第18話 雨の路地裏
辛そうな呼吸をしているヨルマとともにゆっくりと歩きだす。
泣きたかった。早くヨルマをゆっくり休ませてあげたい。でももう、この国のどこにも安息の地はない。
道もわからぬ郊外をひたすらに歩く二人の背後から声が近付いていた。
「ルツィカ」
「うん」
「多分、追われてる。警備兵ではなさそうだけど、おれたちを追ってる」
「うん」
「あまり早く走れないから、ルツィカは先に行って」
「いや、絶対にいや」
「ルツィカ……。言うこと聞いて」
涙を堪えるあまり声が詰まる。頑固に首を振っているうちに、雰囲気のよくない追手の愉しそうな笑い声が迫ってきた。
「ようし、止まれ」
「あんたたち教会の警備兵に追われてんだって?」
止まれと言われて親切に止まってやる義理はないのだが、ヨルマが足を緩めて振り返ったのでルツィカもその横に並んだ。
どうにも柄の悪い男が二人。警備兵の追手よりは人数が少ないが、なんといってもヨルマが手負いだ。
「よお兄ちゃん。こないだは世話になったな」
顔見知りなのか。ヨルマをちらりと窺うと眉間に皺を寄せている。これは多分、本当に覚えていない顔だ。
「なんでか知らんが、あんたの連れのガキを教会が血眼になって捜してる。首に縄かけて突き出しゃ教会連中にちったぁ恩が売れんだろ」
「ここの国のやつらの盲信っぷりには上も手ェ焼いてっからな。ここらで土産ひとつ調達すんのも手だよな」
教会連中、ここの国のやつら……。言葉の端々のニュアンスからして、この二人は外の国の人間のようだ。
城門近辺の都市ならまだしも、その反対側の町にわざわざ来るなんて珍しい。
ヨルマは小さく息を吐いて、ルツィカを奥に押しやった。「先に行って」と、先程あれだけいやだと断ったのにまた同じことを言う。
「ヨルマ、でも」
「どうしても……気が散るから。少し離れたところで待っていて」
杖にした剣の鞘先で石畳を叩くと、ヨルマは左手に鞘を右手に柄を持ち抜剣した。
柄や鍔に装飾のなされた飾りのような剣だ。彼の持ち物にこんなものがあるなんて知らなかったけれど、構える姿は自然に見える。
数歩後退ると、大丈夫だから、とでもいうふうに一つうなずかれた。相変わらず血は止まっていない。少し立ち止まっただけで足元に血だまりができていた。
ぱっと身を翻して走りだす。
いつもいつも、ルツィカがどんくさいせいでヨルマが怪我をしているのだ。視界に入らないほうが、確かにいい。言われた通りに男二人の怒号から遠ざかって、でもすぐにヨルマと合流できるところで足を止め、しゃがみ込み、胸の前で両手の指を組んだ。
大丈夫。ヨルマは強い。嘘をつかない。
……きっとすぐに来てくれる。
だが祈りに反して、男たちの声と、何かを殴りつけるような鈍い音はやまない。
思いのほか苦戦しているのかもしれない。だって、あんなに血を流していた。ヨルマはとても早く怪我が治る体質だけど、痛くないとは一度も言わなかった。怪我をすれば当たり前に痛いはずなのだ。
「どうしよう」
唇が震える。
「ヨルマが死んだらどうしよう……」
あの人を喪いたくない強い感情に一抹、そうすると自分はまた一人になってしまう、一人になった自分はこれからどうすればいいのか、という不安が混じっているのが情けなかった。
純粋にヨルマの身を案じているわけではない自分に反吐が出そうだ。
祈るばかりの両手を開いた。
勢いよく両頬を叩く。ばちんと激しい音がして、噛みしめた奥歯や目の奥が衝撃で揺れた。
立て、走れ。
この世界にわたしたちの味方はわたしたちしかいないのだから。
元の場所に駆け戻ったルツィカが見たのは、二人から寄って集って殴る蹴るの暴行を受けるヨルマ、彼から飛び散る赤い血、それからルツィカの足元に落ちていたナイフ。もとはどちらかがちらつかせた武器なのだろう。ヨルマに叩き落されて、路地の隅を滑って見失われてそのままになったとか、きっとそう。
ナイフを拾った。走る勢いそのままに、ヨルマの胸倉をつかむ男の脇に深く突き刺す。
