第16話 おれが今あなたに言ってほしいことなのだ

 祭りの翌日、ルツィカは快癒した。

 一人部屋に二人で泊まっているので、ヨルマは窓際にソファを置いて外を警戒しながら仮眠をとっている。ヨルマとしてはそういう暮らしは苦にならないのだが、自分ひとり布団で寝ていることをルツィカが申し訳なく思っていそうなのが却って心苦しかった。

 国内に留まっているのは危険だ。一刻も早く荒野に繰り出してしまいたい。

 だがそうすると、少なくとも隣国に到着するまでの一週間はまた野宿になってしまう。


「もう平気だから今夜には出られるよ」


 ……と本人は言うのだがとても真に受けられるはずもなく、


「体力がもう少し戻るまで延期。明日は食料や水を調達するから、昼間までゆっくり休んで、大丈夫そうなら明日の夜出発で考えよう」

「でもあまりゆっくりしていたら追いつかれない?」

「ここまで来たらもうどこにいても一緒だよ」


 正教都を出てすでに一週間が過ぎている。正教都脱出当初は城門を避けて教会の裏を掻いたつもりだったが、これだけ日が経てば全国で手配が回っているはずだ。おそらく城門のない地域も警戒が強まっている。

 ヨルマはカーテンの隙間から通りを見下ろした。

 町の景色はいつもと変わらない。ほのぼのとした信仰者たちが往来している。市民も聖職者も等しく朗らかで、穏やかだ。


 そのなかに気になるものを見つけた。

 宿の前に聖職者が一人立っている。

 白い上下に深緑のスカプラリオ。一見普通のブラザーに見えるが、歩き方が帯剣している者のそれだ。


「ルツィカ、荷物をまとめて」

「え?」


 腰のポーチから収納庫の魔法陣を取り出し、出したままだったバックパックを仕舞う。ルツィカの荷物もほとんど収納庫に入れてあるから、彼女の荷造りはサコッシュを肩にかけるだけで済んだ。

 ルツィカの腰を引き寄せると同時、部屋の扉が勝手に開け放たれる。


「やあ。……捜したよ、ルツィカ」


 くたびれた感じのする男だった。気怠そうな様子でこちらを見つめて、小さく溜め息をつく。


「……あなた……」


 ルツィカの反応を見てなんとなく思い出した。正教都を脱出してきたあの日エマの後ろから台所に突入してきた警備兵だ。

 男がさっと右手を上げると、その後ろに控えていた警備兵の一人が弓矢を構える。


 鏃はルツィカを向いていた。ヨルマではなく。


「射て」


 咄嗟に体が動いていた。ルツィカを庇って警備兵に背を向ける。右の肩甲骨に矢が刺さって、ルツィカの押し殺した悲鳴が耳の奥に響いた。


「だめ、やめて!」


 どっ、と強く押されたような感覚が背中から腹部までを貫く。

 遅れて痛みがやってきた。視線を落とすと、両刃の剣の先が腹から覗いていた。


「さて東大陸の〈災禍〉どのは……、どうすれば退治できるのかな」


 耳元で男が囁いて、ゆっくりと剣を抜いていく。

 その不快感に顔を歪めながらヨルマは庇ったルツィカの体を強く抱き込んだ。震えている。当たり前だ。小さな女の子の前で血腥い真似をする警備兵の無神経さに腹が立った。

 治癒魔法が発動する。

 体の奥から刺創が治療されてゆく。──この程度では、退治されない。


 ヨルマは身を捩って背中から窓に突っ込んだ。

 ルツィカを抱えたまま体勢を変えて着地し、宿の二階を見上げると、警備兵は窓から弓を構えている。


「逃げろルツィカ!」


 ルツィカの体を放り出した瞬間、二階と、宿の屋上から矢が降ってきた。二、三本がヨルマに刺さり残りは地面に弾かれる。転げるように走り出したルツィカのあとを追おうとしたが、二階から降りてきた男が素早い動きで抜剣し斬りかかってきた。

