第六章 婚礼の夜

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 馬車が揺れている。


 その揺らぎの中にクレリアはいた。


 すぐ側で侍女のアンナが寝息をたてている。サンク・セディンを出発して以来、車中泊が続いていた。クレリアが眠りにつくまでは、と頑張っていたアンナも、ついに堪えられなくなったのだ。


 クレリアは自分用の毛布をアンナの身体をかけてやる。


 銀の瞳が柔らかい光を放っている。


 優しい表情だ。


 馬車の中にはクレリアとアンナしかいない。


 内装はこの上なく豪奢である。


 羅紗張りのクッション、金銀をふんだんに使った窓枠、填め込まれているのはクリスタル・ガラスだ。


 二人の人間が乗るだけにしては長すぎる座席が向かい合う形に配され、折り畳み式のテーブルを立てれば、車内で食事も札遊びもできるようになっている。


 クレリアを退屈させまいとして、アンナが一生懸命に札遊びをしようと誘うものだから、やむなくクレリアは慣れぬ遊びにつきあった。


 札遊びは貴族の好む遊びだということで、王族の遊び相手として躾られた侍女のアンナはそのやり方については通暁していた。


 それも、ギリギリのところで勝ちを相手に譲る術までを叩き込まれていた。


 クレリアはそれを見抜いた。だが、黙って勝たせてもらった。嬉しそうに笑っても見せた。そうすることがアンナを安心させ、また、アンナの評価を高めてやることにもつながると思ったからだ。


 アンナはグルムコクランの首都アズン・カラクムの下町で生まれ育った。


 五歳の時に王宮に出された。


 両親が税を払い切れなかったのだ。租税の代わりに、子供を提供することは珍しくはなかった。昔から、貧しい家庭から提供された子供を養育し、男の子は兵士に、女の子は女官、あるいは貴族の家の婢として教育する、という仕組みがあった。


 あながち悪い制度であるともいえない。王宮に出された子供は少なくとも飢えることはないし、成績次第では高い待遇も受けられる。むろん、能力なし、と判断されれば容赦なく放逐されてしまうのだが。


 アンナは、愛らしい容姿とよく気が回る利発さを買われて、王宮づきの侍女として採用された。その出身を考えれば破格の待遇であった。


 「軍師さまが選んでくださったのです。あの方は、わたしの恩人です」


 と、瞳を輝かせてアンナは言ったものだ。


 アンナの夢は、五歳の頃に別れたきりの両親に再会することだ。十年というもの、一度も会ってはいないが、手紙のやり取りだけは欠かしていない。両親から来た手紙が何よりも大事な宝物なのだとアンナは言った。


 親の顔を知らないクレリアにとっては、両親について語る時のアンナの顔の輝きがなんとも羨ましく、かついとおしい。


 クレリア付きの侍女としてアンナがやって来たのは、クレリアが連れ去られてグルムコクラン軍に入った翌日からであった。


 クレリアは最初、心を閉ざしていた。


 神殿長の変貌ぶりがクレリアの心に深い傷を残していたのだ。その後の自分の境遇の激変にも適応しきれなかった。


 捕らえられてから数日、何も口に入れなかった。水すらもだ。


 アンナは、不幸な女主人に深く同情し、心細やかに世話を焼いた。それどころか、クレリアさまが何もお口にされないのでしたら、わたしも、とばかりに、アンナ自身が飲まず食わずで頑張り始めたのだ。


 その甲斐甲斐しさにクレリアは心を開いた。


 それからというもの、クレリアとアンナは実の姉妹のように過ごした。


 アンナの安らかな寝顔を見つめながら、クレリアの回想は続いている。


 


 セラフィム王と初めて会ったのは、クレリアがさらわれてから半月の後。


 行軍中に突然にセラフィム王が、クレリアたちの乗る馬車を訪問したのだった。


 クレリアは、自分が何のために連れ去られたかについて何も聞かされていなかった。


 セラフィム王は、従者も従えず、まるで一介の兵士のような気安い振る舞いを見せた。


 つまり、一人でクレリアの馬車に乗り込んで来たのだ。


 アンナはあまりの恐れ多さに下車してしまい、車中セラフィムとクレリアは二人きりになった。


 「急ぐ旅なもので、ゆっくりと車を止めて話すこともできぬ。無粋を許されよ」


 と、まず言った。


 セラフィム王は肌が白く、切れ長の瞳を持っていた。


 知性的な顔立ちだった。野蛮な軍事国家グルムコクランの主権者とも見えず、まるで学生のような清々しさがあった。


 「わたしはセラフィム・ストゥームベルガー。あなたがクレリア・エネスどのか……。なるほど、噂にたがわぬ美しさだ」


 「セラフィム陛下。わたしは理由もなくハッシュの町より拉致されました。わたしを故郷に帰していただきたくお願いします」


 クレリアはセラフィムの眼を見詰めたまま、そう言上した。貴人の眼を見るのは非礼である、という認識はなかった。眼を見ずに喋ること―――すなわち、儀礼的な身分差に遠慮をして、心を偽ること―――はクレリアにはできない。


 「さすがはクレリアどの、というべきか」


 心から感嘆したようにセラフィムは言った。


 「わたしなぞ、たかが地上の国の王に過ぎぬ。御身の貴さを思えば、わたしの方こそ平伏をし、その御意を得るために汲々とせねばならぬところだろう」


 クレリアはわずかに眉をひそめた。セラフィムの言い条が理解できない。


 「さて、クレリアどの、あなたは先程、故郷に帰していただきたいと申されたな」


 クレリアはうなずいた。


 セラフィムの口元に笑みが立ち上った。


 「今、向かいつつあるところがあなたの故郷であるとすれば……なんとされる?」


 クレリアの身体が硬直した。


 その様子をセラフィムは楽しげに眺めつつ、話し始めた。


 「トリスタムとイズーの伝説をご存じかな……? ほう、ご存じであるか。さすがは神殿でお育ちになっただけはある。だが、このことはご存じあるまい。このわたしがトリスタムの生まれ変わりであり、そしてあなたこそがイズーの現し身であることを」


 クレリアは目前のセラフィムの表情に注視した。セラフィムは惑乱してはいない。瞳にも理性の色が宿っている。ということは、先程セラフィムが吐いた言葉も、単なる戯言ではないようだ。


 といって、クレリアがその言葉を真に受けたわけではない。


 「信じてはいないようですな。それも当然でしょう。だが、これからわれわれが向かう場所―――古都イズーに着けば、あなたの前世の記憶も戻ることでしょう。そうすれば、わたしたちは再び愛しあうことになる。千年前にケルベールが予言した通り、わたしたちは今度こそひとつに結ばれるのです」


 セラフィムの双眸が燃え上がっていた。


 名状しがたい想いに、クレリアはとらわれた。


 幻視が目前に蘇る。


 かつて、おのれの命よりも大切であった誰かの記憶。


 その姿が胸に立ちのぼる。


 その顔は―――


 見えない。


 その顔のあるべき位置には、黒い穴がぽっかりとあいているのだった。


 「いかがなされたかな? クレリアどの」


 気がついた時、クレリアはセラフィムの腕の中にあった。セラフィムの顔が間近にある。


 わずかな間、気を失っていたらしかった。


 クレリアはすばやく自分を取り戻し、セラフィムから身体を離した。


 その潔癖な仕草に、セラフィムは苦笑を漏らした。


 「さても花嫁はお堅いことだ……。だが、イズーに着けばあなたの心はわたしへの愛で満たされる。先程の続きは、祝言の後でゆっくりと致すとしよう」


 言い置いて、セラフィムは席を立った。


 馬車を停めさせ、セラフィムは自分の馬に乗り換えた。


 あわてて周囲の人々が平伏するのに目もくれず、馬に鞭を当てて走り去って行く。


 それが、セラフィム・ストゥームベルガーとの出会いであった。


 


 その後、クレリアたちはサンク・セディンに入り、そこでしばらく平穏な時を過ごした。


 だが、クレリアたちの旅がまだ終わっていないことは明らかだった。


 アンナが仕入れた情報によると、イズーへの再出発の時は迫っており、王とクレリアがその古き都に着き次第、すぐにでも婚礼の儀式を始めるということであった。


 その話をする時のアンナの顔は太陽のように光り輝いていた。


 「クレリアさまの花嫁姿、いったいどれほどお美しいことでしょう! もう、想像するだけで胸が壊れてしまいそう! わたし、幸せ者だわ。クレリア様のご婚礼の時には、わたしも侍女としてご一緒できるのですもの……ああ、幸せすぎて、怖いくらいですわ」


