第17話 恵みも幸いもない


 養護院で過ごしていた頃、一日に三度くらいは、懲りずに見下してくるエマを平手打ちしてやろうかと思っていた。本当にぶったことはさすがにない。エマは呪われているから、自分より哀れな誰かを攻撃していないと不安で仕方がないのだ。

 いつか母親が迎えに来てくれる(はずの)自分と、顔も知らない親に捨てられたルツィカを横に並べて、私はこいつよりましな人間だと思わなければやっていられない。そうでないと、ふとした折に疑ってしまうのだろう。

 ──お母さんは本当に迎えに来てくれるの? って。

 迎えになんて来るわけないじゃない、ばかね。


 多分そう考えているのがエマにも解っていて、ルツィカのこうした態度がまた彼女を苛立たせていた。

 エマを引っ叩くほどの衝動も持ち合わせていなかったルツィカは、いま人生で初めて強烈な怒りというものを感じている。


 自分の薄っぺらい体のなかで火花が散っていた。


「放してっ、触らないでよ、放してぇっ!」


 馬鹿の一つ覚えみたいにそればかり喚きながら、ルツィカを抱える警備兵の装備を叩いたり蹴ったりする。握った拳が一人の頬に当たって、苛立ったその警備兵は舌打ちとともにルツィカの頬を引っ叩いた。

 ばちんと顔面に衝撃がくる。唇が前歯に当たって切れたのかじんじんしてきて、指で拭ったら血がついた。

 もう一人が慌てて制止する。


「おい、やめろよ。大事な秘蹟の子じゃないか」

「知るか。きぃきぃ喚く女とガキは嫌いなんだ」


 こんなのおかしい。

 ヨルマが、あんな、あんな……。いくら呪いをかけられていて、怪我が治る体質だといったって、あんなに血が出て痛いに決まっているのに。ヨルマ。


 ──わたしが巻き込んだせいで。


 悔しくて、悲しくて、お腹の内臓の底がぎゅっと縮こまるような気持ちがした。目頭が熱いけれど、こんなやつらの前で泣いてなるものか。こんな、人の痛みを痛みと感じないような人でなしの前で!

 警備兵たちは大通りを逸れて狭い路地に入った。ルツィカがあまりにも暴れるから、往来の市民の注目を集めていたのだ。


 ルツィカたちを追って、ヨルマを串刺しにしたあの男が路地にやってきた。

 唇に血を滲ませたルツィカに気付き、責めるような目つきで部下を睨む。


「丁重に扱え」

「申し訳ありません。しかしこいつすごい暴れっぷりで」


 お言葉通りにもう一発、そいつの脛を蹴りつけてやった。いでぇ、と情けない声を上げたが今度は反撃されなかった。


「人殺し……!」

「心外だな。〈災禍〉については学校でも習っただろう。太古の昔に東大陸を襲った正体不明の大災害、ベルティーナ皇国の聖女によって封印されたが数百年後に復活してからは杳として行方が知れない。あれが何を考えて〈災禍〉を名乗ったかは知らないが、自分から大災害を自称するからには退治されても文句は言うまい」


 だいたいあんなものを人間と呼べるか、と苦々しい表情で男が吐き捨てたそのとき、



 一陣の風が吹き下ろした。



 一行の目の前に着地した白髪の青年は、黄金の双眸をぎらつかせながら、片手に握った鞘のままの剣を横に薙いだ。

 ヨルマの出現に驚いて動きを止めていた警備兵の腹部を強か殴りつける。素早く剣を縦に持ち替え、ルツィカを抱えている男の顎を柄で打ち抜いた。たまらず両手で顔面を押さえた男の腕から落っこちたルツィカは、足を縺れさせながらもヨルマに駆け寄る。


「ヨルマ……!」

「ルツィカ、血が。誰かに殴られたのか」


 そう言って顔を歪めるヨルマのほうこそ血だらけだった。

 剣で刺されていた右胸や左脇の辺りが、乾き始めた血に濡れている。破れた服の隙間からはもうほとんど治癒している素肌が見えた。

 あれほどの怪我がきれいさっぱり治っている。


 確かにこんなものを人間と呼べるのか、ルツィカにも解らない。人間離れした治癒能力であることは事実だ。だけどそれがなんだ。

 真っ直ぐに自分を助けにきてくれるこのひとを、全力で信じること以外、何ができるというのか。


「……化け物が……」


 忌々しげに悪態をついて男が剣を抜いた。

 ヨルマも抜いて片手に構える。もう片方の腕に庇われたルツィカは、男や、その背後で武器を手にした警備兵たちが、まるで死霊でも目にしたかのような顔でいることに気付いていた。