 避けて、もう一度躱して、大通りを挟んだ向かいの建物の壁に追い込まれる。他国との戦争も知らない辺鄙な宗教国家の宗教者らしからぬ強い剣捌きだった。

 剣の柄を両手で握った男は躊躇なくヨルマの左脇腹を刺した。

 明確な殺意ある手つきで、壁に縫いつけるように。


「っ……」


 声は殺したが、運悪く、ルツィカが振り返ってしまった。

 ヨルマが串刺しにされているのを目の当たりにして甲高い悲鳴を上げる。


「いや……! ヨルマ!」


 いいから逃げろと怒鳴ったつもりの声の代わりに血が溢れた。

 こちらに向かって駆け戻ってくるルツィカを両脇から警備兵が捕える。ルツィカは両目の眦からぽろぽろと小さな石を零しながら、言葉にもなっていない叫びを上げ続けた。


 その間にも男は部下から受け取った剣をさらに振りかぶる。右の肺を貫いた。極端に呼吸が苦しくなり、頭の端がぼんやりとしてくる。


 ……抜かないと。

 このままじゃ走れない。


 二振りの剣で壁に貫かれたヨルマが、それでも剣を抜こうと腕を上げるさまを見て、警備兵たちは顔を引き攣らせた。

 まだ生きてる、と誰かがつぶやく。

 ああそうだ、生きてるよ。


「ヨルマ! やだ、放して、触らないで! ヨルマぁっ」


 暴れまくるルツィカに蹴られた警備兵が「いてっ」と呻いた。ルツィカの体は引き摺られるようにして、大通りを逸れたどこかへ連行されていく。



 ルツィカが泣いている。



「通報ご苦労でした。すぐに死体を回収する部隊が来ますので」


 男がそう言って謝礼を手渡したのは、宿の女主人だった。

 そうか。いつからか知らないが、とっくにばれていたのか。


 朦朧とした意識のなかに、失望が、水溜りのように広がってゆく。


 ルツィカがかわいそうだ。確かに涙は石になるし、人ならざるものの声や気配を感じることもあるらしいが、ただの心優しい、敬虔で素直な女の子なのに。どうして正教会の連中はあの子を放っておいてやれないのだろう。

 警備兵たちが去っていく。

 宿の入口から女主人がこちらを窺っていた。

 怯えるような、それでいて地面を這いずり回る汚い虫でも見るような表情で。


 ああ……、

 なんだか疲れたな。


 もともとルツィカを拉致するつもりなんてなかった。あの子はラサラを出るつもりはないとはっきり言ったのだから。それなのに。急に乱暴な手口で迎えが来たものだから、咄嗟に攫って逃げることになってしまった。

 あの日ヨルマがあの路地裏で倒れさえしなければ、ルツィカはきっと今も養護院で穏やかな日々を過ごしていたはずなのに。おれなんかを拾ってしまったせいで。

 自分の罪の重さに吐き気がした。

 本当に吐き気がして、口から粘ついた血が溢れる。治癒魔法が発動していた。こんな惨状にあっても呪いはヨルマに死を許さない。




 視界の端に華奢な脚が現れる。

『彼女』の脚だった。

 白いドレスの裾が風もないのにふわりと揺れて、立ち止まったヨルマを叱るように翻る。




 ──立ちなさい。




 きっとあなたはそんな強い言葉は使わないだろう。

 ただ淑やかに微笑んで、おれが折れるまでじぃっと待っているのだろう。

 だからいま聞こえたこの声は、おれが今あなたに言ってほしいことなのだ。




 四肢に感覚が戻ってきた。

 左脇腹と右胸に激痛が走る。指先の神経を叩き起こして、まずは右胸に刺さっているほうの柄を掴んだ。そのまま力任せに引っ張ると、刃の抜けていく端から傷口が拡がってもう散々な苦痛だった。ひっと息を呑むような甲高い悲鳴が聞こえたが構っていられない。


「いっ……てぇ」


 体が勝手に治癒魔法を発動していた。体内の魔力の流れを強制的に調え、血液や筋肉の足りないところを魔力で補いはじめる。急速な治癒が進み、右胸の傷は内側から盛り上がってきた血管や筋繊維によって元通り修復された。

 左脇の剣も両手で掴んで引っこ抜く。こっちは内臓が傷付いていたから少し厄介だったが、治ってしまえば問題ない。喉の奥からせり上がってきた血を口の中で転がして床に吐き出した。内臓の欠片も交じっていた。

 ……我ながらぐろい。


「な……なんで……」


 その様子を茫然と眺めていた宿の女主人は、ヨルマの視線を受けて怯えるように後退る。


 親切に看病してくれたからなんとなく信用していたが、ラサラ教国に住んでいる彼女は当然ラサラ教の信徒であり、教会の忠実な仲間なのだ。

 彼女のしたことは至極正しい。

 油断したヨルマが馬鹿だった。それだけだ。

 この国において間違っているのはヨルマだ。奇跡のちからを持つルツィカを不当に彼らから取り上げようとしているのはヨルマで、〈災禍〉の名を出してルツィカを拉致し引っ張り回しているのはヨルマだ。ヨルマだけが間違っているのだ。この国で、世界で。


「いや……もか」


 彼女。ルツィカをこの国から逃がしてほしいと依頼してきたシスタービアンカ。

 ヨルマは財布からラサラの貨幣を適当に抜き出すと、女主人の胸元に押しつけるようにして支払いを済ませる。


「世話になった」

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