 そこまで喜ばれてしまうと、クレリアとしても返答に困る。だが、といって、アンナを喜ばせるためだけに、好きでもない相手と結婚することはできない。


 「アンナ……わたしはセラフィム陛下と結婚はしないわ」


 「ええっ!? なぜですか、クレリアさま!」


 心底、アンナは驚いたらしい。ただでさえ丸い眼がまんまるになっていた。


 「なぜって……わたしはただの孤児だし、セラフィム陛下と結婚なんて、身分が違いすぎるわ。それに、陛下はわたしのことをおかしな風に誤解なさっているのよ」


 イズーなる女神の現し身などと。笑い話にもならない与太である、とクレリアは思っているが、アンナたちの意見はまた違うようである。


 「そんな! わたしの目から見ても、クレリアさまはイズーさまの生まれ変わりに間違いありません。そのお美しい銀色の御髪おぐし、御髪と同じお色合いの瞳……世界中、どこを探してもクレリアさまのような方はいらっしゃいません。クレリアさまこそ女神です。わたし、そのように信じております」


 真剣な面持ちでそう言われてしまうと、さらに反論する気も失せる。


 「いいわ……わたしが、そのイズーの生まれ変わりであったとして……それでもわたしにはセラフィム陛下と結婚できない理由があるの」


 「それは、どんな理由でございますか」


 アンナは緊張して、クレリアを見詰めた。


 クレリアは、軽くため息を漏らした。


 「内緒にしてくれる?」


 「この命に換えましても!」


 「そんな大袈裟なことは言わなくていいけど……わたしには、好きな人がいるの」


 「えええっ!?」


 アンナは大声を出した。


 「しっ! しぃっ!」


 二人きりの部屋の中とはいえ、声高な会話は慎まねばならぬ。アンナは心からクレリアに仕えてくれているからよいが、それ以外の女官たちがクレリアの一挙手一投足に監視の目を向けていることに、彼女は気付いていた。


 「クレリアさまに……想い人がいらっしゃるなんて……」


 アンナの頬は赤く染まり、眼は潤んでいた。


 「その男の方は、この地上でもっともお幸せな方ですわ!」


 「アンナったら……」


 クレリアは苦笑せざるを得ない。それでも、アンナがせがむのに応じて、リックのことをぽつりぽつり話して聞かせた。


 「真面目で……ひたむきで……少し子供のようなところがあって……周りの人間がじれったくなるほど不器用で……不思議なひと」


 「不思議な……って、どういうところが?」


 アンナの問いに、クレリアはリックの面影を想い描く。しばしの間、沈思する。


 「そうね……言葉にするのは難しいけれども……いやな匂いがしないの。近くにいると、お陽様の匂いがするの。その匂いにいつも包まれていたいと感じるの……これって、わたしの方が変かしら?」


 クレリアは不意に恥ずかしくなって、耳まで赤く染めた。


 そんなクレリアを、アンナは仰ぎ見るようにしている。


 「素敵です、クレリアさま。もう、セラフィム陛下と結婚してくださいなんて、言いません。リックさまとお幸せになってください」


 「でも……無理よ。わたし、リックに自分の心を伝えることもできなかったし……リックは今頃はわたしのことなんか忘れているわ……」


 がばっ、とアンナが伸び上がる。


 「そんな弱気じゃ駄目です! きっとリックさまはクレリアさまのことを待っていらっしゃいます! わたしが、ここからクレリアさまを助け出して、リックさまのもとへお連れします!」


 思い詰めた表情で言うのを、クレリアは押し止めた。


 「そんなこと、冗談でも口にしてはいけないわ。気持ちは嬉しいけど、あなたの身に危険が降りかかってしまう。わたしは、このままイズーへ行きます。そして、セラフィム陛下にわたしの気持ちをお話しして、考えを変えていただくようにするわ」


 要するに、自分がイズーの生まれ変わりなどではないことを証明すればよいのだから、きっとうまくいくとクレリアは思っていた。


 自分が女神などではないことをクレリアは知っていた。少なくとも、知っていると思っている。


 「さ、この話はここまでにしましょう」


 そう言って、クレリアは話を切り上げた。


 サンク・セディンを発つことになったのはその数日後のことだ。


 


 ふっと、クレリアは意識を取り戻した。


 いろいろなことを思い出すうちに、うとうとしていたらしい。


 窓が曇っていた。クレリアは指先で窓を拭った。


 外は暗い夜の色だ。だが、空にはわずかに夜明けの色が混じり始めている。


 かなり気温は低そうだ。馬車の内部は断熱性がよいため快適だが、外では息も白く濁るだろう。


 ふと、車窓に白い綿のようなものがまといつくのに気付いた。


 それが雪であることに気付いた時には、空は鉛色に様相を変じていた。


 朝であった。だが、清爽さは一片もない。陰鬱な一日の始まりであった。


 雪は降り続いた。すぐに、車窓の桟に雪は積もった。


 道も遠からず雪に覆われよう。


 馬車に随行する兵馬にも白いベールがかかり始めていた。


 吹雪になる。


 そのことをクレリアは直感した。


 そして、クレリアは見た。


 車窓の先、どこまでも無人の野のその涯に、黒々とした影のあるさまを。


 それは、背の高い建物群であった。


 荒野に放置された石と鉄とガラスの廃墟。


 いにしえの都、イズー。


 


 


     2


 


 グルムコクラン軍はイズーに入った。


 すでに先遣隊が駐留しており、建物の一部はすぐに使えるように修復されていた。


 イズー周辺地域は、グルムコクラン軍によって完全に制圧されていた。


 サンク・セディンによって南北の連繋を断たれたゼルクブルグ連合軍は、もはや死に体になっていたのだ。グルムコクラン軍の猛攻に為す術なく、北方諸国は抵抗を放棄していた。


 イズー修復に際しても、彼らの供出した労働力と資材がおおいに役立っていた。


 数百年というもの放置されていたにもかかわらず、イズーは驚くほどよく保存されていた。


広い石畳の道、立ち並ぶ街灯。道端には車輪のついた箱型の乗り物が放置され、今にも走り出しそうに見える。


 家並みを見ると、門や窓枠は奇妙に曲げられた鉄枠に彩られ、クリスタルガラスの填まった奥には、今でも家族の団欒があるような感じがする。むろん、無人なのだが。


  


 高い尖塔が幾つも突き出した、特異なかたちをした城にクレリアたちは入った。


 イズーの城。かつて、トリスタムとイズーの居城であったとされる場所である。


 クレリアは女主人の部屋を与えられた。


 もはや囚人ではなく、后である、という扱いなのだろう。


 アンナ以外にも十数名の侍女がつき従い、クレリアの世話を焼いた。


 食事から着替え、沐浴に至るまで、侍女たちが群がって処理しようとする。される側のクレリアとしてはたまらない。かといって、侍女たちも遊びでそうしているわけではなく、命令を受けてのことだ。はいそうですか、と引き下がるはずもない。


 こうなれば、直訴しかないとクレリアは考えた。セラフィム王と話し、この茶番そのものをやめさせるしかない。


 クレリアは思い切って王への面会を申し入れた。


 しごくあっさりと、その申し入れは通った。拍子抜けするほどだった。


 王の居室をクレリアは訪ねた。アンナが一人つき従うのみである。


 居室にセラフィム王はいた。その傍らには軍師パペットマスターが控えている。


 「ようこそ、クレリアどの。今、ちょうど婚礼の打ち合わせをしていたところだ」


 セラフィムは白い顔をクレリアの方に向けて微笑した。


 クレリアは背筋に冷たいものが走るのを禁じ得ない。


 しばらく顔を見ないうちに、セラフィムはまったく面変わりしていた。


 頬がこけ、目ばかりが大きくなっている。唇は紫色だ。


 幽鬼のような、と表現しても差し支えないほどの生気のなさであった。


 だが、声だけは妙に快活であった。


 「セラフィム陛下、大事なお話があって参りました」


 クレリアは、最低限の礼儀は守りながら、それでも一歩も引かぬ決意を漲らせて口を切った。


 「なにかな、わが妻よ」


 「わたしはあなたの妻ではありません。また、妻になることもありません」


 クレリアは言い放った。だが、セラフィムは何ら感興を起こさなかったようだ。


 「わたしはイズーではありません。そして、陛下、あなたもトリスタムなどではありません。あの物語は伝説に過ぎないのです。神が生身の人間になるなどということがあるはずがないのです」


 クレリアは一息で言い切った。


 セラフィムは、意見を求めるようにパペットマスターを見遣った。


 パペットマスターは軽くうなずいた。


 セラフィムは椅子から立ち上がった。


 「そうまで言い張るとあれば、証拠をお見せするしかあるまいな」


 クレリアを振り返ったセラフィムの瞳には熱情が宿っていた。


   


