンカは呟いた。蒼穹を見上げている。


 二人の男たちは沈黙した。


 リックとクレリアの姿は、あの後、かき消えていた。


 全力を尽くして探したが、発見できなかった。


 死んだはずはない。二人は神になった。それも生きた肉体を持つ神に。


 彼ら神々によってアーシェンカもダイモンも死の淵から救われたのだ。


 だから、


 「どこに行ったのか」


 という問いが生まれる。


 だが、誰にも答えることのできない問いだった。


 アーシェンカも誰かから答えがもらえるとは考えていない。ただ、その問いを反芻するだけだ。


 ややあって、モス・フェルが口を開いた。


「わしらも、行こう―――それぞれ、やるべきことがあるはずだ」


 ダイモンはうなずいた。


 アーシェンカもこくんと首肯して、そしてちょっとだけ微笑った。


 


 「では……な」


 まず、ダイモンが一歩を踏み出した。


 西に向かう。トートの港にたどり着いたら、西の大陸に渡る船を探すつもりだと告げた。


 「ま、十年は戻って来れないかもな」


 そう言って、屈託なく笑った。


 アーシェンカはモス・フェルとともに南に道を取る。


 「ダイモン、元気で!」


 アーシェンカは努めてはしゃいだ声をあげた。


 「困ったことが起こったら相談においでよ! 昔のよしみで料金まけてあげるから!」


 「本当か? かえってぼられそうで、不安だな」


 ダイモンが振り返って混ぜっ返した。


 それから、また歩みを始めた。もう振り返らなかった。


 モス・フェルとアーシェンカも振り返ることをしなかった。


 


 イズーの城の鐘が鳴った。


 その音色から禍禍しさはもはや抜け落ち、澄み切った響きを高い空に向けて放っていた。


 その音はいつまでも、続いた。

 


                              end.

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いにしえのイズー 琴鳴 @kotonarix

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