『いざと言う時、逃げる人達』制作意図
この作品は、特定の人物への非難、復讐、赦し、あるいは断罪を目的として書かれたものではありません。
また、誰かに謝罪や反省を求めるための文章でもありません。
私が試みたのは、それらとは異なる第三の立場――
”出来事を”「感情の決着」ではなく、「構造として記録すること」でした。
この「構造」に着目するという事は、知識を誇示するためでも、
思想を装ったフィクションを成立させるためでもありません。
「作者の意図」=「物語を成立させるための都合」として
キャラクターを動かすのではなく、
限りなく現実に近い、一人一人が各々の”思想”をもつ”主体”として動いた故に、
「社会構造」や「認知の盲点」(思い込みで見えなかった痛み、善意のつもりの沈黙が加害になるなど)を、記録として残す、という意味のつもりです。
作中で触れている学術的概念や歴史的事例は、すべて実在する研究や記録に基づいています。
繰り返しになりますが、これは知識を誇示するためでも、
思想を装ったフィクションを成立させるためでもありません。
個人の体験がどのような構造の中で起き得るのかを説明するための補助線として用いています。
(概要と引用選別をAIに頼んだのですが、専門的知識が無くてもわかりやすく、楽しく読めますよ!)
この作品の語り部、「F=私」が選んだのは、周囲への復讐、非難、断罪のいずれでもなく、
長い時間をかけて自分に割り当てられてきた過剰な責任を、元の場所へ戻すという行為でした。
Fにとってそれは、相手を変えるための行動ではなく、自分の尊厳を取り返す行為。
わかりやすい例として言い換えるなら。
「ねえ君、君は気づいてないけど、ずっと私の足、踏んでるんだよね」
「君、よく私の足踏むよね。だからこれからは、離れて生きるね」
「気づいてないからって、私の足の怪我は、なかったことにならないよ」
という、宣言でした。
すべての人が同じ選択を取るべきだと、主張するものではありません。
あくまで、「F」という人間にとっては、フラットな状態に戻ることが最善だった、という一つのケースとして書いています。
ただし、その地点に至るためには、
出来事を事実として引き受ける姿勢が必要だった、という点だけは、この物語の中で明確にされています。
創作では「黙って去る」が美徳として語られがちですが、
「復讐、許し、断罪、忘却」――これらがすべての人に回復をもたらすとは言い切れません。
・ 忘れようとしても記憶に浮上する人。
・ 言葉にしないと体に残ってしまう人。
・ 沈黙が”終わり”ではなく、”延長”になってしまう人。
(まさに作者がそうで、内側から弱火でじわじわ焼かれるような痛みがします)
そういう人にとって、
沈黙は解決ではなく、未処理のまま冷凍保存して放置されるような、時が止まった地雷です。
そして、
痛みを認知された上で見なかったことにされるのは、
「尊厳を折る、という言葉で矮小化された、”落命”」
だと、私は考えています。
もし同じ状況に置かれたのが、
まだ言語化する力を持たない子どもだったら?
障害があって、自分の思いを上手く把握できない人だったら?
あるいは支えや逃げ場を持たない人だったら、
沈黙を強いられ、どのような気持ちを抱くことになるのか――
その点について、少しだけ想像してもらえたらと思っています。
沈黙は中立ではありません。
沈黙は時に、責任の回避となり、出来事を不可視化し、
結果として誰かの苦痛や孤立を長引かせることがあります。
<それは歴史的にも、学術的にも確認されている事実です。>
この作品は、誰かを裁くためのものではありません。
また、価値観の一致を求めるものでもありません。
ただ、語られないまま処理されがちな構造が存在すること、
それを言葉にする試みがあったこと――
その記録として、ここに置いています。
*
しかしながら、本作では同時に、
「理由があったからといって、新たな加害に加担するにともなう責任は、免責されるものでは無い。
情状酌量の余地があるだけだ」
という「F=私」の信念は、譲る事無く残してあります。
善悪の断定によるものでなく、
加害が成立した瞬間に、まず、はじめに”相応の責任”が生ずるべきだと、
学術・歴史的根拠を基に、私は考えているからです。
その上で、各々情状酌量を適応させてゆかねばならないのは勿論ですが、
「痛み」を免罪に「新たな加害」を生む事は、「仕方がなかった」では免責されない。
相応の落とし前を付けてから、前へ進め――
それが、植田伊織のスタンスであり、結果としてFの行動にそれを表現したつもりです。
*
本作は全三話構成を予定していますが、
スケジュールの都合により、最終話(第三話)の投稿が当初の予定より遅れます。
誤解を避けるため、完結前ではありますが、
このタイミングで作者コメントを公開することにしました。
第三話は、実在のメッセージを素材としつつ、
あくまでフィクションとして再構成された物語です。
特定の個人を攻撃・中傷することを目的としたものではなく、
また、現実の人物を直接指し示す構造にもなっていません。
物語の冒頭には、フィクションであることを明示する警告文を置き、
文末では、語り手自身が「これは私の物語である」と線を引きます。
その上で、読者に向けて二重の構造が示される形になります。
この結末は、誰かを貶めるためのものではなく、
感情的な報復でも、赦しでも、断罪でもない。
語られなかった側が、自分の物語の管理権を取り戻す
――その地点までを描くためのフィクションです。
本作全体が扱っているのは、「理性」「理論」「言語化」というものが、
時に人を守り、時に人を孤立させる武器にもなる、という事実です。
もし、同じように沈黙を強いられ、迷子になっている方がいらしたとしたら、
こういう方法で脱出する方法もあるんじゃない? という、提案ができたらいいなと思っています。
最終話の公開まで、少し時間をいただきますが、
作品の意図や立ち位置について誤解が生じないよう、あえてこのコメントを先に残しておきます。
植田 伊織