 セラフィムはクレリアを城のある一郭に案内した。


 そこには、改修の手が入っていない。


 だが、妙に生活感があった。まるで十数年前まで、誰かが住んでいたかのような……そんな雰囲気があった。


そこにはちょっとした中庭があり、噴水がほぼ完全な形で保存されていた。


 さすがに噴水の仕掛けは壊れているが、井戸からの水を汲み上げる機構はどうやら生きていて、澄み切った水を常に満々と湛えている。


 庭園の側には石造りのテラスがあり、各部屋はその中庭に接するような造りになっている。


 「きれい……」


 アンナが思わず呟きを漏らすほどだった。


 確かに……とクレリアは思いつつ、同時に不思議な胸騒ぎがした。


 以前、このたたずまいを見て知っているような気がした。いや、もっと強い記憶……住んでいたような気さえする。


「ここは、かつて女神イズーが暮らしていた離宮の跡なのだよ。一千年の昔、われらグルムコクランの祖先たちが復旧したのだ」


 セラフィムは渡り廊下をゆっくりと歩きながら言った。。


 クレリアも建物を視野におさめた。


 白い石造りの建築だ。円柱は優美なカーブを描き、クレリアの目から見ても好ましく映る。


 「遠慮することはない。ここはおまえのために造られた場所だ」


 セラフィムは先に立って進み、クレリアをいざなった。


 クレリアは勇を鼓して進み入った。アンナが影のようにつき従う。


 パペットマスターの姿は見えない。


 部屋のひとつに入った。石造りの壁が寒々しいが、かつてはもっと暖かな部屋だったのではないか。


 子供部屋―――だったのではないか。


 小さなベビーベッドが放置されている。壁のタペストリは朽ち果て、部屋は荒廃しているが、確かにそんなに昔でない過去に、ここに子供がいたのだ。


 セラフィムの靴音が高く反響する。


 「ここは―――どこ?」


 クレリアは不意に不安に襲われて訊いた。


 「ここかね……? ここは、イズーが子供時代を過ごした部屋であるということだ」


 セラフィムはクレリアを振り返って言った。


 「つい十七年前にも赤ん坊がこの部屋にはいたらしいが―――ね」


 セラフィムは笑顔を作った。クレリアは肌に粟立つものを感じた。


 


 「わたしは考古学が好きでね」


 セラフィムは話柄をいきなり変えた。


 「今よりももっと若い頃には、王などよりも学者になりたいと思ったものだよ」


 クレリアは黙していた。


 セラフィムはクレリアの反応には無頓着だった。なにものかに衝き動かされているかのようだ。


 「特に熱心に研究したのはトリスタムとイズーの伝説だった。当然だろう。わがグルムコクランのルーツともいうべき神話だ。研究対象としてはこれ以上のものはない」


 セラフィムは、虚空を見詰めながら言葉を続ける。


 「そして知ったのだ。大神ケルベールが予言した千年の時が、今年充ちることを。死によって分かたれたトリスタムとイズーは、今年―――もっとくわしく言えば、明日の深夜……ふたたび結び付けられるのだ」


 「それが……どうしたというのです」


 クレリアはようやく反問した。ただの偶然の一致に過ぎないではないか。


だが、セラフィムはクレリアの言葉を無視した。しゃべり続ける。


 「トリスタムとイズーが再び結ばれるためには、このイズーの都を奪回せねばならなかった。そして、この神殿で、イズーの生まれ変わりたる銀の髪、銀の瞳の少女と愛を誓わねばならぬ。そのためには、わたしは国が滅ぶことをもいとわなかった」


 憑かれたようなセラフィムの独語であった。もはや、クレリアやアンナの存在自体を失念しているのではないか。


 「そう、わが軍は敵地に孤立し、本国に戻る術はもはやない。サンク・セディンは落ち、明後日にはゼルクブルグ連合軍がこのイズーへ押し寄せることは目に見えている。だが、その時にはもはや遅いのだ。イズーと結ばれしわれは、軍神トリスタムとなりて、この大地そのものを浄化する大いなる存在となるのだ」


 「サンク・セディンが……!?」


 思わず口走ったのはアンナだ。慌てて口をつぐみ、小さくなる。貴人の前で言葉を発するなど、出過ぎたことだという感覚がアンナにはある。


 だが、それほどまでに衝撃的な一言であった。グルムコクランの兵士たちが聞けば腰を抜かそう。士気が低下し、精鋭軍がただの烏合の衆となりかねない。なぜなら、サンク・セディンは母国クルムコクランとの連絡の要。この要害の地を押さえているからこそ、グルムコクラン軍は敵地深くに侵入できたのだ。そのサンク・セディンを失ったとあれば、一度は恭順の意を示した北方諸国も反旗を翻し、ゼルクブルグ連合軍を支援するだろう。そうすれば、グルムコクラン軍は壊滅せざるを得まい。


 クレリアにもそのくらいのことは察することができる。


 と同時に肌に粟立つものを感じた。


 グルムコクラン軍―――その統帥者たるセラフィム・ストゥームベルガーの目的が、単なる領土拡張への野心などではないことがこれで明らかになったからだ。


 国家すら捨て駒にできる野心―――そして、その野心を満たすに足る結果―――それらは、もはや地上に属するものではあるまい、という気がする。


 だとすれば、セラフィムは地上の王を超える存在―――神になれると本気で思っているのではないか。


 狂気だ。


 純粋な、それは狂気だ。


 その狂気が大陸随一の軍事力を動かし、未曾有の侵略戦を起こさしめた。


 無数の家が焼かれ、人は死に、子は親を失った。


 クレリアの胸に悲しみがこみ上げる。


 その責任の一端が自分にはあるような気がして、クレリアは涙を流した。


 銀色に光る涙だ。


 頬をつたう。


 「クレリアさ……ま……」


 アンナはクレリアの尋常ならざる美しさに息を呑んだ。


 セラフィムでさえ、続ける言葉を忘れ、クレリアの姿に注視した。


 その時、壁の燭台の蝋燭が強く燃え上がった。


 部屋の内部が一瞬昼間のように明るくなる。


 アンナの目には、クレリアの全身が銀色に輝くように見えた。


 


 クレリアの意識は光に包まれていた。


 膨大な量の映像が、線画と色彩をバラバラに羅列して流れ込んで来る。


 音や匂いすら、光と色の明滅によって伝えられている。


 多すぎて、どうしようもない情報量だ。


 どうやら、それは歴史であるらしい。


 この大陸に刻まれた、人と国の移ろいの記憶。


 勃興する国。衰亡する国。


 きらめく槍の穂先、飛び散る血潮。幾度となく繰り返される戦い。


 泣き叫ぶ童女の声、悲鳴、怒号、絶叫。


 弔いの歌、続く葬列、野に出ずる花々。


 一人一人に顔があり、声があり、人生の起伏がある。そのすべてを感知しながら、クレリアの意識は時間の遡行を続けている。


 一瞬のうちに幾千もの人生を味わい、心動かされる。


 それをどれほど続けても、流れ込む情報は減らず、受け入れるクレリアの心の容量も尽きない。


 むしろ、どんどん鮮明になる。


 受け取れるイメージはより詳細になり、描き出される人のドラマも密になる。


 そして。


 ついに、クレリアはイズーに立ち戻った。


 


 立っている。


 中庭の東屋だ。


 明るい光が周囲に満ちている。


 辺りはきれいに掃き清められ、庭には花々が咲き乱れている。甘い花の香りがただよっている。


 クレリアは素足で立っていた。ひんやりとした石の感触が伝わってくるが不快ではない。むしろその冷たさが心地好い。


 クレリアの心は弾んでいる。うきうきした心がつい口元に立ちのぼる。


 恋をしているのだ。


 それも、報われぬ恋ではなく、互いに心を開き合い成就した恋。


 靴音が背後に近付く。


 愛しい人の靴音と悟り、クレリアは振り返る。


 そこに立っていたのは―――


 


 時が跳ねる。


 クレリアの心は暗黒に閉じ込められている。


 忌まわしい男の腕に抱かれた自分を憎悪している。


 愛しい人を封じたあの者に所有されている自分を呪っている。


 その呪いが、クレリアの身体を固くしてゆく。


 固く、もっと固く。


 全身が銀に塗り込まれるまで……。


 


 蝋燭が消えた。


 室内を一瞬だけ照らし出した光は四散した。


 クレリアは凝然と立ち尽くしている。


 涙が頬を伝いおちはじめる。


 再び流れはじめた涙には、もはや銀の輝きはない。


 ふうっ、とクレリアの身体が芯を失った。


 柔らかく崩折れる。


 アンナが慌ててクレリアの身体を支える。


 「クレリアさま! しっかり!」


 揺さぶるが、クレリアのまぶたは閉じられたままだ。


 意識を失っている。


 「い……いまのは……なんだ」


セラフィムの声はかすれている。乾いた喉がひきつっているようだ。


 「陛下よ、お喜びあそばせ。たった今、女神の魂は本来の場所に宿りました」


 無気味な声が響いた。


 「軍師か。どこにいる?」


 セラフィムの表情が安堵にゆるむ。この若き王は、黒衣の魔道士に全幅の信頼を置いているのだ。


 魔道士の黒い姿が奥の部屋から現れた。足音ひとつ立てない。生き物ならば当然発するであろう気配すら、その姿からは感じられない。


 「女神の魂をよりしろに降ろすための結界を守っておりました」


 パペットマスターは陰々滅々たる声で言った。


 「そうか……! では、上首尾であったのだな」


 セラフィムは憑かれた者の眼で叫ぶ。


 それを受けて、魔道士の口元にかすかな影が立ち上る。


 「ここは、かの者の出生の場所。心は最も澄みわたり、大いなる霊を宿すのには格好の環境となりまする。これでご婚礼はとどこおりなく進めることができましょう―――」


 


