最期の最後に贈る うた

植田伊織

最期の最後に贈るうた

 お腹が空いたわ。


 話をする前にまず、チョコクロワッサンとジンジャーエールを頂戴。そっちの冷蔵庫の中に入っているから。ううん、ちがう、もう少し奥の部屋。

 ちょっと、自分家の冷蔵庫の場所も覚えていないって、どういうこと?

 最近引っ越してきたばかりとはいえ、あんたまだ高校生でしょう? 相変わらず家に寄り付かないで外泊ばかりしているそうだけど、何事にも限度ってもんがあるわよ。本当に、我が弟ながらどうしようもないわね。

 ま、今じゃアタシのした事に比べれば、アンタの素行不良なんてちっぽけな物だけど。

 ……やだ、そんなに震えなくたっていいじゃない。

 通報したんでしょう?

 すぐに警察が来るから、とっととそのニートの代名詞みたいなだっさい格好から着替えたらどう?


 ――私が事情聴取をされている間、流れるニュースはこんな感じかしら?

『柏木洋子さん五十三歳の遺体の首跡から、何者かに首を絞められ殺害された可能性が高いと考えられています。警察では現場に居合わせた長女玲奈さん二十三歳と、弟の智弘さん十八歳に、事情聴取を行う予定です』

 ――どう? なかなか流暢にアナウンスできているでしょう?

 もしアタシが、あんな両親じゃなくて普通の人たちに育てられていたなら。そんな夢物語のような選択肢があったなら、女子アナにだってなれたと思わない?

 親殺しなんかじゃなくってさ。

 なんてね、冗談よ。

 アナウンスの内容も、アタシの可能性についてもさ。

 そんな能力があったなら、どんな親が両親でも何かしらの結果は出せていたでしょうから。そう、私たちの親がある日突然、普通の親になるのと同じくらい、あり得ない話だってわかってる。


 ん、このクロワッサン、チョコの甘さが堪らない。警察でも食べれたら良いのに。

 ――わかった。わかったからぎゃんぎゃん怒鳴り散らさないで。

 クロワッサンだけじゃパサパサするでしょ、ジンジャーエールも飲ませて。

 本当だったらアイスティーの方がお互いを引き立てて好きなんだけどね、今は大量の糖分を取ってハイになりたいのよ。そうじゃなけりゃ説明なんてしてられる気分じゃないんだもの。

 アタシだってサイコパスじゃない。アンタ、そんなことも知らなかった?

 まあ、知るはずないか。アンタは家族のこと、徹底的に見ないふりしてたものね。それで要所要所で良い子ぶって、火種が降り注ぐのを上手に防ぐの。その立ち回り、見習いたいわ。


 そうだ、良い子ぶる、で思い出した。

 アンタよく唄ってたわよね。

『明けない夜は無い、止まない雨もない。だから、辛い事だって必ず終わりが来るんだ』って。アンタとお母さんが好きな唄。

 それって、本当?

 アタシには、なんだか良い子ぶってる歌詞にしか聞こえないんだけど。

 母さんが失明すると宣言されて思ったの。母さんにとっての『夜明け』が視力を回復する事だとしたら、夜明けは永遠に訪れない。回復の見込みは無いんだから。

 確かに、永遠と続くように思える不幸にも、ピリオドを打つ日が来るのは認めるわ。母さんも、視力回復以外の『夜明け』を模索できればこんな結果にはならなかったと思う。

 でも、駄目だった。

 母さんの生き様がそれを許してくれなかったの。

 

 父さんに愛人が居るのは知っているわよね?

