それはミャクミャクと綴られる
海野しぃる
脈々
“う゛っ、とえずいてしまった。それはこの遺跡の中に満ちたカビの匂いのせいだけではない。私は気づいたのだ。この遺跡にある悪趣味かつ猟奇的な壁画がなにか。これは戦争を描いたものではない。農場だ。人間農場だ。大量に殺されている人間たちは、血を抜かれ、臓腑を掻き出され、四肢と首を落とし、それぞれが客の居る場所に届けられる。血と臓物は混ぜ合わせて乾燥させ人間農場の番犬らしき黒色の不定形軟体の餌に、手足の肉付きが良い部分は先程私を追ってきた白くヌメヌメとした肌のナメクジを擬人化したような盲目の怪物たちの珍味に、そして脳――おそらくこれが彼らの目的だ――を、あの赤い首飾りをつけた青い肌の巨人たちが食っていた。嫌だ。縄文時代の遺跡にあるまじき高度な壁画。嫌だ。つまりその事実が意味するところとは。あの赤い首飾りと青い巨人こそが人類の支配者で。嫌だ。人類が元より家畜だったという――。「やめろ!」先程囚われたオータム教授の悲鳴が聞こえる。脳、そうだ、脳だ。あいつらの家畜が人間であることには理由がある。「やめっ、穴を、穴を開けなっ……あっ、あっあっ……」脳なんだ。人間の脳だけが神を持つ。その高度な知性こそが奴らにとって餌ならば。「あっあっあっあっあっあっ」私は懐の中の薬を取り出して自ら飲み干す。いやだ。あんな化け物に食われるくらいならば、死んだ方がまだマシだ。もうこれ以上一瞬たりともこんなところに居るのは耐えられない。大量に持ってきた睡眠薬が効いてきた。私は、私の脳は渡さない――”
そこで
「2025年、大阪府吹田市で発見された古墳において遭難した二人の研究者の身柄は今もなお見つかっていない……おしまい」
パソコンの画面には完成した原稿が映ってる。
そして隣で座っていた少女はヘッドギアを外して、大きな瞳で俺を見る。目が合うとニッコリ笑った。
「すごいすごい! 怖かったよ! 特に最後に主人公が自殺しちゃうとこがすごいリアルに見えてね。あとは途中の黒くてブニブニした奴……あいつの表面に油が浮いたみたいに時々虹色の部分が見えたの! この新作は絶対にウケるよ! 特に君がこれを書いたというのが良いよね! 僕、これは君にしか書けないと思うよ!」
少女は、俺の隣の椅子でヘッドギアをつけたままキャラキャラと笑っていた。
「拘った甲斐があったな。そう言ってもらえると何よりありがたいよ」
「さすが小説家さんだ~!」
「元、だよ。元小説家。今は……少なくとも、小説家ではないな」
頭の中の物語を、脳内のイメージを元に文章に変換してくれる装置があるのだから、誰だって小説家になれる。そして誰も小説家にはなれない。特に俺のような、ただ続けていただけの才能の無い男は。
「でも君がこの小説を発表したらきっとみんな
「それは物語であって小説じゃないんだ。俺は、俺の話じゃなくて、俺の小説を読んで欲しいんだよ」
「人間の目は二つしか無いし、時間も二十四時間しかないんだよ? 小説を読もうとしたらいったい何時間かかるの? それを僕に教えてくれたのは君だろう?」
ヘッドギアを外した少女は、やれやれという顔でため息をつく。
外の光に耐えきれないだろう白い肌と白い髪。色素の薄い茶色の瞳。生きる為ではなく愛される為の姿かたちをしていた。
「ほら、こうやって機械を外せば、僕も目に映るものしか見えないし、時間だって二十四時間しか持ってない。
「そうだな。邪魔なのは分かる。脳につなぐだけなら別に手の甲に埋めたチップ程度で十分だ」
「じゃあヘッドギア無しで使わせてよ」
「ダメだ。こっそりと二十四時間
「僕、あれ嫌い」
窓の外ではビルの間を忍者が走っている。俺の脳が勝手に作った幻影だ。窓の外に、街はない。
ああ、それより原稿だ。完成した原稿を送らなくちゃいけない。
「ねえちょっと聞いてるぅ? またどっか別の場所見てたでしょ~!」
「ごめんって」
俺はここ一週間ほど、
「ねえねえ、君、無理しないで少しくらい休みなよ? いくら仕事が暇だからって今体壊したら大変なんだからね? 医者はここまで来ていないんだから」
「……それもそうだな」
俺は眼の前の少女をじっと見つめる。
可愛らしい少女だった。犬や猫を連れて行く人間も居たそうだが、俺はこっちのほうが良かった。犬や猫は死んでしまう。俺は生き物と暮らしたくない。
「僕は機械だから、君の心配しかできないけど……君が受けてるストレス解消の為に力になりたい」
手元の小型端末で、
「良いんだよ、お前がそこまでしなくて。けど――」
接続が切れたら、タッチパネルをいじって、思考投影装置の電源自体を落とす。
「けど?」