 


      3


 


 イズーへ。


 思いつつ、念じつつ、リックは先を急いでいた。


 一人である。


 ついに、一人で旅をするようになった。


 ハッシュの町を出発した時にはダイモン・ザースがいた。旅なれた彼が連れであったおかげで、リックは旅のコツを覚えることができた。街道の歩き方、宿の取り方、旅人たちのしきたりの色々。それらすべてをダイモンと一緒に行動することで知ることができた。


 そして、オーンの町に立ち寄ってからは、仲間が一人増えた。


 アーシェンカ・ウィザードスプーン。こまっしゃくれの少女魔道士だ。


 言動に多少の問題はあったが、頼りになる魔道士だった。文字呪文を攻守に駆使し、リックの命を幾度となく救ってくれた。


 だが、その二人の仲間は今はいない。


 ダイモンは、家族の仇であるガッシュ・ベルトラン―――グルムコクラン軍の火竜部隊ダークサラマンダーの隊長だ―――との死闘の果て、その復讐の旅を終えた。


 アーシェンカは、サンク・セディンの守備隊長にして最強の魔法生物ザルト・ゼオクロームを未知の魔法で撃破した後、なぜかリックの前から姿を消した。


 リックが意識を取り戻した時、彼の側にはモス・フェル大導師がいた。


 大導師が回復の文字呪文を施してくれたおかげで、リックは一命をとりとめたのだ。


 魔道都市オーンの魔道士ギルド・マスターであり、同時にアーシェンカの師匠でもあるモス・フェルに対し、リックは質問をした。


 「アーシェは? 無事なのでしょうか」


 と。


 モス・フェルは深い皺を眉間に刻んだ。答えにくそうにしている。


 「命には別状ない。だが、もはやあの娘がおまえの前に現れることはあるまい」


 と、だけ言う。だが、それだけでリックが納得できるはずがない。


 「なぜです、大導師!? 傷を負っているなら放ってはおけないし、無事ならば、これからのことについて相談もしたい。彼女は大切な仲間なんです」


 自分の身体のことにはまったく言及せず、アーシェンカのことをばかり口にするリックを、モス・フェルは複雑な面持ちで見守っている。


 「大導師、アーシェンカの居場所を教えてください」


 「詳しいことをわしの口から言うことはできぬ。だが、察してやってほしい。あの娘は自分の意志でおまえのもとを離れたのだ。これ以上、一緒にいることはできない、と言ってな」


 モス・フェルの言葉にリックは強い衝撃を受けた。


 信じたくない、という気持ちが先に立つ。だが、信じざるを得ないものがモス・フェルにはあった。もとよりギルドマスターともなれば、不用意な嘘をつくはずもない。


 「……アーシェは、元気なんですね?」


 ただ、それだけ念を押した。元気であれば、また逢える。今はただ、ちゃんとした礼を言うことができなかったことを悔いるばかりだ。


 「ああ。それは保証しよう」


 モス・フェルはうなずいた。リックはそれでよしとするしかなかった。


「で、これからのことだが――」


 大魔道士は言葉を継いだ。


「わしはアーシェンカに、おぬしをイズーへ無事案内するように、と命じた。その指示はまだ完遂されてはおらぬ。本来ならばわしが案内せねばならないところなのだが……」


 モス・フェルはオーン魔道士部隊を指揮せねばならない立場であった。


 と、いうより、ゼルクブルグ連合軍全体の意志決定をゆだねられていた。


 もともとゼルクブルグ自治共同体は各国の自由通商を保証し、その権益を保護・尊重しあうための機関であり、その設置目的は街道の整備・治安維持ならびに通商に関わる各国間の紛争の裁定だ。いわば、身内の紛争を未然に防ぐために発達した組織であり、此度のように外敵と戦うのは組織としては不得手であった。


 ふつう、このような戦争の場合、指揮系統の一本化がなされねばならぬ。だが、ゼルクブルグ自治共同体のシステムは一国の独走を許さないようにできている。いきおい、協議制となり、採択される方針は無難で当たり障りのないものになる。


 これでは強力な軍事行動はできない。


 この反攻の好機において、今までの愚を繰り返さぬために、局外者の立場にあるオーン魔道士ギルドが作戦指揮を統括することになったのだ。


 オーンの魔道士を中心にした作戦行動により、ゼルクブルグ連合軍は強靭さを取り戻し、サンク・セディンの攻略にもつなげることができた。


 「わしは連合軍の勢力をとりまとめねばならぬ。イズーに残存するグルムコクランの主力軍と対決するためにな。だが、それを待っていては手遅れになろう。セラフィム・ストゥームベルガーは、クレリアなる娘をイズーのよりしろとし、自分は軍神トリスタムの魂のよりしろとなるつもりなのだ。その降霊の儀式―――イズーとトリスタムの婚礼だが―――これだけは阻止せねばなるまい」


 「おれが行きます。クレリアを救い出します」


 気負うでもなくリックは言う。もとより、そのためにすべてを捨てて旅立ったのだ。


 うむ、とモス・フェルはうなずいた。


 「路銀と武具の類はこちらで用意しよう。それと馬、糧食、地図などもな。必要ならば、兵士をつけてやることもできるが、どうだ?」


 リックは、兵士は謝絶した。大勢になれば目立ってしまうし、迅速な行動もとりにくい。ここは一人で行く方がいい。


 かくして、リックは単騎、北上を開始した。


 


 雪が激しさを増していた。


 街道には、グルムコクラン軍の行軍の跡が残されている。


 深い轍に、ともすれば馬の足がとられる。


 朝方降り始めた雪だが、街道は早くも白く覆われつつある。


 今までこらえていた冬が、突如舞台に踊り出した感じがした。それまでは記録的な暖冬だった。その好天がグルムコクラン軍の伸長を許したのだ。


 グルムコクラン軍がイズーを得て、それと引き換えにサンク・セディンを失った――そのことにより、もはや冬将軍は誰にも気がねなく暴れられるようになったのであろうか。


 もはや、グルムコクラン軍は故郷に戻る方策を失った。このまま街道が雪に閉ざされれば、春が来るまで大規模な軍事行動は取れない。イズーでひっそりと時を待たねばならない。


 ゼルクブルグ連合軍としては、逆に今が好機だ。イズーは廃墟の町、城壁はほとんど倒壊している。城郭も優美すぎて篭城には向かぬ。となれば、イズーの城壁に手を入れる暇のないうちに決戦を挑むのが得策ということになる。そうすれば、戦いは野外決戦となり、数の上で優位に立つゼルクブルグ連合軍に凱歌があがろう。


 ゼルグブルグ連合軍が今、各国軍を吸収しながらゆっくりと北上しているのには、そういう目論見があった。


大局的な戦略の流れを見れば、すでにグルムコクラン軍は瀕死の状態にあった。サンク・セディンを失ったのが直接の要因だったが、もともとは無理な侵攻戦に没落の芽はあった。せめてもっと時間をかけ、各所に要塞を築き占領地を慰撫して植民地政策に腰を据えてかかれば、グルムコクランの版図は大幅に拡大していたはずである。だが、そのやり方では北端の古代都市イズーまで届くのに、数年の歳月が要っただろう。


 グルムコクラン軍の侵攻は拙速に過ぎた。その結果、敵地に孤立することになった。


 だが、自ら望んで孤軍となったのだとも言える。


 イズーを数日間守りさえすれば、それで千年の間くすぶり続けたグルムコクランの念願が成就するのだ。


 トリスタムの復活。


 だが、そのことを知る者はグルムコクラン軍の内部にもまれであった。


 


 リックは雪の中を進んだ。


 拍子抜けするほど、イズー周辺の警戒網はゆるかった。


 これには、モス・フェル大導師の協力もある。


 大規模な部隊をリックの進入コースの反対側に展開させ、グルムコクラン軍の耳目を引きつけたのだ。ある程度の規模の部隊であるならともかく、ただ一騎のリックの行動に注視する余裕など今のグルムコクラン軍には残されていない。


 リックは夜通し街道を行き、翌朝、小さな村に入った。


 廃墟の村だ。そこで風雪を避けて、わずかな時間まどろんだ。


 イズーへはあと半日の行程だ。


 近い。


 だが、その時は迫っていた。


 