 結婚して私たちを産んだからには、本人達なりの愛はあったんでしょうよ、最初はね。

 でも、それも変わってしまった。

 お父さんに必要なのは、人に認められる絵なの。絵描きであるお母さんのことはどうでも良い。

 馬鹿にしてるわよね、人を絵画製造機みたいに扱って、名声は自分で独り占め。その上、裏では好き放題若いコと遊んじゃって。


『明けない夜は無い、止まない雨もない。だから辛い事だって必ず終わりが来る』


 母さんはね、愛というものに恵まれない人だったの。

 小さい頃から、商売に忙しい両親から放っておかれて、十分な愛を注いでもらえなかったのね。

 母さんには妹さんがいたんだけど、精神疾患の中でもとても重い病を患った人で、たまの家族水いらずの時間があったとしても、おばあちゃんは叔母さんにつきっきり。母さんの事はいつでも、後回し。

 おじいちゃんは商売の他にも、選挙の手助けをしたり地域経済を盛り上げるために奔走したりで、家庭を顧みる人じゃなかった。男女ともに仕事と家庭の両立を目指す、今のアタシ達の価値観からはかけ離れた家族の関係性だけど。一言で言えば、「そう言う時代」だったらしいわ。

 中でも、一番あの時代の嫌な部分を凝縮して人型に押し込めたような人物が、アタシ達のひいおばあちゃんだったの。

 厄介な人だったって聞いてるわ。

 おばあちゃんに家業を全て押し付け、母さんと叔母さんの育児はお手伝いさんに放り投げ、お稽古事の発表会みたいに自分が目立つ楽しい所だけ、手柄を総取りするような人だったって。

 おばあちゃんは、自分の娘達の面倒を見ようとすると、ひいおばあちゃんが嫌味と仕事を押し付けるものだから、育児なんてできなかったそうなの。

 おじいちゃんは、ひいおばあちゃんからおばあちゃんを守ったりはしなかった。

 これもやっぱり、「そういう時代」だったのかもしれない。

 それをさし引いても、ひいおばあちゃんは随分と強烈な性格をしていたと思うけど。


 こどもって、母親が世界の全てじゃない。

 大好きなお母さんに甘えられれば、何だって出来る。失敗しても、お母さんの元に帰って傷を癒せるからこそ、新たな冒険が出来る。――そんな生き物じゃない。

 お母さんにかまってもらいたいのに、忙しいって放っておかれてしまう。たまに甘えるチャンスに恵まれたとしても、病気の妹を優先させなきゃいけない。

 妹さんもね、病気の影響で攻撃的になっていたそうなの。気が立っていたとかそんなレベルじゃなくてね。母さんや周りの人が自分を殺すんじゃないかという妄想に取り憑かれていて、自身を守るために、周囲に牙を向かざるを得ない状況だったの。そう、認識してしまう病にかかっていたの。

 母さんにとって妹さんは、大切な家族の一員でありながらも、己の生活を脅かす脅威でもあったわけ。そういう存在から守ってくれるのが、本来、母親――つまりはおばあちゃんの役割なのだけれど……相手は自分の妹だからね。おばあちゃんだって、完全に母さんだけを守れる訳じゃない。妹さんのことだって守らなきゃいけない。

 完全なる自分だけの味方がいなくて、母さん、とってもしんどかったと思うわ。家族の中に居ても、孤独だったんじゃないかしら。自分の味方をしてくれるはずの『母』という大きな存在が、ある時は己の脅威の味方をするのだもの。自身の全てを預けられる存在に出会い損なった経験が、親からの無償の愛を貰えなかったと、自分は愛されなかったのだと、母さんが感じるようになった根源のようにアタシには思えるの。

『自分は何をしても愛される』っていう確信が持てない、いつか見捨てられてしまうんじゃないかと、常に怯えてしまう精神状態……アタシもアンタも、身を持ってその辛さは知っているわね……。


 母さんは、幼い頃に得られなかった無償の愛を父さんに求めるのに必死で、アタシ達にそれを与えてはくれなかった。

 殴られたり食事を与えられなかったりっていう、わかりやすい虐待は無かったけれど、いつでもアタシ達は母さんのご機嫌を取らなくちゃいけなかった。まるでこどものアタシ達こそが、母さんの母親みたいにさ、宥めて、励まして。大丈夫大丈夫、怖くない怖くないって。

