おばあさんはポトフでした。

 おばあさんはポトフでした。

 そりゃ、あたしだって好きでポトフになった訳じゃないんですよ。だけどこのあたりはもうすっかり寂しくなっちゃってねえ、いやあたしがアナタくらいの時分はもう少しいろいろあったんだけれでも、人もいたんだけれども。それでもやっぱり寂しいところでねえ。それでまあ、アタシがアナタくらいの年のころといったら、まあ女なんてのはね。街に行ってちょっと働いて、誰かいいひとのお嫁さんになるか。それくらいしかなかったんですよ。昔は。本当に。いまだったらねえ。色々とあるでしょうけども。それでねあたしはそういうのがね。誰かのお嫁さんになりに働きにいく、女は家に入ってとか。もう嫌だったからねえ。だからね、親にはこうぴしっと言ってやったんですよ。アタシはポトフになりますって。ちょうどアナタくらいの年のころです。ええ。当時はね、女が一人で生きていこうと思ったらもう、それくらいしかなかったから。

 部屋には古びたテーブルと椅子が一脚ずつある。テーブルの上に一皿の具の少ないポトフが置かれている。薄っすら湯気が出ている。天板にはところどころ小さな欠けやくぼみがある。皿の右手側に使い古されたスプーンが一本、ナプキンの上に置かれている。左手側に水の入ったコップ。テーブルの頭上には裸電球が吊るされている。不規則にその光は弱まりそれに合わせて部屋の中はは暗くなったり明るくなったりしている。明るいときでも光は弱弱しい。

 そりゃあ、もちろん親は猛反対して。ええ。なにせ。昔ですからね。父がね、いうんですよ。お前は何を考えているんだって。そりゃあもう凄い剣幕ですよ。叩かれました。何度も。昔ですからね、乱暴ですよもう。髪も掴まれて。ええ。アタシですか? そりゃいまだったらね、分かりますよ。アタシだって同じように言いますよ。ええ。そりゃ、自分の娘がポトフになるなんてねえ。あんまりじゃあないですか……ほら早く食べちゃってくださいよ。冷めないうちに。アタシなんて温かいくらいしか取柄がないですからね。

 スプーンを手に取る。その手はしばし中空で彷徨い止まる。

 冷めないうちに。ほら。ほら。

 スプーンがスープへと沈む。

 んんっ。

 手が止まる。

 構いませんから。ポトフですからね。そのまま。そのまま。

 スープをスプーンで掬う。ぐずぐずになった野菜とも肉とも知れぬ具が少し乗っている。口へ運び、飲み込む。そののち、スプーンをスープへ沈める。二口。三口。食べ進める。

 でもねえ、あのときはアタシも若かったから。親がね、ポトフになるような娘とは勘当だと。親子の縁を切ると。そこまで言うか。アタシもちょっともう頭に血が上っちゃって。もう売り言葉に買い言葉で。じゃあもう出ていきますと。若かったから、ほんとに。ええ。その日に、着の身着のままで、家を出て。もうそれっきり。父とも母とも。それが最後でねえ。それからはもう一人で。ポトフ。ええ。そうです。え? そりゃあねえ。大変でしたよ。若くなかったらとてもじゃないけどできない。なおさらポトフだなんて。あの頃はね、物もなかったから、そりゃあ大変でしたよ。アタシはポトフです! なんて言ってもね、具が無いんですよ。ちっとも。おかしいでしょ? それでもね、構わないなんて人がたくさんいましたから。大変でしたよ? そりゃね。人に言えないようなこともありましたしねえ。まあ昔の事ですから。今とは色々とね。

 テーブルの上に胡椒の瓶がある。それを手に取りポトフへと振りかける。

 んんっ。

 胡椒の瓶をテーブルに置く。

 いえいえ、アタシももう年なんでね。ちょっと。ええ。お構いなく。

 ポトフを食べ進める。部屋の外から電話のベル音が鳴る。

 あっ。すいませんねえ。なにせ一人でやってますから。ちょっと失礼。

 テーブルの上に空の皿が一枚ある。部屋の外でおばあさんの話し声がする。

 ええ。ええ。はい。そうです。はい。はい。ポトフです。ええ。え? 明日の。午後に。お二人で。はい。はい。承知しました。道は分かりますか? はい。ええ。そうですそうです。駅から。そうです。ええ。そこを。真っすぐいってもらって。ええ。はい。突き当りを、ええ。ではお待ちしてますので。はい。はい。それでは。