 


 「なに?」


 と、クレリアは首を巡らせた。


 そこには呆気にとられた顔のアンナがいるばかりだ。


 「な、なんでございましょう、クレリアさま」


 「いま、呼ばなかった?」


 「いいえ」


 アンナは首を横に振った。


 「そう……」


 クレリアは呟いて視線を落とした。


 白いドレスの裳裾を見る。


 花嫁衣装である。たった今、侍女たちによってたかって着せられたものだ。


 今宵は婚礼だという。それも深夜。


 城で最も高い塔―――ディアルムの塔にて、儀式は行われるという。


 拒絶は許されなかった。さすがに部屋にまでは入って来なかったが、武装した兵士が常に監視していた。侍女たちも、立ち居振る舞い、言葉遣いこそ丁重であったが、クレリアの反抗を許さない強い物腰で接している。おそらく、上から厳しく言いつけられているのだろう。


 クレリアは、王の花嫁になるべき女性であるのと同時に、一個の虜囚であった。


 衣装をつけ終わり、髪を梳かれた。化粧を施そうとした侍女は、クレリアの顔につけるべきいかなる化粧品をも見出せず、断念した。いかなる紅も白粉も、クレリアの美しさをそれ以上に引き立てることはかなわなかったのだ。


 侍女たちは感嘆と驚愕を顔に貼りつけたまま、クレリアの居室から退出した。


 それから、時間が無為に過ぎた。クレリアの側にいるのはアンナただ一人。


 クレリアは物思いに耽っていた。自分がわからなくなっていた。


 神殿で自分が見たビジョンを考えていた。


 夢であったのか、とも思う。だが、その記憶はあまりに生々しい。


 自分が女神イズーのよりしろである、などということがあり得るのだろうか。


 だが、クレリアが得た記憶は、それが事実であることを示していた。


 今ではクレリアは、もう一人の自分の記憶をたどることができる。


 遠い遠い過去の物語。


 人と神が分かたれる以前の世界の記憶。


 そこでは、神も人も、機械すら同化して暮らしていた。


 世界は未発達で、辺境ではまだ完全には創造がなされていなかった。虚無の波が岸を洗っていた。


 物質も流動した。想念につられて形象が変化した。


 この時代は、まさに言葉が魔法となった。文字の研究などということをする必要すらなかった。


 イズーは、その神の言葉によって生み出されたのだ。


 美しき女あれ、という言葉によって。


 イズーを生み出した神は、同時に数多の神々を言葉から紡ぎ出した。


 世界をあまねく御するとされた大神ケルベールさえ、その源は言葉であった。


 ハーディール、という言葉である。法と秩序をそれは意味した。


 トリスタムもそうだ。トリスタムは闘う男という言葉の現し身だ。


 トリスタムとイズーは結ばれた。それも、創造者の用意した伏線であったのか。


 しかし、蜜月の時は長くは続かなかった。創造者は、新たな展開を用意していた。


 大神ケルベールの横恋慕だ。ケルベールは、その長い治世の間に一度だけ過ちを起こすことになっていた。それが、イズーへの歪んだ愛だった。


 ケルベールはトリスタムを陥れ、イズーを我が物とした。


 トリスタムは封じられ、虚空に消えた。


 イズーも、われとわが身を銀の像に変えた。


 ケルベールは自分の犯した罪を悔い、二度と同じ轍を踏まぬために、神と人とを分かった。そして、自ら眷族を連れて天界に昇った。以来、人の世界と神の世界は分離され、世に秩序がうち建てられた。


 爾来、ケルベールたち神々が創造者の代わりに世界の創造と充実に努め、世界から虚無が駆逐された。世界は球状のかたまりとなり、ボッシュ界と呼ばれるようになった。


 それが、この世界である。


 


 このような記憶を人が持てるはずがあるまい。クレリア―――いや、女神イズーと呼ぶべきか―――は、銀の像となってからの記憶すら有していた。


 彼女の名を冠した古都イズーで繰り広げられた人間たちの悲喜劇、痴態、口にするのもおぞましい悪徳の数々―――そして、心動かされる人生の一瞬一瞬―――それらのすべてを思い出せる。


 この膨大な時間の記録は、人間の限られた生の範疇ではとらえきれない。


 神であった、と思うしかない。


 であるとするなら、セラフィム・ストゥームベルガーと結ばれることが正しいのであろうか。セラフィムが真にトリスタムのよりしろたるべき男であるなら。


 クレリアにはわからない。


 なぜならば、完全に記憶を保っているはずの過去の映像において、最も愛しくあるべき男の面影だけが蘇らないのだ。


 トリスタムの顔が、声が、ぬくもりが、どういうものだったか思い出せないのだ。


 それが、今のクレリアを迷わせ、虚脱させていた。


 時がゆっくりと過ぎた。


 そして……ついに扉が開く。


 年老いた侍女頭が恭しく辞儀をする。


 「クレリアさま、ご婚礼の支度が万端整いましてございます」


 夜が更けていた。


 トリスタムとイズーの婚礼が始まる時間が訪れたのだ。


 


 


        4


 


 ディアルムの塔にクレリアたちは向かった。


 先導するは侍女頭の老婆。そして武装した近衛兵が周囲を警戒する。


 クレリアの側にはアンナが控えている。


 「よろしいのですか、クレリアさま」


 アンナが囁いた。


 「わからない」


 正直な気持ちをクレリアは口にした。


 「どうすることが正しいのか。セラフィム陛下と結婚する意志はないけど、なぜだか塔へは行かなければいけないという気がしてならないの」


 衝き動かされるような感覚があった。クレリアとしての意志は、この場から逃げ出すことを望んでいた。だが、もう一人の自分が塔へ行くことを命じていた。


 抗えない。


 それに、抗がうに足りる力をクレリアは有していない。あまりに無力な存在だった。


 近衛兵たちの包囲を振り切って逃げることはかなわない。


 この城から脱出する方策は何もない。


 帰るべき家すらない。神殿長がいないハッシュの町ではクレリアは単なる孤児に過ぎない。それどころか、ハッシュの町が残っているかさえも疑わしい。


 無力で孤独なクレリア。どうすればよいのかわからない、というのが正直なところだろう。


 「クレリアさま……」


 泣き出しそうな顔をアンナはした。


 「きっと、きっと、リックさまが助けにいらっしゃいます。希望をお捨てにならないでください」


 クレリアは薄く微笑んだ。胸がきりきりと痛む。


 もしもそうだったら、どんなにかいいだろう、と思った。だが、クレリアは、自分がリックにとってそれほど大事な存在である、とは自惚れていない。


 それに、とクレリアは思う。


 セラフィム・ストゥームベルガーは、自分がトリスタムとなるために、この侵略戦争を起こしたのだと言明している。その愚を、その罪を、セラフィムに理解させてやりたい、という気持ちも強かった。


 語り合う時が欲しかった。


 セラフィムを悔悛させ、この悲惨な戦争を終わらせたい。そして、その罪を償いたい。クレリア自身にも責任があるとするなら、セラフィムとともに償うこともいとわない。


 


 花嫁の行列は静かに塔を登ってゆく。


 と、先導する老婆の足が停まった。


 何事か、と訝しむ空気が一行を覆う。


 老婆は何やらぶつぶつと呟いている。


 「どうしたのだ」


 近衛兵の一人が痺れを切らした。老婆に近寄った。


 「動くでない!」


 鋭い叱責が老婆の口を突いて出た。


 「塔の魔物が目覚める!」


 老婆の言葉に一行は、ぎょっとなった。


 古都イズーには幽霊や怪物が多く出る、という迷信が兵士たちの間には広まっていた。


 老婆の言葉によって、突然に塔内部の空気が妖気をはらんだ。


 厳寒の深夜、暗くしめった塔の内部―――闇が盛り上がり、あらぬ影を生み出す。


 「見える、見えるぞ。恐ろしい怪物じゃ!」


 老婆が指を闇につきつけた。


 兵士たちは老婆の指差す方角に目をやった。


 巨大な怪物が現れ出ていた。


 白骨の竜だ。透明な腐肉を全身にまとっている。


 ぽっかりとあいた眼窩の奥に、鬼火のような青い炎がちろちろと燃えている。


 恐怖が兵士たちの脳を叩いた。


 怪物とは戦えぬ。我先に逃げ始めた。


 クレリアは茫然と立っていた。クレリアには怪物の姿が見えなかった。ただ、闇があるばかりだ。なのに、兵士たちは顔色を蒼白にして逃げ始めた。


 理解できないが、クレリアも人波に押されて後退しかけた。その手首を握り締める者がいた。


 見ると、そこには侍女頭の老婆がいた。


 「あなたは?」


 クレリアは老婆を見詰めた。侍女頭であるとばかり思っていた老婆は、まったくの別人だった。服装といい立ち居振る舞いといい、侍女頭の老婆にそっくりだったので今まで見過ごしていたが、よくよく見ると見知らぬ老女であった。