 アタシ達が少しでも『理想のこども』像から離れると、母さんはすぐに暴発した地雷みたいに怒り出す。どこにスイッチがあるのかわからなかったアタシ達は、いつでもビクビクしながら、母さんの顔色を伺っていたのを覚えているわ。

 まあ、アンタは途中から母さんの期待に応える事を諦めていたから、アタシと同じ感覚で幼少期を過ごしていたのかどうかはわからないけれど。

 勘違いしないでね、アタシはアンタのそういう所を評価しているの。

 いつまでも得られない親からの承認に期待したり縋ったりしないで、自分で自分の生きる場所を切り開いて行けるその強さは、アタシには手に入れられなかった物だから。


 何の話をしていたんだった? そうそう、性悪なひいおばあちゃんの話ね。

 ともかく、ひいおばあちゃんじゃあ母親代わりには役不足で、母さんの心は満たせなかった。母さん。何かあるといつも、「私は親に愛されなかった」って言い続けてたもの。根は深かったと思うの。

 アタシもね、そうだから判るんだ。あるがままの自分を受け止めてもらえなかったらさ、何歳になっても、「今度はどう? 私、母さん好みの良い子でしょう? 気に入った? 今度は私を認めてくれる? 今度こそ私を愛してくれる?」って小さな自分が喚いて、黙ってくれないの。

 母さんは特にその思いが強かったし、そんな自分をコントロールするのも、難しかった。


 孤独と時間を紛らわすために絵を描いた。

 それでも埋められなかった寂しさを紛らわすために、甘いお菓子を食べた。――そう、血糖値を上げれば幸福感が得られるの――初めは周りの大人達が、構って欲しいと騒ぐこどもを黙らせる手っ取り早い手段として、お菓子をあげていたんだと思う。

 それが過食や依存症に繋がったのは、母さんが絵を描くことを、おばあちゃんはよく思わなかったからだと思うの。

 母さんには才能があったんだから、それを認めてあげればよかったのに。おばあちゃんはそれを、許さなかった。

 家業が大きくなればなるほど、後継を迎えるため、母さんはひいおばあちゃんから花嫁修行を強制された。そんな姑に反発するように、おばあちゃんは母さんに勉学を叩き込んで、いい学校へ行かせたの。

 勉強の邪魔になるからと絵筆を折ったのも、一度や二度じゃ無かったみたい。

 母さんは絵を描くことで自分を取り巻く厳しい現実をやり過ごしていたのに、それにも難癖をつけられてさ、自分で自分を幸せにする術がわからなくなった。

 食べてる時にしか辛いことを忘れられないのなら、そこに救いを見出してしまっても仕方がないのかもしれない。

 年頃になって見た目を気にするようになってからは、食べた分だけ吐くようになって。その頃には依存先にお酒も加わった。

 コントロール出来なくなった暴飲暴食は、やけ食いだのやけ酒だのに収まるレベルじゃなくなって、暴走列車のように凄まじい状態になって。

 糖尿病に加えて、アルコール依存症になるのもあっという間だった。


 アタシ、母さんが真夜中に嘔吐をしている音を、時々自室で聞いていたわ。

 夕飯の後、綺麗に片付けたはずのシンクには、使ったばかりの洗っていない食器が重なっていて。薄暗いリビングに移動すれば、チョコレートの包み紙があちらこちらに散乱してた。