少女の顔から、細やかな表情の変化が消える。声も、どこか不自然な、人工的な音色になってしまった。よくできた人形――それはそれで素晴らしいが――程度のものになってしまった。病院食で出る味も匂いもしない飯みたいだ。
白い肌と色素の薄い茶色の瞳が見えた。無表情に俺の顔を覗き込んでいる。
俺が頭を撫でると、ぎこちない表情で笑った。笑顔が苦手な人間と何も変わらない。
「……ありがとう。じゃあ今からこの原稿を送って火星中継地点までデータが届く速度を計算してくれるか」
「ちょっと待っててね。もうすぐ目的地に到着するから、この
窓の外を見る。
真っ黒なキャンパスに星を散りばめた風景が、いつまでも続いていく。
故郷のどこまでも続く真っ白な平野よりも、ずっと広くて、何もない。
目を閉じたまま演算に集中している少女の隣で、ディスプレイの中の原稿を眺める。
足元に小さな赤い土が見えてきたところで、少女は顔を上げた。
「火星の編集部までなら三日あれば届くと思う」
「じゃあ先に送るだけ送っておくか」
「はーい。この地域に敷設されたアンテナの試運転だね」
「ああ、俺の本業だ」
「小説じゃないの?」
「
「ウソ、僕、毎日いろんな人の作品見てるよ? それに君だって出版社からもお金貰ってるじゃん」
「……まあ、それは、そうなんだけどさ。俺は
釈然としない。正直に言って釈然としない。俺から仕事を奪ったものに頼り続けているなんて。
「あの機械がそんなに嫌?」
「嫌だよ」
「僕が発明されたのだって、
そうかもしれない。けど、そもそもこれが無ければこの少女も不要だった筈だ。こんなものがあるから。あったから。
「もし無かったら、俺はまだ地球で普通に暮らしていたかもな」
「ふーん、まだ生身の人間に未練があるんだ」
「違う。それはどうだって良い」
小説を書きたい。
けど小説を書き続けるには金が要る。
俺に選択肢は多くなかった。
「じゃあなに? 僕は君のことがこんなに大好きなんだぞ。ずるいぞ」
「俺だってお前のことは大事だよ。そうじゃなくて――」
「小説の次にでしょ?」
だから俺は人間の身体を捨てた。
どうせ病で使いものにならない身体だったから。
「違う。君が居なければ小説が好きとか嫌いとか言う以前の問題になる。もうそうなってしまったんだ。戻れない」
「そうなの?」
今の俺は人間ではない。
宇宙を飛び回る仕事の為に、小説を書き続けられる仕事の為に、なにより命惜しさで、俺は日本の宇宙開発公社で臓器移植手術を受けた。
半流体状となった肉体を覆う青い肌。宇宙船の高速航行に生身のままで耐える為に置換された新しい筋肉と内臓だ。手術を受けたと判別する為にわざと濃い色をつけている。
身体の表面に巻き付く赤い数珠状の肉塊。生体部品で作られた視覚ユニット――人工眼球――に加え、並列思考の為の補助脳も存在する。この赤い数珠は、過酷な宇宙空間で摩耗しても、クローン技術で取替が効く外付けの知性だ。二十四時間どころか、一年間寝ても覚めても
人類は進化した。俺が新しい人類だ。
「昔の俺には戻れない。今の俺には君だけだ」
そして新しい人類は孤独だ。
「そう、君がどう思っていたとしても……」
赤い肉塊に、少女の手が触れる。
シリコンで作成された人肌そっくりで、けど頑丈な手。
今の俺には、彼女がとびっきりの笑顔を浮かべているように見えた。
「……好きだよ、僕をこんなに可愛らしく作った人間も、それに愛着を持っている君も、今の自分の姿にそっくりな怪物を作品に出して神様にしてしまう君も」
――だったら、良いか。
ふと横を向くと、
そこには、今の俺の姿にそっくりのキャラクターがシンボルマークとしてペイントされている。
「ああ、仕事の時間だったね。もうすぐ着陸だから通信アンテナの点検に行かないと。今日も人類の生存圏を広げる為にがんばりましょーっ! おーっ!」
「…………」
「どうしたのマスコットキャラなんか見て? ほら立って、行こう」
「悪い。なんだか変なデザインだよなと思ってさ。こんなデザインが本当に残ると思ってるのかな……いや、残るか」
少なくとも俺のような人間が生きている間は残る。
「僕は好きだけどなあ……名前もかわいいじゃん」
――人間は続く。人間は広がる。この営みが脈々と続きますように。
俺をこんな姿にした連中は、今も地球の、日本の、大阪のオフィスで、無邪気にそんな夢を見ている。そして俺に移植された何かの
「俺も、実は嫌いじゃない」
そう答えて
「俺が誰かの夢になるんだからな」
宇宙へと、弾むように、一歩踏み出した。
それはミャクミャクと綴られる 海野しぃる @hibiki
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