 赤い瞳がいきいきと輝いている。口元には不敵な笑み。いたずらっぽい微笑みだ。


 「あんたの味方だよ。―――ったく、ほんものはもっときれいだね、あたしゃ嫌になっちまうよ」


 老婆はクレリアを見上げて言った。軽く肩をすくめる。と、ふいに表情を改めて、クレリアに訊く。


 「クレリア、あんた、どうするつもりだね? このまま、セラフィム・ストゥームベルガーの花嫁になるかね?」


 クレリアは戸惑ったような表情を浮かべた。


 「わたしは……」


 言いよどんだ。


 横からアンナが飛び出して来る。


 「クレリアさまには想い人がいらっしゃるんです! リックさまとおっしゃって、それはもうご立派なお方! ですから、クレリアさまはセラフィム陛下と婚礼を挙げることはなさいません!」


 「あらまあ……元気な子だこと」


 老婆は目を丸くした。だが、次の瞬間、視線はクレリアに向けられている。


 「ほんとなのかね、クレリア。あたしゃ、あんたの口から聞きたいね」


 「それは――本当です。わたしの心はリックのもの」


 言ってしまって、クレリア自身驚いていた。その言葉はするりとクレリアの口を突いて出て、そして形になった途端にクレリアの心を激しく揺さぶった。


 頬に血がのぼった。全身が熱くなる。鼓動が早鐘のように打ち、息が苦しい。


 切ない想いが胸を絞る。


 「ああ、そうかい。それを聞いて安心したよ」


 老婆はなぜだか寂しそうな笑みを浮かべた。


 「リックはあんたを助け出すために、このイズーまでやって来ている。あたしはあんたをリックに会わせるのが役目さ」


 「リックが……」


 クレリアの身体が硬直した。クレリアの心の渇きが一気に潤された。なんという歓喜。


 「クレリアさま! おめでとうございます!」


 アンナが、わがことのように喜ぶ。


 「あのね、こんなところではしゃいでても、しょーがないでしょ!」


 老婆が不意に若い口調になって言う。と、慌てて言葉つきを改める。


 「とにかく、じゃ! 魔法ででっちあげた怪物にみなが幻惑されているうちに、ここから逃げるぞ!」


 兵士たちは口々に喚いていた。ある者は剣を抜き、闇に向かって斬りつけていた。またある者は跪き、神々に祈りを捧げて身の安全を得ようとしていた。そして、多くの者は、奇声をあげつつ塔を逃げ降りていた。


 老婆とクレリア、アンナもその後を追うように階段を駆け降りる。


 「こっちじゃ!」


 老婆の声に促されて、クレリアは廊下を曲がる。城内は入り組んでいる。それに、それまで放置されていた城を急遽改装したのだが、全体にはとても手が回らず、要所以外は荒れたまま放置されている。ために、城の内部についてグルムコクラン兵ですら精通していない。


 だから、城の内部でも身を隠す場所には事欠かなかったのだ。


 老婆は曲がりくねった廊下を進み、小部屋のひとつに入った。


 そこは、以前は倉庫として使われていたらしい。古い木箱の残骸や、金属製の函などが散乱している。


 「ここでしばらく身を潜めるとしよう。まあ、いつかは見つかるだろうが、朝まで時間を稼げればそれでよい」


 老婆はしわだらけの口をすぼませて笑った。


 小柄な身体を動かして、金属の函の上にちょこなんと座る。


 「おばあさん」


 クレリアは声をかけた。


 「おばあさんはなぜわたしを助けてくれたのですか?」


 「なぜって……それが仕事だからかのう」


 老婆は座ったまま、脚をぶらぶらさせている。黒と紺のツートンである侍女頭の服装は、ちょっと見には僧院の尼のようだ。フードを下ろし、老婆は白髪を隠している。


 「リックに頼まれて……?」


 「うーむ。もともとは違うが……そのようなものじゃな」


 「リックと一緒に旅をされて来たのですか」


 「そうじゃ。最初は三人だったが……な」


 「リックはどんな様子でした……? あの、一緒に旅をされている間」


 「わしらを庇って、危ないことばかりしておったよ。あれはほんまもんの馬鹿じゃな」


 老婆は、ひょっほっほ、と笑った。


 そして、楽しげに旅の様子を語り出した。


 それは、若い剣士と中年の商人と魔道士の老婆の、奇妙奇天烈な旅の物語だった。


 「で、サンク・セディンからはわしらは別行動をとることにしたのじゃて。わしが先にイズーに潜入し、あんたを助け出しておいて、リックを迎える―――という按配じゃな。モス・フェル大導師―――いやモス・フェルの若造めが立てた作戦じゃ」


 老婆は話し終えた。


 クレリアは突然湧き上がった感情に戸惑った。


 なぜだか妙に落ち着かない。老婆とリックがどんな言葉を交わし、どんなふうに旅してきたのかが気になる。


 この何ヵ月かの間の、クレリアの知らないリックをこの老婆は知っている。そのことが強い焦燥感をクレリアに与えた。これではまるで……。


 「ごめんなさい。わたし、おばあさんに嫉妬しています」


 クレリアの言葉に老婆はおどろいたようだ。ただでさえ丸い目をいっそう丸くしている。


 「わしにかえ……? リックとわしとは、ばーさんと孫ほど年が離れているように見えるだろうに」


 「でも……おばあさんはリックのことを好き……なのでしょう?」


 確信めいたものがクレリアにはあった。わかるのだ。リックのことを語る時の老婆の瞳の輝きや、言葉の端々から。


 それに、クレリアの目には、老婆が形通りの姿には映らないのだ。その姿の奥に、もう一人の人物が透けて見える。


 それは、栗色の髪の表情豊かな少女だ。若々しく弾む心を持ち、まっすぐに伸びる若木のような爽快さとしなやかさを備えている。


 クレリアの目から見ても、愛らしく魅力的だ。


 「リックのことを……愛している……のでしょう?」


 老婆は絶句した。しばらく、言葉がない。


 ややあって、口を開く。


 「まったく、不思議な娘さんじゃ」


 くすくすと笑い出した。


 「だが、安心しなされ。リックはあんた一筋でな。わしがたとえ若くて、超美少女であったしても、目もくれなかったであろうよ」


 そう言って、老婆は肩の荷が下りたような表情を浮かべた。


 と、視線を横に動かした。


 「ん、あんたの侍女の子はどうしたな?」


 その言葉にクレリアは、側にいるはずのアンナを振り返った。


 姿がない。


 「どうしたのかしら……アンナ?」


 「アンナ……!?」


 老婆の表情が凍った。動揺の色がさっと広がる。


 「しまった! うっかり忘れていた……」


 はっ、と老婆は天井を見上げた。


 つられてクレリアも老婆の視線の先を追う。


 そこには。


 そこにいたのは。


 アンナがイモリのように天井に張り付いた姿であった。


 


 「アンナ!?」


 クレリアは信じられぬものをそこに見て叫んだ。


 さかさまになったアンナの顔が、きくきくと笑った。


 作り物の顔。


 「あれは、パペットじゃ! パペットマスターが操る魔法人形!」


 老婆が叫び、腰掛けていた函から飛び降りた。


 「そんな……! じゃあ、ほんとうのアンナは……!?」


 クレリアの問いに、老婆は顔をしかめた。


 「……殺されておるだろうよ」


 答えてから、失敗したと悟った。


 その事実にクレリアは耐えられなかった。妹同然に思っていたアンナがすでにこの世になく、今の今まで側にいたのは作り物の人形であったなどと。


 クレリアの意識は弾け飛んだ。脚の力が抜け、くたくたと崩れ落ちる。


 「ちぃっ!」


 老婆は―――アーシェンカ・ウィザードスプーンは鋭く舌打ちした。


 「変わり果てたものだな、アーシェンカよ。初めはわからなかったぞ。だからこそ、この城への侵入を許してしまったわけだが……」


 アンナは―――いや、今しゃべっているのは、操り主のパペットマスターだ。


 「それが、時の魔法の副作用というわけか」


 「お黙り! よくも何度も何度も同じ手を使ってくれるわね!?」


 「今度の人形は特別だぞ。アンナの魂をそっくり人形に移し変えたのだからな。最期の一瞬まで、人形本人も自分はアンナであると信じて行動していたのだ。そうでもしなくては、クレリアの目をごまかすことはできぬのでな」


