第8話
テオドールはアルフレートをつれて店のかげから出た。そして、アルフレートを他のユダヤ人たちといっしょにすると、少尉のところへおもむいた。
「知っているやつか」
「――いいえ、人違いでした」
「よし、軍曹、やつらを並ばせろ。その壁の前にだ。ひとりずつだぞ。
「――そんな! その人たちは関係ない!」ヴィーゼンタール印刷所の一家が並ばされるのを見て、ユダヤ人、の男が叫んだ。「れっきとした――純粋な――アーリア人だぞ! せめて裁判を――」
「だまれ!」少尉が叫んだ。「おまえらが、たとえ、アーリア人だったとしても、このきたならしいユダ公に手心をくわえてやったのは、じゅうぶん断罪に値する。言い逃れはできんぞ! どうせ、その証明書も偽造なんだろう!」
「ちがう、私たちは――」
SS二等兵が銃の台尻で、ヴィーゼンタール氏の口を殴りつけた。
氏の体は横に倒れた。アルフレートがかたわらにしゃがみこんで、助け起こした。
そのさまを、テオドールは身じろぎもせずにじっと見守っていた。アルフレートは一度も彼のほうを見なかった。
それは、ひどくのろのろとした動作だった。
ヴィーゼンタール氏はぶるぶるふるえていた。アルフレートは父親の肩に手を置き、ふたことみこと静かに話しかけた。氏の口からは血が流れていた。
「さあ、おまえら、さっさと並べ!」
少尉が拳銃をふりまわした。
テオドールと小隊の面々は銃でおどしたり小突いたりして、十人あまりを塀の前に立たせた。そのなかには女もいたし、ふたりの子どももいたし、老人もいた。ハンナ・ヴィーゼンタール夫人も、氏も、もちろんアルフレートもいた。
アルフレートはその金色がかった
少尉はいけにえの羊たちの前を行ったりきたりして、なぜおまえらが処刑されるのか――を、とくとくとしゃべっていた。
「――それは、おまえたちが、このドイツにたかる、しらみのようなものだからだ。おまえたちはボルシェヴィキ同様に危険な存在だからな。いや、それ以上だ! 今まで何人逃がしたんだ? そいつらが外からこのドイツを食いつぶそうとしているんだ。我が総統の……」
かまえ、と少尉が言った。テオドールはライフルを持った腕をあげた。
四キロかそこらしかない銃身が、まるで十キロの鉛のかたまりのように感じられた。銃口がふるえて狙いが定まらない。
そこはちょうどアルフレートの立っている前だった。狙いたがわず、心臓を撃ち抜かなければならないのに、これではよけい苦しむだけだ。
頭を吹き飛ばすのはいやだった。そんなところは見たくない。彼のきれいな金色の瞳が、血や脳漿といっしょに飛び散るのは耐えられない。できるだけ苦しまなくてすむように――……。
喉の奥のかたまりを、唾といっしょに飲みこむ。アルフレートは目をそらさない。うつむいていてくれたら、どんなに楽だろう。それでも彼はしゃんと頭をあげている。くちびるはいくらか色を失っているけれど、きっと結ばれていて、開く気配はみえない。いっそのこと、ののしってくれたら、どんなにいいか……。
ああ、アルフレート……。
「撃てない……」
彼は言った。
「なんだと?」少尉。
「軍曹? もう一度言ってみろ」
「撃てません、撃てない……ぼくは、いやだ……」
「ふざけるな!」
少尉の金切り声。小隊の皆が彼のほうをむいている。鉄色をしたヘルメットの奥のいぶかしげな目、目、目。
ひとりの老婆が、ふるえる声で、シエマ・イスラエルを唄い出した。
――聴け、おお、イスラエル、永遠なるものよ、
われらの神は、唯一、永遠の存在なり、して汝は、永遠なるもの、汝の神を愛すべし、
汝の心をあげて、汝の魂をあげて、汝の力のすべてをもって……
全員が合唱した。女たちは天をあおいだ。男たちは目を閉じて朗々と唄った。ヴィーゼンタール氏は、祈りのかたちに手を握りしめていた。
彼も唄っていた。父親の肩に手を置いたまま、アルフレートも唄っていた。彼の青ざめた、しかしほんとうはピンク色のくちびるが動くのを、テオドールは見た。彼にやさしくキスをした……
――おお、イスラエル……永遠なるものよ……
「撃て!」
気でも狂ったように少尉が叫んだ。
十丁のライフルと、ルガーがいっせいに火を吹いた。
彼らは壊れたばね仕掛けの人形のように跳びはねると、くずれおちた。塀にずるずると、長い赤い痕がついた。
テオドールはその場にひざをついた。
引金から指を離すと、ライフルは足元に転がった。
「ハイスマイヤー、おまえ、ちゃんと撃ったな」
長靴を響かせ、少尉が彼のうしろにきて言った。
「さっきの抗命だが、よろしい、今回は見逃してやろう……」
彼は泣いていた。苦い涙があとからあとから頬を伝った。恋人のもとに駆け寄ることはしなかった。立て! と少尉が言ったので。
彼らはもう一台のトラックに十体の死体を投げ入れると、戻っていった。
Fin.
LORIS:
愛はあなたにむかって、愛さずにいてはならぬと。
あなたの手は、そっと
私をよけようとしながら
私の手に握られるのを待っていましたし、
あなたの瞳は告げています、「あなたを愛しています」と、
たとえ唇は言っても、
「あなたを愛しはしないでしょう」と。
1944年の過越 吉村杏 @a-yoshimura
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