 トイレの奥で、贅肉のついた丸い背中が蠢いたかと思うと、母さんが口に手をつっこんで食べた物を吐いているの。

 最初は「そんなことやめなよ」とか「体に悪いよ」とか言って、止めてたんだけどね。

「アンタは口を出すな!」

 って罵倒されるものだから、段々何も言えなくなっちゃった。

 自室のベッドの上で天井を眺めているとさ、母さんの嘔吐する音と、吐瀉物が便器の中で跳ね返る音とが遠くで聞こえて。どうすればこんな事やめてくれるんだろうって思いながら、寝返りをうってた。眠れやしないけど、寝たふりをしないと、母さんが様子を見に来て怒鳴るかもしれないから、無理矢理目をつぶってたっけ。

 そう、私、悲しかったのよ。母さんが自分で自分を傷つけるのが。そんな母さんを止められずに、ベッドの上で横たわって目をつぶる自分が、いかに無力な存在か思い知ったの。

 冷静に考えれば、こどもであるアタシが母さんを幸せにするために、奔走する必要なんてないし、不幸を選んだ母さんの選択に自責の念を感じるだなんて、もってのほかなんだけれどね。理性では分かっていても、「どうして母さんを救ってやれなかったんだ」って泣き喚いている本能に、抗えない時もある。それは、アタシがこんないい歳になっても、母さんに認めて欲しいとか愛して欲しいとか渇望してしまうのと、同種の叫びなんじゃないかな。

 母さんには幸せでいて欲しかったし、例え逆境の中に居ようとも、より良い人生を送って欲しかった。

 話の腰を折っちゃってごめん、なんだか、思い出しちゃった。


 話を戻すとね、母さんの家の商売はうまくいって、かなり裕福な暮らしを楽しんでいたそうよ。

 ――裏がえせば、だからこそ過食の費用には困らなかったってことなんだけど――金銭的にかなり恵まれている環境だったのに、どうして母さんは満足できなかったんだろうね? 複雑な家庭事情があったとしても、お金に困らないと言うのは幸福には変わりないじゃない? 折り合いがつけられなかったのは、どうしてなんだろう。

 物質的には満たされているのに、それじゃ「足りなかった」母さんの気持ち……アンタに理解できる?

 私は少しだけ……想像はできる。


 無償の愛を与えてもらえなかったことに加えて、自分のやりたいことをやらせてもらえなかった。――それって、ありのままの自分を承認されなかったと言う意味だからさ――商売で忙しい母親の代わりをしなければならないこともあったでしょう。女の子が家族の面倒を見る時代だったから、いつかは病を抱えた妹を背負わなきゃいけないという、プレッシャーもあったでしょうね。実際、母さんが進路に悩んでいた時、おばあちゃんと揉めたそうよ。

 母さん、おばあちゃんにね、妹さんの面倒を見ずに家から出る道をポロッと話してしまったそうなの。そうしたらものすごい剣幕で「あんたがそんなんで誰があの子を見るのよ!」って、罵られたんだって。

「私は家に縛り付けられた」って、母さんよく言っていたな。

 おばあちゃんはね、娘が自分の人生を生きられるように、巣から羽ばたかせてやる親鳥ではなかったって。そうなれば自然に、将来の選択肢だって限られてくるわね。

 それでも、家族を捨てることが出来なかったのは、母さんが、家族を大好きな優しい人だったからだと思うの。でも、自分の人生を犠牲にしなければならない身内の存在は、やっぱり重荷だったんじゃないかな。

「そう言う時代だ」とか、「家族のために自分を犠牲にした人なんて他にも居る」とか、そう言われてしまえばその通りかも知れない。でも、他の人がそうだとしても、母さんの無念が晴れる訳じゃない。

 水に飢えている人がオアシスの幻影を見て、砂漠を彷徨ってしまうように、母さんは愛と自由を求めて彷徨った。

 条件付きでしか愛されない、自分を受け入れられなくて。


 依存治療の一環として、もう一度描き始めた絵が、ひょんなきっかけで認められるまで、お母さんの人生はお酒と甘いものしかなかった。

 だからよね、父さんの上部だけの愛を見抜けなかったのは。

 母さんは父さんに、オアシスの幻影を見てしまったの。


 家の事に何の興味も示さないアンタでも、さすがに父さんが昔、画家を目指していたこと位は知ってるわよね?