「……、……あ?」
思いのほか、深く入った。
あ。
刺しちゃった。
これからどうしよう。
頭が真っ白になったルツィカの横面を、刺された男が張り倒す。ナイフの柄を握ったまま地面に転んだ。男の脇腹がじわじわと赤く染まっていく。
「あ、いてぇ、こいつ、このガキ刺しやがった」
「はあっ? マジかよ」
「痛て、いてぇよ、死ぬ、死んじまう!」
真っ青になってわあわあ騒ぎ始めた男たちを睨みつけた。血だらけのヨルマを楽しそうに甚振っていたくせに、自分が死にそうになると慌て始める無様なやつら。
「ころす」
ああもうどうにでもなれ。
「殺してやるっ!」
喉が裂けるほどの絶叫の傍らで、こんなのヨルマを殺せと命じた正教会の司祭や〈災禍〉なんて人間じゃないと吐き捨てたあの男とおんなじじゃないかと、気付いた。
男たちは死ぬ死ぬと騒ぎながら路地をあとにした。
残されたルツィカとヨルマの頬に雨が降りはじめる。みるみるうちに土砂降りになっていき、石畳に残されたヨルマの血痕を洗い流していった。
ナイフを握ったまま肩で大きく息をするルツィカに、後ろからヨルマが覆いかぶさる。
ぐったりと凭れかかってくる体は、冷たく、重い。
シグの遺体を思い出して全身が震えた。
「手を放して、ルツィカ、こんなもの持っちゃいけない」
「わ、わた、わたし」
「大丈夫」ヨルマは重たそうに両腕を上げてルツィカを抱きしめた。ナイフを握る両手を包み込むように掌を重ねる。「大丈夫だから」
「わたし、人を刺した」
「そうだね」
低く肯定してから、
「おれを守ってくれた。ありがとう。こんなことさせてごめん……」
「死んじゃえって……殺してやるって思ったの、ほんとうに、心の底から」
「うん」
「ヨルマが死んだらどうしようって」
「死なないよ」
「あ、あのひと、あのひと死んだらどうしよう、わたし」
取り返しのつかないことをしてしまった。恐怖で震えが止まらない。ヨルマの手からナイフが放り投げられて、寂しい音をたてながら路地の隅に消えていく。
ヨルマの体が徐々に重たくなってきた。
自力で立つことも儘ならないのだ。
「人を刺したことくらい、おれにだってある」
支えきれず、雨に濡れた地面に二人して座り込む。
「だいじょうぶ、すこししたら治るから、そしたら……」
そしたら、ラサラを出て、荒野を抜けて……どこへ行こうか。
ヨルマは苦しそうな吐息のさなか、途方に暮れたようにつぶやいて、動かなくなった。
傷が塞がらない。正教都で矢を射られたときは、矢を抜いたその瞬間から治癒がはじまっていたのに。せめて流れる血が地面に落ちて染み込んでしまわないよう、ルツィカはヨルマの体を両腕で抱きしめた。
「神さま……」
神さま。ラサラ教国の民であるわたしにはラサラさま以外に祈る神を持ちません。
だけどこの世界に数多存在し、人々をけっして救いはしない神さま、もしこの声が聞こえているのならお願いこのひとを助けてください。
このひとをどうかお救いください、他には何も望みませんから。
雨のにおいを孕んだ風が吹き溜まる路地の隅に、一人の旅人と一人の少女が倒れていた。
路地の壁に背を預けた旅人は夥しい血を流している。彼の頭を守るように抱え込む少女のほうは、どうやら無傷らしい。いや少し口元に血が滲んでいるか。
傘を差した一人の少年の靴の先が、水溜りを蹴る。
足元には旅人から流れた血が雨と混じって薄紅の絨毯のように広がっていた。
少年はしばらく無言で一人と一人を見下ろしていたが、やがて雨が止んでいることに気付いて傘を閉じる。
天海のくじらの波濤が過ぎ去り、太陽の光が梯のように降り注いでいた。水溜りが陽射しを反射し、死体のように折り重なる一人と一人を祝福するかのように輝いている。
すきとおる天海色の双眸を瞬かせて少年がつぶやいた。
「めずらしい。〈ふるきひと〉か」
君よ世界の涯てに永眠れ 天乃律 @amanokango
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