 アーシェンカの表情が歪んだ。


 「やり方が汚すぎる!」


 「人形を扱う技法も進歩するのだよ。アーシェンカ・ウィザードスプーンくん」


 パペットマスターは嘲弄した。


 笑いつつ、アンナ・パペットは見えざる糸を投げた。


 倒れ伏したクレリアの身体にそれは巻き付いた。


 その意図をアーシェンカが察した時には、すでにクレリアの身体は宙に浮かんでいた。


 「くっ……!」


 魔法の糸を切断しようにも、物理的な攻撃呪文ではクレリアを傷つけてしまう。といって、糸そのものを無効にするためには、パペットマスター以上の深い洞察を糸に対して行わねばならぬ。それは無理というものだった。


 「サラマンデル・スフィア!」


 アーシェンカは攻撃呪文をアンナ・パペットに対して放った。


 サラマンデル・スフィアはアンナ・パペットのボディを破壊した。だが、それだけのことだ。クレリアをとらえた魔法の糸はパペットマスターが操っている。クレリアの自由は戻らない。


 クレリアの姿が空間に飲み込まれた。


 消えた。


 あざけるようなパペットマスターの声の残響だけが耳に届く。


 「花嫁を得て、ようやく儀式は始まる。ディアルムの塔でな。聞くがよい、アーシェンカ・ウィザードスプーンよ。十二の鐘がディアルムの塔を揺らす時、儀式は完成する」


 「待て、パペットマスター!」


 アーシェンカは歯噛みした。


 泣きそうになる。肉体は年をとっても、心は少女のままなのだ。


 「リック……ごめん!」


 赤い瞳がわずかに潤んだ。


 


 


        5


 


 リックは走っていた。


 靴音が夜の静寂を壊しながら、路地の空に反響する。


 追われていた。


 イズーの町に入ったのは半刻前。


 身を闇に潜ませ、イズーに入ることには成功した。


 だが、土地感がなかった。どこへ行けばいいのか、わからない。


 モス・フェルから、イズーの地理のおおまかなところは聞いていた。


 城に行けばよいということもわかっている。


 大通りを行けばわかりやすい。だが、主要な道には守備兵が検問を設けていた。発見を避けるために、せまい路地を縫って行く必要があった。道は細く入りくんでおり、行き止まりも多い。当然のごとく迷った。


 迷った果てに、大通りに出た。そこがあいにく検問の近くだった。


 誰何され、リックは逃げた。兵士が追って来た。


 反撃はできない。一人二人は斃せても、ひとつところに留まれば、すぐさま包囲される。そうなればもはや浮かぶ瀬はない。よってたかって切り刻まれてしまう。


 逃げるしかなかった。


 追っ手は三人、だが、呼び子をさっきから吹いている。じきに人は増えよう。


 月と星の微弱な光だけを頼りにして、リックは路地をめちゃくちゃに曲がった。もはや、自分の位置などわからない。


 行く手に壁が見えた。


 血が冷える。


 出口のない袋小路だ。


 振り返った。追っ手が迫る。彼らは松明を手にしている。数は六人に増えている。


 リックは肚を固めざるを得ない。敵中突破以外に道はない。


 剣を抜く。


 人を斬ることにはいまだに慣れない。だが、やるしかない。


 敵が迫る。


 呼び子を吹き鳴らし続けている。六人いても不安らしい。


 相手も怯えているのだとリックは悟った。わずかに心が軽くなる。


 追っ手たちは剣を抜いた。松明は一人が掲げている。その男は後方に留まる。照明係だ。あと、リックの退路を断つという意味合いもある。


 五人がにじり寄る。包囲せんとする。


 リックは袋小路の壁を背にした。だが、いずれにせよ相手を屠らねば脱出はかなわない。


 斬撃が来た。


 二人同時だ。あとの三人は、その後、呼吸をはかって飛び込んで来るつもりらしい。波状攻撃だ。


 リックは身体を沈め、伸び上がりつつ剣を抜く。


 松明の光があるといっても暗いことには変わりない。その中で、リックの不意を突く挙動は効果を顕した。


 夜目にはリックが巨大化したように見える。しかも、白刃が虚空に出現したかと思えるほどの早業である。襲撃者は間合いを見失い、たたらを踏んだ。


 リックは剣の腹で右側の男の鳩尾を撃ち、次の一閃で左を襲う敵の脇腹を殴打する。


 刃を当てなかったのは、剣が相手の肉に捕われることを恐れたためだ。一対一ならばともかく、複数の敵と相対する乱戦の場合、斬ることにこだわるのは危険だ。


 にしても、鋼の棍棒で殴打されたのだ。無事では済まない。


 二人は悲鳴をあげて崩折れた。鳩尾を打たれた男は嘔吐し、脇腹にくらった方は肋が折れたのか呻吟している。


 あと、三人。


 彼らは完全にうろたえていた。


 狂ったように呼び子を吹いた。


 リックは一個の颶風となり、襲いかかった。


 もはや剣を振るう必要さえない。


 一人をさらに蹴り倒すと、あとの二人の腰が引けた。もと来た方に逃げて行く。


 照明役もそれにならう。


 リックは走り始めた。逃げた者たちを追う、ためではない。姿をひそませ、城への道を探すためであった―――が。


 敵も甘くはなかった。


 衛兵は生身の人間ばかりではなかったのだ。


 


 広い通りに出た。まず、自分のいる場所を確認せねばならない。


 そこは、町の広場とおぼしき場所だ。


 リックは周囲を見渡した。敵兵の姿は―――ない。


 だが、風を切る音がした。


 リックは反射的に空を見上げた。


 黒い影が空を横切る。


 また、通過する。


 なんだ、あれは。


 と、思うより早く、リックの身体は動いていた。


 本能が危険を告げていた。


 鋭い叫びが聞こえた。


 禍禍しい響きだ。死を呼ぶ怪鳥けちょうの叫び。


 風がリックを叩く。猛烈な勢いだ。暴風、といってよい。


 リックは地面を転がった。


 空気を殴りつけるような音が耳をつんざき、擦過する。


 リックは見た。


 巨大な翼。


 鋭い鉤爪。


 長い牙持つ顎を。


 それは、翼竜だった。


 金の鱗持つ、天かける竜。


 飛竜騎兵と呼ばれる兵種である。火竜騎兵と並び称されるグルムコクラン軍の切り札だ。その索敵能力とともに疾風迅雷の機動力は比肩するものなし、とされる。


 本来ならば飛竜騎兵は主力軍の展開に合わせてその両翼に位置し、ゼルクブルグ連合軍の心胆を寒からしめねばならぬ。だが、あえて飛竜騎兵をイズーに留め置いたものと見える。


 飛竜騎兵は七騎いた。群れて飛んでいる。そのうちの一騎がリックを発見し、急降下を仕掛けて来たのだ。


 リックは飛竜の巻き起こす風に翻弄され、地面を転がった。


 空からの襲撃に抗する術はない。


 飛竜の爪は、人間をひとつかみにすることができる。鋭い爪は防具を紙のように裂く。


 また、飛竜の発する叫びは人の鼓膜を破る。精神に変調をもたらす作用もあるという。ために、飛竜に乗る者は聴覚を人為的に除去するという。そうせねば、操る者が真っ先に消耗し、狂う。


 飛竜が哭いた。


 リックは耳を押さえた。脳を鷲づかみにされたような気がした。


 揺さぶられる。脳が。


 リックはよろめき、のたうった。


 飛竜の叫びが七騎分、合わさる。


 リックは、頭蓋の中に侵入する鉤爪の感触をはっきりと感じた。


 これは、狂う。


 リックは眼を剥き、絶叫した。


 唇が裂けるほどに口を開けた。声がほとばしる。だが、その声はリックの耳にすら届かない。


 怪鳥の叫びがリックを苛んでいる。


 七匹の飛竜は、一頭ずつ、わずかに違う音階を受け持っていた。


 異なる高さの音が混じり、壮絶な和音を作り出していた。


 飛竜騎兵の最大の攻撃であるところの<絶唱>である。


 リックの精神は箍が外れる寸前までに追い込まれている。


 


 その刹那。


 和音に新たな音が加わった。厚みのある、柔らかい音色だ。弦楽器の音であるらしい。


 その旋律が竜の和音の毒性を中和し、新しい側面をあらわにした。


 妙なる調べ。玄妙の音楽。


 弦楽器の奏でる音が、殺人的な威圧感を持っていた竜たちの合唱を包み込み、無害化したのだ。


 リックの脳が責め苦から解放された。むしろ、陶酔感さえ込みあげてくる。至上の楽曲だ。


 だが、その歌い手であるところの竜たちは、突然の伴奏に面食らったらしい。


 声をおさめた。


 リックの意識が急速に覚醒する。下肢に力を送り、よろめきつつも立ち上がる。


 弦楽器の音は続いている。


 その音が結界となっていることに、今更ながらリックは気付いた。


 リックは音の発信源を探した。


 みつけた。


 男が一人立っている。不思議な扮装をした男だ。青銅色の兜をかぶり、同じ色の鎧と脛当てを着けている。大人の身長ほどもありそうな大剣を背中に負い、抱えているのは金色に輝く竪琴だ。