 人一倍絵にかける情熱はあったのだけれど、技術が追いつかなかった、ただの凡人。

 そして、自分に才能が無いのだということを、どうしても認められなかった、プライドの権化みたいな男。

 いつしか自分の能力を高めることよりも、絵で世間を服従させることに固着していった俗物。

 そんな小さな男である父さんにも、父さんなりの背景がある。


 家柄のよいお家の長男で、厳しいお母様からあるがままの自分を認めてもらえず、厳しく英才教育を施されたの。

 でも、父さんって知っての通り、得意なことと苦手なことの差がものすごいじゃない? 人の気持ちも察せないし、びっくりするくらい空気が読めない。

 今の基準で言う、発達障害なんだと思う。

 って言うのも、アタシ自身が大人になって、もしかして自分って発達障害なのかなって思う出来事があったから、診断を受けにいったらビンゴだったのね。

 父さんにも当てはまる特徴がたくさんあるの。多分あの人も、クリニックに行けば何かしらの診断はつくと思う。だから、”父さんは発達障害”と言う前提で話を進めるわね。もちろん、依存症になった母さんにもその特性はあるのだけれど、話がズレるから今は脇に置いておくわ。


 発達に問題があるとね、苦手なことと得意なこととの凹凸を平準化出来ないのよ。それと英才教育って相性最悪だと思わない?

 アタシは出来が悪いから、英才教育の中身については、全部想像で語るしか無いんだけど、なんでもできる優等生を目指すなら、苦手分野のカバーは必須。出来ないものは出来ないままで認めてはもらえない。

 でも不得意なことを改善できないのは、父さんの脳の特性。努力じゃどうにもならない事もある。怠けているとか、根性が足りないとかじゃないのよ。

 父さん自身が親に認められてこなかったから、理想の自分と本来の自分の乖離を受け入れられないんじゃないかって、私は思うわ。

 だから、挫折をかき消すチャンスに、飛びついてしまったんじゃないかな。

 母さんの絵を、父さんの作品だと言うことにして世に出すっていう、チャンスをね。

 母さんは、「愛している」とさえ言えば、父さんの言いなり。自分の作品を粗雑に扱われても、文句一つ言わなかった。

 そんな奴隷みたいな妻を相手にしていたら、そりゃ父さんも、母さんや私たちを疎かにするようになるわよね。

 自分の理想を演じ続けた父さんは、一方で、あくまで偽物でしかない己に苛立ちを募らせる。その歪みがさらに家族を蔑ろにする要因になる。

 負のサイクルの完成。

 で、母さんは、思い通りの愛を注いでもらえなくて、よりいっそう、飲食でストレス解消をするようになったってわけ。

 このあたりのことは、今更説明しなくても、アンタもよく知ってるでしょう。


 でもね、父さんばかり悪いわけじゃない。母さんだって、自分の過ちに気がついて立ち直るチャンスはいくらでもあったの。

 食べることに救いを見出している母さんにとって、それはとってもしんどかったかも知れなかったけれど、きちんと健康管理をして、アルコールを絶って。父さんと離れて、自分の足で生きてゆく道を選ばなかったのは、母さんなの。

 じっとうずくまっているうちに、何も出来なくなってしまったのは、母さんなの。

 でも私は、それを母さんの努力不足だと、責められない。

 自分には価値がないと思い込んでいる人間に、努力で現状を変えられると気づいてもらうのって大変なのよ。

 新雪の丘ってやつね。

 丘に雪が積もって、まだ何の足跡もついていない時。ソリが通って初めて新雪の丘に跡が作られる。次に通るソリは自然と最初の跡をなぞるようにして移動する。そうやって何台ものソリが「跡」を辿ることで、道が出来る。

