桃を食べたのは誰だ
烏川 ハル
桃を食べたのは誰だ
私たちの学校の美術室は、校舎の一番奥。薄暗い廊下を抜けた先に位置している。
美術の時間以外に行くことはない美術室へ、こうして放課後に向かっているのは、課題提出のためだった。美術の時間内に終わらなくて、残りは宿題みたいな形になっていたのだ。
目的の美術室が見えてきた辺りで、隣を歩く友人に声をかける。
「ありがとう、
「礼には及ばないわ、
紀子は私みたいに不器用ではないから、美術の課題は、きちんと美術の時間に終わらせていた。用事もないのに、私に付き添ってくれているのだ。
それに、もう一つ礼を言うべき点があった。
美術のような特別な教科の教師は、担当科目が終わったら帰ってしまうかもしれない、と私は思っていたのだが……。今日は美術部の活動曜日だから
その情報がなかったら、私は今日中に提出しに来なかったかもしれない。でも、また「礼には及ばないわ」と言われそうだから、こちらに関しての「ありがとう」は敢えて口にしないでおこう。
美術室の扉は閉まっていたが、鍵は掛かっていなかった。
トントンとノックして、私が中からの反応を待っている間に、
「失礼しまーす!」
大きな声で挨拶しながら、紀子が勝手にドアを開ける。早く用事を済ませて帰ろう、と私を促しているのだろうか。
美術室に足を踏み入れると、誰もいなかった。まだ美術部の生徒も来ていないし、肝心の青木先生の姿すら見当たらない。
ふと隣を見れば、課題を提出しに来た私よりも、付き添いの紀子の方が残念そうな表情を浮かべていた。紀子の情報がなければ私は来ていないわけで、無駄足を踏ませたことに罪悪感を覚えているのだろうか。
「おかしいね?
彼女の言う通り、部屋の中は明るかった。元々ここは倉庫か何かだったらしく、普通の教室みたいな大きな窓は設置されていない。採光用らしき小窓が一応ひとつ上の方にあるけれど、それだけでは足りないから、もしも照明が消えていたら暗くなってしまうのだ。
「ちょっと中座してるだけじゃないかな? ほら、あれ!」
紀子に答えながら、私は中央のテーブルを指さす。そこには白いお皿が置かれていて、バナナや林檎などの果物が載せられていた。
「あら、ホントだ。美術部の子のために、おやつを用意したのかしら?」
紀子は時々、頓珍漢なことを言う。
美術部の生徒が美術室で果物に齧り付いている姿なんて、私には想像できない。おやつにするなら、クッキーとかチョコレートみたいなお菓子だろう。
素直に考えれば、美術室の果物は……。
「おやつじゃなくて、デッサン用じゃないの?」
「ああ、なるほど。今まで私、デッサンに使うのは、食品サンプルみたいな偽物かと思ってたわ。ほら、プラスチックとか蝋とかで、本物そっくりに偽装したやつ」
それを言うなら「偽装」ではなく「模倣」だ。そう思ったが口には出さず、別の点を指摘する。
「わざわざ食品サンプル用意するの、かえって大変でしょ。お金もかかりそうだし」
「それもそうね。でも、描くだけで終わりにするのも勿体ないわ。こんなに美味しそうな果物……」
「いや、描いた後は捨てるんじゃなくて、食べるんじゃないかな? ほら、バラエティ番組のテロップで見かける『この後スタッフが美味しくいただきました』みたいに」
「だったら、やっぱり美術部のおやつになるのね!」
私と紀子がそんな会話を交わしていると、扉の開く音が聞こえてきた。ただし私たちが入ってきたドアではなく、壁の片隅に設置された小さな扉。美術準備室に通じるドアだった。
「おや、君たち……」
準備室から出てきたのは、美術の青木先生だ。いつも通り、頭はボサボサで、体にはヨレヨレの白衣を羽織っていた。
「はい、課題の提出に来ました!」