 受話器の置かれる音がする。暫く、おばあさんが何か作業をしているような気配がある。おばあさんが部屋へ戻ってくる。テーブルの上の皿にポトフが満たされる。湯気は出ていない。

 すみませんねえ、なにぶん一人でやっているもんですから。はいどうぞ。ええ。ちょっと冷めちゃったかもしれないですけど。ええ。味はもう。一緒ですから。

 ポトフを食べ進める。スプーンが皿の底にぶつかる際の僅かな音だけが断続的に聞こえる。頭上の裸電球の光がフッと弱まる。風が部屋の外の壁を叩く音がして、止む。

 そりゃあいいときもね、ありましたよ。ポトフたってね。昔は結構ね。稼げたから。時代ですよね。そういう。えっ、いい人? そりゃあまあ、一人や二人はね。ヘンだと思います? アタシだって若いころはそれなりに見られたツラだったからねえ。これでも、ポトフになる前、この辺りだと良い寄ってくる男がね、片手じゃ効かないですよ。もう、嘘だと思ってるでしょ? ほんとのことですからね。だけどまあ……やっぱりどこかでね。誰かのお嫁さんになって、家庭に入ってっていうのに、抵抗があった。ええ。若かったんですよ。今だったらそりゃ結婚しても共働きとか、女の人がね。働くことっていうのも、普通のことかもしれませんけど。昔ですからね……。

 皿の中のポトフは残り少なくなる。スプーンが皿に当たるカチャカチャという音が先ほどよりもはっきりと聞こえる。わんわん、わん。という犬の鳴き声が何処か遠くのほうで聞こえてくる。

 それから、ずっとポトフでやってきました。一人で。大変でしたけどねそりゃ。でもいい時代だったんですよ。あの頃は。あれが来る前はね。アナタ電車で東から来たんでしょ? なら見たでしょうに。あれを。あれがもう。ここいらも全部やられた。街もいくつも無くなって。ねえ。何だってんだって、もう皆いなくなっちまって。あれが。いきなりだったからねえ。皆あれに。やられて。大変でしたよ。知ってる人は皆やられて。いい人も皆いなくなっちゃって……アタシはポトフですからねえ。どうしようもなかった。一人だけ残った。運がいいやら悪いやら、ふふっ。

 皿の中はもう殆ど空になり、その底が見える。コップを手に取り水を二口ほど飲む。

 どこの街ももうすっかりひどい有様でしたからね。もう駄目だと。あれは人が集まるところにくるからと。だからなるべく、皆散り散りに別れて。それでもう、その時で30年か、それくらいぶりですよ。ここへ戻ってきて。出ていったきり以来ですよ。でももう誰も居なくなっちゃって。父も、母もね。アタシひとり。ひとり。ポトフだけ。この家だけはね、残ってたんです。なんとかアタシひとりくらいならね、幾らか蓄えもあったし。ポトフですからね。そんなにお金が掛かるようなものじゃないんでね。こうして、細々とやってるわけですよ。ええ。

 皿の中にすっかり冷めたポトフをほんの少し残っている。部屋の外からは如何なる音も聞こえてこない。

 ごめんなさいねえ。こんなおばあさんのつまらない話ばっかりで。ポトフの話なんてねえ。ほんとに。でもアナタ、こんなこと言うと失礼ですけど、アタシの若い頃にちょっと似てる。目がね。そういう目をしてた。アタシもね。ええ……。

 沈黙。

 冷めちゃいましたねえ。ほら、早く食べちゃってください。もう少しだけだから。ほら。ほら。

 皿の手前を少し上げて傾ける。残ったスープをスプーンで掬い、口に運ぶ。飲み込む。スプーンを皿の上に置く。皿は空になる。部屋から誰も居なくなる。

 おばあさんはもういない。

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