 親の理想通りの自分しか認められず、報われなかった経験が、母さんの人間関係での深雪の丘だとするならば、他のどんな人間関係も、似た傾向に寄っていってしまう。相手の求める自分に擬態しないと、存在価値が無くなってしまうという関係生に。そんなの、長くは続かない。


 若いうちから、堂々と絵が描けたらよかったのにね。自分の実力を試す場所に出て、客観的に自分の価値を知って、色んなことにチャレンジして、おばあちゃんや父さん以外の人から評価を得られていれば、もっと別の選択肢も見えたはずなのに。


 母さんにも、良いところはいっぱいあったよ……でも、依存症が全てを飲み込んでいってしまった。

 結婚生活でも思い通りの愛を貰えなかった母さんは、吐く以上に食べるようになって、あっという間に病気が悪化した。

 糖尿病って本来痩せていくはずなのに、それを上回る量を食べちゃってぶくぶく太っていくわけだから、体がおかしくなるのも当然なのよ。

 そのころの母さんは、僻みやすくてヒステリックで、敬遠されがちな人になっていて。なのに、お酒が入れば呪詛を振りまくもんだから、周りからどんどん人が居なくなってしまった。

 孤独を一人で引き受ける強さが無いから周りに当たり散らすし、寂しさを建設的な行動へ軌道修正する方法がわからないから、飲食に依存する。

 そして、周囲やアタシの忠告に耳を貸す謙虚さも、持ち合わせていなかったんでしょうね。

 

 ――母さんがどうして父さんに反抗しなかったかって?

 アタシの言う事ちゃんと聞いてた?

 人一倍愛と承認を求めている人間が、僕の人生には君が必要なんだなんて甘い言葉を囁かれちゃったら、こんな自分に愛を注いでくれるのはこの人しか居ないって思っちゃう。長年の孤独から解き放たれたんだと思って、なんでも言う事聞いちゃうわ。

 怖いのよ、見捨てられるのが。父さんの思い通りに動けなくて、捨てられて、幼い頃の孤独な母さんに戻るより、自分の手柄を捧げて、父さんに必要としてもらう方が幸せだと錯覚してしまう程に。

 現に、母さんはそうした。

 父さんのために絵を描き続けて、自分に向けられる愛情への違和感には目をつぶって。お酒と甘いものと、この唄をお守りに私達を育てたの。

『明けない夜は無い、止まない雨もない。だから辛い事だって必ず終わりが来る』

 夜明けなんて来たのかな。

 雨が止んだ瞬間はあったのかな。

 辛い事が終わったと勘違いしていただけで、水面下でずっとずっと事態は深刻になっていたよ。

 依存症も糖尿病も悪化して、画家の命である視力を失う位。


 ある日、母さんは私に頼んだの。


 このまま盲目になれば、私は全てを失ってしまう。人は私を哀れな女と嘲うかもしれないけれど、私にとって今この瞬間は人生の中で一番輝いているの。だって、ねぇ、私、独りじゃないのよ。信じられる?

 視力を失った私に存在価値なんか無い。お父さんはいなくなってしまう。

 あんた達だって、私を捨てて、それぞれの人生を歩むのでしょう?

 そうしたらまた、私はひとりぼっちになってしまう。それだけは耐えられない。

 だから、独りじゃない今、死にたいの。

 お願い玲奈、私を殺してくれないかしらって。


 母さんはひとりぼっちなんかじゃない。

 だって、アタシがいるじゃない。弱っている母さんのそばにずっといた娘が、目の前にいるじゃない。なのにどうして母さんは、アタシの愛を、受け取ってくれないんだろう。

  

 だから母さんを殺したのかって?


 馬鹿ね、違う。

 そんなこと出来ないってちゃんと言った。


 そう、首を締めただなんて嘘。そんな事ができると思う?