私より先に紀子が答える。課題を出しにきたのは彼女ではなく、私の方なのに。
軽く心の中でツッコミを入れながら、私が課題の絵画を手渡すと……。
「うん、ご苦労」
そう言いながら青木先生は受け取ってくれたけれど、テーブルの上に視線を向けた途端、表情が変わった。
睨むような顔を、私と紀子に向ける。
「おい。桃を食べたのは君たちか?」
「桃……?」
「そうだ。私が用意しておいた桃が、いつの間にか消えている!」
怪訝な顔で聞き返した私に、興奮した口調で青木先生が応じる。
改めて果物の皿に注目すると、今そこに盛られているのは、赤い林檎と黄色い林檎、紫の葡萄に黄色いバナナ。なるほど、よく見れば林檎がもう一つ置けるくらいのスペースが、不自然に
「私が準備室に引っ込んでいたのは、ほんの短い時間だ。君たちの話し声が聞こえたから出てきたら、桃がなくなっていた。ならば君たちが疑われるのは当然だろう?」
「待ってください。私たちじゃありません。私たちだって、今来たばかりですから……」
完全に濡れ衣なので、まずは否定する。
視界の片隅で、紀子が涙目になっているのが見えた。ここは、私がしっかりしないといけない場面だ!
改めて頭の中で状況を整理してみる。
校舎の奥に位置する美術室であり、私たちが来る途中、近くで誰も見かけなかった。つまり、私たちに前後して美術室に来た者も、美術室から帰った者もいなかったはず。ならば……。
「犯人は、窓から出入りしたんじゃないでしょうか?」
思いついた推理を口にしてみるが、アッサリ否定されてしまう。
「馬鹿を言うな。あんな小さいところから、誰が出入り出来るのだ?」
先ほども説明したように、この部屋には通常サイズの窓は存在しない。採光用の小窓だけだ。
見上げて確認すると、今は開いている様子だった。しかし、わざわざ見上げる必要があるくらい、高いところに位置しているから、出入りには向いていない。
いや向いていないどころか、そもそも青木先生が言う通り、あの大きさでは小柄な女子生徒でも
「そうですね。確かに……」
と、同意の言葉を口にしてしまった瞬間。
「にゃあ」
明らかに部屋の中から、猫の鳴き声が聞こえてきた。
三人とも一斉に、そちらを振り返る。柱のところにある黒いカーテンだ。カーテンの裾がモゾモゾと動いて、その部分だけ不自然に膨らんでいた。
そちらに歩み寄ってカーテンを開くと、野良猫が一匹。おもちゃみたいにして抱えながら、新鮮な桃に齧り付いていた。
「……でも人間じゃなく子猫なら、あの窓からだって入れますよね」
先ほどのセリフに強引に繋げて、私は青木先生に笑顔を向けるのだった。
青木先生は素直に謝罪しただけでなく、お詫びとして、私たちに林檎を一つずつくれた。私が赤い方で、紀子が黄色い方だ。
こういう「お詫び」は、あくまでも形であり、内容はどうでも良い。私はそう思ったし、林檎なんてもらっても特に嬉しくなかったが、なぜか紀子は妙に喜んでいた。
そして、帰り道。
「青木先生、案外そそっかしいところあるよね。いきなり私たちを犯人扱いだなんて……」
という私の呟きに対して、隣を歩く紀子が笑顔で反応した。
「あら。でも、そこが可愛いんじゃないかしら」
先ほどの涙目が嘘みたいだ。それどころか、今までこんな紀子は見たことがない、というほど乙女な表情を浮かべている。
その様子から、私は悟るのだった。わざわざ紀子が私の課題提出に付き合って、美術室まで一緒に行ってくれた理由を。
(「桃を食べたのは誰だ」完)
桃を食べたのは誰だ 烏川 ハル @haru_karasugawa
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