 まるで絵物語から抜け出して来たようないでたちだった。


 だが、その顔は―――


 太い眉に、ぎょろりとした目玉。おおぶりな鼻に厚い唇。そして、密生する無精髭。


 「ダイモン・ザース!」


 リックは思わず叫んでいた。


 「無事でいたのか!」


 ダイモンは太い指で鼻の頭を擦った。


 「まあな」


 そう言いつつ、にやりと笑う。


 「それにしても、その格好はどうしたんだ? その楽器といい……」


 リックには知りたいことがたくさんあった。つい、状況を忘れて聞こうとする。


 それをダイモンは軽くいなし、空に顎をしゃくって見せる。


 「まだ、お空のボンボンたちが残っているぜ。あいつらを片付けないことには落ち着いて話もできん」


 ダイモンはずかずかと歩みを進め、リックの前に出る。


 背中の長剣を抜き放つ。


 リックすら眼を奪われたほどの業物だ。夜目にも輝く刃の青さは、凍りつくような冷気を周囲に放っているようだ。


 「その……剣は……」


 リックは言葉に詰まった。剣士を志す者として、一度は誰しも夢に想い描く伝説の剣。


 ダイモンは振り向きもせず、言う。


 「竜牙剣ドラゴン・トゥース・ソードだ。おれは別に欲しくもなかったが―――これも巡り合わせというやつだ」


 「と、いうことはダイモン、あんたは……」


 「竜の衛人―――ドラゴン・ガーディアン―――そう呼ぶのかな」


 竜衛人ドラゴン・ガーディアンは、成体に達したドラゴンと契約を結び、その肉体の一部からなる武器・防具を授かるその代償として、竜の命令に従って死地に身を置く戦士のことをいう。


 ドラゴン・ガーディアンの装備は、竜の鱗からできた竜鎧鎧ドラゴン・スケイル・アーマーと、竜の頭を象った兜、そして竜牙剣である。


 竜鱗鎧は火を封じ、風の害を阻み、いかなる刃物をも通さない。


 そして竜牙剣は、その契約者たる竜の牙から削り出して作られた剣だけに、その竜の能力を内に秘めている。


 その戦闘力は凄まじく、竜をすら屠ることができるという。というのは、竜の鱗を両断できるのは地上に竜牙剣のみだからである。だからこそ、竜も自らの衛兵を選ぶのに極度に神経質になり、めったに衛兵を持つことをしないという。


 伝説でのみ語られる、まぼろしの存在なのだ。


 リックも、物語の中でしかその存在を知らない。


 それが、今、目の前に存在している。




 ダイモンは竜牙剣を青眼に構えた。


 その全身から闘気が立ちのぼる。


 リックが思わず一歩退くほどの迫力だ。


 「火竜イフラージャが傷を負ったおれを助けてくれたんだ。おれの息子に救ってもらった礼だと言ってな。義理堅いやつさ」


 竜牙剣が白熱した。鋭い音が刀身から発生する。


 空を遊弋していた飛竜たちが怯えたように泣き喚いた。


 飛竜たちはみな若い。幼体だ。だが、成体の牙から削り出された剣の発する固有振動は本能的に知っている。それは、彼らに恐慌をもたらした。


 飛竜たちは、卵から孵化した直後に名前による刷り込みを施され、人間の従僕としての自我を植え付けられている。


 だが、成体の牙から削り出された剣の発する周波数は、若竜たちの本能を刺激する。あるべき自我を取り戻させる働きをする。


 イフラージャがダイモンに託した使命のひとつ、それは、若竜たちの解放であった。


 「さあさ、ボンボンども。目を覚ますんだ。おまえたちの力は人間の自由にさせるには危険すぎる。とっとと自分の世界に帰りな―――幻獣ども!」


 竜牙剣が輝きをいっそう増し、波動も強くなった。


 飛竜たちが鋭い声を放った。


 先程のような統制された合唱ではない。てんでばらばらな咆哮だ。


 慌てたのはドラゴンライダーたちだ。飛竜の背中に乗って、その動きを操っていた騎手たちである。


 飛竜たちが次々と支配の頚木を引きちぎる。


 騎手たちを振り落としてゆく。


 絶叫をあげながら騎手たちは落下していく。


 命綱が伸びきる。落下しても大丈夫なように備えはあるのだ。


 だが、それが彼らの運命をいっそう悲惨なものにした。


 騎手たちは飛竜たちにぶら下げられた。


 飛竜たちはどうしたか。


 そのまま、高度を下げて建物の屋根の上をすれすれに飛行する。


 ぶら下げられた騎手たちは建物に叩きつけられる。


 身体がひしゃげる。骨が砕ける。


 飛竜たちが建物の間を飛翔し、駆け抜けた時には、彼らの多くは血まみれの肉袋と化していた。命綱を巻き付けた胴体だけが残っている死体もある。首などはどこかの家の屋根に置いて来たのであろう。


 


 飛竜たちは一声高く哭くと、高度を上げた。


 美しく編隊を組み、高空へと飛び去ってゆく。


 「これでやつらも解放された。イフラージャから頼まれた仕事は果たした訳だ」


 ダイモン・ザースは剣を鞘に戻した。


 「行くか」


 首を後ろにねじ曲げて言う。


 リックは言葉を失っていた。続けざまに驚嘆すべき出来事があった。


 ダイモンは不審そうに眉をひそめる。


 「どうした。クレリアを助けるんじゃないのか?」


 「あ……ああ」


 リックはうなずいた。


 「そうだ。クレリアを助けなくちゃ……」


 「で、だ。クレリアはどこにいるんだ?」


 ダイモンがせわしく訊く。せっかちなところはドラゴン・ガーディアンとなっても変わっていないようだ。


 リックは唇を噛んだ。


 「それが……わからないんだ。城のどこかだとは思うんだけど」


 「わからないだと!?」


 ダイモンが噛みつきそうな表情を浮かべた時だ。


 「ディアルムの塔へ急ぐのじゃ!」


 しわがれた声が闇を裂いた。


 


 「クレリアはディアルムの塔じゃ! セラフィム・ストゥームベルガーもそこにおる!」


 声は続いていた。喋りながら、近付いているようだ。だんだん声が大きくなる。


 リックは耳をそばだてた。確かに聞き知った声だ。だが、思い出せない。


 リックの視界に、小柄な老婆が映った。


 老婆は黒いローブに身をまとい、おおぶりな杖を手にしている。


 杖をちょいちょい動かしているのは、音字を描いているらしい。


 空気が異様な音を立てていた。


 「ヘルム・ザン!」


 声を発したのは、後方に兵士たちが追いすがっているらしい。


 風が真空をはらみ、鋭い刃となって後方に飛ぶ。


 悲鳴が幾つか起こった。兵士たちが老婆の呪文に負傷したらしい。


 老婆は後ろに視線をやることもなく、進んで来る。


 兵士たちは老婆に矢を射掛けた。


 風を裂いて、老婆の背中に矢の雨が降り注ぐ。


 「風はわしの呪文の影響下にあるというに」


 老婆は馬鹿にしたように呟くと、杖をとん、と突いた。


 風がヴェールのように老婆の周囲を包む。


 矢が逸れる。逸れながら、空中で折れ曲がる。


 円の形に反り返り、ある一点を越えた瞬間にぽきりと音をたててヘシ折れる。


 ぽきぽきぽきと音が続き、老婆に向かって放たれた矢はすべて地面に落ちた。


 兵士たちは為す術を失い、後退した。


 老婆は悠然とリックたちに歩み寄った。


 


 老婆はリックに目を向けた。


 しわだらけの小さな顔が一瞬、目まぐるしく変化した。様々な表情が浮かんでは消える。


 だが、リックがその変化に気付くより早く、老婆はゆったりした表情を満面に湛えていた。


 「まだこんなところにおったのか。探したぞ」


 「あなたは……?」


 リックは老婆を凝視しながら質問した。


 「わしは……うーと、あーと……」


 老婆は目を白黒させ、言葉に詰まった。


 「ま、謎のばーさんとしておこう」


 「……」


 リックは面食らった。だが、訊くべきことがあった。気を取り直す。


 「なぜ、おれのことを知っているんですか? もしかして……誰かからおれのことを聞いたんですか?」


 「わしのことはよい。急がねばならぬよ、リック。実は……」


 老婆が事情を話そうとした時だ。


 鐘の音が大きく鳴った。


 長く尾を引く、湿った音だった。


 老婆は音が聞こえた方角を振り仰いだ。狼狽した様子だ。


 「いかん!」


 「どうしたんですか!?」


 「儀式が始まる……!」


 老婆の声は震えを帯びていた。


 その声の響きが消えるよりも早く―――


 二度目の鐘の音がイズーの町に響いた。


 


                       (第六章 了)

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