 もう二度と戻れない。

 当たり前のように信じていた正教会が、教会に勤める聖職者たちが、ときに悍ましいほどの悪意を以て誰かを傷付けることをルツィカは知ってしまった。

 以前のように無条件にラサラさまや正教会を信仰することはできないのだ。


 男とヨルマは激しく斬り結んだ。ヨルマの身体能力が尋常でないことはとっくに知っていたけれど、武芸、というかもはや戦闘にも長けているというのが意外だった。どちらかというと余裕はヨルマのほうにある。

 はらはらしながら見守っていたルツィカは、背後から迫りくる別の警備兵に気付くことができなかった。

 後ろから肩を抑え込まれる。


「大人しくしろ……!」


「っ、誰が!」腕を振り回して抵抗すると髪を掴まれた。ルツィカの声に気をとられたヨルマの向こうで、男が大上段に剣を振りかざす。容赦ない斬撃をヨルマは正面から受けた。

 鮮血が舞う。ヨルマは一向に構わず、ルツィカの髪を掴む警備兵を睨んでいた。


 ざわり。

 白い髪が逆立ち、黄金の眸の奥に火花が散る。


「さわるなッ!」


 風を散らすほどの怒号にひれ伏すように、路地の石畳が罅割れた。

 警備兵たちの動きが止まる。驚いて目を丸くしたルツィカの頬を瓦礫が掠めた。いまヨルマは魔法を使ったわけではないはずだ。触るな、と叫んだのが聞き取れたのだから。

 続けてヨルマは体の斜め傷からぼたぼた血を流しながら古代語を唱える。


「Ipsuum-Cleementinee/Umraa-Deus:VELDRA!!」


 叩きつけるような禮讃の詞に応えて、路地に落ちていた建物の影が、文字通り

 黒い、黒い影は渦巻く水のような動きでしゅるりと立ち昇ると、その場にいた警備兵たちの足元から絡みついて這い上がった。

 常軌を逸した魔法の光景に警備兵たちが動きを止める。


「なっ──なんだこれ!?」


 ルツィカの髪を掴んでいた警備兵が悲鳴を上げて逃げ出した。その後ろ姿に影が迫り、足を掴んで転ばせる。

 狭い路地裏はもはや半狂乱の状態で、逃げようとする警備兵の悉くが影に拘束されて泣き叫び、果てはラサラさまや教皇猊下に助けを求めるほどだった。

 影はヨルマの意思に沿っている。ルツィカには向かってこない。


「ヨルマ、行こう!」

「……ああ、」


 ルツィカはその場に膝をついたヨルマに肩を貸しながら、路地を飛び出した。






 逃げ出したはいいものの、ヨルマを抱えたルツィカが遠くまで移動できるはずもなく、二人はミランの町の外れまで来たところで足を止めた。

 入り組んだ路地の奥に蹲る。ヨルマの出血が止まらず、赤い滴が足跡のように地面に残っていた。これでは追われてしまう。


「ヨルマ……怪我が」

「大丈夫。まだ動ける……」


 言葉通り、ヨルマはずっと握りしめて放さなかった剣を杖代わりにして立ち上がる。もう衣服は血で真っ赤になっていた。彼を支えたルツィカの手や服も血で濡れている。このまま血が止まらなかったら死んでしまうのではないかと、その人間離れした治癒能力を目の当たりにしていてなお恐ろしかった。


 ふと、周囲が薄暗くなった。太陽が隠れたのだ。天海を見上げると、悠々と泳ぐ黒い影が見える。

 白い波濤を残しながら、天海のくじらがゆったりと移動していた。

 世界の起源を知る最古の聖獣。世界に恵みと幸いを与えるもの……。

 くじらはくるりと体を一回転させて、尾びれを大きく動かした。一拍、二拍ほど遅れて水を掻くような音が地上に降り注ぐ。やがて雨が降るだろう。


 不意に、地上のことなんて知らん顔で呑気に天海を泳いでいるこの世の最高神が憎たらしく思えてきた。


「なにが……」



 なにが聖獣だ。

 なにが恵みだ、幸いだ。

 ここで死にかけているヨルマさえ助けてくれないくせに。

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