 アタシ――母さんを盲目的に崇拝しているわけではないの。母さんのヒステリックな言動で散々辛い思いもしたし、錯乱して理不尽な扱いを受けた日には、殺してやろうかと思ったわ。

 それでも、心の底からは憎めなかった。どんなに憎悪と嫌悪を燻らせたところでね、心の奥底に眠っている小さなアタシが泣き叫ぶわけ。

「お母さんが大好きって。私だってお母さんに愛されたかった」って。


 だから、殺せるわけないじゃない。


 それに――自分の人生だって棒には振れない。どんなに母さんの望みを叶えてあげたかったとしても。

 親なんだから、自分のわがままでこどもにどんな被害が及ぶのかとか、そこんところ、わかってくれても良かったじゃないね……。


 母さんは何も言わなかった。

 アタシも何も言えずに、その日は一人暮らしをしている自分のアパートに帰ったわ。


 そうしたら次の日にね。

 びっくりしないでよ?

 脳卒中で死んじゃってたのよ、お母さん。

 そりゃ、糖尿病で血管はボロボロだったけどさ、そんなことってある?

 アタシが実家を出た後に、ひとりぼっちで、死んじゃったの。

 びっくりして救急車を呼ぼうと受話器を取った瞬間に、アタシは脳天に電撃が走ったみたいに、その想いに取りつかれた。

 一人ぼっちで病死したなんて、お母さんは喜ばない。

 それなら、お母さんの願いを聞き遂げたことにしてあげなきゃって。

 最期の最後まで何一つ思い通りにならないなんて、悲しすぎるじゃない。それなら、たった一つだけでも、お母さんの思い通りにさせてあげたいって思っちゃったのよね。

 だから、もう救急車も呼んだんだけど、続けて警察にも電話した。

 人を殺しましたって。


 わかってんのよ。

 アタシは何もしていないんだから、事件性なんか無いってすぐにバレる。

 そんな事はしていないけど、例えば、母さんの遺体の首を締めて跡をつけ、絞殺を偽装したとしても、調べれば病死ってわかるしね。人間の体はそんなに単純な作りじゃない。 

 アタシ、罪に問われるのかな。迷惑電話をかけたことを怒鳴られるだけで済む? それとも業務執行妨害になる? ……もう、わかんないや。なんでこんな馬鹿なことしちゃったのかも。

 アンタもはやとちりで通報しちゃったし、どうなるのかしらね、アタシ達。


 それにしても本当に、最期の最後まで、母さんの人生は何一つ自分の思い通りにはならなかったね。

 でもこの瞬間だけは……警察が到着するまでの数分間だけは、母さんの希望を叶えてあげたい。

 そうね、歪んでる。

 そんなの、健全な精神の持ち主なら喜ばないことよ。

 でも、母さんなら――とっくに正気をどこかへ置き忘れてしまった母さんなら、きっと喜んでくれるような気がしているの。


『明けない夜は無い、止まない雨もない。だから辛い事だって必ず終わりが来る』


 真相が明るみになって、母さんの希望が打ち砕かれた時、本当の意味で「辛い事」は終わる。そう思って、この歌を鎮魂歌に警察を待っていたのにさ、いつも実家に寄り付かないアンタが今日に限って、帰ってくるんだもん。本当に、思い通りにはならないわ。

 アンタはこんな話を聞いて、警察に黙ってなんていられないでしょう? 

 アタシが母さんを殺したってことになんて、してくれない子よね。

 母さん、やっぱり思い通りにはならなかったね。


 でも……でもね、本当は、母さんを殺したって嘘をつき続けられるほど、”私”だって強くないの。だから結局……私は、母さんの思い通りには動けなかったと思う。


 私は、母さんの人生を賭けた願いを叶えなかった。

 それこそ、母さんの精神を、希望を、殺したことになるのかしら。

 そうだとするなら……。

 やっぱり”私”は母さんの望みを叶えたことになると思う?

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最期の最後に贈る うた 植田伊織 @Iori_Ueta

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